表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

記憶喪失で美少女の死体片手に町をさまよってたら女子高生おかみに拾われて深いようで浅い人間関係や自分の正体について悶々とした日々を過ごした俺だが、結局筋肉喇叭マンの横っ面をぶったたくしかなかった話

 「はあ、はあ、はあ」

 楽園の片隅でコートを着込んだ男と女が、薄暗い路地裏で向かい合っていた。漏れ出した吐息が白い靄になって、互いの顔のまわりで溶け合った。彼らには、お互いの顔しか見えていなかった。

 男はおもむろに手袋を投げ捨てて、それから手を擦り合わせるしぐさをした。そして何かの催促をするように、女の厚めの手袋に指を滑らせた。女は、すこしあたりを気にするようなそぶりで、手袋の付け根に手をかけた。柔らかい、白い指先が露わになった。男はいささか乱暴に、その手を手繰り寄せた。女は目を閉じて、男の力強い指の感触を味わった。男はやがて、ゆっくりと、両手を重ね合わせた。女も少しずつ力をこめた。指を互い違いに結び付けて、ぬるりとした汗の感覚までも楽しむように、長い時間そうしていた。

「おい!」

 二人の肩が跳ね上がった。慌てて、男と女は手を離した。制服を着た警官が暗がりから現れ、二人のほうに歩いてきたのだ。

「……あんたら、今、やってなかったか?」

「なにをだよ」

 男がぶっきらぼうに言った。

「知っていると思うが、現在条例で、取り結びの儀式は禁止になっていてな」

 警官は二人の足元にばらばらに散らばった手袋を見た。

「……俺もカミさんとは我慢しているんだ。……悪鬼を生みたくないだろう」

 女は俯いて唇をかみしめた。

「なにも好きでこういうことしてんじゃないよ、おれは」

 警官の愚痴はそれから十分ほど続いて、二人をげんなりさせた。最後に彼は

「お互い、手袋はつけとけよ。大事な人が、誰かと結ばれるのは見たくないだろう」

 と、顔をずいと二人に見せつけるように前に出すと、それからケラケラ笑って帰っていった。

 女と男は口々にあの警官の文句を言ったが、取り締まられることがなかったので、ほっとしていた。


夢だったらいいのに、と思った。

 吐しゃ物で汚れたみっともない衣服を隠そうともせず、私はすわりこんでいた。糸の切れた操り人形のように、ぺたりと太腿とお尻を地面につけていた。早朝の路面は、太陽の針のような熱射に当てられて、座っていると外側から焦げていきそうだった。

 早朝の住宅街は、しんとしている。

 夜も明けたばかりで、ゴミを捨てに出るのにも、まだ早い時間だった。なんで今日に限って早く目覚めてしまったんだろう。なんで、そのままたまっていた空き缶袋と、紙くずでぱんぱんに膨れ上がった燃えるゴミの袋を小脇に挟んで家を出てしまったんだろう。すべては、偶然と、私のふとした行動が原因だったのに、私には、どうしても、誰か悪いものが、私と「彼」を引き合わせるために誘導したようにしたようにしか思えなかった。

 早朝のゴミ置き場には、まだ、ゴミ袋の山は作られていなかったけれど、その代わりに、一個の小さい人間の体が置かれていた。私は最初、等身大の人形かと思った。そして、それは嘘だった。人間でないことを願った。ゴミを捨てる場所と同じ場所に、捨てられているのが、近所にすんでいて、たまに通りがかりに私に挨拶をくれた、小さな元気なあの子の体でないことを願った。立ちすくんでいると、彼の首がかくんと、異常なもたれ方をして、こちらを見た。ダンゴムシの背中のような、からからに渇いた、黒々とした虚無の瞳が私を釘付けにした。

私は私の中で誤魔化しが聞かなくなっていくと、もうどうしようもなくなり、ごみ袋を放り捨て、そのばに座り込んだ。様々な思いが駆け巡り、その感情の発露として、道端にもかかわらず胃の中のものをアスファルトにぶちまけた。蛆が湧き、蠅の飛び回る腐乱死体に、気味の悪さを感じたからではない。私は、ただ、この光景に引き合わせた何かにひたすらにのろったのだ。お父さんの死も、お母さんの死も、あの人の死も、この子の死も私の世界で人つなぎに起こっている、たちの悪い呪いだと確信していた。行き場のない憎悪の感情が胸の中で爆発していた。

 カア。カア。

 私は顔をあげた。どこからともなくからすがやってきた。ゴミ捨て場の開きっぱなしの金網の隙間からするりと入り、死体の近くに止まった。そして、少年の手や足を、ところ構わずついばみ始めたのだ。

「……」

 私は近くにあった固い石ころをにぎりしめ、その黒い不吉な羽めがけて投げ込んだ。私の憎悪をありったけこめた握りこぶし大の固まりは、そのカラスには当たらなかった。投擲の直後、カラスは翼を広げ、飛び上がって、すいすいと逃げて行ってしまったからだ。私のなげた石ころは、その代わり、死体の腹のあたりにぐちゃりと沈み込んだ。やわらかくなっていたのだ。

 私は死体と同じようなからからの目で、大空に伸びあがったカラスのシルエットを追いかけていた。

 頬をつたう熱い感触で涙がこぼれたのが分かった。でも、その涙はやはり単なる気持ちの爆発でしかなく、さっきまき散らした吐しゃ物と同じくらいに汚いものであることには、疑いはなかった。

 私は、目の前の小さな体と、二人きりでしばらく途方に暮れていた。私ほどではないが早起きな近所のおばさんが私の後ろにやってきて、悲鳴をあげたのがわかった。けたたましいパトカーのサイレンが、どんどん大きくなっていくのも分かった。肩を見知った交番のおまわりさんに叩かれるのも、わかった。地面が次第にせまっていく感覚も、覚えている。そして鈍い痛みも。でも、その先は覚えていない。


***

夢じゃなかったらいいのに。

でも、俺はこれが夢だと分かっていた。きれいな緑青の花々に囲まれ、まさしく楽園とも言うべき場所で俺は一人の女の子と一緒にいた。とても楽しい時間を送っていた。何をして遊んだというわけではない。ずっと話をしていたのだ。話題は尽きることがなかった。話したいこともまだまだあったし彼女の表情がコロコロ変わるのをいつまでも眺めていたかった。だけど、その女の子というのが誰なのかは俺には分からなかった。その顔にも、声にも、もやがかかり、思い出せない。歯がゆい感覚だった。

俺の意識が浮上していくのが分かった。俺はその瞬間、これが現実でないことをひたすらに悔やんだ。すると、彼女は最後に言ったのだ。

『ひとりぼっちにして、ごめんよ』

 それはどういう意味なのか、俺にはわからなかった。ただ、俺はそれを言うときの彼女の悲しい顔に胸が締め付けられ、一ミリの意識もそこに置いていけないことを悔やんだ。

 俺は目を開けた。

 悪い夢では決してなかったのに、悪夢を見ていたように気分が悪かった。腹のあたりが冷えたせいか、妙に真ん中がじんじん傷んだ。

俺は無人の駅のホームに座っていた。

まわりはどっぷりと夜につかっている。汚れたコンクリート壁に取り付けられた、蜘蛛の巣だらけでみっともない電灯だけが弱弱しく俺の周りを照らしていた。目の前には、木々が折り重なった真っ黒の林が、風に体を揺すられているのが見えた。

「さむ」

 袖から露出した二の腕を擦って呟くと、どうにも不自然な気持ちだった。俺は、こんな声だっただろうか?

ベンチから腰を上げると、隣に黒のキャリーバッグを見つけた。俺の腰のあたりまである、大きいサイズのものだ。俺はごく自然に取っ手を掴み、ホーム端まで歩いた。そばに鉄筋の階段がある。降りた。

あの寂しい駅を出てから、舗装されていない道がどこまでも続いた。道脇の草も手入れがされているとは思えず、雑草が繁茂するままになっていた。ときおり、蛙の喉を擦るような鳴き声にびっくりしながら、俺は夜道をあるいた。俺の後ろを、あの黒いキャリーバッグがコロコロとついてきた。

程なく、真っ当な明かりが見え始める。人家の明かりだ。はじめはまばらだったものの、徐々に連なり、狭苦しくなっていく。すっかり、肩を寄せ合うように乱立した住宅群が、俺のすぐ隣に姿を見せ始めた。

やがて目の前に塗装の剥げた朱色のアーチが上方に姿を現した。白い文字が躍っているノを見ると、商店街のアーケードだと分かった。。すっかり寂れている。両脇には、シャッターの閉まった背の高い建物が奥の方まで並んでいた。俺は「松前呉服屋」のところで足を止めた。その店はシャッターは降りていなかったが、むき出しになったガラスのショーウインドウは真っ黒になっていて、俺の顔を映し出した。

ガラスに映った俺は、ひどく真っ青な顔をしていた。死んで腐りかけた魚のような目と、カサカサになった唇、ぼさぼさの髪の毛。

俺が目を細めて顔を近づけると、ガラスのそいつも同じ風にした。キスしそうになったので慌てて後ろに仰け反った。当然ながら、ガラスに結ばれた俺の像もあとずさった。

「なんなんだ?」

と違和感を感じた俺の声は、やはりさっきと同じで、どこか他人のもののようだった。

そして、俺の顔もそうだった。別の誰かのものであるかのように、俺の意識とはかけ離れていた。

俺はますます変だと思った。額に脂汗が浮かぶ気配がした。

そういえば、俺はさっきまで、何をしていたんだ。なんであんな駅なんかにいたんだ。

いや、そもそも、俺は一体、誰?

「なんだよ、これ」

まるでガラス細工に触れるように慎重に頬をなでる。指先が肌をすべる感覚もなんだかビニール越しみたいで現実味がない。他人の肌を撫でているみたいだった。

俺の感情は困惑からパニックに切り替わりかけていた。喉にピンポン球がつまったようにくるしくなる。手足にじわりと汗がにじんだ。

俺は自分に関する一切の情報を忘れていた。

俺の名前は?年はいくつ?これまでどんな風に生きていた?駅で目覚める前までの記憶などもさっぱりおもいだせないのだ。

商店街に一陣の風が吹き抜ける。シャッターをこつこつと叩きながら通り抜けていく。

この町のことだって知らない。ここに来るまでに見覚えのある景色なんて一つもなかった。俺はただあてもなく歩いていただけだ。

胸の奥を鷲のかぎ爪で引っかかれ続けているような、どうにもなりそうにない焦燥感がこみあげてくる。同時に俺は、恐ろしいことに気づく。今の俺は、場所からも、時間からも切り離されているのだ。

それは本当に「ひとりぼっち」じゃないか。

透明になる。透明になることは、怖いことだ。。

「うう、どうしよう」

 鏡の中の男が顔を歪めた。俺はそれを見て笑いたくなった。赤ん坊がするような、泣く寸前の顔だ。俺は何歳なんだろう。俺は泣くことが許される年齢なのだろうか。

 俺は誰もいない商店街で膝をついた。ガラスの自分と鼻を擦り合わせた。ガラスにうつった偽物が、今は唯一の仲間に思えた。

「どうしよう、すごくひとりだ」

 噛みしめるように言った。

「ひとりぼっちなんだ」 

これから、俺はずっと、ひとりなんだ。

「ナルシストのお兄さん」

 俺の背中に声をかけてくる者がいた。若い女の声だった。

「そんなに近づきすぎたら、顔、見えないでしょ。なにやっとんの?」

 急にしくしく泣いてるのが恥ずかしくなった。俺は振り向く前に涙を腕にこすりつけた。

「あ、泣いてた?」

 けれど、真っ赤になった目はごまかせなかったらしい。ばつが悪そうに彼女は目をしばたたかせた。俺は充血した目で彼女の姿をみつめた。まだほんの子供だった。年はたぶん十五あたり。両手にはみっちりと膨れ上がった買い物袋が下げられている。

