ある公爵令嬢の婚約とそれに纏わる指輪の物語
エリクソン公爵家には、代々伝わる指輪があった。
その指輪は心を持ち、自らの力でエリクソン公爵家を守り祝福する存在であるという。
特に重要視されるのは、結婚式の際。エリクソン公爵家の夫婦——妻となる女性が夫となる男性からその指輪を左手薬指に着けてもらうことで、指輪は「愛」を感じる。その愛の深さに感動した指輪は公爵家に幸運をもたらし、あらゆる災いを遠ざけると言われていた。
そうして大切に保管され続けてきたこの指輪は、まだ十六歳の誕生日を迎えたばかりだった公爵家の一人娘であるアリスにも無事、受け継がれていた。
貴族の女性は、綺麗事だけでは生きていけない。愛のない結婚どころかお互い、相手を自分が成り上がるための「道具」としか思っていないことも珍しくないしアリスもそれをなんとなく理解はしていた。
だがアリスはら心の中で年相応の少女らしい夢を秘密裏に描いて抱いていた。未来の夫となる男性に指輪を着けてもらい、温かく幸せな家庭を築いていきたい。自らの両親がそうであるようにお互いを深く愛し合い、尊重し合える夫婦になりたい。その一心でこの国の王子であり自分の婚約者であるカール・オルセンの住まう王宮へと足を踏み入れたのだが。
「そんなおとぎ話を信じて王宮に古い指輪を持ってくるなんて、馬鹿じゃないのか?」
婚約者としては初となる、アリスとカールの顔合わせの日。カールはアリスを頭のてっぺんから爪先までざっと品定めするように見下ろすと、ふんと鼻で笑ってみせたのだ。
王位継承権は上にいる優秀な兄たちのものであり、今回の婚約は高貴な血を残しておくため「とりあえず」公爵家に婿入りさせようと結ばれたものである。カールは内心、それに大きな不満を抱いていた。
加えてカールの性格を歪めたのは、彼の周りにいる大人とその娘たち。腐っても王子だ、女たちは早くからその立場に目をつけてかカールの周りにいる女は幼女から老婆まで彼のことを全肯定し、持て囃した。その上、カールの凜々しい目元と逞しい体つきは「美男子」と呼ぶにふさわしいもののそれで、そのことを自覚したカールは自らも気づかないうちに驕り高ぶっていた。
アリスは公爵令嬢としての立ち居振る舞いや一般的な令嬢に必要とされる教養、マナーなど一通りのことはこなしていた。見た目だって絶世の美女と言うほどではないが、社交辞令抜きで「可愛らしい」と言われるぐらいには整っている。だが、カールにとって彼女は望む相手ではない、この優秀な自分に彼女は不釣り合いだと考えたのだろう。なんとか彼を諫めようとする国王夫妻をよそに、カールはアリスを幼稚だ、少女趣味だとせせら笑った。
カールは昔から落ち着きがなく、乱暴で他者への思いやりに欠けるところがあった。本来、そういった資質は成長とともに矯正されていくものだがカールは兄たちが早くに結婚・出産し早くに王位継承権を失ったこと、それでいて紛うことなき王家の血筋を持って生まれたということが重なって中途半端な立場で育った。
「男の子は好きな子がいると気を引こうとして、いじめちゃうものなのよ」
大人が微笑ましく感じながら口にするそれはその実、どれほどの少女を泣かしてきただろう。
カールと結婚をすれば末席とはいえ王家の一員になれる。その名誉に目が眩み、自らの娘をカールの周辺に置いた親たちは皆、カールの問題行動を黙認した。大事な首飾りを壊された、髪を引っ張られた。そのうち、誰か一人でも勇気をもって王家に抗議したりカールを叱りつけたりしたらカールも少しは反省していたかもしれない。しかし、その機会を得られないまま育ったカールは相手の心を思いやるという初歩的な道徳を身につけずに育った。
