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メンタル激弱女の自殺に脅かされて自分の世界を守ろうとした男が、罪悪感換金筋肉男と結託して、とんでもなくやっかいな事案を引き起こそうとしたが、最後は愛と許容の力でどうにかなる話

とちゅうまでです。つづきはまたかきたいです。

「はあ、はあ、はあ」

 夢だと、思わせてくれ。

 嘘だと言ってくれ。

 脂汗が、絨毯にシミを作った。ここまで走ってきたのだ。だから、汗を掻いていた。でも、この手の震えは、彼女の姿を見たからだ。

「遙か」

 天井から一本のひものように吊られた彼女の身体は、腕をだらりと垂らして力なく揺れている。振り子のように前後に動くのは、俺がパニックになってしがみついたからだ。三人でよく囲んだテーブルの上には、きばんだコピー用紙が無造作に置かれている。

「君のせい」

 その四文字が俺に向けられたものだということは間違いなかった。彼女の首を締め付ける縄をほどけば、まだ、救われるだろうか。思い詰めた彼女は。そして、この呪詛を向けられた俺は。

 彼女の顔が青葡萄のようになっているのを見て、そんなわけないことがわかった。

 俺はそれに気づいた瞬間、阿修羅になった。

 俺は俺の今をぜんりょくで守る。

 丸めた紙くずを小さくして、俺はそれを飲み込んだ。

 ごくりと、ぎざぎざが喉を通り抜けていく。虚しい味わいによる嘔吐感を堪える。

 俺は遙かの家を飛び出した。

 走る、走る。胃の中の紙くずが、からからと肉壁をむしばむような心地がした。必死だった。

 しかし、俺の身体は限界を迎える。膝に手をつき、肩で息をして、呼吸を整えることすら怠けて、その場から動けなくなった。俺は、さっき何を見た。何を遙かは伝えたかったのか。それを考えずにはいられなくなる。だが、そんなことを考えてしまえば、俺と俺の生活は狂ってしまう。取り返しが付かなくなる。

 どうすればいい。どうすればいい。

 俺は頭を路面にこすりつけて嗚咽する。

 誰か、助けて。

「お前、困ってるのか」

 低い声が呟いた。顔をあげる。男。両腕を綺麗に失った男が立っていた。裸身一つに黒い布をまもっていて、そこに立っていた。赤子のようだ、と思った。同時に、その身長と肉体美から、こいつを赤子のようだと思うなんてついに俺はどうかしてしまったんじゃないかと思った。

「俺も、困っていたところだ」

「なんだ、あんた」

「助けてやろう。だから、お前も俺を助けろ」

「……なんなんだ、あんたは」

「ゴールドナイフ。俺はそう言う名前だ。花園より、いでしもの。この楽園を、損なうモノだ」

 作り物めいた平たい瞳に炎のような光が煌めいて、そいつはパズルみたいにぼろぼろになった歯を獰猛にむき出した。

***

 記憶とは、真実だということを最近、思う。事実がどうあれ、俺たちの頭に残ったものは、俺たちにとっては限りなく本当だ。頭で考えたことに、俺たちは縋るようにして生きている。

 一花は、俺の泊まっている部屋を掃除しに来た。俺が泊まっているのは至って普通の客室だ。今の俺は「お兄さん」の部屋に入ることはゆるされない。一花は、俺の部屋を掃除機でがーっと音を響かせながら掃除した。会話はない。彼女の目も、床の上の埃しか見ていないようだった。俺たちはよそよそしい他人。それが今の一花の中の真実だった。俺たちは、少し前までつながりを持っていた、というのは、もはや俺の中だけの真実だ。もっとも、そのつながりは、瞬きと一緒くらいの一瞬のもので、しかも、「お兄さん」としての偽物のつながりだった。

「……前島くんは、一花さんが今も好きなんですか」

 彼女が出て行ったあと、机に腰を下ろした青髪の少女が、俺を見下ろすようにしていた。

 俺のキャリーバッグに収納されていたあの青髪の女は、俺の妹ということに成っている。髪が青いのは、コスプレイヤーだからだ、ということにしている。

「好きもなにも、そう言う気持ちを抱いたことは一度もない」

 俺の声は、嫌に無愛想だった。これは俺がこの青髪に気を許していないとか許しているとか、そういうことは関係なかった。喇叭男を倒すときに「変身」して以降、俺の心と言葉遣いが妙に冷ややかな、冷静なものになっているような気がする。かつては少しはあった一花への気持ちも、いつの間にか、薄れていた。

「私と合体したからですかね」

 俺の隣に身を横たえた青髪は素っ気なく答えた。

「私の気持ちに感応したのかもしれないですね」

「おい、青髪」

「私、ブルーって言います」

「青髪」

「……なんですか」

「俺は何の説明も受けていない。あの筋肉喇叭男のことも、あの、姿が変わったやつのことも、俺の正体のことも。今、こうしてお前とごろごろしているが、お前のことも何も知らん」