「いや」

 俺は自尊心からか、見え透いた嘘を言った。彼女は、俺の隣に置かれたキャリーバッグに目を落とした。

「お兄さん、ひょっとして旅行者? この町の人じゃない?」

「わからない」

「……」

 彼女は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。

「お兄さん」

 彼女は右手に持った袋を俺の方に差し出した。

「ん」

 俺はその行動の意図が分からず、戸惑いながら彼女を見た。

「お兄さん、行くあてなさそうな顔してる。私の家、民宿なんだ。よければ、とまっていきなよ」

「どうすればいいと思う? ついて行っても良いのかな」

 俺はガラスにうつったもうひとりの俺に、相談事をするように顔を向けたが、へんじはない。そこには相変わらず世界の終わりのような不景気を湛えた、浮かない面があるだけだった。

「なにぶつぶつ言ってるのよ」

 硝子とおしゃべりする俺を訝しんだらしかった。

「お金、ないんだ」

 彼女に向き直った俺はぼそぼそと呟いた。

「いいよ。その代わり、店の手伝いしてよ。今、繁忙期でね、猫の手も借りたいんだ」

 彼女はくしゃっと笑った。

俺は硝子の上の俺を見つめた。この女は本当に信用できるだろうかと考えたけど、判断を下せそうになかった。じっくりと、その幼い顔を睨みつけるが、無害そうな瞳、唇が収まっているだけだ。

 俺は肩を落とす。

「とりあえず、少しの間厄介になることにする」

 だから今は、藁にも縋る思いで、彼女に尋ねた。

「うん。いいよ。だから、代わりに」

 俺は彼女の差し出した袋を受け取った。左手でキャリーバッグを持ち、右手で買い物袋を持って、今度は二人して静かな夜の街を歩きだした。

 彼女の名前は吉野一花といった。この町、楽園町の一角で民宿を営んでいるらしい。

「学生かと思った」

 俺は思ったことを言った。

「一応、去年まで高校生やったんだけど」

 彼女は難しそうな顔をして答えた。事情がありそうだった。俺の不思議そうな目を見たのか、彼女は、俯いた。

「お金、稼がないといけなくて、やめたんだ」

 一花ははっとしたように口に手を当てた。

「私、今、眉間に皺できてない?」

「ん?」

 俺は面食らって、彼女の額のあたりを見るふりをした。

「かも」

「いやあ、よくない。暗い話よくないからやめましょう」

 彼女はぶんぶんと首を振った。

「それに、さっき会った人に身の上話をするのもなんかなあって感じだから」

 俺は、まったくその通りだと思った。俺はその通りだと思って、俺の身の上話の方も、喉の奥に閉まっておくことにした。記憶を失っているなんて話しても、冗談かなにかだと思われるに決まってる。俺もいまだになにか冗談であってくれと願っているくらいなのだから。

 彼女が切り盛りしているという民宿は、商店街からそう離れていなかった。しばらくして、コンクリートの真っ白な外壁が見えてきた。吉野荘という看板も見えてくる。近くから見てみると、年季の入った豆腐のような脆そうな建物で、端からぼろぼろ塗料が剥がれてしまいそうだ。壁にぬりこめられたたくさんの窓からは、弱々しいあかり達が漏れ出ており、この寂しい町らしい切実な雰囲気を醸し出していた。

「ここよ」

 と彼女が指さした。

「お疲れ様です。お客さん」

 と俺の片腕に引っかかっていた買い物袋を引き取る。それから、隣の公園の方に首を動かして苦笑した。

「ちょっとうるさいね、ここ」

 金網で囲まれた簡素な公園の中には数人の人影が大きな声で歌っていた。目を凝らすと、ぼろ布をみにまとったひげもじゃの男たちだった。まるで踊っているかのようにくねくね体をよじらせている。歌はひどいものだったが、俺はその曲調をなんとなく知っていた。今はそんな気分ではないけれど、多分歌詞を口ずさむこともできそうだ。さっきから感づいてはいたけれど、俺は、知識に関する記憶は多少残っているようだ。だから、俺は、あの下品そうな男の誰よりも物を知っているに違いない。

「ホームレスだ」

 俺が言うと、彼女は苦笑いした。

「陽気なBGMだと思って、勘弁してね」

「俺は構わないけど」

 俺は、宿を見上げた。窓の近くで、人影がみじろぎするのが分かった。これから布団に入る宿泊客は、さぞ立腹しているだろうなと思った。

 一花が、両腕で建付けの悪そうな引き戸を開けるとぱっと温かい光が差し込んだ。「ただいま帰りました」と一花が景気よく呼びかけると、奥の方からどてどてと二つの小さな体がやってきた。一人は男で、中学生くらい。もう一人は小学生くらいの女の子。男の方は、僕の前で立ち止まると、怪訝そうな顔をした。

「だれだおまえ」

「一雄、そんな失礼な言葉遣いはいけませんよ」

 一花は、ヒールを脱ぎながらたしなめるように言った。

「今日は満室なんだ、悪いな」

 一雄は意地悪そうな顔で俺に言った。一花の方に目配せすると、彼女はいいわよ、と言った。

「お兄ちゃんの部屋、使わせてあげるつもりだったんだから」

 一雄はあんぐりと口を開けた。

「姉ちゃん、まじ?」

 ぽかんと開いた口を閉じて、俺をにらんだ。

「そいつ、きっとろくでもないやつだぜ。姉ちゃんとヤりたいんだ」

 俺は顔を真っ赤にした。もちろん、そんな気はさらさらなかった。隣の一花は、ふんと鼻を鳴らした。

「そんなこと、どこで覚えてくるのよ」

「公園でじじいが読んでたぞ」

「あっそ。でも、そんなことは初対面の大人の人に言うことじゃないわ。とっても失礼よ。謝りなさい」

「……ごめんなさ、するわけねえだろあっかんべええ」

 少年は頭を垂れる振りをして、上目遣いにあっかんべえをした。そして、そのまま廊下の奥に逃げるように消えた。

「気にしないで、難しい年ごろなのです」

 一花はふざけた調子で言った。

「はあ」

困惑していると、服の裾がぐいっと下に引っ張られた。下に目をやると、さっきの小さな女の子がいた。

「お兄ちゃん、猫さん?」

「ん?」

 彼女は首を振った。

「違った、ハムちゃんだった!」

「?」

「ハムちゃんはね、さみしいと死んじゃうの」

 何を言ってるかまるで分からない。もしかして俺が悪いのか?助けを求めるように一花を見たが、彼女も曖昧に笑っただけだった。

一階は、食堂と一花たちの生活スペースで、宿泊スペースは二階だった。玄関から入ってすぐの階段を上ると、細長く伸びる廊下にたどり着いた。廊下の左右には均等にドアが並んでいた。間隔からして、一部屋はそんなに広くないらしい。

「ユニークな兄弟だね」

歩きながら、隣を歩く一花に話しかけた。

「ありがと、ユニークが誉め言葉か知らんけど」

「誉めるつもりで言ったんだ」

「ならありがと」

 部屋の一番端の部屋で一花は立ち止まった。

「ここね、少し狭いかもしれないけど」

「『お兄さん』の部屋?」

「うーん、まあVIPルームみたいなものよ。普段はあんまり使わないんだけど、特別」

 彼女はドアノブを回した。

 奥に向かって伸びる縦長の部屋で、予想よりも広く感じた。床には毛羽だった畳が敷き詰められていて、マル机が一つ。部屋の隅に寄せるような形で布団と枕が積み上げられている。

「狭いよね?」

 彼女は不安そうに聞いてくる。

「や、そんなことはない、と思う」

「でも、掃除とかちゃんとしてるから、えーせーは心配しないでおけ」

 彼女は親指をぐいっと立てた。俺は苦笑して壁際によいせと腰掛けた。

「夕食の時間まで、少しあるから、待ってて。……ええと」

 それから、彼女は口ごもった。照れくさそうに頭をかいて、

「名前、まだ聞いてなかったから。教えて」

 俺もまた言葉に詰まった。自分の名前すら憶えていない。

記憶喪失のことはまだ彼女にはいっていなかった。

少しだけ躊躇したが、歩いている途中で、何気ない会話の中で、俺はかなり彼女のことを親密におもっていた。それに、親切にしてくれた彼女に黙っておく理由もなかった。

俺は自分が何者かまるで見当がつかない旨を一花に言った。

 さっき、無人の駅で目覚めたこと。パニックを起こして泣き出してしまったこと。そのへんの経緯を一通り説明した。聞き終えた彼女は、まず最初に目を細め、怪訝そうな顔をした。

「きおくそうしつ?」

「いや、信じられないのはわかる。俺も、まだぴんと来てないし」

「頭とか打った?」

「いや、そうかもしれないけど、覚えてない」

「ふうん」

 彼女は神妙な顔で頷いた。そして慌てたように早口で付け加えた。

「別に疑ってないから。ちょっとファンタジーだとはおもったけど。疑ってるという疑いは捨ててね」

「まどろっこしいな」

「じゃ、名前もわかんないんだ。免許証とかもないの? 保険証とか?」

 ここまでの道中で、ズボンやジャケットのぽっけに手を突っ込んでみたが、それらしいものはなかった。

「そのキャリーバッグは?」

 一花は顎で部屋奥に置いた黒い旅行鞄を指した。

「ああ、そうか」

 失念していた。ここまで引き摺ってきたキャリーバッグはまだ一度も開いたことがなかった。彼女に感謝を言いながら、ファスナを引っ張った。

途中まで開いたところで、俺は思わず手を離した。

わずかに開いた隙間に髪の毛のようなものが見えたのだ。おまけにうなじのようなものも見えた。

俺はつばをのんだ。

「どう、あった?」

 後ろに一花が立っていた。俺はすぐさまファスナを閉じると、振り返った。背中や額がぼーっと熱くなり、汗がしみてくるのが分かった。

「なかった」

「そっか。うーん」

 一花はまじまじと俺の方を見つめた。見られただろうか、今の。

「多分、年上だよね」

「ん?」

「二十歳は超えてそうだよね」

「俺?」

「うん」

「それはたぶん。吉野さんよりは年上だと思う。高校生だよね?」

「年齢的には高2」

 彼女はピースをつけてニッと笑った。

「じゃあ、あなたはわたしより年上さんなのね。じゃあ、尊敬を込めてお兄さんって呼ぶことにする。名もなきお兄さん」

「その呼び名、胡散臭いぞ」

 彼女はふふっと笑うと、壁に掛けられた時計を見た。慌てたように目を丸くして、

「うわ、こんなことをしている場合ではなかった。私、ご飯をつくらなければ」

「手伝う?」

「いや、いいよ。記憶喪失の人に仕事させられないよ。頭打ってるかも知れないし。ゆっくり休んでなよ」

「そうか?」

「明日、病院に行くといいよ。腕のいい医者、知ってるから。一緒についてってあげるから」

 俺は一花の顔を見た。彼女は不思議そうに首を傾げた。

「吉野さん」

「一花でいいよ」

「一花さんはどうして俺に親切してくれるの? 俺、とんでもない蛮族かもしれないんだぜ。記憶喪失ってのも嘘かもしれないよ」

「たしかにお兄さんは素性が知れないけど、私は悪い人だと思わないな」

 彼女は平然と言った。

「それに、道端であんな顔してるんだもの」

「……」

「とにかく」

 彼女は入り口のドアノブを握った。

「お兄さんがすることと言えば、私にありがとうと言うのと、夕食のメニューでも考えてのほほんとしてることだけだよ。いろいろ不安かもだけど、なんとかなるんだから。わかった?」

 俺は頷いた。

「……わかった。ありがとう」

 扉がゆっくりと閉められる。

 窓から聞こえる陽気な歌声も、建物の中では意外にあまりに気にならなかった。隣の部屋からも、物音ひとつ聞こえてこない。静かすぎるのは嫌だったので部屋の隅に置かれた一世代前の箱型テレビのスイッチを入れた。ニュースキャスターが神妙な顔で語り始めた。

『夕食のメニューでも考えて』と一花はそう言ったけれど、俺にはほかに考えないといけないことがあった。

 ためらったのち、俺はキャリーバッグの前にすわった。ファスナーを全開にして大きく開くと、俺は不安が的中したことを知った。

まず目に飛び込んできたのは、真っ青な髪の毛。そして、光るような手足。布切れみたいな衣服。

「なんでこんなものを持ってるんだよ、俺は」

 そこに収まっていたのは、穏やかな表情で目をとじた、少女の体だった。

 彼女の胸に恐る恐る耳を近づける。だが、心音はまったく聞こえなかった。手や首に触れてみるが、脈動はなく、ひんやりと冷たかった。

 その少女は死んでいたのだ。

 俺は天井を仰いだ。

 記憶を失う前の俺は、なんだって子どもの死体なんかもって町をうろついていたんだ?