生まれた時期や「王子」という立場でなければ、と考えると彼は環境の被害者と言えるかもしれない。しかし、それを差し引いてもカールのアリスへの振る舞いは目に余るもので、アリスやエリクソン公爵夫妻の顔は徐々に曇っていった。国王夫妻はなんとかその場を収めようとするが、幼少期に学ぶべきそれを学べなかったカールがその場ですぐ改心しアリスを大切にしようなどとするはずがない。
終始アリスを見下し、罵詈雑言を口にしたカールはついにアリスの指輪を奪い取り――開け放していた窓からそれを、王宮の広い庭に放り投げてしまったのだ。
王宮の庭は広く、見る者の心を癒やす噴水や趣向を凝らした美術品も数多く飾られている。加えて季節に合わせた様々な植木も飾られており、その中にポイと指輪を投げ捨てられては見つけ出すのは至難の技であった。
「貴方とは婚約破棄させていただきます!」
堪らず、そう叫んだのはアリスの方であった。
もちろん、貴族同士の結婚がそんな一言で覆るはずがない。
そもそもこの婚約は、王家と公爵家が互いに「高貴な血筋を絶やさないため」という目的が一致したために結ばれたものだ。そこに本人の意向など関係なく、カールにもアリスにも婚約破棄をする権限は存在しない。
激怒するアリスを宥めすかし――尤も、アリスの母親であるエリクソン公爵夫人は母から受け継ぎ、娘へと託したその指輪を目の前で投げ捨てられたとあって「アリスの意思を尊重すべきだ」と憤慨していたが――アリスは「カール殿下との仲を深めるために」という名目で、王宮住まいを強いられることになった。
◇
結論から言うと、アリスとカールの仲が進展することはなかった。
アリスはあの指輪をなんとか見つけ出そうと、王宮の庭を一人捜し回る。カールはというとそんな彼女を馬鹿にし、従者まで巻き込んで嘲笑うばかり。
「あの指輪、そんなに高価なものだったのか?」
一度だけカールはそう尋ねたが、それはアリスの身を案じてのことではない。ただあまりにアリスが必死になるから不思議に思って、そう尋ねただけである。その裏に「もし高額なものであれば、王家が弁償しなければならないかもしれない」という懸念まであったかどうかはわからない。それでもアリスはカールが少しでも反省したか、と思い指輪のことを語った。
「あの指輪は我がエリクソン公爵家の人々を見守り、支えてくれた大事な存在です。きっとその中にはとても優しく、温かな心が宿っているのだと思います。だから、きちんと見つけてあげなきゃ可哀想です。あの指輪は長い間、私たち一族と共に過ごしてきた家族のようなものですから」
そう話すアリスの目には、確かな慈しみの情が宿っている。先人たちから受け継がれてきた歴史への敬意。家族と共に過ごし、積み重ねていったものへの親しみ。その重さと愛おしさを知っていたアリスはだからこそ、必死に指輪を探した。
しかし、残念ながらカールはその辺りの事情を、理解することができなかったようである。「物に心なんて宿るわけないだろう」と一蹴するとすぐにアリスに背を向け、その日の二人の会話はそれだけで終わってしまった。
アリスは指輪を投げ捨てられたその日から既にカールに見切りをつけていたので、彼のそっけない態度を悲しいとは思わなかった。それよりも心配なのは、指輪のことである。良識ある侍女や騎士はそれとなくアリスを気にかけ、なるべく指輪を探してくれているようだが指輪は一向に見つからない。あの指輪に心が宿っている、と信じているアリスは指輪の気持ちを思うと胸が痛んだ。