「……ゆくゆくお話しします。今話しても、きっと混乱するだけです」

「ゆくゆくって」

「そうですね、次に果人が現れたときですかね」

 青髪は、窓を開けてすんと鼻を鳴らした。

「秋の良い香りですね」

「………かびとってなんだよ」

「私たちが相対する敵の名前です。私たちは、そういう名をつけています」

 青髪は、ひょいっと身軽そうに床に降り立った。

「私たちって」

「そろそろご飯ですよ、煮物の匂いがします」

「……」

 梅雨のようなジメジメした目を向けても、青髪は素知らぬ顔で部屋を出て行く。俺も舌打ちしながらその後を追った。

 

 「わたしの味噌汁にへんなものをいれるなといっとろーが」

 階下におりて食堂のドアをあけると、小説家で88の病気を持った佐藤こと林一泉が、エプロン姿でおたまを振り回していた。その姿を面白そうにみている外国人のお客数名と、うしし、と笑っている一雄と双葉、配膳しながら、ため息をついている一花の姿が見えた。

「七味くらい許せよ」

「マヨネーズおいしいよ」

 二人は声をそろえて思い思いのことを言う。

「わしの創作物を勝手に校正し、いじくり回すことは許さんぞ」

「大した作家魂ね」

 一花が、林一線と子ども達の間に割って入った。肩にやんわり手を置いて

「あなたの手を離れた作品は、もうあなたのものじゃないの。読み手にある程度自由があるからこそ、小説ってのは面白いんじゃないの」

「一花さん」

 林は、顔色を悪くした。

「じゃが、あいつら、わしの味噌汁に七味とかマヨネーズとか。……マヨネーズってなんじゃあ、おかしかろーよ!」

「落ち着いて、落ち着いて。首にするわよ」

「しどい、しどくないか」

 一花の笑顔とともに冷たい一言。そのダメージは計り知れない。べそをかきながら食堂を出て行く、自称小説家佐藤のやせた背中に、俺は少なからず同情した。

「扱いにくそうなご老人ですね」

 青髪が、つぶやくと、一花は苦笑した。

「でもいい人よ。面倒くさい人でもあるけど」

「小説を書く人なんて、大抵がそうでしょうよ」

 彼女はドライな受け答えをして、一花を苦笑いさせた。真ん中のテーブルから、お味噌汁と、おかず類をだまってよそって、奥の席に運ぶ。その背中に、幾重の太い男の手がかかるが、彼女はそれを機敏な動きで振り払う。

「よそいますね」

 一花は、俺にそう言って、茶碗にお味噌汁をついでくれる。

「前島さん、でしたっけ。これおまけね。卵焼き、一個多くなっちゃったから」

「……だれか、入居者が減ったんですか」

 俺が聞くと、彼女は苦笑し、その意図が分かった俺は、思わず口をひん曲げてしまったと思う。ここは、本来はアパートでなく、彼女の親が切り盛りしてきた伝統的な民宿なのだ。実質、外国人労働者のための格安賃貸みたいにはなっているけど。

「はい。ずっと前からいらっしゃっていたんですけど」

「寂しくなりますね」

 俺が心からの社交辞令を言うと、彼女はにこりとした。

「金ヅルが減っちゃうから、悲しいです」

 俺が唖然としていると、彼女は去って行った。厨房に行って、洗い物でもするのだろう。彼女の兄弟がより精力的に手伝ってくれるようになった気がするが、彼女は今も変わらず大忙しだ。俺も皿洗いくらいは手伝おう。

 隅の席で、憂鬱そうな顔で、萌葱色に色づいたにんじんにはしを突っ立てている青髪の前に座ると、彼女はじろりと感じわるく目を向けた。

「なに?」

「にんじんあげます」

「なんで」

「嫌いなので。嫌がらせです」

「俺はすきだから、嫌がらせになってないけど」

 彼女が俺の皿に放り込んだにんじんをつまんで食った。

「なんで嫌がらせするんだ」

 彼女は俺の言葉を無視した。

「ここ、治安わるいですね。花園に帰りたい」

「難破でもされたか?」

 彼女は俺の肩越しに何かをみて、うげ、と声をあげる。そちらをむくと、褐色に日焼けした外国人のお兄さんが、にこやかに手を振っている。なかなか男前のじんぶつである。

「私、男性恐怖症なんですよ。あーむずむずする」

 青髪は、自分の肩を小さな手で抱くようにして言った。

「こないだ、手つないだけど俺は平気なの」

「あなたは平気です」

 彼女は親の敵を見るような感じの悪い目のまま、俺の手に手をぽんと置いた。すぐに引っ込めると、味噌汁をずいーと飲み干した。

「あんまり長く触ってると、へんしんしちゃうからしませんが」

「へんしんっていうより……」

 俺は、一花がサービスでつけてくれた卵焼きを箸先でつつきながら、あの夜のことをおもいだす。俺が、青髪の不思議な力であの鎧武者になって、喇叭男をとっちめた夜のことだ。