『本日、楽園町の西区のゴミステーションで、児童の遺体が発見されました』

 テレビが不穏なニュースを口にする。

『身元は町内の小学校に通う本田正人くん9才とみられ、手口の類似から連日立て続けに起きている連続児童殺人犯による犯行とみられています』

 ニュースキャスターの無機質な声に俺の心臓はわしづかみにされる。ぱっとテレビの方を振り向くと、画面にはさきほど通った住宅地や商店街がうつされている。

『警察は、これ以上の被害が拡大しないように深夜の巡回を徹底すると声明しており、また市内の小中学校では深夜に児童を外出させないようにと保護者に注意喚起を施しているとのことです』

連続殺人?

 目の前に広がる少女の死体とテレビの画面を見比べた。眩暈に襲われる。淡白な顔でしゃべり続けるキャスターが鬱陶しくなり、乱暴にスイッチを切った。

 静けさを取り戻した部屋に、時計の秒針が振れる音だけが繰り返し響いていた。そのゆったりとした周期に比べて、俺の心臓はよりせわしなく拍動を繰り返した。

「俺、この子、殺したんじゃないだろうな? それにれ、連続殺人?」

 かすかな声が口元からこぼれる。俺の声のはずなのに他人のもののようだった。

この町で起きている殺人事件と、俺にかかわりがあるのかは知らない。だが、記憶を失う前の俺がこの少女の死体を引きずって、あの駅にきたのは間違いないんだ。

 何のために? そんなことを考える余裕は今の俺にはなかった。

ただ、俺の正体が殺人犯で、やもすれば町を騒がす児童殺人の犯人と同一かもしれないという不安が、心の中に広がった。

そうなると、俺は一体、どうすれば。

俺は部屋の隅で厚く積みあがった布団に倒れ込んで、天井を仰いだ。手入れはしてあるのか埃っぽくはなかったけれど、シーツからかすかに黴のにおいがした。

『私は悪い人だと思わないな』

 つい今しがた、あの子はそう言ってくれた。俺の、俺自身に対する不信感を、あのあっけらかんとした口調は簡単に取り払った。そして、俺はそれを信じたかった。

 だけど、記憶を失う前の自分が、人を、それも子供を殺すような男だったとしたら。俺は再び胸のざわめきに襲われる。苦しい。

 俺はそういう人間なのか?

 商店街のショーウインドウで見た自分の顔を思い出した。目が血走って、頬がこけて、髪を乱したやせぎすの男。あれが醜い殺人犯の顔でも、おかしくない。無人の廃駅で眠りこけていたような奴だ。どうして俺は、自分が真っ当な素性を持っていると、そう期待できるんだろう。

 不意に、隣の部屋の戸をノックする音が聞こえた。ガチャ、と音がして、一花の歌うような声が聞こえた。「ご夕食の支度が出来ました」

 俺は小動物みたいに飛び上がって布団から身を起こした。

まずい。一花がじきにこの部屋に入ってくる。

俺は窓際で広げっぱなしになっていたキャリーバッグに慌てて駆け寄った。バッグの蓋をしめて少女の体を隠し、ファスナーを一気に閉め切った。髪の毛一本もはみ出ていないことを確認して、元通りの位置に戻した。それと同時に、後ろのドアがきしみながら開かれた。

振り向くと、そこにいたのは一花ではなく、さきほど憎まれ口をたたいていた少年だった。中学生なみの身軽そうな体で仁王立ちして俺を睨んでいる。

「お食事の準備ができたそうだ。来い」

「ああ、分かったよ」

 俺は少し声を落として頷き、二人して部屋をでた。

「ここ、兄貴の部屋だからな、汚すんじゃないぞ」

 部屋を出たところで一雄は切れ長の目でにらんだ。

「お兄さんは、今どこに?」

「もういないよ」

 一歩歩くたびに廊下はみしみしと音を立てる。隣を歩く小さな少年は顔色一つ変えずに言った。

「だいぶ前に死んだ」

「それは、悪かった。つらいな。家族をなくすのは」

 俺は何故かそういうことを言った。

「家族じゃなかったけど」

 少年、一雄はぶっきらぼうに答えた。

「あんたみたいな捨て猫だよ。姉ちゃんが拾ってきた」

「君のお姉さんは、俺みたいのをよく拾ってくるのかい」

「たまにね。多いんだって、楽園町には腹のすかした迷い猫が」

「親切な人だな」

 一雄は不愉快そうな顔をした。

「あんたも猫だろ。兄貴はあんたよりましだった」

 ちょうど食堂の前だった。どうぞ、とドアを開けて、彼はどこかに消えていった。彼の威張ったような態度は子供らしいものだった。だけど、その言葉の端々からは様々なことを諦めた老人のような匂いがした。

 食堂にはお味噌汁の匂いが立ち込めていた。

 板張りの床に長机が三つ、平行に並べられており、その上ではお盆に載った料理が湯気をあげている。その両側には簡素な丸椅子が置かれており、いくつかの客の姿も見える。俺がその場で立ちすくんでいると、いつの間にか隣に来ていたエプロン姿の一花が、

「お席まで案内しろっていったんだけどね」

 と肩をすくめながら俺を一番端の席に案内する。対面には白髪交じりの男がモクモクと飯を食っていた。

「じゃあ、ごゆっくり召し上がれ」

「ありがとう」

 一花はふふんと微笑むと、また廊下の方、多分厨房へ消えていった。席について、おもむろに箸をとる。湯気の立った白飯を口に入れると存外においしくて、自分が腹が減っていたことを思い出した。さっきまでの混乱のことをわきに置いて、俺は目の前の飯にありついた。鯖の味噌煮、大根の漬物、地味な色の煮物が途方もないごちそうに思えた。

せかせかとみそ汁をすすっていると、舌先をやけどしてしまった。顔をしかめていると向かい側の男が眼鏡を曇らせながら、

「君、猫舌かね?」

 と聞いてきた。声は思いの外ハスキーだ。

「は?」

急に話しかけられたことに戸惑いながら聞き返すと、彼はこちらに顔を近づけて

「猫舌だろ、君」

「はあ、多分」

 自分の名前も覚えていないのに、そんな細かなことを覚えているわけない。いきなり俺に絡んできた男はしゃべり続けた。

「猫舌はな、舌の扱いが下手なやつのことを言うんだ。そういう性質をもった舌のことではない。直すことができる」

「はあ」

 この旅館にはへんてこな人が多いな、と思いながら箸をおく。男は箸の先を自分に向けて、

「私は生まれつき体が弱くてな。持病も八つあるしアレルギーも八十八つある」

「はあ、そんなに」

「この旅館の飯、とくにみそ汁もはじめは私の体に合わんかった。なので、何度も口出ししていると、私がみそ汁を作った方が早いということに気づいた。どうだ、ヘルシーな味わいだったろう」

 俺は手にしていたみそ汁の椀を見つめた。

「あなたが作ってるんですか? 」

「そうだ」

「従業員でもないのに?」

「ああ、ただし家賃は半額だ」

「家賃って、ここって、旅館ですよね」

「住処同然とする者もいる。低賃金の工場労働者がここらでは多いものでね。ベトナム人も多い」

「工場で働いてるんです?」

「いや、私は小説を書いている。収入が細々としていることには変わりないがね。林一泉という名前に聞き覚えはないかね」

 俺は首を振った。

「ふん。まあ、若者向きではないな。まあ、とにかく舌の話だが」

 男はみそ汁をずずずっとすすった。

「多くの病気は簡単には直せん。簡単に直せても完全には治せん。だが、猫舌は努力次第で直すことができるということだ。頑張りで治せる癖や病は、若いうちに直すものだ」

「はあ」

 俺は鮭の身をほぐしながら曖昧な返事をした。

「記憶喪失みたいのも、そういうので直りますかね」

 彼はまじまじと俺の顔を見つめた。

「なんだって」

「いや、なんでもないです」

 俺は首を振った。

「もっとはきはき喋れ、若いもんが」

 そう毒づきながら、男はみそ汁をすすって顔をしかめた。

「あっち」

「猫舌?」

「ああ、私もだ。なかなか直らないのだ」

「でも、さっき」

「何個も病気を持つとな、いろいろとどうでもよくなるのだよ」

 適当な男だと思った。

 彼の様子を見ていると、小食らしく、食べるペースがやけに遅かった。遅く食べ始めたのに、結局俺の方が早く食べ終わってしまった。手を合わせると、

「それでは、俺はこれで。林さん」

「そいつはペンネームだ。本名は佐藤だ」

「佐藤さん」

 うむ、と彼はお椀に顔をうずめて答えた。

 部屋に戻るとき、戸の前でしゃがみこんでいる小さな影があった。俺はかろうじて覚えていた彼女の名前を呼びかけた。

「双葉、ちゃん?」

「うん。双葉。ハムちゃんは、何をしてるの?」

「今から、ここで寝るんだよ」

 俺はかがんで彼女の大きな目を見た。彼女は両の人差し指をこめかみに当てて眉をハの字にした。

「ここ、猫さんの部屋」

「ネコさん?」

「ネコさんは、お兄ちゃん」

 彼女は一息つくと、首をかしげた。

「一花お姉ちゃん、この部屋入ると、怒るよ?」

「でも、俺、ここに荷物入れてるし」

「だめったらだめ。ハムちゃん、悪いハムちゃんなの?」

 彼女は切れ長の目を細めた。俺は、ゴクリとつばを飲み込んだ。悪い、という言葉に敏感になっていた。今の俺の頭にはさっき見た少女の死体の画が浮かんでいる。

「だめったらだめ!」

 すごい剣幕だった。俺が一歩引いて、壁に追い詰められていると、

「お兄さん、へたれだねえ。幼女に問い詰められて竦んじゃってるじゃない」

 真横を見ると、一花がいたずらめいた笑みを浮かべた。双葉の顔を上からのぞき込むと

「いい? 今日からこの人が「お兄さん」。猫さんよ」

「……?」

 その言い方は語弊がある、と思って口をはさみかけるが、しー、と彼女は人差し指を口に当てた。

「ハムちゃんはネコさん? 」

 双葉は目を細めながら訊いてくる。猜疑心を向けられていることは間違いないけれど、何に対するものかがもうよくわからなくなってきた。

「ああ」

 と俺は混乱しながらうなずいた。

「というわけで、どうぞ、お兄さん?」

 一花がドアを引き開けた。

 俺の部屋にふわりと布団を敷いてから、双葉と一花は階下に下りて言った。風呂もあると言っていたが、あいにくそんな気分にもなれなかった。

 布団のうえで横になり、暗くなった天井を見ながら俺は自分の正体について考える。

キャリーバッグにいた娘。あの子は、俺が殺したのだろうか。そんな馬鹿な、と何の根拠もなく否定したくなった。例えば、誰かが俺の記憶を奪い、あの少女を俺に押し付けたとか。そんなストーリーはあり得ないだろうか。そういう楽観的なアイデアが浮かんだ。それこそ、そんな馬鹿な、だった。意図的に記憶を奪うことのできる作法が、あるわけない。