(きっとあの指輪は寂しくて、心細い思いをしているに違いないわ。やっぱり、早く見つけてあげないと)
そう気を引き締めたアリスは再び目を凝らし、指輪を探して庭中を歩き回るのだった。
◇
さて、エリクソン公爵家の指輪に「不思議な力がある」のではなく「心が宿っている」と言われているのには理由がある。
指輪はエリクソン公爵家の人々を愛している。だから公爵家の意に反し、その手から離れるようなことがあれば指輪はそれを嘆き悲しみ、なんとかエリクソン公爵家の元へと戻ろうとするのだ。
だが、自分では動くことも声を発することもできない指輪がどうやってそれをするのか。その答えは非常に簡単で、エリクソン公爵家に「自分はここにいる」とわからせるようにするのである。
幸運を招き、災厄を遠ざける。それができるのなら、逆もまた可能。訪れるはずの幸せを打ち壊し、避けられる不幸をあえて引き寄せる。そうやって指輪はエリクソン公爵家に自分の居場所を報せ、同時に不当な扱いを受けたことへの復讐を成し遂げるのである。
◇
「どういうことだ……」
カールの父である国王は頭を抱えていた。
近頃、王宮で蕁麻疹を訴える人間が増えている。それも侍女や近衛兵といった職業に関わらず、ほとんど無差別に症状が出ているのだ。伝染病を危惧し王家の人間はすぐ離れへと隔離されたものの、原因不明とあって王宮内では不穏な空気が漂っている。
引きこもる王家の人間の代わりに、王宮内を歩くのは大臣や騎士といった臣下の人々である。彼らもまた色々と苛立ちを抱えていて——体調が優れない日が多くなった、なぜかよく落とし物をするようになったなど小さな不幸の積み重ねも加わって、王宮の中ではずっと殺伐とした空気が漂っている。
すっと通った鼻筋にきりりとした眉、上背がある恵まれた体格の騎士ハンス・ハルケットもそんな空気の中で不安を抱えている人間の一人だった。
ハンスは伯爵家の三男であり、それなりに剣の腕があったことから士官としての道を進むこととなった。日々の訓練は厳しいものの、気心の知れた仲間と共にそれなりに充実した毎日を送っている。だが、同期の中で例の蕁麻疹を発症した者がいて身の回りの空気は緊迫したものへと変化していた。
「蕁麻疹を訴えた騎士たちの名簿一覧です。この騎士たちと関わりのあった者には感染の疑いがあるので、くれぐれもご注意ください……」
王宮医師は不安定な状況でなんとか混乱を収めようと、そう話しては名簿を配っている。そこに掲載されていた名前に、ハンスは違和感を覚えた。
(全員、あの令嬢がいる場所に近づいたことのある者だ……)
あの令嬢、というのはアリスのことである。
エリクソン公爵令嬢であり暫定カールの婚約者である彼女の名は、ハンスの耳にも入っていた。
家宝の指輪を王子に投げ捨てられた可哀想な少女。根拠のない迷信を信じて必死に庭を這いつくばる愚かな令嬢。自ら婚約破棄を言い渡したのに、なぜか王宮に居座っているおかしな女。よほど指輪が大切なのか、なりふり構わず必死で庭を探し回る女性……その噂の内容は語り手によって様々だが、いずれも蕁麻疹に苦しんでいる人間が関わっていたことは記憶に新しい。逆に言えば王宮内でアリスに関わった人間——ただしアリスに少なからず同情し、なるべく庭を気にかけるようにしていた者は除いてだがハンスはこの時それに気づかなかった——カールとともにアリスを笑い、蔑むような発言をした者は全員、蕁麻疹を発症しているのである。
となると、蕁麻疹はアリスに関わるものなのではないか?
