(16)
時間は少し遡る。
羅刹が深層意識でもう一人の自分と楽しくもない会話を繰り広げていた頃、晴久は勇太郎と共に市内の公園にいた。死体が発見された現場だ。一週間前に凄惨な死体が見つかった場所とは思えないほど、何もかもが元通りになっていた。流石に人の姿はないが、風景だけを見ればこの公園が猟奇殺人の現場だとはとても信じられない。
「……ここだね」
勇太郎は、少女の死体が見つかった茂みの裏で足を止めた。
「大丈夫ですか、勇さん」
「まだ何もしていないよ。心配性だね、晴久君は」
振り返り、苦笑する勇太郎の様子に気負いは見えない。もっとも、それはいつものことだ。勇太郎という人間は、およそ取り乱したり我を忘れて感情をさらけ出すということがない。人間である以上、怒りや悲しみという負の感情もあるはずだが、それを表に出すことは滅多にない。素晴らしい自制心のなせるわざだろう。
おそらくその自制心の大部分は、彼の持つ能力によって培われたものだ。
退魔士の持つ力は個人によって様々であり、共通点はその力によって人間に直接影響を及ぼすことができない、という点であるが、勇太郎のそれは「妖魔の痕跡を追う」という一点に特化していた。
彼曰く、妖魔の触れた場所に触れることで、妖魔の見たものが同様に見える、らしい。ここで言う「見える」というのは肉眼での意味ではなく、感覚的なものであり、瞬間的に映像が脳裏に浮かぶのみならず、五感や思考さえ共有できるというから驚きだ。
叔父が言うとおり、見ることに関して勇太郎の右に出る者は、本家を含めてもほとんどいないだろう。
だが、見えるということは、見たくないものまで鮮明に感じてしまうということだ。
だからこそ晴久は、彼を尊敬していた。勇太郎は自分など及びもつかないほど、精神的に強い。
「――お願いします、勇さん」
「ああ」
勇太郎は、その場に四つん這いになるようにして、地面に手をつき、じっと目を瞑る。
ぴくりとも動かない彼の集中を乱さないように、晴久も息を潜める。
緊張した時間が流れた。実際は二、三分程度だっただろうが、勇太郎の見ているもののことを思うと、晴久はいたたまれない気持ちになる。
不意にがくんと勇太郎の肩が崩れ落ち、地面に縋りつくようにうずくまった。
すぐさま駆け寄り、背中に触れた晴久は驚いた。勇太郎はがたがたと震えていたのだ。
「勇さん――」
「大丈夫だよ……ごめん。結局、心配させてしまったね」
ゆっくりと顔を上げた勇太郎は普段通りに微笑もうとしたようだったが、額には汗が滲んでいる。
「……何を見たんですか?」
「悪意と、快感さ」
妖魔の気配は、未だに色濃く残っていた。勇太郎が見たのは、殺戮者が少女を切り刻む一部始終であり、その頭に渦巻く純粋な悪意であった。
喉に流れ込む、咽かえりそうな程の血の味。臓器を喰いちぎった感触。痛みにもがく被害者の表情。全てを彼はダイレクトに体感した。目の前で成す術もなく肉塊に変えられていく少女を、ただ眺めていることを強いられた。
そして濁流のように荒れ狂う、思考だ。
狂気と、それを飼い慣らす透徹した意思の併存。自分がしていることに一片の罪悪感すら覚えない純粋な悪意。傲慢。子供のような無邪気な悪戯心。実験。一途な使命感。暗い喜び。その手で奪った命に対する無関心。
その余りにも多くの感情の中には、一際重要な位置を占めているらしい「目的」に対する、常軌を逸した熱情もあった。
だが他の無数の思考に覆い隠され、「目的」が何かを掴むことは出来なかった。
「すまない。僕の力がもう少し強ければ」
晴久は首を横に振る。勇太郎は十二分に優秀な退魔士だし、これが限界以上の気力をもって得た情報であることは聞かずともわかる。たった二、三分で随分と消耗しているのも、それだけ精神的負担が大きかったということだろう。
「……正直、楽観してました」