「がったいだった気がするが。あれは、お前の、その力みたいなものなのか。超能力というか」

「そうですね。あれは私の力です。花園由来の力で、果人をやっつけられるように調整されたものです」

「わからんな。お前のことも。花園とか、その果人とかのことも」

「時期に説明しますよ。つぎのカビトが出るまで待ってください」

「それはいつになるんだか」

「観測所からの報告によると、発生件数は、徐々に増加しているので、そう遠くはない将来に、現れるはずです」

 そう言いながら、青髪は物憂げにため息をついた。

「実はこないだ喇叭を倒したときに支給されたお金が、もうじきなくなりそうなので、早く来てほしいのですが」

「家賃払えなくなったら、俺たち追い出されるのかな。皿洗いとかぞうきんがけとかじゃだめかな」

「そうなんじゃないですか。皿洗いだけで滞在を許されるとしたら」、一花さんに好意を持たれていた、以前のあなたくらいじゃないですか」

「……もし、そうなったら俺が働くよ」

 俺は苦笑いをした。

「記憶喪失の年齢不詳が何を言っているんです。身分証明ができないと、雇ってもらうのは難しいですよ」

「お前が俺の記憶を消したんだろが」

 俺は箸を小刻みに揺り動かした。青髪は、自分に向いた箸先を避けるように首をかしげて、

「それもあなたのせいなんですが」

「というか、記憶消す前の俺は免許証くらいは持っていただろう。どこにやったんだよ」

「なくしました」

 彼女はけろりと言った。

「そもそも、あなたが働く必要はないと言っているんですよ。ほらほら、このほっそい腕」

 ぺしぺしと青髪は俺の腕を叩く。

「後ろの男どもの上腕二頭筋と比べてみてください。この楽園町の西区の劣悪な肉体労働には、筋肉とそれから、ドブネズミばりの生命力が必要なのですよ」

「ほんと、楽園とは名ばかりな町だ」

 この宿の周りの光景を想起して俺は苦々しい気持ちになる。

「汚らしい町です」

 青髪は、窓の外をちらりとみた。遠くに見える灰色の構造物が、白い煙を、上に向かって吹き上げているのが見えた。

「……だが、それは言い過ぎだろ。ここで育って、愛着を持っている人たちもいるんだから」

 青髪は、ふんと鼻で笑った

「でも、過度な心配は無用です。どうせ、カビトはもうじき現れます」

 彼女は、珍しくニコリと笑った。


 「隼人」

 美鈴が俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。俺ははっとする。美鈴は、女の子らしいピンクのもこもこした普段着に身を包み、胸には、カバのぬいぐるみを抱いていた。俺が、誕生日にあげたものだった。

「なんの、話だっけ?」

「今度の、デート、中止にしないかって言ったの。私、今そんな気分じゃないから」

 美鈴は、俯いた。

「そうだな」

 俺は苦し紛れに呟いた。

「あんなことがあったんだもんな。やめておくか」

 カーペットの上に置かれた美鈴の手に俺は自分の手を重ねた。こうしてみると、美鈴の手は本当に小さい。そしてヒヤヒヤしてる。彼女は末端冷え性なのを気にしてるけど、わるいことばかりじゃないと勝手に思っている。俺は、この冷たさが安心する。

「ありがとう」

 美鈴はもう一報の手を俺の手に重ねた。

「三が咲いた」

 神妙な顔で、彼女がふと呟いた。

 俺は噴き出した。

「よ、四が咲いた」

「五が咲いた」

 俺たちはそこから子どもっぽい遊びを始めた。手を交互に重ねて、八番目に手を置かれる直前に、手を引っこ抜かないと負けの、とてもくだらない遊びだった。でも、俺たちはこんな馬鹿げた遊びをよくやっていた。

 彼女の調度品はみんな暖色系で、部屋中がぬくもりにあふれていた。クリーム色のベッド脇に置かれた、写真が伏せられているのが見えた。写真立てのステンレスの背中が、妙に寒々しい。それは俺と、美鈴、そして遙かの写真だった。遙かがいなくなった今、目に入っても苦しいだけなんだろう。

 俺たちは、三人、いつも一緒だった。俺たちは、くだらない手遊びも、ちょっと危険な火遊びも、みんな一緒に、やってきた。

「あーあ」

 美鈴は、天井を仰いだ。

「何がダメだったんだろう。何を間違えたんだろう」

 俺は、遙かの死は美鈴のせいではない、と知っていたし、彼女が何を間違えたわけでもないと言うこともできた。それでも言わなかったのは、あのときと同じ、俺が俺を守るためだけだった。

 美鈴にかける言葉を探す振りをしながら、俺は指先で自分の腹を撫でた。ちょうど胃の辺り。あの日以来、俺の胃の中に、くしゃくしゃになったあの告発状めいた遺言書が、消化されずに残っているような気がしてならなかった。俺は下手したら、あのあとすぐに、耐えきれず、美鈴や遙かの母親や警察に、見たこときいたことを寸分違わず話してしまったかもしれない。けど、そうならなかった。そうならなかったのは、逃げるときに出くわした、あの筋肉質の男、ゴールドナイフのおかげだった。


 「はがあっ」

 俺は鈍い痛みに胸を押さえながら、地面に倒れ込んだ。顎をひいて、ずきずきと痛む胸を見ると、シルバーに光るナイフが刺さっている。

「安心しろ、痛いのは一度だけだ。お前の体にしっくりきたら、二度目も三度目も、痛みはない」

ゴールドナイフと名乗った男が頭上で何か語りかけてくるが、よく聞こえない。ただ、視界の中で、ナイフが金砂の粒を吸い上げたように金色に染まり上がる様子を俺は確かにみた。それと同時に痛みは消え、俺が起き上がると、ナイフは俺の体がまるで霊体になったかのように、通り抜け、音を立ててアスファルトに衝突した。ゴールドナイフの肩越しにビール箱の山に乗ったネコが、灰色がかった壁から張り出したダクトの上に飛び乗った。そんな日常的光景を俺は遠くに見て、金に光るナイフを手に取った。

