(1)
――あ、まただ。
羅刹は視界に映った異常な光景に、軽く眉を顰めた。
異常、とは言っても彼にとってはそれを目にするのは初めてではなく、むしろ日常茶飯事でさえあった。
すなわち、「化け物」を目にすることは。
「しかもラスボス級かよ…」
うんざりと呟く。
彼の視線のおよそ三十メートルほど先、交差点を挟んだ前方斜め左の位置には一目見て「化け物」とわかる人外の生物が佇んでいた。
身長は約二メートル。体つきは人に近いが、それでもがっしりとしている上に、両腕には毒々しい赤い刺青のような模様が蛇のように絡みついている。遠目からでも、その腕から伸びる長い爪と、口から覗く鋭い牙は見て取れた。そして長く伸びた髪は燃え盛る炎のような赤だ。
顔つきだけは、精悍な青年のものだった。
一目見ただけで、その化け物――より正確に言えば鬼、と呼ぶのだが――が強い力を持っているのはわかった。
これほど離れていても、その身の内でふつふつと煮えたぎる妖力で、皮膚を焼かれているような気がするのだ。
実際に近寄ったらどうなるのか、考えただけでも恐ろしい。
とはいえ、幸か不幸か、羅刹はこんな化け物を見るのは初めてではなかったし、見ないふりをしてやりすごすことができるくらいには慣れていた。すれ違っても顔色一つ変えない自信もある。
幸いにも、鬼と羅刹の距離はすれ違う必要がないくらい離れていた。
視線を引き剥がそうとして、しかしそのはずみに目に入った人物に彼は今度こそはっきり顔色を変えた。
「晴菜ちゃん…?」
鬼の横に佇む華奢な少女は、羅刹のよく知る人物だった。
ぱっちりと大きな目に、抜けるように白い肌、今時珍しいくらいに黒い髪。
日本人形のように整った容姿は、遠目からでも見間違いようがない。鬼に気を取られていなければ、すぐに彼女と気づいただろう。
しかしよりによって鬼の隣に彼女が居るとは。
晴菜は、羅刹のように鬼の姿が見えるわけではないが、どうも魔に魅入られやすい体質らしく、身近に化け物が寄りついていることが多々あるのだ。ただ寄りつくだけならばまだしも、場合によっては晴菜を食おうとしていることも珍しくない。おそらく、その体質には彼女の家柄が関係しているのだろうが――。
鬼が、晴菜に視線を向けた。
晴菜は気づいていないが、それは捕食者が獲物を見る目つきそのものだった。
身体が強張る。
落ち着け。いくら化け物とはいえ、こんな人ごみの中で襲いかかってくるわけがない。まだ大丈夫だ。
信号が青に変わり、途切れていた人の波が一斉に動き出す。
鬼は、晴菜の数歩後ろを悠然とついて歩いていた。襲う機会を窺っているのだろう。羅刹はシャツの胸元に引っかけていたサングラスをかけると、足早に近づき、「晴菜ちゃん」と声を掛けた。
「こんな所で何してるの?」
「燈村さん」
無機質にさえ見えた晴菜の表情が、氷が溶けるように柔らかく綻ぶ。
「舞のお稽古の帰りなんです。燈村さんは?」
「俺?俺はまあ、ぶらぶらと」
「もしかしてナンパですか?」
「……どうしてそうなるかな」
「兄さんが言ってました。羅刹の趣味はナンパだって。ええと、女の子をぶいぶい言わせてるんですって。そうなんですか?」
「いつの時代の人間だ、あいつは」
並んで歩きながら、ここにはいない、晴菜の兄を思って溜息を吐く。確かに彼の家のことを思えば、兄妹揃ってずれていることも理解の範疇ではあるのだが。
「それで、君はそれを信じたの?」
「ありえないことではないですよね。だって燈村さん、すごく綺麗な顔してますから…どうしていつもサングラスしてるんですか?」
「ああほら、俺って歩くだけで女の人が卒倒しちゃうから、公共の為にね」
「そうなんですか?でも勿体ないです。とっても綺麗なのに」
冗談のつもりだったのだが、晴菜は真面目に返事を返してくる。
確かに、客観的に見ても羅刹は美しい顔立ちをしていた。もともときつい顔立ちに端正さも加わって近寄りがたい雰囲気の漂う自分の顔を、彼はあまり好きではなかった。
