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羅刹の宴  作者: Nimue
第壱話
8/18

(8)

 

 何度、鏡を見直しても同じだった。

 鏡の中の自分の、黒目だった部分はこれ以上ないほど赤く染まっている。見間違いではないか、もしくは光の加減か何かで赤く見えているだけではないか、と瞬きしたり鏡に顔を近づけてみたりしてみても、何も変わらなかった。

 ……まるで鬼の目だ。

 さっき、どういうわけか退けた鬼の目も、こんな色だった。あの鬼のように虹彩が爬虫類のようになっているわけではないが、気休めにもならない。炎を使えたことと、この目の変化とを考え合わせれば自分が妖魔になった、いや、妖魔であると考える方が自然だ。

 ――化け物。

 母に何度となく浴びせられた言葉と、嫌悪に満ちた目を思い出す。

 そのとおりではないか。少なくともこんな目をした人間はいない。傷つく資格も自分にはなかったというわけだ。

 だが、そうだとしたら自分は一体なんなのだろう。

 普通の人間ではない。それはわかる。では妖魔か?そうかもしれない。だが、妖魔にしては容姿の変化が中途半端だ……これから更に変化していくのかもしれないが。

 いずれにしても一つ、わかったことがある。

 羅刹の両親は、本当の両親ではない、ということだ。

 二人が妖魔とは何の関係もない、正真正銘の人間であることは「鬼見」の羅刹が証明できる。ただの人間から、妖魔が生まれるはずがない。羅刹がこんな姿であるということは、彼と両親の間に血縁関係がない可能性を暗示しているように思えた。

 おそらく父は、羅刹のことを実の息子と思っているだろう。仕事が忙しいことと、母の手前あまり親しく会話をした覚えもないが、それでも気にかけてくれていたことは感じられた。

 問題は母だ。

 父は何も知らないだろうが、母はどうなのだろう。母は、本当の母なのか、それとも。

 羅刹をあそこまで憎んだのは、我が子でないと知っていたからなのか。妖魔の子を育てなければならない境遇を呪ってのことだったのか。あの「化け物」という罵りは、確信を持って吐き出されていたのだろうか。

 あるいは。

 不意に浮かんだもう一つの可能性に、羅刹は鏡を見たまま凍りついた。

 あるいは母が実の母であったとしたら。

 妖魔に孕ませられた母が生んだのが、自分であったとしたら。

 それこそ憎まれて当然だ。羅刹が羅刹であることが母にとっては屈辱であり、憎悪の対象に他ならないのだから。

 どこか冷静に考えながらも、鏡に映る羅刹の顔は奇妙に歪んでいた。

 この、顔だ。

 異常に整い、両親どころか親族の誰にも似ていない顔。平凡な父にも、美しいと言われる母にも似ていない、それでいて人目だけは引くこの顔は、妖魔のものだったのかもしれない。

 だとしたらこの顔そのものが、羅刹が妖魔であることの証明と言っても過言ではない。

 自分が今まで堂々と晒して生きてきた素顔が、つまり自分そのものが妖魔だったのだ。

 そんなことにも気づかず、のうのうと人間のような顔をして生きてきたのだ、羅刹は。

 なんと図々しいことだろうか。

 ――飛躍しすぎだ。

 冷静な部分がそう宥めるのを感じながらも、かつてないほどに彼は動揺していた。

 不安。恐怖。憤り。

 暗色だけを混ぜ合わせた時のように、羅刹の心中では不快な感情が混ざり合い、よりいっそう負の相乗効果を生み出していた。

 ――どうすればいい。

 わかるわけがない。自分がどうしたいのかすらわからないのだから。

 鏡を直視することも厭わしい。何も考えたくない。逃げてはいけないと思い直そうとしても、思考に集中できない。

 精神に体が引きずられたのか、耳鳴りがする。母の声が何度も何度も耳の奥で木霊する。

 ――化け物。

 ――化け物。

 ――化け物。

「うるさい!!」

 叫ぶと同時に、目の前の鏡に亀裂が走った。二つに割れた自分の顔を眺め、羅刹は呆然とその亀裂を指でなぞる。

 だが何かを思う暇もなく、凄まじい頭痛が彼を襲った。

 ぎしぎしと頭部を締めつけるような痛みに、呻き声を上げてその場に蹲る。痛みと耳鳴り、それに幻聴であろう母の声が羅刹を苛む。このまま収まらなければ気が狂いそうだ。脂汗が吹き出る。呼吸がどんどん速くなる。