「それかせ」

 ゴールドナイフは、目をらんらんに光らせ、俺の手からナイフをもぎ取った。そして、それを長い舌でなめ始めた。俺は、なんとも言えない気分のまま、目の前の筋骨隆々の中年が、金の薄膜をあらかた剥ぎ取り食ってしまうのを眺めていた。

 ふたたびシルバーになったナイフを腰に納めると、彼はニッと笑って俺の顔を覗きこんだ。

「なあ、お前、なにか変わったことはないか」

 隙間のあいた歯から、笛の鳴るような高い音が聞こえる。俺は、自分の体を見回した。ナイフが突き立てられていたはずの胸は、元通りになっていた。服に穴が空いてるはずなのに、それもない。俺は不思議に思って胸をなで回した。

「さっきのナイフ、どういう仕組みなんだ」

「ちげえよ、ここだよここ」

 ゴールドナイフは、俺の心臓辺りをつんとついた。

「いや、こっちか」

 悩んだ素振りでつぎに頭を突いた。

「まあ、どうだっていい。お前らのパーツで一番花園に接続している部分だ。心ってやつだ」

「心」

 俺はその単語を反芻し、やがてはっとした。あれだけ胸を覆い尽くしていた昏い鼓動。胃の中で岩が暴れるような感覚も和らいでいる。

 問題は全く解決してないのに!

「はは」

 俺の口から渇いた笑いが漏れた。

「あんたが、やったのか」

「そうだ。俺のナイフには、不思議な力があるのさ」

「ありがとう。これでどうにかなりそうだ」

 ゴールドナイフは、親父のようなたくましい笑顔で笑った。

「いや、困ったときは、助けやいをしなくちゃ」

「たすけあい、な」

 俺は、胸がすっとして、それからすぐさま帰った。なんだかやけに上機嫌になって、俺の心を身軽にしてくれた、あの男に手を降って湧かれたくらいだった。あの不審な男も、俺の頭のイメージではとっくに、人のよい親父のような印象に置き換わっていた。


 青髪は何かとよく寝るやつだ。

 朝早く起きて、朝ご飯を食べたと思うと、部屋に帰ってすぐに寝る。昼ご飯のときになってもなかなか起きない。やっと起こして昼ご飯を食べさせても、またすぐに寝る。そして夜になる。彼女が俺と話すのは起きてから数分と、ご飯を食べている間くらいだ。

 寝るのが大好きなやつなんだろうかと最初は思ったが、そうではないらしい。彼女は、寝る直前、とても立っていられないくらいふらふらになり、全身が汗だくになる。まるで気絶するように、なにかの病気かのように、眠りに落ちていくのだ。

 青髪は寝始めると、青ざめた表情は一転して、くーすかくーすか、気持ちよさそうに寝息を書き始める。俺はそれをみるとなんだか安心してしまう。彼女のことを気にしているわけではなくて、自分よりも一回り小さい同居人が穏やかな顔をしていると、同じ部屋で過ごす俺も落ち着けるという感じだ。

 一度寝てしまうと、彼女は滅多なことでは起きなくなるので、俺は当然暇を持てしてしまう。何時間も一人で静かにぼーっとしていると、やがて落ち着かなくなっていくので、俺はそのタイミングで外を出歩くことにしている。この周辺には、中流家庭の住宅が緻密に敷き詰められているだけで、商業施設といえば本屋やコンビニ程度の施設しかない。少し歩けば、商店街に行き当たるが、その活気も電線の上に集団で止まってカアカア鳴き始めるカラスのさえずりに比べてもなんとも弱々しい。

 コンビニの辺りをうろついていると、ランドセルを背負った小学生男女が唄を歌いながら歩いてくるのが見えた。この辺りにも学校はあるらしかった。二人分の小さい影をぼーっと見つめながら、コンビニで買った菓子を食っていると、俺の前にぬらーっと影が現れた。

 顔をあげると、ぎょっとした。目の前に女が立っていた。

「一花、さん」

「前島さん、こんなところで会うなんて奇遇だね。それにしても買い食いなんて素行が悪いなあ」

 両手にビニール袋を持って、買い物帰りと思しき一花はしゃがみこんだ俺の顔をノぞこんだ。

「……いいでしょ、大人なんだから」

「前島さんってはたち超えてるんだ。同年代かと思った」

 年齢のことは俺も自信が無い。

「それより、重そうだ。持ちましょうか」

 俺はそういえば初めて会ったときも、彼女は袋を重そうに引っ提げていた。一花さんは、笑って首を振った。

「いいよ、前島さんお客様なんだから」

 それを聞いて、俺は差しだそうとした手を引っ込めた。

「前島さんって学生じゃないんだね」

 それから俺たちは久しぶりに肩を並べて歩いた。一花から俺の記憶が消えて以来、こんなに長くいるのは初めてじゃないだろうか。

「うちを下宿として使ってる高校生ってイメージだったけど」

「まあ、学校には行ってませんね」

「あの子は、妹さんなのよね。仲いいの?」

「妹?」

 彼女はきょとんとした顔で首をかしげた。

「一緒に住んでる子。あの子そう言ってたよ」

 青髪が、そう言っているとしたら、口裏を合わせた方がよいだろう。慎重そうな彼女の目が脳裏に浮かんだ。

「ああ、そうだった」

 彼女はくすりと笑った。

「そうだったって、前島さん面白いひとね」

 俺たちは、あの夜と同じように、二人して歩いていた。唯一違うのは、肩と肩の間が、拳二つ以上空いてたことだ。あの夜は、お互いの肩が何度もぶつかった。それは単にお互いが疲れていただけだろうけれど。