自分で言うのもなんだが、美しすぎるのだ。
世間で騒がれる芸能人やモデルなど比べ物にならないほど、羅刹の顔は整い過ぎていた。
あまりにも完成されすぎていて、およそ人とは思えない美貌、いわば魔性の美であったのだ。
父にも母にも、彼は似ていなかった。
母は極めて美人だったが、その母と比べても羅刹の美貌は際立っていた。鏡で見ると、その容貌が自分の異質さを示しているようで、つい目を逸らすことも多かった。
「――綺麗って、男に言う言葉じゃないでしょ」
背後の鬼から意識を逸らしてしまいそうになり、気を取り直して軽口を叩く。
「綺麗なのは晴菜ちゃんじゃないの?彼氏とか、いてもおかしくないと思うけど」
「か、彼氏なんて、私にはまだ早いです」
晴菜の白い頬が赤く染まる。
「ほ、本当言うと、告白してくださった方は何人かいたんですけど、私は、その、好きとかよくわからなくて…こんな気持のまま付き合っても失礼だと思って断わってしまったんです」
「晴菜ちゃんらしいねえ。でも、試しに付き合ってみればよかったんじゃない?そのうち好きになるかもよ。最初はさあ、そういう軽い気持ちでもいいと思うけど」
「……燈村さんもそういう気持ちでお付き合いしている方がいらっしゃるんですか」
「まさか。俺もてないもん」
「嘘。信じられません」
「いや、本当。なんかさ、パッと見、俺って同じ人間に見えないらしくて」
「?」
不思議そうな顔で見上げてくる晴菜に軽く笑いかけ、「それより」と話を変える。
「本当に彼氏ができたら晴久になんて言うか考えなきゃね。あいつ、晴菜ちゃんに彼氏がいるなんて聞いたら、呪い殺しかねないし」
「いくら兄さんでもそこまでしませんよ」
「どうかな」
少なくとも羅刹の知る御門晴久なら、やる。必ずやる。
その現場を想像して笑いそうになるのを喉の奥で噛み殺す。丁度、晴菜の家の前についたところだった。
「いつ見ても豪勢なお屋敷なことで」
都会の真ん中に建てられるには些か古めかしく、巨大な日本家屋。周囲にはぐるりと塀が聳え立ち、大時代的な門の前には門番らしき人間までいる。
目に見える特徴だけでも特異ながら、それ以外の特徴、つまり羅刹のような人間にしかわからない部分においても、この屋敷は普通ではなかった。
屋敷の中心を起点として、屋敷全体を守るように結界が施されている。かなり強力な、おそらくは晴久かその叔父の手によるものだろう、綻び一つ見当たらない。妖魔が近づこうとすれば、一瞬で蒸発してしまうことは必至だ。
「相変わらず物騒な屋敷だ」
その言葉の意味は晴菜に伝わらなかっただろう。小首を傾げている。
それに「なんでもない」と首を振って、踵を返した。
「じゃあ、俺はこれで」
「上がっていかれないんですか?兄さんも今日は家にいるはずですけど」
「ちょっと野暮用でね」
羅刹は妖魔の気配には鋭い。先程の鬼が今も背後に、しかもそう離れていないところにいることは察知していた。
晴久がいるならば晴菜はもう安全だし、放っておいてもこの鬼も片づけるだろうが――できればそうはしたくない。
ひらひらと片手を振って、晴菜に声をかける暇を与えず、羅刹は足早に元来た道を引き返した。
予想通り、そう離れていないところにその鬼はいた。
といっても、サングラスを通して見ると、禍々しい刺青や鋭い爪など持たない、ごく普通の青年のように見える。別に羅刹のサングラスが特別製なわけではなく、サングラスを掛けると、なぜか化け物の本当の姿を視認できなくなるのだ。視認できなくともどうせ人ならざる者は気配でその存在を主張しているのだから、化け物の存在そのものを無視することはできないが、見た目だけでも普通の人間に見えるのならばその方が精神的に楽だ。妖魔を殺して回る趣味はないから、おおよその居場所さえわかればいい。
それに、サングラスは羅刹の容貌を一部とはいえ隠してくれる。
鬼は、本来の凶悪な姿など想像もできないほどに普通だった。