 幸か不幸か、苦痛は長く続かなかった。

 頭痛がたちまちのうちに羅刹の意識を刈り取ってくれたからだ。ぷつりと意識は途絶え、羅刹の体もまたその場に倒れて動かなくなった。




 夢を見ていた。

 嫌な夢だ。

 自分が少女を食らう夢だった。

 現実でも鬼に悩まされているというのに、夢でも鬼まがいの行為に勤しまなければならないとは。

 むしろ、現実があればこその夢なのか。

 内容にもかかわらず、そんなことを悠長に思う余裕すらあった。

 これは夢だと、確信していたゆえであろう。夢ならば、ただ与えられるものを甘受すればいいだけだ。何の責任も苦痛もなく、それゆえにどんなものを見ても感情を刺激されることはない。

 妙にリアルな夢だった。

 近所の公園の茂みの中に、羅刹は少女を引きずり込み、押さえ込んでいた。小柄で、童顔の少女だ。何か見覚えがあると思ったら、制服が晴久の妹が着ていたものと同じだった。

 少女は恐怖に顔を引き攣らせ、いやいやをするように首を激しく横に振ったが、無論そんなことで事態が変わるはずがない。

 羅刹は少女を見下ろして、にやりと暗い笑みを浮かべた。

 獲物が自分を恐れ、死の恐怖に怯える様が愉しくて仕方がないのだ。

 妙な感覚だった。少女に感じる嗜虐心や高揚はまさしく羅刹のものなのに、一方でそれを無感動に観察している自分もいる。

 どちらも自分であり、どちらも自分ではないような感覚だ。

 まあ、夢でのことを真剣に考えるだけ無駄なのかもしれないが。

 冷静な思考を遮るように、本能が――食欲が意識を支配する。

 少女はさしずめ蛇に睨まれた蛙といったところだろうか。悲鳴すら上げられずに震えるさまは、哀れの一言に尽きた。

 それをいいことに、羅刹は少女の首筋に噛みつく。

 柔らかな肌に牙が食い込む感触と、口に溢れる血の味に酔いしれる。

 それにしても味覚まで機能しているとは、本当にリアルな夢だ。

 びくんと反り返る体を押さえ直し、制服を引き裂き、少女の口を押さえる。胸の間から臍の下まで、メスで切り裂くように切れ目を入れてやると鮮血が溢れた。

 羅刹はそれをうっとりと眺める。

 興奮のあまり、思わず口を押さえる手に力がこもってしまったが、構わないだろう。傷口を力任せに開き、そこに顔を突っ込んで肉を貪った。




 目覚めたのは、倒れた時と同じ場所だった。

 当たり前と言えば当たり前だが、ほっとしたのも事実である。夢とは思えないほど、あの夢には現実感があった。おかしなものだ。羅刹が人を喰うなど、現実ではおよそありえないことだというのに、あの夢では実に自然な気持ちだった。まだ舌に血の味が残っているような気がする。

 もう一つ不思議なことは、あれほど詳細で生々しい夢だったにもかかわらず、目覚めた今も大して不快でないということだ。

 羅刹は特に血に弱いわけではないが、残虐な表現の映画やゲームを好むわけでもない。

 起きたら忘れてしまうような夢ならまだしも、まだ事細かに内容を覚えていて何も感じないというのは、自分のことながら少々不自然な気がした。

「――まあ、どうでもいいか」

 どうせ夢だ。

 あれこれ考えても時間の無駄というものだろう。

 ゆっくりと立ち上がって鏡を覗き込む。なぜか目の色は元に戻っていた。わけがわからない。

 一瞬、あの鬼と闘ったことやその後の混乱も全て白昼夢だったのかと思いかけるが、鏡に縦に走った亀裂はそのままだ。

 羅刹は深く溜息を吐いた。

 妖魔かもしれないと思った時はあれほど取り乱し、混乱したのに、それが嘘のように、元凶となった目はあっさり元に戻ってしまった。しかも、たかだか見た目の一部が変わっただけで普段通りの気分になってしまう自分の現金さには、我ながら呆れて物も言えない。