一花の横顔をちらりと見て、やっぱりと俺は確信した。俺の心は冷え冷えとしている。この人の心も、きっと層だと思った。

青髪は何か勘違いしていたが、この人が俺に、また、俺がこの人に好意を寄せ合った瞬間は一度たりともなかったのだ。あれは、お互いに身を預けられる存在を欲していた俺たちが、お互いを利用しようとしただけの話だ。

「ねえ」

一花が、少し足を止めた。気のせいか、声が少し震えている。

「あれ」

ちょうど、建物の裏路地に接続する小さな隙間にさしかかったあたりだった。一花の見ているのは、路地の奥の方だ。目を凝らすと、男が二人、向かい合っているのが見えた。体格の大きな男と、ひょろりとした学生服の少女。そして、大きな男が少女にナイフを突き立てているのだ。 

 どさっという音がして、ぱきっという破裂音が聞こえた。一花が足下に買い物袋をホウリステタオトと、袋にはいった卵が割れた音だとおもう。路地に踏み込もうとする彼女の腕を、できることなら引っ張りたかったが、伸ばした手はとどかなかった。

「何してるの!」

 一花の鋭い声。そして憎悪。俺も路地にするりと入り込み、彼女の背後に立った。大男と、少女がくるりとこちらを向いた。そしてその瞬間、一花と俺は固まった。少女の体を貫通していたナイフの切っ先が、彼女の体をすり抜けたのだ。黄金の光に輝くブレードナイフを、大男が満足そうに見てから、俺たちをギロリと見つめた。

「あ、あ、」

 女の子が動揺したように呟いた。

「あの、これは違うんです。私は、大丈夫です、この通り」

 彼女は自分の五体満足をアピールするかのように両手を広げて胸を張った。

「すいません、ゴールドさん。ありがとうございました」

 彼女は男に頭を下げると俯いて、小走りに俺たちの間を通り抜けた。

「なんなの」

 一花の声から震えはとれたが、訝しむような目つきで大男と、そのてにあるナイフを見比べた。大男は柔和な笑顔を浮かべて、俺を見た。

「久しぶりに会ったな。もう、大丈夫なのかい」

「……どこかで、会ったか」

 俺が慎重に答えると、大男はきょとんとした顔をした。そして何か感づいたような顔をして、にやりと笑った。

「なるほど、そういうことか。……まあ、いいや。今の君に何をしても無駄だからね」

 男の言っていることは、俺には全く分からない。この不気味な男と、俺は以前どこかで会っている?

 男は俺への興味を失った代わりに、今度は隣の一花を見た。

 そして、男は一花の腕を掴みあげ、壁際に引き寄せ押さえつけた。

「ひっ」

 一花は、目をつぶって悲鳴をあげた。

「おい、なにしてんだ」

 男の肩に手をかけるが、

「ふん」

 男が腕をゆすると、俺は地面にたたきつけられた。少ししか力は加わっていないはずなのに、起き上がれないくらいの衝撃を受けた。視界の隅の男はナイフを彼女の胸に近づけながら

「似たものどうしだな。互いに惹かれ合うのも理解できる」

 と呟いた。一花は恐る恐る片目を開いて、男を見つめた。

「惹かれ、合う? 」

「お前がなんの罪に怯えているのか、俺にはわかるぞ」

 ささやくような、優しい男の言葉に、一花は目を見開いた。

「安心しろ。痛いのは、一度目だけだ」

 手慣れた様子で男はナイフを振りかざし、一花は目をつぶった。俺は、身を起こすことができない。

 ひゅん。そのとき、大通りの方から空気を裂くような音が聞こえ始めた。そしてすぐさまミサイルみたいな速度で、細長い棒のようなものが路地裏に侵入してきた。そのまま、先端が男の肩甲骨辺りをひっかけて、そのまま巨体を弾き飛ばした。そのまま背後の壁に男の体は縫い付けられた。そこで俺はその棒がなんなのかを視認する。あの夜、喇叭男を殺した長刀。あの青髪の用意した武器だ。

「これはあの子の長刀か」

 男は苦しげに息を漏らした。

「相手をするには、まだ、力不足か」

一花は路地の壁に背を引き摺りながら、座り込んだ。俺はすぐさま彼女のそばにかけよって、手をとった。

 なんかしらんがあの青髪がなにかやってくれたらしい。助かった。俺は一花の手をしっかり握りしめ、買い物袋を回収するのにも気が回らず、走って宿に戻った。息も絶え絶えになった俺たちは、カーペットの上に倒れ込んだ。