自分自身を信じたいという気持ちと、それをうわまわる自分への疑い。今の俺の心はその二つがまぜこぜになっていた。ぼーっとしてると、一花の笑った顔と、少女の死体が交互に映し出される。それは嫌な時間なのに、やめられない。

俺は深い息をついた。手足が汗でねばついてきた。とても寝苦しい夜だ。

「俺は一体、誰なんだ」

 まだ自分のモノだと思えない、かすれた声が部屋の中で静かに広がった。

 俺はそれから目を閉じて、泥のように布団に沈んだ。

 意識を手放す直前、どこかで、喇叭の軽快な音がコンサートのように盛大に、それでいて誰かのひそひそ声のように控えめに、鳴り響いた。ような気がした。


「おっはよう。朝ごはんですー」

 扉が勢いよく開いて、明朗快活なアルトボイスが、俺の目を醒ました。むくりとおきあがり、目をこすると、エプロンの一花が腕を組んで立っていた。

「モーニングコールもあるの?」

 夜の外気で乾燥しきった俺の喉からは女のようなか細い声が出た。

「いーや、お兄さんだけいつまでもグースか寝てるから。皆仕事で、朝早いのよ」

「すみません、仕事してなくて」

「いや、嫌味じゃないんだけど」

 俺はゆっくりと身を起こした。布団をたたもうとすると、一花も手伝ってくれる。

「昨日は、よく眠れた?」

「疲れてたのかも。ぐっすりだった」

「よかった」

 彼女はにっこり笑った。

食堂に行くと、誰もおらず静かだった。

 真ん中の長机に二人分の食事が乗っかっていた。

「すわりなよ。一緒に食べよう」

「まだ食べてなかったんだ」

 俺は彼女を上目遣いに見ながら椅子に座る。

「うん、忙しくて、いつも朝はこんな時間」

 彼女は俺のお椀に温かいみそ汁をついでくれる。

「一人で切り盛りしてるのか?」

「うーん、基本的には。まあ、簡素な格安民宿だから。サービスも最小限だし。泊まりに来る人は、ほとんど海外からのバックパッカーだし」

「それでも、大変じゃない?」

「でもね、学校のない日や放課後は、妹と弟が手伝ってくれる。あと、佐藤さん」

「小説家の?」

 自分の分のみそ汁をもってくると彼女は手を合わせた。

「いただきます。……そうだっけ? 」

「て言ってた。林一泉だって」

「私、知らんのよね。小説とか」

「俺も聞いたことない」

「そりゃ、お兄さん、記憶ないんだもの」

 彼女はくしゃっと笑った。

「ちなみに佐藤さんも君と同じだよ」

「同じ? 記憶喪失?」

「なわけ。君と同じで、道端で途方に暮れていたから拾ったの」

 彼女はあちちと言いながらみそ汁を飲み込んだ。

「……君はよく人を拾うんだな」

「まあ、可哀そうだから。いくら楽園町っていってもこのあたりはドヤ街でね、生活するには向かないのよ。行き倒れだって、ホームレスだって珍しくない」

「でも、それを全員拾うわけじゃないんだろ」

「もちろん。私だって聖母じゃないもの。助けてもちゃんとその分働いてもらうし」

「俺もあとで何か手伝うよ」

「ありがと。でも君はその前に」

 一花は、食うペースがだいぶ早い。せわしい食事が身についているらしかった。俺は、白飯に手をつけてないのに対して、彼女は小皿に卵焼きを一つ残すのみになっている。

「これ食べたら、病院いこね」

「病院」

 一花は人差し指を自分の頭に向けた。

「ここ、見てもらわないと」

 

 正直な話をすると、病院に行くのはかなり気が進まなかった。記憶喪失が治ったところで、俺に待ち受けているものを思うと、不安で仕方なかった。俺の正体がもし、連続殺人犯とかだったら。俺は思わず想像してしまった。俺が犯してきた殺人や悪行の記憶が、今の俺に注ぎ込まれることを。

「どうしたの?」

 俺がぞっとした顔をしていたためか、一花が不安そうにこちらを覗き込んでくる。

「いやあ、なんでもないよ」

 俺の横を、自転車かごに野菜をつめた主婦が通り過ぎる。初夏の日差しは控えめに路面を照らしていた。ただ、ジャケットを羽織っていたので、じきに肌がべたつきだした。嫌な気持ちだった。

 彼女は、切れ長の目をぐいっと近づけてくる。

「ほんと? お兄さん、なんか昨日と同じ目、してたよ」

「同じ目?」

「商店街のシャッターの前でしゃがみこんでた時と同じ目。世界が終わる直前みたいな、そんな感じの目えしてたよ。……平気?なんか、変な汗出てない?」

 俺は思わず自分のこめかみを触った。冷たい水滴が浮かび上がっているのを、慌てて拭った。

「いや、平気。大丈夫だから」

「そう? ならいいわ」

 彼女は口を平たいVの字に曲げてにっこりした。

「記憶、もとに戻るといいね」

「そうだね」

 俺はそれとはまったく逆のことを願いながら、彼女に微笑んだ。

 彼女と兄妹がよくお世話になっているという木島医院という病院を訪ねた。小規模の開業病院のようだったが、客はかなり多く、待ち時間もかなりかかった。白髪混じりの院長がじきじきに俺の頭を診てくれるらしかった。有り難いことだった。付き添いの一花と親しげに言葉を交わしてから、簡単な問診をし、MRIなど精密検査をすることになった。

 小一時間の検査を終えて、院長は解離性障害やら、一過性健忘症やら小難しい単語を振り回しながら、ちんぷんかんぷんな説明を繰り広げた。だけど、最終的には白ひげの根元をひっかきながら、非常にシンプルに呟いた。

 様子を見ましょう。

 俺は、一花と院長に気づかれないように小さく安堵の息を漏らした。

「なんか……残念だったね」

 帰り道、昨日の商店街を二人で歩いていると、一花が呟いた。

「いや、大丈夫。期待してなかったし」

「ごめん」

「君が謝ることじゃない」

「そう?」

「そうだよ」

「帰るときちょっと話したけど……院長先生はストレスが原因かもって言ってた。思い出したくない記憶を無意識に消してしまったんじゃないかって」

 それが本当の話か、俺に確かめる術はなかった。だって、消えてしまったのだから。何もかもが。

 だけど、仮にもしそれが本当の話であるのなら、俺はあの青い髪の子を殺してしまって、その記憶も忘れたいと願ったと言うことだろうか。

「だったら、記憶がないままの方が、幸せかも知れない」

「ん? なんか言った?」

 少し先を歩いていた一花が振り返った。

「いや……」

 俺は首を振った。

「やや、一花ちゃん」

 そのとき、前方から自転車に乗って走ってくる人影があった。警官のようだった。水色の制服に脂汗をしみこませた、恰幅の良い中年の警官が、俺たちの前で立ち止まった。

「あ、佐伯さん。こんにちは」

「いやあ、こんにちは。ちょっとききたいことがあってね……」

 彼は言葉を句切った。彼女の隣にいる俺に気づいたようで、訝しげな目をする。

「一花ちゃんの、コレですかね」

 小指。慌てたように一花は首を振った。

「いえいえ。うちのお客様です」

「ああ、そうなんだ。観光ですかね。まあ、ここらには何もありませんが、ゆっくりしていかれてください」

 恭しくお辞儀をする。かなり好感の持てそうな人物だった。

「で聞きたいことってなに?」

「いやね、朝から近隣にお住まいの方々に聞いて回っているんだけど」

 彼は声を潜めた。

「昨夜ラッパの音をね、聞かなかったかい?」

「ラッパ?」

 彼女は首をかしげた。

「ぜんぜん。私、すごく寝付き良いから」

「深夜12時くらいらしいんだ」

「うん?じゃあ起きてたな。でも、聞いてない」

「君はどうかな」

 俺も、と答えようとするが、ふと思い出した。昨晩、なにやらラッパの音声らしきものを耳にしたのだ。

「そういえば、聞きました」

 警官の片眉がぴくりと上下した。

「それほんとなの? 夜中にラッパなんて吹いてる人がいるなんて、迷惑ね」

 一花は憤然として言った。

「それはそうなんだけどね」

 警官は、複雑そうな顔をした。そして先ほどよりさらに声を潜めて

「実は、このラッパの音、大人には聞こえないみたいなんだ」

「なにそれ。怪談? 」

「いや、確かに怪談じみているが」

「それにおかしいじゃない、現に大人でも聞いてる人がいるのに」

 一花は、俺の方を指さして言った。

「そうなんだよ、こんなこと初めてだ」

 警官は腕を組んでうなった。

「今までの聞き込みでは、子供の証言しか得られなかったが……うーむ」

「あのねえ」

 一花は少し呆れたように呟いた。

「佐伯さん、そんな怪談じみた話題の調査なんて、その筋の雑誌ライターに任せておけば良いじゃない。警官には警官の本分ってのがあるでしょ。そんなことより、巷で話題の連続殺人犯を早く見つけてください」

「いや、だから」

 警官は何かを弁解しようとして口を開けたが、そのままパクパク動かしたっきりで閉じてしまった。

「秘匿義務を破ってしまうところだった」

 ぽつりと呟くと彼はいきなり敬礼した。

「佐伯八の助、職務に戻らせていただきます。ご協力ありがとうございました」

「えっと、はい」

 一花は困惑したように頷いた。

「なんか、愛想の良さそうな人だったね」

「ここらへんだと人気な部類よ。話しやすいし」

 一花は、ぽつりと呟いた。

「でも警官ってさ、私あんまり好きじゃない」

「そうなの?」

 俺は隣で肩と声のトーンを落とした一花を見た。

「なんか、殺人とか、自殺とか、そういうの、連想しちゃうから」

 何やら様子がおかしいと思った。彼女の顔が、青白くなっていくからだ。

「うん?」

「昨晩のニュースは見た? 」

「ニュースって」

「連続児童殺人の被害者のニュース。誰だったか、本田正人くんだったっけ」

「ああ、見た。ひどかった」

 俺は、その言葉を口にした。自分が行ったことかもしれないのに。

「そこで見つけたの」

 もう宿の近くまで来ていた。彼女は、立ち止まって、隣を指さした。簡素な金網に囲まれたゴミ捨て場だった。残されたゴミ袋は、無残に引きちぎられ、中身をそこらへんにばらまいている。

「見つけたって?」

 言いながら、彼女を振り向くと俺はぎょっとした。一花はうつろな目をしていた。たった少しの間一緒に過ごしただけだったが、彼女がそんな表情をするなんて、俺には信じられなかった。

