(4)
「……おい」
「なんだ」
「なんだじゃない。これ何だよ。何作ったらこんな惨状になるんだ」
台所は酷い有様だった。あちこちの戸棚が勝手に開け放され、あらゆる調味料の瓶や袋が所狭しと散乱している。さらに換気扇を回していないのか、それとわかるほどに煙の臭いが充満している。
その惨状を引き起こした白夜本人は、フライパンから野菜らしきものを皿の上のスパゲティに移しているところだった。
羅刹の顰め面もなんのその、涼しい顔で皿を二つ持って、とことことテーブルの方にそれを持ってくる。
「そんな顔をしてどうした夫殿?腹が減ったのか?」
「違うっつーの」
「心配するな!わらわが丹精こめて作ったすぱげてぃだ。存分に舌鼓を打つがよい」
「……」
なぜ微妙に上から目線なのか。
しかし得意満面の白夜の顔を見ると腹も立たない。それに、相手は人外だ。人間の台所の使い方など知らなくても当然だろう。自分のために作ってくれたのだと思えば、やはり嬉しい。
文句を飲み込んで、羅刹は大人しく席に着いた。
見た目は普通のスパゲティだ。初めて作ったにしては上手い。
一口、食べてみる。
「どうだ?」
どこかおずおずと訊ねてくる白夜に、羅刹は目を向ける。
「美味い」
実際、麺の硬さも味付けも標準以上のバランスで出来上がっていて、意外なほどである。
よく自炊する羅刹は割と料理も上手い方と自負しているが、それと比べても見劣りしないのではないか。
褒め言葉に白夜はぱっと破顔する。
普段、年の割に――もっとも妖魔に外見年齢が意味をなすかは疑問だが――尊大で大人びて見える少女の無邪気な笑顔に、羅刹の方がどきっとする。
何気ない褒め言葉にここまで無防備に喜ぶとは思わなかったのだ。
「そうかそうか、やはりわらわに出来ぬことなどないのだなっ。男は胃袋で掴めとも言うしな。これでいつでも嫁入りできるぞ夫殿」
「だから夫にはならないって」
もぐもぐとスパゲティを食べながら、そこにはしっかり反論する。
白夜はむっとしたような顔で羅刹を睨む。
「なぜだ!」
「なぜって無理だろ」
「わらわの何が不満なのだ!言ってみろ!」
ばん!とテーブルに両手を叩きつける。少女の細腕とは思えないほどぐらぐらとテーブルが揺れ、こんなところで白夜が人間でないことを実感する。
まあ、今更この程度で怯える羅刹ではないが。
「聞いておるのか?どうしてわらわと結婚できぬのだ、夫殿」
「むしろ、どうして俺と結婚できると思うのか聞きたいよ」
「何か問題があるのか?」
「あのね、俺は人間…まあ、一応人間だし、お前は妖魔だろ?人と妖魔は結婚できないの」
「わらわは気にせぬ」
「俺が気にする」
「…おぬしはわらわが嫌いなのか?」
「いや…嫌いでは、ない、けど」
「そうか!ならば何の問題もない!人間はどうか知らぬが、妖魔は強い人間とならば結婚しても問題はないのだぞ」
そうなのか。
だが別に知りたくなかった情報である。
「待て待て。お前はまだ子供だろ?俺はロリコンじゃないし、第一お前の親が許さないだろうが」
「……わらわに親はいない」
一瞬、寂しげな色が少女の双眸をよぎる。
だがそれは本当に一瞬で掻き消え、いつもの強気な眼差しに戻っていた。
「それにわらわのこの姿は、わざとそうしているのだ!少々、一族内で揉めておってな。わらわが順当に育つとぼんくらと結婚させられるので、無理に術をかけて成長を止めておるだけだ。戻そうと思えば、いつでも戻せる」
「お前、婚約者いるの」
「ああ」
白夜の口調は実に忌々しそうである。
「わらわも、そやつもお互いを嫌い抜いておるがな。だがわらわがおらねば、そやつは一族の長になれぬと掟で決まっておる。だからあやつは何としてでもわらわと祝言を挙げる気であろうが…わらわが人妻の身であると知れば、さぞ悔しがるであろうよ」
「いやだから俺は結婚しないって」
「なぜそこまで拒むのだ!!他に好きな女子がいるのか?」
「いないけど…」
「そうであろう。人間の女におぬしは勿体ない」
「いや、むしろ逆じゃね?」
「どういう意味だ?」
「いや、何でも…」
白夜は怪訝な顔をするが、それよりも大事なことを思い出し、再び羅刹に迫る。
「では何が不足だ?わらわが人間でないことを気にするおぬしではあるまい。そうであるなら、最初からわらわを拾ったりするまい。こうして共にいることを許すこともあるまい。わらわはおぬしが好きだ。おぬしとずっと一緒にいたいのだ。何も、おぬしを人間の世界から引き離そうというのではない。わらわを妻として認めてくれればいいのだ。どうしても結婚できぬと言うのなら、その理由を教えろ。でなければ引き下がらぬ」
白夜の目はいつになく真剣だ。
茶化せる雰囲気ではない。
見た目、十二、三歳の少女に内心を吐露することに少々抵抗を感じる羅刹と、理由を聞くまで引き下がる気のない白夜の間に沈黙が落ちる。
――俺は話す気なのだろうか。
琥珀のような深い金色の瞳を見つめ、羅刹は自問する。
誰にも、晴久にも言ったことの無い本音をこの得体の知れない少女に、話すつもりなのだろうか。
――なぜ?
