(18)
色々と言いたいことも考えなければならないこともあったが、それらをひとまず脇に置いてまずは空腹を満たすことにした。昼から何も食べていない。一応、刹那に何が食べたいかと訊くと、「肉」と一言で答えが返ってきた。
羅刹は顔を顰める。
「却下」
「何でだよっ」
「何でもだ。それよりお前、ここにいる間、人間に喧嘩売ったり襲いかかったりするんじゃないぞ。当然、食うのも禁止だ」
「ふん。まーだ人間の仲間のつもりか、てめえは。往生際の悪い奴だぜ」
揶揄するような刹那から、視線を逸らす。
「お前が御門家の退魔士連中相手にして、無駄死にしたいなら止めないけどな。言っておくけど、俺は助けないぞ」
「お前に庇われるほど落ちぶれてねえよ。心配しなくても、面倒は起こさねえ」
「本当だろうな」
「しつこい野郎だな。何で俺が言い訳しなきゃいけねえんだよ。つうか、襲いたくても力が戻るまでは襲えねえし」
「襲えない?」
「てめえのせいだろ」
言わせるか、と睨まれる。
「お前の攻撃を防ぐのに、妖力のほとんどを持っていかれたからな。おかげですっからかんだ。存在を保ってられるだけマシだけどな」
「……よくわからないけど、つまり今のお前は普通の人間レベルってことか?」
ふてくされた様な沈黙が返ってきた。つまり、そういうことらしい。
それにしても疑問なのは、刹那の、というより妖魔の肉体構造である。今回は勿論、一週間前などは見た目にも酷い怪我を負わせたはずなのに、なぜか再会した時はどう見ても五体満足に戻っていた。人間の数倍の回復力を持っているのか、そもそも肉体の仕組みからして違うのか。
そのことについて訊ねてみると、「人間のやわな体と一緒にするな」と無駄に喧嘩腰な反応が返ってきた。
「俺達の体は、人間の体とは違う」
「違う?どんな風に?」
訊くと、あからさまに面倒くさそうな顔をされるが、それでも勝ちを収めたことが効いているのか、渋々といったように口を開く。
「人間はあれだろ、体に穴が開けば死ぬだろ」
「ああ」
「俺達は違う。人間どもみたいに換えのきかない体一つきりじゃ、戦い続けるのはきついからな」
「……もう少しわかりやすく言えないのか、お前は。分身の術でも使えるのか?」
「使えるわけねえだろ。馬鹿か、てめえは――いや、使えるっちゃ使える奴もいたな。まだくたばってなきゃ、だけど」
刹那は嫌なことを思い出した、というように眉根を寄せる。
「って、んなことはどうでもいいんだよ。つまりだな、俺達にとって肉体の損傷は、イコール命に関わることじゃない。つーか、厳密に言うと俺達には体がない」
「体が、ない?……そんなわけないだろ。じゃあ、目の前にいるお前は何なんだ」
「これはこの次元に対応した……なんつうの、仮の姿ってやつか?それだ、それ」
「仮?わからないな。だとしたら、本当の姿はどうなってる?」
「だから言ってるだろうが。体はない。俺達はいわゆる意思を持った霊体、意識体、エネルギーってところだ。無理やり説明するとすれば、な」
「霊体…?」
俄かにオカルトじみた話になってきた。
羅刹は、漠然と妖魔のことを人間と同じように血肉の通った生物と思っていたのだが、刹那の口ぶりではどうも違うらしい。と言っても、刹那が動いて喋っている姿は極めて人に近いし、急に霊体だの意識体だのと言われても実感が湧かない。
「でも常盤や伊織を『狐』って呼んでただろ。あれはどういうことだ」
妖魔が肉体を持たない存在だとしたら、現実にいる「狐」という生物の名称で彼らを括ることは不適当に感じられる。
その疑問に、刹那は得意気な顔をした。
「そこが俺達と他の雑魚どもの違いだな」
「…は?」
「は?じゃねえよ!てめえ話聞いてねえのか」
「お前の話がわかりづらいんだよ!」
「ちっ、面倒なやつだな」
こっちの科白である。
「――俺達は、この世界の裏側の次元で生まれた」
「……」
「こっちの次元と違って、向うはしょっちゅう歪んだり混ざったりするんだよ。だから俺達は変化に耐えられるように固有の体を持たないで、意識だけで存在してる。ただ、こっちの次元に来る場合、今度は肉体がないと消滅しちまう。だから自分に合った体を探す。で、こっちでの体の名前でそれぞれ呼び合ってんだよ。常盤や伊織は、狐だな。あ、天狗共のことを『鳥』って言うと切れるから気をつけろよ」
「じゃあ鬼は?」
何の動物の体を借りているんだ?