勇太郎を公園のベンチに座らせ、自分もその隣に腰を下ろしてから、晴久はぽつりと呟く。
「こんな誰が見ても異常な現場を残すってことは、それほど知能の高くない相手だと思ってました。勇さんの力でさっさと追い詰めて、報いを受けさせてやれるだろうって……だからって最初の被害者は戻っては来ないんですけどね」
知能が高ければ高いほど、痕跡は追いづらい。読み取るべき思考や感情が複雑で、必要な情報の取捨選択に手間取るということもあるし、それ以前に相手が隠蔽工作に長けていれば、事件そのものが発覚しない場合すらある。
そういう意味で、今回のケースは特殊と言っていいだろう。
相手は明確な目的を持って動いている。しかも勇太郎を以ってしても全てを把握できない、複雑な自我の持ち主だ。でありながら、まるで自らの存在を誇示するかのように派手な現場を演出した。注目してくれと言わんばかりに。
ふざけるな、と晴久の中に苛立ちが生まれる。
目的が何であれ、あの少女はこんな風に殺されなければならないことは何もしていない筈だ。そしてあの少女の苦痛も失われた未来も、どんなことをしても贖うことはできない。例え妖魔を同じ目に遭わせてやったとしても、それが何の慰めになる?
そう思うと、たまらないのだ。自分がしていることに何の意味もないのではないかと思えて、自分が「あの時」と同じに無力であることが感じられて、たまらなく空しくなる。
俯く晴久の肩に、勇太郎が軽く触れる。
「大丈夫かい?……こんな状況じゃ無理かもしれないけど、あまり思い詰めない方がいい」
「……こんな時まで、俺の心配をしなくてもいいですよ」
勇太郎を心配していた筈なのに、いつの間にか立場が逆転している。自分はやはり未熟だ。いちいち感情を波立たせていては、叔父に一人前と認めてもらうことなど夢のまた夢であろう。皮肉にも彼が叔父に師事して最初に叩き込まれたのは、感情をコントロールすることの大切さだった。晴久の「力」が攻撃に特化したものだったせいもあるだろう。叔父は、彼が力に溺れることを危惧していた。
「――もし何らかの目的があってこの現場を残したんだとしたら、それはどうしてだと思いますか?」
雑念を振り切るように問えば、勇太郎は考え込むように視線を落とす。
「単純に考えれば、自分の存在を僕達に知らせたかった……宣戦布告とも取れるけど、本当の目的は別にあるのかもしれない」
「というと?」
「つまり、この事件自体には何の意味もなくて、他の何かの目くらましに利用しているだけかもしれないってことさ」
晴久は顔を顰める。あまり考えたくないことだが、確かに被害にあった少女にはこんな事件に巻き込まれる理由が見当たらない。
本当にどこにでもいるような、何の変哲もない女子高生なのだ。妖魔が敢えて狙うような、特別な何かがあったとは思えない。彼女にも、彼女の身近な人物にも「力」がないことは、調べがついている。御門家は同類の管理についてはかなり徹底しているから、これは確かなことだ。
そこまで考えて、不意に晴久は友人でもあり、同じ力を持つ同士でもある羅刹のことを思い出した。
一週間前に彼が見かけた鬼が、今回の件の犯人である可能性は、それなりにある筈だった。
だとしたら、もう一度羅刹に話を聞いてみるべきだろう。流石に目的までは知らないだろうが、何か手掛かりになることを覚えているかもしれない。
すぐさま携帯からメールを送ると、勇太郎が不思議そうな顔をする。
「誰に送ったんだい?」
「……俺の協力者です」
「協力者?」
「すみません、勇さん。このことは秘密にしてもらえませんか。迷惑はかけませんから」
「別に僕に言う必要はないけど、一臣さんにも秘密なのかい?」
そう言われると若干、後ろめたさを感じるが、本人の同意もなく個人情報をばらすのは気が咎めるのだ。
勇太郎は「仕方ないな」と苦笑する。
「君は頑固だからね――信用できる相手なんだろう?」
「はい」