話してどうする?
確かに白夜といることは、驚くほどに自然だ。邪魔だと思ったこともないし、可愛いとも感じる。
だが自分の惨めな部分、晒したくない部分を晒してまで手放したくないかと言えば、それは違うとも思うのだ。
羅刹は誰も必要としていない。
そして本当の意味で誰かに必要とされることも、おそらくない。
白夜が羅刹を好きと言っているのは多分本当だろう。多少、勢いで言っている部分もあるだろうが、ここで羅刹がうんと言えばすぐにでも挙式しそうな気配だ。
だが彼にその気はない。
種族や年齢の壁を別にしても、そして白夜を好きか嫌いかといった感情すらも関係なく、羅刹に結婚する気はない。
それを説明するには心の奥にしまった痛みを思い出さなければならないのだが…。
――別にそんなことをする必要はないんじゃないか?
ちょっと茶化すか、お子様に興味はないとでも言ってやればいい。
白夜は怒るだろう。
真剣にプロポーズしているのに、誠意がない対応だ。怒るか罵るか、どちらにしても羅刹に失望して二度とそんなことを言い出さないだろうという確信があった。
しつこく迫るなどこの少女のプライドが許さないに違いないからだ。
それでいいじゃないか。
本音など曝け出しても、互いに傷つくだけだ。
羅刹は我が身が可愛いのだ。
どうしようもないくらい、自己愛の塊なのだ。
自嘲気味にふ、と笑みが漏れる。そこから何を感じたのか、白夜の眸が小さく揺れる。
視線が交わり、止まった時間を動かそうと羅刹が口を開く。
「俺は」
――ピンポーン。
言葉を遮ったのは玄関のチャイムだった。
確か、来客の予定はなかったし、友人が訪ねてくるにはおかしな時間だ。本来ならば羅刹は大学に行っていたはずなのだから、それを知らない相手ということだろう。
眉を顰めると、「出ないのか」と白夜が訊ねてくる。
「ああ、出る。お前、一応隠れてろ」
隠れる、とは文字通り隠れることではなく、普通の人間に見えないようにしろ、という意味だ。
人形に近い妖魔は普通の人間の目には人間として見えているが、存在そのものが見えていないわけではない。妖魔にとっても、姿そのものを隠すのは疲れることらしく、見た目だけを誤魔化している場合がほとんどなのだ。
今の白夜も羅刹以外の人間には普通の少女のように見えているが、念のため「存在そのもの」を隠せ、つまり「姿を見えないようにしろ」と言ったのだ。
白夜を背にして、インターホンの受話器を取る。
「…はい?」
『――私よ。開けて』
返ってきた声が一瞬、誰のものかわからなかった。
数秒おいて、声の主に思い当たる。もう長いこと、聞いていなかったから忘れていた声。
返事もせずに受話器を置き、ふらふらと玄関に向かう。
鍵を開ける前に、無意識に躊躇し止まった手を、意識的に動かし、機械的に鍵を開ける。
かちゃり、と軽い音と、続いて金属の軋む音。そして開いた扉の向こうに、その女――羅刹の母は立っていた。
反射的に、変わっていないな、と思う。
最後に会ったのは六年前だっただろうか。羅刹が家を出たのは高校入学と同時だった。羅刹と母の不仲を――正確に言えば、母の羅刹に対する嫌悪を――憂えた父が、実家から離れた高校に通うことを提案してきたのだ。
母は止めなかった。羅刹も止められるとは思わなかった。
ただただ、この家から離れなければ、という強迫観念だけがあった。母の自分を見る目、まるで下等生物を見るあの目から逃れたかった。
そして今、再会して思ったのだ。
ああ、変わっていない。自分を見る目は、全く変わっていないな、と。
「突っ立ってないで、入れてちょうだい」
母は、きつい眼差しを向けてくる。美しいが、攻撃的とさえ形容できるほどにきつい顔立ちだ。羅刹自身も人にきつい印象を与えることがあるが、顔のパーツ自体は母と似ても似つかなかった。あらためて見ても、血が繋がっているとは思えないほどに似ていない。
「じろじろ見ないで」
「あ、ごめん」
「あんたに見られるとぞっとするわ」
「……」
母は、羅刹をまともに見ることなく、ヒールを脱いで上がり込む。
「…久しぶり」