彼女はふっと笑った。最初にあったときの明朗な笑みではなかった。秋のススキのような幽かな笑みだった。

「正人くんの死体」

「……君が」

「私なの。最初に見つけた人」

「……」

「くさってた」

 彼女はそのきれいな顔で恐ろしい発音を口にした。

「やめよう」

 俺は彼女の肩に手を伸ばした。遙か遠くにあるように思えた。

「蠅がいっぱい飛んでて……それで」

 華奢な肩を掴んで、俺は黙って首を振った。

「やめよう。思い出して良いことなんてあるものか」

「登校途中によく会う子だった。毎日、手を振ってくれた子だったの」

 俺の心音は太鼓のようにうるさくなっていった。

「昨日は、そんなこと一言だって言わなかったじゃないか」

彼女の声は震えていた。一花のはきはきとしていたはずの両手は、今は捕まる場所を探すように震えながら、空中をさまよっていた。

「頑張って、考えないようにしてたの」

「じゃあ、考えないようにするんだ」

「考えてしまうの、今は」

 一花は俺の手を掴んだ。俺の空っぽの脳は混乱しきっていた。彼女の手はぬるりと汗に濡れ、不安に震えていた。

「私もお兄さんみたいに、記憶を消せたら、楽になるかな」

「……」

「私今、ひどいこと言ってるかな」

「いや、俺は気にしない」

「……どうしてあんなことできるんだろうね」

「そうだね、理解できないよ」

 俺はロボットみたいだな、と思った。それが嫌で仕方なかったけれど。

 一花がしゃがみこんだので、俺もそれにならった。ゴミ捨て場でたむろする不良学生には、多分見えないと思う。見えないことを願った。

「私の人生は、死に溢れてるの」

 一花は呟いた。俺は黙って聞いていた。

「お父さんもお母さんも、三年前に交通事故で死んだ。『お兄さん』も、いなくなった」

 自嘲するように笑った。

「そういう定めなんだ、私は」

 彼女は息をついた。一花がそんな悩ましげなため息をつくとは信じがたかった。

「私の周りにいる人は、みんな不幸になっていくんだよ」

 透明な瞳が、潤みだした。

「私、この辺りにいつ人たちが好きなの。この濁った楽園町の中で唯一心を預けていられる。民宿の人たちも、家族みたいなモノなの。だから」

 彼女は押し殺したように、呟いた。

「もう誰も、奪わないでほしい。殺さないでほしい」

 それは、俺への懇願のようにも聞こえた。彼女はキャリーバッグの中身を見たのではないか。俺が殺人鬼である可能性に気づいているんじゃないのか。不安が押し寄せてくる。

彼女の手を掴む手にじわっと脂が回った。

しかし、彼女は俺の手を握ったまま、別の方角を見ているのが分かった。その視線の先には何もなかった。少し煙って、色の悪い雲が浮かんだ空があるだけだった。彼女は虚空に何をもとめているんだろう。彼女の人生をもてあそんでいる神様というべきものだろうか。それとも、もっと現実的な、それこそこの町を騒がせている連続児童殺人犯なのか。

 分かったのは、俺は早急にこの手を放さないといけないということだ。

 彼女のことはよく分からない。どれくらいつらい思いをして生きてきたのか。二人の兄妹のために、高校をやめて、働いて、がんばっていて。だけど、彼女の周りには、不幸なことが消えてなくならない。俺を拾ったのが、その不幸の一つなんだと考え始めたら、いても立ってもいられなかった。なにせ、俺はきっと人殺しだ。少なくとも一人の女の子を殺し、最悪の場合、この町での最近の事件はすべて俺の手によるモノかも知れないのだ。彼女は背中を心細そうに丸めて、浅い息をしていた。

俺は手をゆっくりと引き抜いた。

「ごめん」

 彼女は微笑んだ。昨日は俺を励まし救ってくれた笑顔が、今はひたすら悲劇じみた笑みに見えた。

「皺ができてる」

 俺は言った。

「ひ、額に」

 そう言うと、彼女は目を大きく開けてふふっと泣いたように笑った。


 二人で民宿に入ると、一花はスイッチが切り替わったように「ただいま戻りました」と明るい声をあげた。入り口の座椅子で新聞を読んでいた林さん、もとい佐藤さんは顔をあげて「おかえり」と言った。彼女は彼と元気に二言三言会話を交わして、俺を厨房に引っ張り込んだ。朝の洗い物を二人で一緒にして、昼食がまだだったので、昨日の残りの煮物を二人でつまんで、代わりにした。それから、彼女が風呂の掃除をするというから、俺も手伝った。そうしているうちに、憎まれ口の弟一雄、と言動が不思議な妹双葉がそろって学校から帰ってくる。廊下の拭き掃除をしていた俺は、一雄に見下ろされる。

「姉ちゃんの犬になったのか」

「犬になった、かも」

「ヤったのか」

「ヤってはない」

 俺は首を振った。隣の双葉も、靴を脱ぎながら

「おいたはだめよ、ハムちゃん」

 と楽しそうに呟いた。朱色のランドセルがガラス戸から漏れる淡い光に照らされて艶々と光る。

 どこまで分かっているんだか。

「なあ、一雄くん」

「なんだよ」

「……お姉さんは好きかい」

「なんだその質問」

 彼は眉をひそめた。

「好きに決まってる」

「それはよかった」

「私も好き好きー」

 双葉もその隣ではしゃいでいる。

「ハムちゃんも、お姉ちゃん好きなの?」

「……」

 思わずぞうきんの手を止めると、頭をはたかれる。言わずもがな一雄だった。彼は姉への心配と、俺への敵意をまぜこぜにした、おかしな目の色で俺をじっとにらんでいた。

「いや、そういう気持ちはないよ」

「ふん」

 彼はまだ不満げな表情だった。

 二人が自分の部屋に入って行くと、俺は掃除を再開した。一通り終えると、厨房に戻った。一花が夕食の支度をしているところだった。

「廊下の掃除、終わったよ」

「ありがと。少し、休んで」

「いや、何か手伝うよ」

 一花は、ピーマンをまな板に置いてこちらを向いた。大きな瞳が俺を見つめた。

「結構助けてくれるのね」

「や、まあ」

 俺は曖昧な返事をして彼女の横に立った。まな板の横に置かれた網かごに目一杯盛られた野菜類が新鮮な光に輝いている。

「すごい量だ。いつもこんな量を一人で?」

「まあね」

 彼女はこともなげに答えた。

「従業員を雇ったら良いのに」

「そんなお金ないよ」

 彼女は緑色の紡錘を真っ二つに割って種をかきだした。俺も、それのやり方は覚えていた気がした。

「一雄と双葉を大学に行かせるんだ」

 彼女は言い聞かせるように呟いた。

「偉いな」

 俺はぽつりと呟いた。彼女は自信なさげに伏し目がちになった。その表情の変化に、先ほど病院から帰る際に見た彼女の危うさを思い出した。

「私、この町がそんなに嫌いじゃないの」

 唐突な話題の変化に戸惑う。

「うん」

「でも、それっておかしいのよ。この町ってどこか薄汚くてじめじめしてる。治安も悪い。私の嫌いな死にも溢れてる。本当はすごく嫌な町なの」

「でも、好きなんだろう」

「うん。両親が育って、『お兄さん』がいた町だから、好きなの」

 このときの彼女が『お兄さん』というのは俺を呼ぶ言い方とはちょっと違っていた。遠い過去を懐かしむような、色気に満ちた表情をした。

俺はなんだか、複雑な気がした。

「でも、一雄と双葉はね、そんな気持ちなくって、こんな町早くでたいって思ってる。私も出るべきって、思うの」

「だから、君が働くのか」

「長女だから、当たり前のことなの」

 彼女の小さい肩には、年相応とはいえないあまりにも重いものが乗っていた。

「私は、みんなを幸せにしたい。家族や、この民宿に泊まってくださっているお客さんを」

 一花はそうやって生きることをだいぶ前に決めたのだろう。

『私の周りにいる人は、みんな不幸になっていくんだよ」

両親や身近な人の死のもたらす不安な影に晒されながらも、自らを取り巻く不幸の鎖を取り除いていくことを、決めたのだ。それはやもすれば虚勢かもしれなかった。けれど、その虚勢に幾度とヒビが入ろうが、彼女は強がってみせるのだろうと思った。

 偉い女だ、と俺は心の中で思った。

 だけど、それは同時に自分だけは変わらず不幸で居続けるという選択にもなる。俺は複雑な気持ちを吐き出すように、割れたピーマンの中を引っかき回した。

 しばらくして、林一泉が厨房に顔を覗かせた。そういえば、この旅館の味噌汁を作っているのは彼だった。気難しそうな彼がエプロン姿で鍋を前にしている絵は甚だ奇妙に思えた。

「お兄さん」

 一花は、俺に呼びかけた。

「少し、休んできて。さすがに働き過ぎだわ」

「ええ、でも」

「あとはたいした仕事はないから。ね」

 一花は否応なしに俺を部屋に連れて行った。逃がすまいとしてか、俺の片腕をしっかり握ったまま。

「お兄さん、ひょろひょろだから、心配なのよ」

「それは、心外だ」

部屋に入ると、俺は畳の上に座らされた。一花は俺の顔を上から眺めるようにじっくり見た。

「顔色も悪いし」

「これは昨日からずっとそうなんだ。やもすれば生まれてからずっとそうなんだ」

「そんなのわかんないでしょ、記憶無いんだから」

 彼女は、ふふっと笑った。

 日が落ちかけている。汚れた窓ガラスからオレンジ色の放射が入ってくる。俺と、一花の二人を幻想的に照らした。いつの間にか一花は座り込んで、俺のそばに寄ってきていた。

 彼女の冷たい手が頬に触れる。なめらかな感触がくすぐったくなって俺は目を細めた。

「『お兄さん』」

「『お兄さん』のことが、好きだったの?」

 俺は聞いた。

 彼女は目を閉じて頷いた。

「両親が死んでから、町で会ったの。ちょうど昨日のあなたみたいに、捨て猫みたいにひとりぼっちで寂しそうにしてた」

長いまつげが物憂げに揺れた。

「でも、寂しかったのは私。心細かったのは私だった。私はどんどん『お兄さん』を……好きになった。でもね、『お兄さん』は、もういないの。死んじゃったんだ」

 沈む途中の夕日の光が、楽園町の家々の隙間を縫ってこの部屋に届く。突き刺すように、貫くように彼女の身体を赤赤と照らしつけた。

「どうして」

 俺は聞くべきじゃなかったと後悔する。彼女は死を一番に恐れていた。案の定、彼女は顔をゆがめた。

「いや、言わなくてもいい」

 俺が慌てて言うと、彼女は首を振った。

「自殺したの。この部屋で」

「……」

 俺は頭上を見上げた。天井の梁に縄の跡があるのが見えた。今の今まで全く気づかなかった。

「だから、お客さんはここには入れないの。人が死んだ部屋なんて薄気味悪いだろうし、なにより、私が嫌だったから。『彼』の済んでた部屋にほかのひとが入るなんて」

「どうして俺は入れてくれたの」

 彼女は答えなかった。

「俺をその、お兄さんと重ねたのか」

 口の中が苦いモノで満たされていく。

 俺は考える。昨日の朝、彼女は子供の死体を見つける。彼女は一日、不安と戦いながら、過ごし、夜の闇の中で、ひとりぼっちの俺を見つける。それにかつて同じようなシチュエーションで出会った『お兄さん』の姿を重ね合わせたのではないか。

 だから、俺をここに連れてきた。だから、俺をただで病院につれていった。俺と一緒にご飯をたべた。俺に笑いかけてきたあの笑顔は?