「なら、君の判断に任せるよ」
「ありがとうございます」
勇太郎の寛大さに感謝しつつ、それとは別に晴久の心には何かが引っかかっていた。
何か重大なことを見逃しているような――何の根拠もないが、そんな気がしたのだ。
一方、晴久の叔父、一臣は屋敷の私室に居た。
他に人の姿はなく、携帯を通して聞こえる相手の声以外には何の物音もしない。もっとも、一臣がわざわざ人のいない時を選んで電話しているのだから、当然であるが。
「――では君もそう思うんだね」
確認するように訊ねれば、『早合点されても困る』と低い声が返ってくる。
『私はただ、可能性の話をしているだけだ』
「君の言う可能性と、それが杞憂である可能性とどちらが優先されるべきだと思う?」
『何が言いたいのかわからない』
「杞憂ならいいが、それが本当に起こる可能性があるならば放置することはできない」
『――私に何をしろと言うんだ』
一臣はその言葉に、ふと肩の力を抜いた。
「協力してくれるのか」
『白々しいことを。何度、言質を取れば気がすむ?私は受けた恩を忘れるほど、恥知らずではない』
「君の誇りを傷つける気はない。だが――」
言い募ろうとした直後、人の気配を感じて一臣は言葉を飲み込んだ。ほぼ同時に部屋の襖が開いて、予期せぬ人物がずかずかと入ってきた。
それは外見から言えばこの屋敷にも、一臣の部屋にもそぐわない青年だった。
派手な金髪に、耳ではなく鼻についたピアス。腰についたチェーンは一臣にしてみれば邪魔にしか思えない。
青年は呆気にとられた一臣を見下ろし、気だるげに言った。
「電話長いから、待ちくたびれた」
そこでようやく一臣は電話中であることを思い出し、「また連絡する」と口早に告げて、通話を終えた。そして青年に向き直る。
「いつから居た?」
「えーっと、多分最初から?」
一臣は頭を抱えたくなった。気づかなかった自分も自分だが、黙っているこいつもこいつだ。
「話は聞こえたか?」
「聞こえたけど、忘れろって言うなら忘れる。興味ないし」
本当に興味の無さそうな顔で言われて、気が抜ける。全くこいつの考えていることは理解できない――本当に自分の息子なのだろうかと、たまに疑いたくなる。
だが、正真正銘この青年――如月圭一は、一臣の実の息子だった。
十年前に一臣が妻と離婚した時、圭一は母親を選んだため名字は違うものの、御門家の「力」も受け継いでいる。もっとも、もう一人の息子と違い、圭一は父親の特殊な職業に何ら関心はなく、訪ねてくるのも金の無心をする時だけと相場が決まっていた。
「……今度は何で金が必要なんだ」
先手を取って訊いてやるが、圭一は悪びれる素振りすら見せない。
「あー留年しちゃって」
「またか。何回目だ」
「えー……何回目だっけ?」
「……」
驚くべきことに、しらを切っているのではなく、本当に忘れているのだ。圭一は面倒くさそうに指を折って数えていたが、それでも答えが出なかったらしく、「ま、そんなのどうでもいいじゃん」と言い放った。
「可愛い息子のこと助けてよ、パパ」
「ただでは無理だな。お前も御門家に生まれたのなら、たまには働け」
「げ、やっぱりそうくる?兄貴は?」
「雅臣なら今はM県にいる。しばらくは戻ってこないぞ」
「マジで?」
「その女子高生のような言葉遣いはやめろ。大体、お前はいい歳をしていつまでも」
「あ、彼女待たせてるから、俺そろそろ行くわ。いい仕事あったら、メールして。楽なやつね」
そそくさと逃げ出す圭一に、大きな溜息が漏れる。
「その程度の話だったら、最初からメールでも構わんだろう」
「だって彼女が、俺の育った街見てみたいって言うから。旅行のついでに親父に顔見せようと思ってさ。それに」
「それに?」
「兄貴が居たら、彼女と3Pしてみないか誘おうと思って」
言葉に詰まる父親の顔を見て、圭一は大笑いした。
「冗談だって。じゃあ、兄貴たちによろしく」