(3)
「変なものが見える」
羅刹は母にそう言った。
「あれは何?」
母は羅刹の指した方向を見て、それから羅刹を見下ろし、嫌悪に満ちた表情を浮かべた。
それは「変なもの」に対する嫌悪ではなく、羅刹自身に対する嫌悪だった。
「何もいないわよ」
羅刹は困惑した。
まだ幼い彼には、自分に見えているものが母に見えていないと理解することができなかったのだ。
「狐さん、いるよ」
「いないでしょ」
「でも」
「うるさい!!」
手を振り払われ、勢いよく突き飛ばされた。
声もなく床に転がった羅刹は、なぜそうされたかもわからずに母を見上げた。
「お母さん…」
「うるさい!うるさいのよ、あんたは!!どうしておかしなことばっかり言うの!?どうして普通の子みたいにできないの!?」
母は、子供の贔屓目を抜かしても美人だった。
その母が髪を振り乱し、金切り声で叫ぶさまはいっそう恐ろしく、そして悲しかった。
自分のせいで母を悲しませている。そんなつもりではないのに。
自分が口を開くと、母はいつもこうなる。
ごめんなさい、と言おうとした羅刹の言葉に被せるように、母は絶叫した。
「あんたなんて生まなければよかった!!」
胸に圧迫感を覚えて、羅刹は目を覚ました。
視界に自宅の、何の変哲もない天井が映って、それでようやく夢を見ていたことに気づく。
僅かな安堵と、寂寞の残滓が胸に広がる。
ゆっくりと目を閉じると、涙が一筋、頬を伝った。
そしてなぜか、指先がそっとそれを拭う感触がした。
反射的に目を開け、頬を撫でる手を捕まえる。細い、子供の手だ。
掴んだ瞬間、びくりと震える振動と氷のような冷たさを感じる。
「は、はなせっ」
どこか慌てたような、少女の声が耳を打つ。鈴を振るような愛らしさと、支配者の高慢さを同時に備えた、アンバランスな声だった。
羅刹はその声を無視して、「何してるんだよ」と呟く。
圧迫感の正体であり、声の主は羅刹の腹に跨り、胸の上に腹ばいになった状態で可愛らしく笑んだ。
「見てのとおり、遊びに来たぞ夫殿」
「その呼び方はやめろっての」
「未来の夫を夫と呼んで何が悪い」
「未来永劫、俺はお前の夫になるつもりないから」
少女は、何を言っている、といわんばかりに眦を吊り上げる。
「わらわが夫と決めたのだからそなたは夫だ。身体はまだ未熟だが、いずれ成長するぞ?そなたの好みに育てるがよい。人間にはそういう物語があったであろう」
「はいはい。わかったからどけよ、白夜」
「子供扱いするでない!」
白夜は憤慨しつつも、身軽にベッドから飛び降りる。
体重を感じさせない、猫のような動きだ。名前のとおり、青ざめたような色の肌と、雪のように真っ白な髪を腰まで伸ばしている。その爬虫類のような虹彩の、金色の瞳ととがった耳の意味するところを知らなければ、白猫を連想するだろう。
白夜は、腰に手を当てて、口を突き出す。
「そもそもおぬしが悪いのだ。わらわが訪ねてきたというのに、昼間から寝ておるから!」
「昼?」
ベッド脇の時計を見ると、短針は十一を指していた。
ブラインドからは光が射し込んでおり、部屋は明るい。
確か昨日は、晴久と話してからまっすぐ部屋に帰って来たはずだ。夕食前に少し寝るつもりでベッドに入ったのが六時ごろ。それからまる十七時間も寝ていた計算になる。
「まじかよ…」
「まあ、寝るのはまだよい。わらわも昼寝は好きだ。夫に添い寝というのも乙なものかもしれぬ。だが苦しげにうなされておればその苦しみから救ってやるのが人情というものであろう」
人間でもないのに、人情などと胸を張って言うのがおかしい。
だが白夜がいなければ、朝から憂鬱になるところだったかもしれない。思わず苦笑いする羅刹をどう思ったのか、白夜が「なんだ」と咎めるような視線を向けてくる。
「おぬし、何か文句があるのか?」
「いや」
ぽん、と白夜の白い頭に手を乗せる。
「ありがとな」
「う、うむ」
白夜の頬が赤く染まる。こういうところは子供っぽい。