「くそ、また変なのが出やがる」

 俺は一花に気づかれないような小さい声で毒づいた。あれは、青髪が言っていたカビトってやつか。それにしては、こないだの喇叭男と毛色が全然違う。歯がパズルみたいにでこぼこで、上半身裸だったが、そこら辺の人間と変わらない感じだった。

「前島さん、ありがとう」

 一花はしゃがみ込んだまま、呻いた。

「結構、力あるんだね」

 一花は俺を見上げた。青ざめたまま、口元だけ笑って、パンチをする振りをした。終始終目をつぶっていた一花の中では、俺があの筋骨隆々の男を突き飛ばし、路地裏から連れ出してくれた、という認識らしかった。

「姉ちゃん、どうした?」

 厨房から一雄が顔を覗かせた。自分の姉が玄関でしゃがみこんでいるのをみると、血相を変えて、こちらに走ってきた。

「前島さんが何かやったのか。痴話げんかか」

 一雄は俺の方をにらみつけた。

「一雄、電話持ってきて。警察に電話するから」

 一花は力の抜けた声で言った。小さなガキは目をぱちくりさせて、

「わかった」と言い残し、どたどた足音を立てて奥に引っ込んだ。


 警察に電話することはどれだけ意味があるのだろう、と俺は、電話の子機を耳にあてがっている一花をちらりと見た。あの喇叭男に銃も聞かなかったし、カビトにあの手の武器や警察の力がどれほど通用するかは知れなかった。また、一花が「ナイフを持ってて」とか、「むっきむきの」とか、言っている様から、警察にただしくイメージが伝わるとは思えなかった。きっとただの通り魔や暴漢として見なされてもおかしくない。

 玄関ががらりとあいて、青髪が姿を見せた。子供服のような可愛らしい服は、砂埃に蒔かれたあとみたいに、点々と土が付いていた。

 俺は、その瞳を見て、息をのんだ。その目に宿っているのは、凄みのある怒りだった。とても子どもがしていいような表情ではない。「さっきはお前がやったのか」「助かったぜ」なんと声をかけるか迷っていると、急に彼女は袖をひっぱった。ついてこいという意味らしい。

 表に引き出された俺は、

「さっきのはお前がやったのか」と改めてたずねた。彼女はこくりと頷いて、漆喰の壁にもたれかかった。

「ついでにあのあと一戦交えましたが、逃げられてしまいました」

「あれもカビトってやつなのか」

 青髪は頷いた。

「いろいろいるんですよ。人間じみて知能のあるものや、機械めいた本能しかないもの」

「馬鹿みたいに力の強いやつだった」

 俺は腹をさすった。まだしびれるような痛みを感じていた。

「あんなやつと戦えるのか」

「変身したら今であれば、勝てると思います。」

 青髪は慎重な物言いだった。

「今であれば」

「やつはゴールドナイフという名前のカビトです」

 青髪は憎々しげに呟いた。どうもあの怪人に特別な感情があるように思えた。

「やつの厄介なところは、所有するナイフ」

 俺は彼の手に煌めいていた金色のナイフを思い浮かべた。

「あのナイフは、やつにとって栄養のもとを生み出す道具なんです。相手に刺すことで、効力を発揮するんです」

「そうだ、あいつ、女の子をナイフで刺してた。でも、あの子は無事だったみたいだ」

「そりゃ五体満足でしょうよ。あれは、人からある感情をえぐりとるだけなんですから」

「感情」

「罪の意識」

 青髪ははっきりと発音した。

「背徳感。後悔。破滅願望。様々な気持ちに紐付いた感情を根こそぎ刈り取ってしまうんです。そして、喪われた感情は、表面に金として表出するのです」

「そして、その金がやつの栄養源だっていうのか」

「飲み込みいいですね」

 冗談じゃ無い。なんとも飲み込みにくい奇っ怪な話だ。

「厄介なことはまだあります。彼はそのナイフによって、人間を損ねるんです」

「どういうことだ」

「ナイフを指されたら、気持ちいんだそうですよ。セックスにともなう快感に似通っているとも言われます。だから、ドラッグのように、人人は率先して彼にナイフをさしてもらおうとするんです」

 青髪はセックスと言いながら、両手を取り結ぶ動作をした。俺は見てられないのでやめさせる。

「下品なことをするな」

「それより、明日から、ようやっと仕事ですよ」

 青髪はおさげをいじりながらつぶやいた。

「あいつはきっと人目につかない場所で食事を繰り返しているはずです。町中を駆けずり回りましょう」

「二人で見つかるかな」

「無理でしょうね。なので、少年探偵団を使いましょう」

「少年、なんだって?」

 青髪は宿の隣の公園で今も馬鹿騒ぎしているホームレスたちに目を向けた。

「少年探偵団です。毎日夏休みみたいに楽しそうなあの人たちに協力してもらいましょう」

 青髪は、財布からばっとお札を引き抜いて俺の前にちらつかせた。

「取り出したるはー、三千円」

 彼女は可愛らしい笑みで歌うように言った。三千円はちなみに、おれたちの全財産だった。

「いいのか、今月の家賃は」

「どちみち三千円で家賃は払えません。ゴールドナイフを殺すんです。それでお金もゲットしましょう」

 

