003 忘却の標本
――――ガリッ、ガリッ。ある一室には心地よいリズムで意思を削る音が響いている。一定間隔で鳴り響く音と共に粒子が舞い上がり、部屋中を見通せないほど白く霧に包ませている。
その中心にいるのは40代半ばの男性である。青色の作業服を身に纏い、その顔には顔を覆い隠すマスクをしている。手に持つ杭のような形状の棒をハンマーで打ち付ける。
男の前にある石が削れて、その形を男の理想通りに変えていく。
「……。」
その男の背の何たる雄大なことか、男の息子である少年はその背に憧憬や、寂寥を宿らせながら、男の作業をじっと見つめている。
しかし、粒子が舞う霧の中では男の姿など見通すことは出来ず、さらにマスクまで被っている男のことなどこれっぽっちも分かるはずもなかった。
それがより一層、少年を孤独にさせる。親の愛を確かめたくても、それが仕事だと知ってい。何より、男が彫刻している姿が好きだったのだ。
一方、少年の母は威厳な男とは対照的に、自由奔放で家に帰る時間の方が少ないくらいであった。それでも、女は男の心情をよく理解して、石彫刻に微笑みを向ける。そして、男には満点以上の愛を向けているようだ。
それが二人の良い感じの距離であり、関係を成り立たせている秘訣であるのだろう。他がなんと言っても、二人の仲睦まじい様子は二人の愛の形が正しいと証明していた。
少年はその二人の様子が羨ましかった。二人は適度に少年に構うものの、その本心を明かしているのかと言われれば、それは微妙なところで二人で完結してしまえるからこそ、少年をより一層孤独にさせるのだった。
「ふざけるなぁっ……!!」
「きゃっ……」
ある日のことであった。少年にとっては少し孤独な空間だが、家族としては上手くいっている家庭が崩壊を迎えようとしていた。
男の怒声が家中に鳴り響き、その声に女はびくりと身体を震わせて、その場に身を屈ませた。その被害者のような態度がより一層男をイラつかせて、鬼のような仮面をその顔に張り付けている。
その顔に女は増々恐怖に身を竦めてしまい、男はそれに怒る。その無限ループは終わりなく、男の堪忍袋の緒が切れそうなその瞬間に、少年の声が部屋に響いた。
「どうしたの?」
しんと静まり返る部屋で男と女は少年の姿をその目に映す。男の激情に燃える瞳と女の恐怖に震える瞳も少年にとっては初めてのもので、その瞳に心の奥が冷たい氷に包まれる。
それと同時に初めて本当の心を通じ合わせたようで、少年の心の氷を解かそうと、中心からぽつりと炎が灯る。
だが、それも長くは続かない。二人は少年から目を離すと、また二人だけの世界に籠ってしまう。その事実に少年はがくりと肩をすぼめて、その場に立ち尽くしてしまう。
「何故、浮気したんだ。」
「だって、私の“共鳴鳴動“が反応したもの。」
「くっ……何だと!?」
“共鳴鳴動“とは、お互いの心を伝播して、増幅する異能である。果ては深層領域に心情風景を構築して、その二人だけのパスを作る能力だ。
この能力により男は彫刻師としてのインスピレーションを得ている側面があり、また離れていても二人はお互いに想いあっていることを証明できていた。
誰とでも繋がれるわけではなく、特定の波長があってかつお互いに感情を交わさなければ能力は発動しない。その発動条件から男は女が過去に誰とも繋がっていないことを知っており、その難度の高さをよくよく知っていたからこそ、信じられなかったのだ。
「ごめんなさい……」
「……っ!!」
男は歯を食いしばる。謝りながらも女の視線は何処か遠くに向けられており、その心が今や男より浮気相手に向けられていることが明白であった。
男は表情が出にくいながらも女を愛している自信があった。何よりも、その心は女の異能によって繋がっており、その確信があったからこそ今の関係に問題があるとは思っていなかった。
男は俯く。昏い、暗い闇を瞳に浮かばせて。
「えっ……ぐふっ。」
「許さない。離れようとするなら、繋ぎとめる。君が変わろうというなら、彫刻で永遠の形に固定する。……ははははは。簡単なことだった。とても簡単なことではないか。早速、取り掛からなければ。」