 問題が解決したわけではないのだ。

 とりあえず日常生活を送る上での支障はなくなったが、羅刹が妖魔まがいの力を使ったことも、両親が本当の両親ではないかもしれない疑問も、なかったことになるわけではない。

 もっとも、このまま何もなければ自分は何食わぬ顔で変わらぬ暮らしをしていくのだろうな、とも思う。

 今更、自分が何者かについて悩んだり、本当の親に会いたいと渇望したり、そんなことで神経をすり減らすことに価値があるとは、どう頑張っても信じられない。そんなことは、今までに散々、考えつくした。そして悟ったはずだ。何者であろうと、自分の存在に意味などないのだと。

 仮に、羅刹が妖魔であったとして、正体に気づく可能性があるのは晴久だが、今までごく普通に付き合ってきたのだから、今後もおそらく羅刹が普通の人間だと思っていてくれるだろう。

 恐ろしく楽観的で、しかも根拠のない考えだが、そう願うしかない。

 ――もし晴久が自分を妖魔と認識したらどうするのだろう。

 あれだけ正義感の強い男だ。相手が羅刹だろうと目を瞑ることはないだろうが、敵意を剥き出しにして向かってこられたらと想像すると嫌な気分になる。

 実際にそうなったら、嫌だなんて問題ではないが。

 本当に問題なのは、その時に自分がどうするのかということだ。

 逃げられればいいが、逃げられなかったら?晴久と戦うのか。戦えるのか。戦えなければ、おそらく殺される。かと言って戦えば、殺すかもしれない。その場をどうにか誤魔化してやり過ごしたとしても、同じ市内に住んでいるのだ。顔を合わせないようにすればいい、というものでもないだろう。

 これが晴久以外の相手ならば。

 羅刹はふと、思う。

 これが晴久以外の、たとえば見知らぬ他人ならば、こんなことを考えただろうか?

 見知らぬ他人相手に気を回しようがないのも事実なのだが、たとえば先の鬼のように襲ってきたのが人間だったとして、自分の身を守るために傷つけてしまったとしても、こんなことは考えない気がする。

 何故かと言えば、羅刹が冷たい人間だからだ。

 晴久に協力を要請された時、「人の命がかかっている」と言われても自分でもおかしくなるほど、何も感じなかった。自分の知らないところで、知らない誰かが死のうと知ったことではない。誰かが死ねば悲しむ家族がいるということを、一般常識として知ってはいても、それは遠い世界の出来事のように感じられた。

 積極的に他人を傷つけたいわけではない。むしろ人と接する時は、好感を与えるように意識してきた。

 ただ、それは生死が関わるような状況でも尊重されるような、信念や優しさからではない。

 人に嫌われた時に与えられる否定や攻撃が、恐ろしかったからだ。

 だからそれを上回る恐怖があれば、羅刹に他人を尊重する気持ちなどないのだ。あれは命を守るために仕方なかったというお綺麗な言い訳一つで、自分を納得させることだって簡単だ。

 そこに思い至って、ぞっとした。

 そんな部分を曝け出すような状況には、心底、陥りたくない。

 愚にもつかない思考を振り払うように一つ頭を振る。時計を見て、そういえばバイトがあったな、と思い出す。非現実的なことばかりで忘れていたが、生きるためには金を稼ぐ必要があるのだ。正直行きたくないが、仕方ない。

 憂鬱な気分を引きずって、羅刹は出かける支度を始めることにした。




 その一時間後、数十メートル離れた公園の茂みで、少女の遺体が見つかった。 

 


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