 いないはずの女が俺の目の前に座っているので、俺はこれを夢だと認識した。

「遙か」

「隼人くん」

 遙かは、遠慮がちな目つきで言った。

「約束だからね、私を、一人にしないでね」

 遙かは、生前俺に対して何度も行っていたことを同じように呟いた。俺はその言葉を聞くのはうんざりしていた。

「勝手に、二人でどっか行くの、やめて、よね」

 遙かは俯いた。俺は努めて優しい声色で、彼女の肩に手をおいた。

「でも、ずっと三人って訳にはいかないだろう。俺たちには、それぞれの人間関係があって、それもこれから大切にしていかないといけないんだぜ」

「……知っているでしょう」

 遙かは俺の手首を握った。それはとても強く、俺を放すまいとする力に溢れていた。

「私には、他のだれもいらないの。今までずっと一緒だった、二人がいれば」

「なんでもっと丁度よくやれないんだよ」

 俺は彼女の腕をひっぺがして怒鳴りつけた。

「友達を作る力は絶対必要だろうがよ。お前、俺たちが死んだらどうする気だ」

「そうしたら、私も死ぬわ」

 俺は、遙かと放すとき、頭がくらくらする。瞼がシャッターみたいに降りてきそうな、深いな目眩に襲われる。昔は、そんなことなかった。だが、俺は今の遙かを見ていると、目眩がする。

 その朝は最悪の目覚めだった。焦燥感とともに、跳ねるように飛び起きた。腹の辺りに何かもやもやしたものが堆積していて気持ちが悪い。粘り気のある汗で、シャツもパンツもびっしょりになっていた。

 どういうことだ。

 俺はぼーっとする頭で階下に降り、洗面所で蛇口を捻った。

 顔を洗い、鏡を見つめると、俺はそれがなくなっていることに気づき、狼狽した。

 ない。ない。ない。鏡の中の俺は無理矢理笑おうとでも言うのか、口角を不自然にゆがめる。だが、無理だった。笑えなかった。

昨日までの晴れ渡るような爽快な気持ちはどこに行ったのだ。何もかもを受け入れ、前向きに生きようという気概は一体どこに行ってしまったのだ。

俺は大丈夫、だというあの確信は、一体どこに消えた?

「もう一度、あいつに会わないと、まずい」

 頭に浮かぶのは、数日前に出会った、あの男。ゴールドナイフ。もう一度、もう一度、あのナイフを胸にさしてもらえれば、俺はきっと助かる。確信があった。

「隼人さん、ご飯できたわよ」

 リビングから、おばさんの声が聞こえた。

 すぐに返事しないと。すぐに返事しないと。

「はーい、いきます」

 俺の喉から別の男の声がした。


 「これ、PHSです」

 散開する前に、青髪が、俺の手に小型の携帯端末を乗せた。

「何か、あったら電話ください」

「携帯買う金あったんだ。というか、いつの間に契約を」

「だいぶ前に観測所に支給してもらったものです」

 青髪は髪をいじる動作をしながら、つぶやいた。

「いいですかーばんごー」

「1」「2」「3」「4」「5」「6」

「はいよろしい。いいですか、こんな人がナイフを持ってうろついているのを見たら報告お願いします」

 青髪は、スケッチブックをかかげて、おっさん達に見せた。白い紙の真ん中に、昨日出会った筋肉質の男、ゴールドナイフの絵が描かれている。特徴を捉えているので、モンタージュ的役割は担えると思うが、どうにもへたうまな絵である。ホームレスたちにたっぷり時間をかけて覚えてもらうと、青髪は、

「では、散れー、宿無し金なしどもー」

「「「「いえーい」」」」」

 片腕をあげて、歓声をあげたホームレス達は、それぞれ散らばって、走り出した。

「元気いっぱいで子どもみたいですね」

 青髪はどこか子どもを愛でる母親のようなまなざしになっている。

「……おっさんだろ」

「私たちも、あのマッチョを探しますよ」

「そうしよう」

 俺も青髪と手を振り別れた。


 楽園町の西区について少し調べた。西というのだから中央区の西側に隣接しており、その規模は、楽園町の区域の中で最も狭く、そして治安も幸福度も最も低い。それは、まるで、この場所が華々しい中央区の肥やしにすることを前提にしたような計画で設計されているのが原因だ、航空図のように俯瞰すると、産業廃棄物を埋め立てるための広い土地と、その周辺に発電所、工場が、道の砂利石みたいに敷き詰められているのがわかる。人々の活動するスペースや、生活に必要最低限を補てんするための商業施設は、はじっこに追いやられている。また、働き口を失った、中央区の人間たちが天下りして、末端の平社員が、路上にはじき出されることが多々あり、生活困窮者やホームレスの温床地帯になっている。

 ゴールドナイフが出没するところであれば、必然人の出入りがある場所であると考えられるので、工場地帯の捜索は必要ではない。居住区、商業区、学校区を重点的に探すほうがいい。

と、青髪が言っていた。六人のホームレスたちは、商業施設や、居住区に出向くらしいので、俺は、学校の周りをうろつくことにする。俺は高校生にも見えるので、適任であると青髪は言った。確かに、学校の周りを無精ひげのすすにまみれたボロボロの作務衣を着込んだ男たちがうろつくのは、警察に通報がいくかもしれないのでよしたほうがいいだろう。