何と言っていいかわからずに後ろからかけた声は、黙殺された。いい加減、慣れてもいい筈だが、この反応にはやはり傷つく。
六年という歳月が母の自分に対する認識を変えていると、無意識のうちに思っていたのだろうか。だとしたら自分も随分、甘ちゃんだ。
頭を振って、母の後を追う。
部屋に足を踏み入れると、母の目線が一瞬、白夜の上に留まったようだった。が、気のせいだったようだ。すぐにその視線は逸らされる。母は超の付くほどの現実主義者で、人ならざる者を見る才などこれっぽっちもないのだ。そのことだけが、羅刹が母について知っている唯一のことだった。
「単刀直入に言うけど」
一通り部屋を観察し終えると、母は敵でも見るような目で羅刹を見た。
その目を見たくなくて視線を微妙に避けることを覚えたのは、物心ついてすぐだったか。
「何?」
「もう家に戻ってこないでちょうだい」
「…そのつもりだけど」
本当だった。
高校の時は金銭面のほとんどを父に頼っていたが、今は学費のみの援助に留まっている。バイトに精を出したことと、奨学金、そして非公式とはいえ御門家の仕事を手伝って得た報酬のおかげで、かなりの貯金もある。
大学を卒業したら、もう父に頼る必要もないだろう。そして、家に戻る必要も。
戻ったとしても父は暖かく迎えてくれるだろうが、母の敵意が薄らぐ日はこないのだろうし、そのことで父に気を遣わせたくはない。
だがそういうつもりでも、あらためて母に言われるのには苛立ちを覚える。
わざわざ自分を拒んでいることを知らせてくれなくても、もう十分知っているのだから。
「…そんなことをわざわざ言いにきたわけ?」
「私だってあんたの顔なんて見たくなかったわ。気持ち悪い」
気持ち悪い、ときた。流石に顔が引き攣るが、母は気にした様子もない。
「来年、あの人は海外に行くのよ」
「…海外?」
「そう。長くかかるって。私もついていくつもり。だからこれを機会に、あんたもあの人を解放してあげて」
「解放って」
「あの人はあんたの本性がわかってないのよ。だからあんたのことを気にしてる。あんたのために、定期的にこっちに戻ってこようかなんて言ってるの。そういうふうに連絡してきたら、断りなさい。いいわね」
「わかった」
母と違って、父は羅刹を気にかけていた。家を離れてからも、しばしば連絡をくれたものだ。その父に負担をかけるのは羅刹としても本意ではない。素直に頷く羅刹に、母は意外そうな顔をする。
「物分かりがいいのね…でもあんたは昔からそうだったわね。私の機嫌を損ねないように健気だった」
「……」
「そうやって媚びてくるのが、嫌で嫌でたまらなかったわ」
じゃあどうすればよかった?
喉元までせり上がった怒りを押しとどめたのは、母の嫌悪に満ちた視線だった。昔と些かも変わらない、まるで化け物を見る視線。それを目にするたびに、羅刹は何も言えなくなる。怒りも憎しみも悲しみも、喉元を締めつけられて呼吸ができなくなったかのように、全て飲み込まざるを得なくなる。
「とにかくあんたと私はもう親子でも何でもないから、つきまとわないで」
そう言い捨てて母は去っていった。半ば呆然と立ったままであった羅刹は、扉の閉まる音で我に返る。
ほぼ同時に、腕を引かれる感触に足元を見やると、険しい顔をした白夜が目に入った。
「…どうした。ぶさいくな顔して」
「誰がぶさいくだ!!」
白夜の怒声が響く。
「なんだあの女は!本当にお主の母親か!?わらわを見ることもできない下等生物の分際で、偉そうに!!」
「何でお前が怒るんだよ」
「お主はなぜ怒らぬ!?あのように言いたい放題の女に限って、少し脅せばすぐに命乞いをするものを!お主が何もせぬのならばわらわが天誅を下してやる」
「やめろって」
「なぜだ!!」
「あのな、あの人がいなきゃ、俺は生まれなかったんだよ」
「む、しかし」
「確かに俺もあの人を親だとは思えないけど、それでも殺したくない――殺せない」
まだ不満そうな白夜の頭を、ぐりぐりと撫でる。
あの母を母と認識しているのが本能や情ではなく、冷めた理性であることを残念に思いながら。