長髪を肩で遊ばせ、黒いジャケットとジーンズを身につけたなかなかに精悍な青年。ただその目だけが、人間ではない何か野生の獣を思わせる。
何気なく建物に寄りかかるその男に、羅刹は「そこのあんた」と軽く声を掛ける。
「あ?」
まさか自分に声をかけてくる者がいるとは思わなかったのだろう。やや意外そうに、男は胡乱な目を向けてくる。
「俺に何か用か?」
「あの娘はやめておけ」
前置きも何もなく、羅刹は一方的に用件を告げる。
「あの娘は御門家の一人娘だ。何かあれば一族総出でお前を狩るぞ」
「…何言ってやがる」
「お前ほどの鬼ならわかるだろう。あの娘を食うのは易しいことだが、それで力をつけた分を割り引いても御門一族の方が上だ。それにもしお前が勝てば、俺がお前を殺さなきゃならない」
「自分が何を言ってるかわかってるのかぁ?人間」
男が殺気を隠そうともせず、威嚇するように牙を剥き出す。サングラスを掛けている今、鬼の本性が見えるはずはないが、羅刹の挑発に乗って外見を誤魔化す術が不完全になったのかもしれない。
それに思い当たると、羅刹は無理矢理に男を路地裏に引っ張りこんだ。
その勢いのまま男を壁に押し付け、「馬鹿か」と叱りつける。
「こんな所で姿を現したら、人目につくだろうがっ。コスプレで誤魔化すには無理があるぞ!」
男がきょとんとした顔で見下ろして来る。その機に乗じて、口を塞ぐように羅刹は言葉を継ぐ。
「それと簡単に妖気を放つな!俺だから良かったものの、晴久だったら殺されてるぞ」
「何なんだよ、お前は」
どこか呆気に取られたように、男が呟く。
確かに普通の人間が自分の本性を見破り、しかも敵意を向けてこないとなったら戸惑うだろう。鬼の姿を見れる人間は、多くはないとはいえ羅刹以外にもいるが――現に親友の晴久がそうだ――鬼を鬼と認識した人間は彼らを排除しようとするものだ。
鬼の方も、人間を捕食対象としか見ていない。それは長年、少なからず妖魔と出会い、時には言葉も交わしてきた羅刹にはわかっていた。
だが羅刹の方は、普通の人間とは違う認識を、妖魔に対して持っているのだ。
「喰いたいなら、別の人間を喰え。わざわざ食事に命賭けることもないだろ?」
今度こそ、男はぽかんと口を開けた。
人間を喰うな、ではなく、他の人間を喰え、と他ならぬ人間の口から言われるとは予想だにしないことであった。
「……お前、人間、だよな?」
疑わしげに眺めてくる男の額に、羅刹はでこぴんを叩きこむ。
「いてえ!!」
「返事は?」
「っ!さっきから何なんだよてめえは!こっちが黙ってりゃあいい気になりやがって!!」
血の気の多さを隠そうともせず、男が喚く。
黙っている時は野生の獣のような雰囲気だったが、今の男は図体のでかい餓鬼にしか見えない。
男は勢いよく羅刹の腕を振り払う。
「俺が誰を喰おうがてめえの知ったこっちゃねえ。てめえこそ命が惜しければさっさと消えろ」
「ったく、餓鬼が」
「あぁ!?」
「ああ、餓鬼っていうよりもお子様かな?吼えるなら自分の実力ぐらい把握しておけよ」
「死にたいらしいなあ、人間」
男の目つきが殺気を帯びる。爬虫類のような虹彩がまっすぐに羅刹を見据える。
容姿は未だ人間らしさを保っていたが、腕から伸びる爪は太く鋭い、鬼のものだった。
半身に構えた男、いや鬼を見返し、羅刹は言った。
「残念ながらお前の相手をしてやる暇はないな」
言うなり、鬼に向かってもう一度でこぴんする。
今度は本当にやったわけではなく、指で弾く真似をしただけだ。
だがその瞬間、鬼は物凄い勢いで後ろに吹き飛んだ。まるで暴風に飛ばされたように、その姿は一瞬で羅刹の視界から消え、数秒してなにかにぶつかったような派手な音が、遠くから聞こえた。
「…ちょっと強すぎたかな」
「何がだ?」
背後から、鬼のものとは違う見知った声が問う。
肩を竦め、羅刹は悪戯が見つかった子供のような顔で振り向いた。
彼の親友が、そこに立っていた。