そう考えたハンスは颯爽と庭へと駆け出し、アリスの姿を探していた。
◇
「失礼、アリス様。このようなところで一体何をなさっているのでしょう?」
アリスの姿を見つけたハンスは敬礼し、茂みに半分体を突っ込んでいたアリスへそう声をかけた。
聞かずとも、アリスが指輪を探していることは既に知っている。だがこちらの意図を悟られないように警戒し、あえてそう尋ねたのだ。
そんな目論見を知らないアリスは一度、驚いたように体を震わせると恥ずかしそうに立ち上がる。
……よほど熱心に庭を探し回っているのだろう。手入れされた髪と簡素なワンピースには、たくさんの葉っぱがくっついている。白い指には無数の切り傷ができており、痛々しさを感じさせた。
どうやらアリスの探している指輪は単に「お気に入り」の一言で片付けられるほど、簡単なものではないらしい。そう感じるハンスにアリスは慌てて、スカートの裾をつまみ簡単な挨拶をしてみせる。
「お見苦しいところを見せてしまい、大変申し訳ございません。実は、ずっと指輪を探しているんです。たぶん、この辺りに投げられた筈なのですが……」
「指輪を投げたのですか? 一体誰が?」
「……カール殿下です。婚約者としての顔合わせの際に、ひょいと取り上げられてしまって……」
アリスは今までの経緯をかいつまんで話す。それを聞いたハンスは眉を顰めつつ、やはり自分の直感——王宮で流行している蕁麻疹の原因が実はアリスにあるのではないか、という予想は正しかったのではないかと考えた。
「……でしたら、僕も一緒にその指輪をお探しいたしましょう。王宮内とはいえ若い女性が一人で出歩くのは良くないですし、騎士として王宮内にいる人間、ましてあなたのような女性を守るのは僕の仕事ですから。僕は背が高いので、あなたでは目の届かない木々の上の方を探してみます」
ハンスの提案に、アリスは「本当ですか!?」と顔を輝かせる。その表情は長い冬を堪え忍んだ植物が見事に花開かせるようで、ハンスの心にぐっと何かが突き刺さった。
ここ最近、暗い顔の人間ばかり見ていたからだ。自分は蕁麻疹の原因を疑っているだけで、特に公爵令嬢と親密になりたいわけではない。そう自分に言い聞かせながらハンスはアリスから指輪の特徴を聞き出し、彼女の指輪探しを手伝うことを決めたのだった。
◇
「あああああっ! 痒い! 痒い! 誰かこの痒みをなんとかしてくれ!」
王族のためにと用意されたベッドの上で、のたうち回っているのはカールであった。
蕁麻疹が感染症であることを考え、即刻王家だけは安全な場所に移動したもののなぜかカールだけが右腕全体に蕁麻疹が出ていた。それもちょうど親指と人差し指から徐々に、木の枝が広がっていくような形で蕁麻疹が出ているのだ。その異様な形に王宮の医師たちは首をひねるが、国王だけは思い当たる節があったのかカールを問い詰める。
「カール。お前のその指は、アリス・エリクソン公爵令嬢の指輪を投げた指ではないか?」
そう聞かれれば、カールは思い当たるところがあったのかぎょっとしたように自分の右手を見る。
カールは普段から右利きで、ペンを持つ時もカップを持つ時も右手でそれを行う。だからアリスとの顔合わせの時、指輪を投げたのも当然右手である。そして指輪のような小さなものを手にするのであれば、それは当然二本の指——即ち、親指と人差し指になるに違いない。
「エリクソン公爵家のあの指輪が心を持っているとは聞いたが、まさかこの事態も……すぐにエリクソン公爵夫妻を呼べ! あの二人に詳細を問い質すのだ!」
国王の命に従い、すぐに従者が王宮内を駆け抜けていく。だが、その勢いに負けじとばかりに今度はカールの指から腕にかけて痛みがほとばしる。
「っ痛い! 今度は痛い! 父上、この痛みをなんとかしてください……!」
カールに涙目でそう懇願されても、国王にできることは何もない。ただ歯がゆそうに、それでも諦めたような表情で「この馬鹿息子が……」と呟くしかできなかった。
◇
カールの腕の痒み・痛みや王宮内で蕁麻疹が流行している件については一応、アリスの元にも話が届くこととなった。もちろん、あの指輪が関係しているかもしれないことも含めて説明されたがアリスはそれを信じることができない。
「あの指輪は、エリクソン公爵家に繁栄をもたらすものです。それがそんな、人々に災いをもたらすなんて……」