男は彫刻刀が首に突き刺さった女が地面に倒れるのを一瞥もしない。部屋の地面が真っ赤に染まっていくのも放置して、今の石彫刻を薙ぎ倒した。そして、新しい石を準備する。
等身大の女より、少し大きい石。ここから男の作品が出来ていく。動かないモデルという最高の資材を手に入れたのだから。
「お、お母さん……?」
「どけっ!!」
あまりの光景にショックを受ける少年を構わず、男は少年をどんっと押す。その力に大した抵抗も出来ず、少年は地面に身体を投げ出し、二人の変貌に心がどこかに行ってしまったように呆然としている。
その少年でさえ、男にとってはもはや価値のあるものではない。最高の資材を手に入れた今、男にとって必要なのは目の前の石と、自分の手。最高の資材を使って、最高の作品を作ること。それだけで十分であるのだ。
決定的な溝が生まれた家庭はこの日、簡単に崩れ落ちてしまったのだ。
――――ガリッ、ガリッ。決定的なその日から、絶えず家には石を削る音が鳴り響く。執念を燃やす男は睡眠と食事以外の時間は石を削り続けた。
少年はその音を聞くたび、自分の心さえも削り取られているようで、その日から作業場には足を向けられないでいた。
家中に石の粒子が舞い上がり、逃げ場なく少年のことを包みこむ。穏やかな日は失われ、家を覆いつくす粒子はより濃くなり、恐ろしく冷たい空気を放っている。
「あはは、あはははははは!!はははははははは!!」
大きな笑い声が響く。久しく聞いていなかった男の声だ。だが、その音色は正気とは思えなかった。もはや、手遅れなのは間違いなく、びくりと身体を震わせた少年は、それでも男の声に導かれるように作業場に向かった。
「父、さん……?」
「あ?ああ、お前か。どうだ?見てみろよ。最高だろ?あははははは、最高の状態だろ?これ以上の美しい作品はあると思うか?……あ、忘れていたな。これ、ちゃんとやっておかないと、なっ!!」
石の粒子が晴れわたり、その中心に佇むのは女の形を精巧にもした石像。その姿は確かに生前の女を完全に模しており、一種の芸術品として完成しているだろう。
その石像に男は急に彫刻刀を首目掛けて突き刺した。ガキンという音と共に彫刻刀の刃は吹き飛び、男の足に突き刺さる。
しかし、男は気にした様子もなく、また一本、また一本石像に彫刻刀を首目掛けて振り下ろし続ける。ついに、彫刻刀の刃が首に突き刺さり、女の頭がぐらりと傾くと、ことりと地面に落ちてしまった。
「……あ?ああ、もう一回作らないとな。」
それだけであった。男にとってもはやそれは塵芥と等しく、今の女の状態を再現できないものなど、必要のないものだったのだ。
少年はようやく男のことを理解できた気がしていた。石の粒子がなくなったからこそ見えた男の本心。それに、その狂気が向かう先がどこか。それを正確に理解できてしまった。
「なんだ、そういうことか。」
「はぁ?」
「確かに、簡単な事だったね。」
少年は理解した。理解してしまった。人の狂気も、それがどこに向かうかも。狂器の性質が理解でき、共感さえしてしまった。そこで少年はなった。少年という独自の形を形成したのだ。
少年は歩く。小さな石材に、彫刻刀。もう、それだけで十分だ。少年は男の様子を気にかけることもなく、ただ一心不乱に彫刻刀で石を削っていく。石の粒子が少年を纏い、男からはその姿が見えなくなってしまう。
少年は石才を彫刻刀で、彫刻刀の形に作り替えた。
「こう言うことだったんだね。理解して、共鳴して、そして固定する。」
「……?」
「“忘却の標本”。」
その瞬間、男はさっきまでの執念が嘘のように消え去り、ぼうっと感情がない人形のようになってしまう。この日、男は狂器を失った。何よりも深い根源の感情を無くしてしまったのだ。
そして、その感情を少年は手に入れた。笑う、哂う、嗤う。
少年は己の道を歩み始めた。まだ見ぬ感情を理解するために、共鳴するために、その手に抑えるために。
祝福しよう。少年はついに一人の人間として完成したのだ。
理解して、共鳴して、固定する。それが少年の源泉なのだ。