「俺は、お兄さんとは違うよ」

「違うの」

 彼女は首をふるふると振った。

「私、あなたをそんな目で見てないから」

 言葉を証明するかのように、彼女は俺を抱き寄せた。ぎょっとしたが、温かな匂いと感触に包み込まれ、俺はなすすべもなくじっとしていた。

「だから、ずっとここにいて」

 それは、甘美な言葉だった。俺はそれを心の底から、思うがままに受け止めたかった

キャリーバッグが壁際に置かれてるのが見えた。あの中には女の子の死体が入っていた。俺が殺した子かもしれなかった。俺がこの町で起きている連続殺人の犯人かもしれない。だけど、今の俺は、一つも悪くない。そう思った。確信していた。俺がどんなに悪いやつだったとしても、構わないんじゃないか。今までの俺は、ここにはいない。今の俺が俺のすべてだ。

記憶を取り戻さない限り、俺の存在が彼女に不幸をもたらすことなんてない。

俺はゆっくりと両手を動かして、彼女の背中に回そうとした。

 だけど、そのとき。

 頭に激痛が走った。

 脳裏にイメージが浮かんだ。色とりどりの美しい花々がこぼれんばかりにさいた、息

を飲むような美しい場所。そこに、ある二人の死体。俺の、ちまみれになった手。

 俺は一花を突き飛ばした。

 彼女は背中をテーブルに打ち付けて、困惑したように俺を見つめた。

「どうしよう」

 俺は情けない声をだした。女のような、弱っちい声。胸がぐるぐる黒いジュースで満たされていく。目元からこぼれる涙が俺の中で一番純粋なもののように感じた。

「どうしたの!?」

 彼女が俺の肩を掴んだ。

 俺はここにはいられない。

 意識が遠のいていく。


 目が覚めると、暗がりの中だった。手を動かすと、柔らかい布の感触。布団の中に横になっているらしかった。一花があのあとで敷いてくれたのだろう。身を起こすと、テーブルにラップのかかった料理が置いてある。隣に白い紙があり、「泣いたの、私のせいだったらごめん。起きたら、食べてください」ときれいな字で書かれている。

 俺は窓の外に目を向けた。墨をこぼしたような空に、おぼろげな月が浮いている。テーブルの上の料理にも手をつけずに、しばらく月が雲の中で見え隠れするのを眺めていた。

 深夜12時になる頃を待って、俺は階段を降りた。両手で抱えると、子どもとは言え、体一つ入ったキャリーバッグは相当重い。物音を立てないように玄関まで来ると、ガラス戸をひっつかんで外に出た。

 当たり前だが町の光景は、昨日二人で歩いた夜と何ら変わりなかった。変わっているとしたら、昨日の道を引き返しているということくらいだ。カラコロと、俺の後ろでキャリーバッグが音を立ててキャスターをきしませる。

 空気は蒸し蒸ししていて、まとわりつく空気も熱を持っている。空には変わらず重たい漆黒が広がっている。どこかでぷおおとラッパの音がした気がした。

 酔っ払いのサラリーマン一人と目が合うこともなくすれ違う。舗装された道を出て、砂利道を進んだ。この辺りは、車の整備工場やら製紙場などの無機質な建造物が並んでいる。ここを抜けたらまばらな住宅街を通り、昨日目覚めた無人駅にたどり着く。

 たどりついて、俺はそのあとどうする気だろう。そんなことを考えたが、歩みは止まらなかった。俺は何かに憑かれたかのように、戻り続けた。

 俺は自分の正体が知りたい。さっきの記憶はなんなのか。この女の子はなんなのか。俺は本当に殺人犯なのか。悪人なのか。そのためには、きっと、一所にとどまっていてはダメだ。手がかりでもなんでも探さなければ、いけない。

「ハムちゃん」

 俺はぎょっとして、足を止めた。振り返ると、俺の腰丈ほどの影が、アスファルトに立っていた。幽かな月明かりが、その顔を照らした。

「双葉、ちゃん?」

「なんでここにいるの」

「それはこっちの台詞だよ」

 俺は身をかがめて、彼女に目を合わせた。彼女は首をかしげた。

「ラッパの人は?」

 彼女は不思議そうに首をかしげた。

「らっぱの人?」

「正人くんを連れてったの。今度は、私の番だって」

「何を言ってるんだ?」

正人くんを連れていったラッパの人?

「それって……」

 俺が口を開こうとすると、

「双葉!」

 と耳になじんだアルトボイスが聞こえてきた。遠くから二人の影が駆け寄ってきた。昼間の警官、佐伯さんと……一花の姿があった。

 一花は双葉を見つけてほっとした顔をしたが、俺に目をむけて怪訝な表情をした。

「なんでお兄さんがここに?」

「いや……俺は」

「お姉ちゃん、ラッパの人は?」

 双葉は一花の服の裾を引っ張った。

「ラッパの人?」

 一花は俺に向けていた目を、足下の双葉に落とした。

「一花ちゃん、ラッパの音を聞いたのかい」

 佐伯さんは身をかがめて聞いた。

「うん」

「佐伯さん、昼間も言っていたじゃないですか。ラッパの音が一体どうしたんです?」

「実は、ラッパの音と例の連続児童殺人の件が関係があるという話が合ってね」

「どういうこと?」

「児童がいなくなる日の前夜に、必ず子供たちが喇叭の音を聞いているんだよ。大人には聞こえない不思議な喇叭の音色をね」

「……そんな馬鹿な」

 一花は、困惑したような、苦笑いを浮かべた。

「俺たち、駐在員だけじゃない。本庁も、この関連を疑って動いているんだ」

「だって、そこにいる彼は、喇叭の音が聞こえたって言ったもの。子供にしか聞こえないんでしょ。その時点で嘘っぱちじゃない」 

俺が目をそらすと、警官がいきなり大きな声を出した。

「それなんだよ」

 おれをにらんだ。

「君は、この事件においてイレギュラーな立ち位置にいる。……そして、一花ちゃんから聞いた話だと君は記憶喪失というじゃないか。さらに、君は、なぜか双葉ちゃんとこんな場所で二人きりでいる」

「ちょっと待って、佐伯さん?」

 一花は、戸惑った顔で、俺と佐伯の間に、割って入った。

「あなた、何から何までむちゃくちゃだよ。この人が双葉を殺そうとしたっていうの? 」

「もちろん、そうだとも」

「馬鹿げてる。彼は人を殺さない!」

 一花はとてつもない剣幕で言った。心臓が音を立てながら縮んでいくような心地がした。

 一呼吸置いた一花は、冷静を取り戻して呟いた。

「喇叭が鳴って、子供たちが連れて行かれる。そういう童話があったわね」

 佐伯は肩をすくめた。

「ハーメルンの笛吹きだね。そこにいる自称記憶喪失の名無しの権兵衛が、ハーメルンの笛吹き男かもしれないんだよ」

 佐伯はオオカミのように俺の目を射すくめた。一花はため息をついた。

「……馬鹿げてる」

「私も最初は馬鹿げた話だと思ったさ。だが、悪鬼なら、それができる」

 佐伯はこちらに一歩近づいてくる。

「悪鬼ですって……」

 一花は肩をふるわせた。

「ふざけないで、彼が悪鬼だって言うの?」

「……その目はカラーコンタクトかね。この世に生まれる際に呪いを受けた証では?」

 俺を問い詰めようとする佐伯の頬を一花が張ったが、彼は気にせず続けた。

「君が目覚めたときに持っていたのは、そのキャリーバッグだけなそうじゃないか」

 片眉を上げた。

「拝見させてもらってもいいかね」

 俺は、佐伯をにらみつけた。

「お兄さん、見せてあげたら?」

 一花が穏やかな口調で言った。

「魔法の喇叭を持ってないことを証明したら、そこのおじさんも納得するでしょうよ」

 彼女の目が、佐伯を哀れむように見つめた。

 俺はキャリーバッグの取っ手を握りこんだ。

 確かに魔法の喇叭なんてファンタジックな代物は入ってない。だけど、死体なら入ってる。俺を信じてくれた一花の前で、それを明かす訳にはいかなかった。一刻もはやく、ここを、一花のもとから離れたかったが、 キャリーバッグを背にして動かない俺を佐伯はますます怪しみ、その奥で双葉と一緒に立っている一花の目にも疑惑の色が浮かぶのが分かった。

 万事休すかに思えた、そのとき、空に大きく、喇叭の音が響き渡った。

 もちろん、聞こえたのは双葉と俺だけだ。双葉は、顔をきらきら輝かせて音のする方角を見つめていた。

「きたー!」

 双葉が見ている方向、つまり、十字路の曲がり角から、そいつは姿を現した。それを視界に捉えたとき、双葉を覗いた俺たち三人はたちまち硬直して、その場所から動けなくなった。

 そいつは大変筋肉質な男の身体を持っていた。だが頭部が奇妙につやがあり、複雑な図形をしていた。その姿が影から、月光の下に現れると、その頭部がなんなのかが知れた。それは喇叭だったのだ。俺たちは唖然とし、彼がこちらに歩いてくるのを見つめていた。その足も太腿から足先に降りていくに従って奇妙にすぼまっており、人間のものとは思えない。歩き方も奇異で、ぴくりともうごかさず、気を付けの姿勢で、氷の上を滑るように歩いてくる。まるで人間もどきだった。開口部を銃口のようにこちらへ向けてやってきて、俺たちと顔をつきあわせる距離になった。怪人が、双葉の手をとると、彼女の目は大きく輝いた。そこで、佐伯は硬直から抜け出したようにホルスターから銃を引き抜いた。

 彼はその胴体を蹴り飛ばした。喇叭男はその存外に軽いらしい全身を住宅のブロック塀にぶつけた。よろりと立ち上がったところに、佐伯は一発二発と弾丸を撃ち込んだ。轟音の中で双葉を抱きしめながら、一花が顔をゆがめていた。かすっかすと拳銃が虚しい音を立て始めたが、依然に喇叭男は路面に直立して、後頭部でループしてる金管を揺らしていた。佐伯の表情は蒼白で、目が震えている。

喇叭男が佐伯に向けて何かをささやいた。俺はそれを遅れて理解する。「おかえし」。

それと同時に、佐伯の身体が後ろの塀にたたきつけられた。彼の身体は、コンクリートの壁に沈むようにめり込んだ。佐伯は苦痛にのたうちまわったようだが、動くこともできないらしく、最後は、白目をむいて脱力した。彼の口の端から垂れる唾液に混じって、色の濃い血がぽたりと路面を赤く染めた。それは佐伯の身体が内部まで破壊されたことを意味していた。

警官はあっという間に死んだ。一花は、佐伯に駆け寄って名前を叫んだ。

「佐伯さん、佐伯さん! しっかりして」

 その横で、喇叭男が双葉に再び接近する。一花の瞳が、憎悪にきらめいた。彼女は全身で男の肉体にぶつかった。喇叭男は、地に伏したがまたゆっくりと奇妙な動きで起き上がろうとする。一花は、双葉の手をとり、俺の腕を叩くように掴んだ。振り向いた彼女の瞳は涙で潤っていた。

「逃げよう」

 足をもつれさせながら俺たちは走り出す。三人分の小刻みな足音が暗い町にこだましていた。振り返ると、喇叭男がさきほどのスムーズな動きで追ってきていた。

 灰色の塀に囲まれた工場の敷地に逃げ込む。建物をぐるりと一週するように回り込み、立方形の倉庫と塀の間に身を潜ませた。

「なんで、いっちゃだめなの? 私、あそこにいきたい!」

 双葉の唇を一花が片手で静かに押さえた。視界の隅で一花の膝が震えているのが見えた。目を閉じて浅い息を繰り返している。先ほど死んだばかりの、佐伯のことを思い出しているんだろう。彼も彼女の中では、失いたくない人の一人だったのだ。