 徒歩で歩いて校区に入ったあたりでは、正午に差し掛かるころだった。もうとっくに学校は始まっているだろうに、ところどころ制服を着た連中がろじょうを闊歩している。カラオケや、ビリヤードなど、学生が好みそうな娯楽施設が周辺に集まっているので、暇つぶしには事欠かないだろう。西区で店を持つ余裕のない大人たちからしたら、彼らは貴重なお客であることは間違いないので、誰も彼らの入店を拒まないし、注意もしないんだろう。

「おい、待て」

 前方から走ってくる男が勢いよくぶつかってくる。俺はしりもちをついた。

「出たぞ。『トラ柄』だ! 追いかけろ」

 エプロンをつけたこわもての親父も、はたきを振り回しながら追いかけてくる。

 立ち上がったばかりの俺に目もくれず、ぶつかってくる。ガタイの良い体の重量に弾き飛ばされて、再び転んでしまう。背中を上りのポールのぶつけて、ボールがゆらゆら揺れた。

「ちょっと君、かわいいね、うちの店で働かない?」

「え、えーと」

「いや過激なことはしないから、未成年だしさ」

「あ、あの」

 こんな汚い町だし、ろくでもないやつらが出歩いている土地なので、そこにそぐわない人間がいると、すぐにわかる。俺は、顔を挙げて、会話の聞こえる方を見た。少女が二人組の男に話しかけられていた。これまで見かけた学生たちは、制服をだらしなく着こなして、けだるげな不良然とした振る舞いだったが、少女は規律正しい着こなしだった。表情には怯えと困惑が見て取れた。こわばった大人しそうな瞳の上にまつ毛が震えている。

 彼女の優柔不断な様子に苛立った様子を見せた男は彼女の腕をつかんで引っ張った。

「わ、わかりました。ちょっと話を聞くだけなら」

「おい」

 俺は、少女に声をかけた。

「いいのか、本当に」

 少女はびっくりしたように俺を見つめた。

「いい、のかな」

「なんだそれは」

 俺は少し呆れた。それから男二人に、

「こういうのは、乗り気なやつを誘ってやれよ」

 と話しかけた。男の片方は、目を細めておれを睨みつけた。

「おめえ、へんな目えしてるな」

「……」

「まあ、いいや。ほかをあたらしてもらうよ」

 男は口をふにゃっとまげて、それまま連れの男とどこかへ行った。

「……ありがとう」

「いや、偶然目に入っただけ。あんたがそういう人じゃないってことが分かったから」

「うん、ほんとは私みたいな子が来て良いところじゃないよね」

 少女の横顔は悲し気に笑った。

「……いやなことがあってさ、自暴自棄になってたのかも」

「そう」

「あの!」

 少女が俺の服の裾を掴んだ。少女は俺より一回り背が低いので、そのあどけない瞳が、こちらを見上げてくる。

「私、浅海美鈴って言います。ちょっと、付き合ってくれませんか」

 

 「赤いスイートピー、あの電車にー」

 少女の可憐な歌が部屋に響き渡る。くるくる回るミラーボールの光が暗い部屋を色鮮やかに照らしつける。目の前には、おかわり自由のソフトドリンク。チキンナゲットの山。

「……あの浅海さん」

「美鈴でいいよ」

 間奏の最中に軽やかに答えた。

「美鈴さん、俺カラオケをしている時間は」

 喋っている最中に歌いだしたので、俺は諦めて、げんなり開いた口にチキンを詰め込んだ。

「いやあ、友達死んじゃって落ち込んでたんだけど、前島さんのおかげで元気出たあ」

 歌い終わった彼女はソファにどかっとすわりこみ、オレンジジュースに口をつけた。

「……それ、本当?」

 俺はチキンナゲットに伸ばしていた手をひっこめた。

「本当だよ、ずっと仲良かった子が、自殺して」

「……本当に、元気でたの?」

「……」

 浅海さんは、笑った表情のまま、オレンジジュースをごくごく飲んだ。

「前島さんって不思議な人だね」

「え?」

「なんか、混乱するよ。困惑?どっちだ」

 混乱したような顔で彼女は首をひねった。

「……」

「前島さんも、なんか歌う」

 浅海さんは自分の眉間を指でつつく、どこかで見たようなしぐさをした。

「しわができてるよ。恥ずかしかったら、一緒にうたってもいいよ」

「いや、俺は」

 やんわり押し付けられるマイクにどうしていいやら困惑していると、ぽろろろとケータイが音を鳴らした。ちょっとすまんと断りを入れてから、廊下に出る。

「もしもし」

 青髪の冷たい声だった。

「今どこですか」

「……カラオケ」

「何やってんすか、あんた」

 呆れた声が聞こえた。ごめん、と謝って

「曲解しないでほしいんだが、知らん女の子と、カラオケしてる」

「あなたってひとはー、もー」

「こんなことを聞ける義理はないんだけど、こうして連絡してきたのは進捗があったってことか」

「異常なほどこまめに電話してくださいますが、今のところ、ゴールドナイフ発見に役立つものはないようです」

 青髪のため息が電話越しに聞こえた。

「……」




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