言葉足らずの疑問は、しかし刹那には伝わったようで、だから言っただろ、と乱暴に言い返される。
「俺達は他の雑魚共とは違う。体なしでもこの次元に存在できる。人間っぽく見えてるのは、この次元で行動しやすいようにそういう形を取ってるだけの話だ」
わかったようなわからないような説明だが、更に追及したところで理解が深まるとも思えないのでより現実的な問題の方に話題を移す。
「それよりここにいる間、どうするつもりなんだ。知ってると思うけど、お前の天敵の退魔士は俺の友人だし、御門の本家も近くにある。どうやって隠れるつもりだ」
「……隠れる必要なんてねえよ」
どこか苦々しく言う刹那に、羅刹は意外な印象を受ける。てっきり、「どうして俺があいつら相手に隠れなきゃならないんだ」と喚き立てると思っていたのだ。
疑問を察したのか、刹那は刺々しい視線を向けてくる。
「お前のせいだよ。お前とやり合ったせいで、ほとんど妖力……俺を構成してるエネルギーを使い切ったもんだから、今の俺には退魔士どもに察知される最低限の妖力さえ残ってない。てめえならわかるだろ」
そう言われてみると、目の前の刹那からはあの圧倒的な妖気の欠片も感じられないし、何より容姿すら人間にしか見えない。
ということは、羅刹含め妖魔が見える人間というものは、妖魔の隠している実体が見えるというよりも、本来こちらに存在しないエネルギーを感じ取りそれを人と異なる容姿のものとして視覚化している、という方が正しいのかもしれない。
そして今の刹那の状態は、感知できる最低レベルのラインすら下回っているということだろう。
もっとも、この推論が正しいのかどうか確かめるすべはないのだが。
「……もしかして、お前ずっとそのままなのか」
「あ?冗談じゃねえよ。この俺が雑魚狐以下の底辺に甘んじてるわけねえだろうが。二週間もあれば元に戻る。その後はリベンジだ。首洗って待ってろ」
「……」
反射的に頭に浮かんだのは、やはり刹那を始末しておくべきではなかったか、という無情な考えだった。
つい鼓舞するようなことを言ってしまったが、冷静になってみれば刹那を立ち直らせることにメリットはなかった。始末はやりすぎにしても、あのまま放っておけば少なくとも刹那からの脅威は無力化できたはずだ。それを思うと、自分の対応に舌打ちしたくなってくる。より正確に言えば、自分の中途半端さに。
刹那に言ったことは全て本心だった。そして結果的に励ます形になってしまったが、その舌の根も乾かないうちにこうして自分の利益を計算している小賢しさは、我ながら失笑ものである。一体、何をやっているのか。先程の事に限らず、羅刹の今までの行動や選択は全て、流されたその場しのぎのものに過ぎない。
自分自身が何者か、何者であるべきかということに、根本的な疑問を感じているせいだ。
確固たる信念がないから、その時々で感情と計算が交互に顔を出し、どちらも貫き通せない。そしてこうして段々と厄介な立場に追いやられている。
刹那を単なる邪魔者と捉えられない。それは家族というものへの憧憬のせいでもあるし、一つの信念のために命を捨てられる、ある意味での真摯さに敬意を抱いてしまったからでもある。羅刹には何もない。ただ生きているだけだ。そんな不甲斐ない自分をどうにかしたいと思いながらも、どうすればこの虚しさを埋められるのかわからない。
「おい」
刹那の短く鋭い声が、思考を遮る。顔を上げると、やけに真剣な視線にぶつかった。