 喇叭の音が聞こえる。距離は近い。一花が隣で動き出した。双葉を俺の手に預けて、自分は壁端まで寄っていき、そこから慎重に辺りを見回した。

「お兄さん」

 一花は小さな声で呟いた。

「私、あいつをひきつけるから」

 何を言ってるんだ。

「双葉を連れて逃げて」

「馬鹿なことを言うな」

 俺の口調も激しくなっていた。

「ここにいれば、みんな助かる」

「そんな保証、どこにあるっての? 見附ってしまえば、三人まとめて死ぬだけよ。私には分かるの。このままだったら、みんな死ぬんだ」

「君は死ぬんだぞ」

「いいよ、お兄さんと双葉が生きているなら、いいんだ」

 彼女は頑固な女だった。

 俺は殺人犯なんだ。君が守る価値なんてない人間なんだ。

 そう言いたかった。だけど、この期に及んでその言葉は口から出てこなかった。喇叭男に追いかけられ、命の危機にあるこんな状況でも、俺は彼女に幻滅して欲しくなかった。

 喇叭の音がさきほどよりも大きく聞こえた。倉庫がみしみしと歪んで音を立てた。

 倉庫の向こうから、近づいてくる気配が徐々に強まっていく。

 ぱおおお、と間の抜けた音がひときわ盛大に鳴り響いたとき、倉庫が風船のように破裂した。角材や、ベニヤ板が飛散し、そばにいた俺たちを巻き込んで崩壊した。俺は双葉を守るように抱きしめたが、不思議と無傷だった。

 嫌な予感がして、俺は後ろを向いた。

 彼女が、一花がいた。俺を守るように両手を広げて立っていた。背中には、ガラス片や金属片が突き刺さり、地面にぽたぽたと血を垂らしている。彼女はほほえむと、膝を地面に打ち付けて倒れ込んだ。

「……なんで」

 俺は彼女の身体を抱き起こした。

「逃げて。双葉を連れて逃げて」

「……」

見下ろすような気配に、俺は振り返った。

上半分がまるまる吹き飛んだ倉庫の上に、喇叭男が立っていた。彼は身をかがめて、双葉の方に手を差し出した。「いこう」とささやくのが分かった。

 一花が起き上がって、そばに散らばっていたガラスをぶつけた。何度も何度もぶつけても、喇叭男はびくともしない様子だった。しかし彼女の柔らかい手のひらは、みるみるうちに血まみれになっていった。喇叭男は一花の方に金色の開口部を広げて見せた。間近で見ると、その喇叭は完全な金属ではなく生物のよう有機的に波打ち、うごめいているようだった。

 俺は一花の前に立った。彼女が先ほどそうしたように、両手を広げて立ち塞がった。

「逃げてよ」

 一花の声はかすれている。

「俺は君に守られる資格なんてないんだよ」

 俺は一花に言った。

 喇叭男の口がうごめき、小さくささやいた。

「君を犠牲にして生きながらえるくらいなら、俺は」

 俺はキャリーバッグの取っ手を引き延ばし、両手で持って、喇叭男の横っ面にたたきつけた。

「ここで死んでやる」

 その瞬間、喇叭男の身体が吹き飛ばされ、地面にしたたかに打ち付けられた。喇叭との衝突でキャリーバッグの外装プラスチックが、砕け散った。中から、少女の死体が滑りだした。俺の前に硬い音をたてて落ちた。

「ずっと黙ってたんだ」

 俺は一花を顧みた。彼女は目を見開いている。それは、きっと困惑と失望の色だと思った。

「俺はずっと、女の子の死体が入ったトランクを担いでたんだよ。そして、彼女はきっと、俺が殺した……」

「死体?」

 一花は、恐る恐るといった様子で呟いた。彼女の目は左右にキョロキョロ動いている。

「ああ」

「……じゃあ、どうして立って動いてるの?」

「動いてる?」 

俺は彼女の視線を追いかけて、硬直する。

 倉庫の破片が敷き詰められるように散らばった地面の上。地面に伏した喇叭男の隣で、小さなシルエットが伸びをするように動いた。

「ずいぶん手荒いモーニングコールですね?」

 先ほどまで死体だった女は、俺に微笑みかけた。

「し、死体が」

俺はそれこそ死人のように真っ青な顔をしていたと思う。

「喋った」

「んー?」

 青い髪の彼女は首をかしげたが、目を大きく開いて、

「え、ええー!」

 と素っ頓狂な声を上げた。

「なにが、どうなって、そんなことに。あー、なるほどなるほど、へえ、へえー」

 勝手にパニックを起こし、勝手に納得して冷静になる元死人の少女を前に、俺たち三人は呆然としていた。

 ぱらぱらと、喇叭の爆音が鳴り響いた。地面に横たわっていた喇叭男が起き上がり、こちらに口を向ける。身にまとった雰囲気からは、先ほどまでにはなかった敵意と憎悪が感じ取れる。

「あんたいったい」

「それよりあの人。怒ってますよ、何したんです?」

 青髪がこちらに顔を向けたまま喇叭男を指さした。

「横っ面を……殴ってやったんだ」

 青髪は、俺の胸に握りこぶしを軽く当てた。

「先制攻撃でアドはとってあるんですね。じゃあ、やりましょうか」

「やるって……なにを」

「二人で倒しましょうよ」

「倒すって、あれを?」

「あれを」

 俺は、助けをもとめるように一花を見た。彼女は背中をけがしたせいか、もうろうとした目つきで俺を見つめてくる。

「……お兄さん」

 彼女は何かを求めるように呟いた。

「この人、あなたのお兄さんじゃありませんよ、お姉さん」

 青髪はひどく冷たい目つきで言った。それから、俺の方に目を移した。

「前島乙矢」

 彼女は聞き慣れない名前を口にする。

「それが、あなたの名前」

「俺の、名前?」

「ええ。そして、あなたは、殺人犯でも、誘拐犯でもない。ましてやどっかのしらんお兄さんでもない。あなたは、みんなを守るために戦う使命がある。ともに戦いましょう」

「……待ってくれ」

 俺は呻いた。

「あいにく、そんな時間はないです。ほら、今にもぶちかましそうですよ、あの人」

 彼女の言うとおり、喇叭男の周りには、不自然な空気の流れが生まれていた。木の葉が、彼の周りを取り巻くように流れ、喇叭の暗闇に吸い込まれていく。膨大な空気を、あの金管の中に取り込んでいるのだ。なにをする気かは、俺にはわからない。ただ、あいつが佐伯を殺し、倉庫を破裂させたのを見ている。さらに威力を持った攻撃が飛んで来たら、生身の俺たちの命はあっさり消えてしまうだろう。

「守りたいんでしょ」

 青髪は、後ろでうずくまっている一花を見やった。静かな物言いだったが、俺の心の奥に染みるような言い方だった。

 そうだ。俺は一花を守りたい。

彼女は死を恐れ、不幸を恐れている。そしてきっと彼女はその原因をおのが身に押し付けている。それは彼女にとってはきっと自然なことに違いない。だけど、他人から見ればそんなことは阿呆だ。自分を犠牲にして、誰かを助けることは、彼女にとって自分を癒す手立てなのかもしれない。だけど、それを選んでしまったら彼女は、本当に自分を助けることなんてできない。

「お兄さん」をよりどころにし、俺を利用したように。そうするべきなんだ。「利用してごめんなさい」なんて謝る必要なんてどこにもない。辛かったら人に助けてもらうのが

当たり前なのだ。

 俺は、彼女を救いたい。

「倒せるのか」

 俺は様々なモノをどうにか飲み込んで聞いた。俺の気持ちを受け取ったように、青髪は頷いた。

「ええ。私とあなたには、それをするための特殊な力があります。」

 青髪は俺の腕をとった。

「どうするんだ」

「こうします」

 彼女の全身が青白く光った。俺は声を上げる暇もなかった。彼女の形は変貌し、光り輝く濃青の粒子群になった。それらはまるでとぐろをまいた大蛇のようにぐるりと俺に巻き付いた。しかし、その感触は大蛇の乾燥した肌というよりは、温かいマフラーに包まれたようで、不思議といやな心地はしない。呼吸と心拍を安らかにして俺は「彼女だったもの」に身を預けるように目を閉じた。

***

 夢を見ているようだった。

 私は自らの血で服を汚したまま、地面に這っていた。隣には何かにとりつかれたように虚ろな目をした妹、双葉がいて、私の目の前には、喇叭男とお兄さんが対峙していた。さらに彼の隣には初めて見る青い髪の女の子がいた。彼女は、彼のキャリーバッグの中に納まっていた。どういうわけなのか、さっぱりわからない。

お兄さんは、自分のキャリーに女の子が入っていたことを知ってたの? なんでそのことを私に言ってくれなかったの? 

朦朧とする意識の中で、そんな疑問が浮かんだ。いや、それは疑問というよりは、駄々をこねた子供の文句だった。私は彼の意図を必死に理解していた。彼はさっき、あの子のことを「死体」って呼んでた。彼は勘違いをしていたのだ。どういうわけか、あのカバンの中であの子はずっと眠っていて、それを彼は死んでいると勘違いしたんだ。記憶喪失で、目覚めたとき、隣に死体があったのだ。お兄さんはきっと、自分のことを信じられなくなる。自分のことを人殺しだと思って、記憶が戻らないことを願ってさえいたに違いなかった。そうなると、今日の私の行動がどんなに彼に負担をかけたかわからなかった。

私は、謝らないといけない。

それで、彼は私が守らないといけないのだ。私は、もう二度と「お兄さん」を失いたくない。

私は思い出す。

あの夏の夜、あの部屋で天井から首をつっているお兄さん。私は泣き崩れた。なんで。なんで。あんなにやさしくて頼りがいのあったお兄さんが、どうして死ぬ必要があるの?

私が迷惑をかけたから? 私が頼ってばかりだったから? 

 エゴの塊が、私の頭のなかで反射し続ける。

両親が死んで、私はよりどころを求めた。そしたら、次はお兄さんが死んだ。私のせいで、世界はどんどん悪くなってる。

 私は、悲しみを一人で引っ提げて歩くから、もう誰にも縋ったりしないから、私の世界をこれ以上ひどくしないで。私は好きなの。この世界が。

 あの喇叭男が出てきたとき、私は自分が試されていることを確信した。私はこの形而上的脅威と対決する機会を得たのだ。もう一度お兄さんの命を掴む機会を得たのだ。

 なのに、今の私の背中はじくじくと傷んで、ろくに動けない。手のひらだって血まみれで、這って進むこともできない。

「お兄さん」は、青髪の子と話している。その様は、長年連れ添った夫婦にも見えた。「お兄さん」が不意にこちらを見た。その目は明らかに私の助けを期待しているようだった。そうだ。私が守るんだ。

「「お兄さん」……」

 私の声はかすれて小さくて、彼に届いたかもわからなかった。

 青髪の子の耳には届いたらしく、振り返った。ぞっとするほど冷たい目でこちらを見つめる。

「この人、あなたの「お兄さん」じゃありませんよ、お姉さん」

 私の内側を見透かしたように呟いた。その瞬間、私は声を奪われた。

 違うよ、その人はお兄さんだ。私が救えなかった、お兄さんだ。

 助けるよ。私が助ける。

 暗くかすんだ景色に「お兄さん」が見える。「お兄さん」の周りが光ってる。青くて綺麗に光ってる。キラキラキラキラ。キラキラした顔色の悪いお兄さんが、こっちをむく。私は期待する。「助けて」って、言ってよ。

「助けて」って、言って。

「助ける!」

 お兄さんは、声を張り上げた。

「俺が君を助ける!」

 やせ細った、青白いお兄さん。前の「お兄さん」より、不健康そうな見た目をしてるくせに。

生意気だわ。

視界が黒に覆われる直前、視界に水色の巨躯が現れ、その首をもたげた、気がした。

****

どうなってる?