にやにやする羅刹に「笑うな!」と怒るが、やはり恥ずかしいらしく、俯くように視線を逸らす。
「親切で起こしてやったというのに、恩知らずな奴め。せっかく、今日はわらわが昼餉を作ってやろうと思っていたのに」
「どうせ俺に教えろって言うんだろ」
白夜はやたらと羅刹に食事を作りたがるが、その実、料理などしたことがないらしく、いつも羅刹が教えなければならない。そして結局、八割方羅刹が作ってしまうのが常だった。
「う、うるさい!わらわにできぬことなどない!超絶美味な昼餉を用意してやるゆえな!そこで待っておれ!」
言うなり、身を翻して駆けてゆく。行く先は台所だろう。
白夜なりに気を遣っているのかもしれない。
うなされていたのも、わずかとはいえ涙を流していたのも見られてしまったが、不思議と羞恥心を感じることも気まずい思いをすることも免れている。
そういえば、なぜうなされていたのかも訊かれなかった。
普段は子供っぽく我侭な彼女を拒絶しないのも、こういう面に救われているからかもしれない。
どうせ羅刹が「来るな」と言っても、人ならざる身である彼女を拒むすべなどないのだが。
――思い出す。
初めて白夜に会ったのは、雨の強い夜のことだった。
大学から帰って来る途中に雨に降られ、慌ててマンションに駆け込もうとした羅刹を阻むように、彼女が座り込んでいたのだ。
一目で人でないことはわかったものの、驚いた。
全身びしょぬれで、おまけに裸足だ。思わず声を掛けてしまったのを後悔する前に、その途方に暮れたような眸に息を呑んだ。
参ったな、と思ったのを覚えている。
そんな捨てられた猫のような目をされたら、無視できないではないか。
人間か、そうじゃないかといったことは、思考の端にもかからなかった。
部屋にあげて、シャワーを浴びさせて、強引に髪を拭いて、ベッドに押し込むことは義務にすら思えた。
白夜は、もっともその時は名前すら知らなかったのだが、大人しくそれに従った。
翌日、目覚めてみると彼女は消えていた。別に引きとめる気もなかったので羅刹はいつもどおりの日を過ごしたが、二、三日経つとまたマンションの前で座り込んでいたのだ。
「何してんの」
やや意外に思いながらもそう訊ねると、白夜は無表情でこう言ったのだ。
「部屋に入れろ」
「部屋に入れて下さい、だろ」
意地悪く言ったことに意味はなかった。だが途端に怒りを浮かべた白夜を見て、その無表情を壊したかったのだと自覚した。
「よくもわらわにそんな口を!わらわが誰かわかっておるのか!」
「鬼か狐?毛の色は狐っぽいけど、目の形は鬼っぽいよな。どっちなんだ?」
伊達に「鬼眼」持ちと呼ばれてはいない。晴久のように自ら妖魔を求めて奔走しているわけではないが、二十一年の人生で何かと妖魔には詳しくなった。だからといって、目の前の少女がどういった種族の者なのかに心から興味があったわけではない。適当に訊ねて、そういえば名前を聞いていなかったことを思い出す。
「まあ、それはどっちでもいいけど、お前名前は?」
「……白夜」
渋々といった感じで、少女が答える。
「俺は羅刹。で、入るのか入らないのか、どっちなんだよ」
「だから、入れろと言っておろう!!」
「だから、入れて下さい、だろ」
「くっ!」
何やら葛藤している姿を可愛いと思ったのは、今にしてみれば最大の不覚だった。
そのまま鬼だか狐だかわからない少女は、羅刹の部屋に居着いてしまった。毎日ではないが、勝手に部屋に入ってきては寛いでいる。寛ぐだけならまだしも、羅刹にまとわりついて相手をさせようとするところが始末に負えない。
それを本気で追い出そうとしない羅刹も羅刹だが、当初こそ遠慮が見られたものの今や羅刹を勝手に夫扱いし、料理教室の先生役までやらせている白夜は何なのだろうか。
…そういえば昼食を作るとか言っていたような気がする。
やれやれ、と腰を上げ、夢のことを意識から追いやり、白夜の後を追った。