「忠告しておいてやるから、ありがたく聞けよ――あいつらには気をつけろ」
「あいつら?」
「あの女のことだから嘘だって可能性もあるが、もし本当だとしたら俺とやる前に乗っ取られちまうかもしれないしな」
「ちょ、ちょっと待て。何の話をしてるんだ」
刹那は、呆れ果てた、と言わんばかりに口をへの字にした。
「黒鬼の話だよ」
「黒鬼?お前の仲間か?」
「――んなわけあるか」
明らかに不機嫌な雰囲気を漂わせる刹那に――もともと常に不機嫌そうな顔つきの男ではあるが――羅刹は口を噤む。怒りを買うことを恐れたからではなく、発言の内容を咀嚼するためである。
「……あの女っていうのは、もしかして常盤のことか?」
刹那はそっけなく頷いた。
推測するに、黒鬼、とやらが羅刹に危険を及ぼす可能性があるから気をつけろ、と言いたかったのだろう。それにしても順を追って話すということを知らないやつだ。溜息を漏らしたくなるが、そんなことをしても目の前の男が改心してくれるわけもないので、こちらが想像力に鞭打つしかない。
「乗っ取るってのは?」
「つまんねえ話だよ。さっき言っただろ、妖魔がこっちに来るには、こっちの生き物の体を借りなきゃいけないって。で、黒鬼の連中は、人間の体を使うんだよ」
「でも鬼にはそんなものは必要ないって言ってなかったか?」
「俺達には必要ない。奴らは違う」
大声ではなかったが、そこに込められた軽蔑と敵意は疑いようがなかった。
羅刹は、暫しの熟考の末、仮に彼らが近くにいるとしても目をつけられる心当たりは無い、と言った。いくらかは、そうあって欲しいという願望が言わせた言葉だった。刹那は、冷酷とすら形容できそうな無頓着さでもって、理由ならあるさ、と言い放った。
「俺がここにいる」
「……それが?」
「連中と俺達は、敵同士だ。身の程知らずの馬鹿どもが、妖魔の宗主に相応しいのは自分達の方だと思ってやがる。体がなきゃこっちの世界でもまともに動けないくせに、くそ忌々しい――」
「つまりお前がここにいることがばれたら、黒鬼はお前を殺そうとするってことだな」
そして羅刹もその争いに巻き込まれる可能性は大いにある。気の重い話だ。
刹那は沈黙した。屈辱のあまり、声を発することもできなかったのだ。彼にしてみれば、羅刹に敗北したことも、どうかすれば下級妖魔にも劣る惨めな現状にも、最も負けたくない宿敵から逃げ回らなければならないことも、それを人間に白状せざるをえないことも、何もかもが覚めない悪夢そのものであった。
「そんなに心配しなくても、ここで大人しくしていれば気づかれないだろ。それともお互いを探知するセンサーみたいなものでもあるか?」
「俺は心配なんてしてねえよ!!」
「……」
「てめえ俺があんな蛆虫どもに怯えて震えてると思ってるんじゃねえだろうな?何人来ようと、小指の先で片づけてやるよ」
「だから、」
「勝ったからって調子に乗ってんじゃねえぞ!忘れるなよ、てめえは後二週間の命なんだからな!」
「わかった。わかったから、大声出すな」
近所迷惑であることを抜きにしても、刹那の大声は耳に響く。どこかの応援団にでも引き取って欲しいぐらいだ。
「二週間経つ前にお前がやられたら世話ないだろ。そもそも、その情報は正確なのか?」
「……常盤はそう言ってたけどな。一週間前、お前にやられた後だから、はっきり覚えてる」
一週間前、と機械的に反復して、羅刹は戦慄した。
それは彼があのグロテスクな夢を見た日、公園で少女の死体が見つかった日だったのである。