無人駅で目覚めたときとおなじような感覚になっていた。自分の体が自分のものではないような感覚。それどころか、今度はビニール一枚ではなく、確実になにか分厚い物で覆われていた。体が一回り大きくなったような感覚だった。視点もさきほどよりも高くなっていて、今はあの喇叭男がとても小さく見えた。

俺と喇叭男の間に、倉庫の窓ガラスの、一際大きな欠片が落ちているのを見つけた。俺はそこに移った自分の姿を見て、唖然とした。

そこに移っていたのは、俺のやせ細ったシルエットではなく、武者鎧に纏われた巨体だったからだ。その姿は、戦国時代の武士のようだったが、肩幅も、身長も、人間のそれだとは思えなかった。俺が身じろぎすると、鏡の中の甲冑は、月の光を跳ね返して群青にきらめき、鉄どうしが擦れるような音を発した。

俺の体も異形に変化したが、俺の心にも変化が生じていた。細かいことを考えないようになっていた。一花のことも、俺の記憶のことも、一連の非日常体験についても。ただただ、目の前の喇叭男をこの手で葬ってやろうという戦闘への意思のみが強調され、俺の足を彼の方に一歩もう一歩と足を進ませた。

 喇叭男の体が前傾した。口から鋭利な空気弾が吐き出される。俺は、後ろの塀に叩きつけられた。

 まったく視界が見えていなかった。

 しかしあの、喇叭男が蓄えた膨大な空気を体で受け止めたというのに、胴体には傷一つついていない。

『乙矢くん』

 誰だ、と思ったがその特徴的な冷たい声質であの、青髪の声だった。

『クールにいきましょう』

 俺をたしなめるつもりらしかった。

『どこにいるんだ、お前』

 俺はつぶやいた。

『私は、あなたと一緒です』

『消えたかと思った』

『……私はまだ消えないですよ』

 青髪は、前を向いてください、と呟いた。見ると、あの巨大な金管が人の血管のように赤くなり、さらに腫れあがっていた。

『あいつらは、ここに長くいると強くなってしまうんです。早めに片付けましょう』

『そうだな』

 俺はつぶやいた。よろよろと立ち上がる。

『早く、片付けよう』

 喇叭が巨大な空気の塊を放出する。俺は、それをよけた。目的を仕留め損ねた豪弾は、壁を突き抜け、民家の庭に生えた大木をへし折った。

重装備とは思えないほど身軽だった。認識の上ではもとの体と同じように自由に動かせるようだった。地面を蹴って喇叭との距離を詰める。舞い上がる砂埃を巻き込んで、その自慢の胸筋に拳をたたき込んだ。喇叭男は空中で一回転すると、よろけながら立ち上がった。喇叭の轟音が夜空にこだまする。喇叭は先ほどの二倍はあった。さきほどはたくましく見えた筋肉が今は頼りなく見えた。恐ろしく不釣り合いな外見に対して、動きはスムーズだ。俺は喇叭男の反撃を受けた。相当な質量をもった真空弾が俺の胸に直撃する。威力は増していて、装甲がみしみしと嫌な音を立てた。俺は胸を庇うようにして地面に転がった。

『武器を使ってください』

『武器?』

 俺が呻くと、右手に冷たい感触が出現した。顔の前に持ってくると、身の丈くらいはありそうな長刀が握りこまれていた。

『ようし』

 俺は気合を入れて立ち上がった。

 喇叭男が見境なく、空気を放出する。工場の壁がきしみ、植え込みが吹き飛び、地面に穴が開いた。俺はそれらを飛び越えるように跳躍した。喇叭男の顔面に鋼鉄の脛をぶちかまして地面に転がらせた。俺は静かに薙刀を振るった。

『帰ろう』

 青髪が静かに呟いた。

 それと同時に、喇叭男の頭が肉体から切り離された。見覚えのある緑青の血が空気中を舞った。俺は、薙刀の先から滴る液体をぼんやりと見つめた。あんなにタフに何度も起き上がってきた喇叭男の頭と体は、別々になってしまったせいか、ピクリとも動かない。そして、それらはじきに黒くよどんで、無数の粒子になった。大きなうねりのように形を変えたそれらは、まるで天に上る龍のように空に昇り、やがて消えていった。

 俺の周りが光に包まれた。

 まぶしさに目をつぶると、俺はもとの俺に戻っていた。記憶を失って初めて目を醒ました時、あんなにも自分の体ではないように感じていたのに、あの異形の姿から戻った今では、これがまぎれもなく俺なのだと認められるようになった。

 まじまじと手のひらを見つめる俺の横で、やはりどこか不愛想にみつめる小さな影があった。

「なんだよ」

「いいえ」

 青髪は、明後日の方を向いて呟いた。

「それより、じきに警察が来ると思いますよ。処理を済ませてしまいましょう」

「処理?」

 青髪は俺の顔を見つめた。

「部外者の記憶消去です」

 彼女の肩越しに、地面に横たわった二人の人影、一花と双葉があった。

****

 背中の傷はかなり広い範囲に渡っていたらしかった。だけど、幸いな頃に傷はそこまで深くなくて、数日で塞がって痛みもとれるだろうという話だった。

「しかし、一花ちゃん」

 病院の一室。治療を終えた私の顔を覗き込んだ院長先生は、困惑したように眉をひそめた。

「一体、何があったんだい。警察の人も来てたみたいだけど」

「それが、覚えてないんです」

 私は首を振った。それは本当だった。警察の人は、私が工場で何かを見たに違いないと思っているみたいだったけど、私も、一緒にいた双葉も、「あそこ」で何が起きたのか、覚えていなかった。

「また、記憶喪失かね」

「……また?」

「一昨日、一緒にきた男がいただろう。元気にしてるかね」

 私は、戸惑って聞いた。

「……誰のお話です?」

 彼は少しだけ私を見つめると、目を閉じて首を振った。

「いや、なんでもないよ。何をどこまで思い出せる?」

「……残念だけど、ここ最近のことは何にも。あ、でも三日前の夜ご飯とかなら……」

 院長は、目元に優しそうな皺を作ったまま、また困ったようにため息をついた。

 私は先生に心配をかけないように声のトーンをあげた

「でも、私、なんだか変なんです」

 胸に手を当てる。

 目が覚めてから、ずっとそこが温かい気がしていた。

「すごい怖い目にあったと思うけど、なんだか、すごいいい気分です」

 院長は、目をぱちぱちさせていた。

私はその日のうちに退院した。

 まだ動くと背中の皮が引きつって痛いけれど、私の不在は民宿にとっては死活問題だ。「お兄さん」も、もういない。私がなんとかしていくしかないのだから。

「ただいま、戻りました」

 ガラス戸を開けると私は笑顔になる。双葉と一雄が駆け寄ってくる。私はほっとする。いつもの場所に帰ってきた。そんな気がした。

「あのね」

 一雄が顔を真っ赤にしていった。興奮しているみたいだった。

「今日の朝ごはんと、昼ご飯、俺が作ったんだ。佐藤さんに教えてもらって。新しいお客さんも来たんだ」

 一雄は、目に涙を浮かべた。

「俺、姉ちゃん大好きだからよう」

 私はあっけにとられていた。こんな一雄は初めて見た気がした。でも、彼が何をいようとしているのか、分かった。

私の手にまかれた包帯を見つめながら、私の弟は

「壊れてほしくねえんだ」

 そう俯いた。

「なんか、姉ちゃん、このままじゃ、俺たちのせいで壊れちまう気がするんだ」

「大丈夫」

 長い思考の渦を抜け出した私は、声を絞り出した。私は、一雄と双葉を抱きしめた。

「……ありがとう」

 全部私のせいだと思ってた。

 お母さんが死んだのも。お父さんが死んだのも。お兄さんが死んだのも。私のせいで、私の大切な家族がいなくなるのはいやだった。

 それは、あなたたちも同じだよね。

私たちはお互いの腕をほどいて、しばらく見つめ合った。急に照れくさくなり、目を逸らしたり、顔を赤らめたりした。

「あ、前島さん」

 不意に一雄が嬉しそうな声を出した。階段から、変な二人組が降りてきた。やせ細った長身の男の人と、真っ青な三つ編みの中学生くらいの女の子。一雄の頭を撫でた男の人は、私の方を見て、にっこり笑った。

「ちょっと出てきますね」

「あ、はい」

 私は上ずった声を出した。

「あ、でも、すぐ夕食なので」

「すぐ戻ります」

 彼はガラス戸の向こうに消えていく。

「お姉ちゃん、顔赤いね」

 双葉が、きゃっきゃと笑ったのを聞いて、私は思わず顔に手を触れた。本当に、少し熱くなっていた。

「お、お、姉ちゃん、前島さんとヤルの?」

「ヤラない! どこで覚えてくるの、そんな言葉」

「ホームレスのおっちゃんが読んでた雑誌」

「もう」

 私は、怒った声を出して、それからちらりとガラス戸の方を向いて、

「ありがとう」

 と言った。

 これは不思議で仕方なかった。私は、彼に会ったことはないはずだった。なのに、私はかれになんでかお礼を言いたくなった。

***

 「こいつみたいなやつが、他にもいるのか」

 俺は、先ほどまで喇叭男の体が転がっていた地面を見据えた。怪異は塵となって消え、今は跡形も残されていない。

「ええ、この町に次々と送り込まれとるんですわ」

 青髪は、肩に垂れた三つ編みの片方を指でもてあそんだ。

「わんさかと」

「それならもっと騒ぎになるだろう。報道とか」

「一般人には知られないんですよ。我々が倒して、そんで目撃者の記憶を消し去ってしまうんですからね」

 青髪は地面に倒れ込んでいる二つの身体、双葉と一花の近くにかがみ込んだ。

「……俺の記憶を消したのも、あんたか」

「ええ」

 青髪は悲しそうにした。

「そうですよ。でも、あなたが記憶を消したのは、目撃者だったからではありません。あなたは戦う役目を持っていた。その役目を正常に行うために、消したのです」

「……」

 相変わらず、この女の言っていることは俺には理解できなかった。青髪の少女は、その年の子供がするとは思えない目つきで一花を見つめ、額に手をあてがった。記憶を消すことが、どういう手続きで行われることか、俺には分からなかったけれど、彼女が超常的手段で一花の頭から、記憶を消し去ろうとしているのだと分かった。

「待ってくれ」

 俺は、自分の嫌いな、情けない声を発した。彼女は冷たい目で俺を見つめた。

「どのくらい、消えるものなんだ」

「……少なくとも今日の記憶は。それ以前は場合によりけりです」

「それは……消そうと思えば、昨日の記憶も消せるのか」

「はい。……何がしたいのですか。あまり記憶が消えると、この人、あなたのこと忘れちゃいますよ。あなた、彼女と結構良い感じだったのに」

 彼女の言葉を皮肉っぽく聞こえた。その意地悪に歯向かうように俺は、言った。

「昨日の朝、彼女、死体を見てるんだ。忘れさせてやりたい」

「……個人の記憶をあまり消すとね、整合性を保つために周りの人の記憶も管理しないといけないんですよ」

「……手間がかかるのか?」

「まあ、良いですよ。あなたが良いなら」

 青髪は嫌そうな顔だったが、承諾した。

「すべて、リセットして、やりなおしましょう。最初から」

 俺は一花の顔を見つめた。泥で汚れた端正な顔は、心なしか穏やかに見えた。

「ありがとう」

 俺は、小さく呟いた。

 一花、君の人生に幸あれ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