指輪はただの装飾具ではなく、家が一軒建つほど高価なものや呪術的な意味合いを持つものも数多く存在する。だから指輪を大切に扱い続けたアリスは知らなかった。過去にエリクソン公爵家から指輪が「誘拐」された時、指輪はその周辺で今回と似たようなことを起こし再びエリクソン公爵家に戻ってきたことを。自分をエリクソン公爵家から連れ去った犯人に、指輪が必ず制裁を加えていたことを。
人の物を盗んではいけない。
世界中、あらゆる文化の中でも親が子どもにまず教えるべき社会道徳はそれではないだろうか。
カールは王族という身でありながらそれを破り、それをアリスの目の前で捨て去るという暴挙に出た。だから罰が下るのは当然の結果と言えるのだが、それはエリクソン公爵家も王族も知ったことではない。
ただ、暫定カールの婚約者であるアリスにはカールのお見舞いに行くようにと命じ——否、王妃に「アリスが許してくれれば少しでもカールの症状が弱まるかもしれない」と懇願され、アリスはしぶしぶカールの寝室を訪れることになっていた。
「カール殿下、お見舞いに来ました。腕の調子は、いかがですか?」
元より歩み寄る努力をしなかった二人だ。第一声がそのような無難かつ適当な言葉になってしまうのは仕方がない。だがカールはそれが気に入らなかったのか、あるいはただ単に痛みによる八つ当たりが目を吊り上げてアリスを怒鳴りつけた。
「何が『いかがですか』だ! お前のせいでこうなったんだぞ! お前は魔女だ、悪魔だ! 王宮に呪いを蔓延させて、王家を滅ぼすつもりなんだろう! 今すぐこの場を立ち去れ! 二度とその汚い顔を見せるな!」
言うが早いか、カールはベッドの側に置いてあった花瓶を左手で持ち、それをアリスへと投げつける。利き腕でなかったからかその威力は小さかったものの、アリスの心と花瓶を破壊するには十分だった。
アリスが悲鳴を上げ、王子の寝室から逃げ去っていくのはガシャン! という派手な音が王宮に響き渡るのとほぼ同じだった。
◇
「どうしたんですか、アリス様」
困惑しながら、ハンスはそう尋ねた。
指輪を探している最中に色々な話をした二人はいつの間にか打ち解け、砕けた会話ができるようになっていた。
というより、アリスの純朴な性格と現状にめげずなんとか指輪を探し出そうとする意思の強さにハンスがいつしか心を惹かれ、彼女が蕁麻疹の原因であると疑っていたことを懺悔する形で二人は友好的な関係を築けるようになったのだ。
そんな大事な——一応カールの婚約者であり、騎士である自分が素直に「思い人」と言うことはできないが、大切なアリスがスカートを濡らし泣いているのを見ればハンスが心配をするのは当然のことである。
アリスは泣きながら一連の出来事を話した。
王妃に嘆願され仕方なくカールの見舞いに行ったこと。その先でカール殿下に怒鳴られた上、花瓶を投げつけられたこと。それを話している間もアリスの目から涙が止まることはなく——それどころか、花瓶の破片で切ったのかアリスの手からは血が流れていた。
ハンスはアリスを宥めながら、心の中で「王宮の騎士」という自分の立場を忘れるほどに激怒していた。
そもそも事の発端は、アリスの指輪をカールが投げ出したことである。それをアリスのせいにし、あまつさえ手を上げるなど騎士であるハンスにしてみれば愚かで恥じ入るべき行為だった。
「王家に仕える騎士」と「騎士道精神を重んじる騎士」。どちらも同じような存在といって差し支えないが、ハンスはどちらかというと後者に近い存在だった。騎士は単なる兵士ではなく己の剣に誇りを持ち、女性や子どもなどの弱者を労り守るような存在でなければならない。剣の腕を評価され、騎士になったハンスにとってそれは自身の最大の矜持だった。
今から口にすることはその騎士道精神に反するだろう。それを理解しながらハンスはアリスの手に応急処置を施し、意を決して口を開く。
「僕は、あなたがこのような目に遭うことをとても理不尽に思っています。それは騎士道精神に反するというだけではなく、あなたという大切な存在が蔑ろにされ傷つけられたことが許せないからです。僕なら、あなたにこんな思いをさせることはしません。どうか、あなたさえ良ければ僕の妻になっていただけないでしょうか」
ともすれば不敬罪として処刑されかねない、ハンスの言葉。彼はそれでも目の前のアリスを慰め、せめて自分だけはアリスを愛しているということを今この場で伝えたかった。それを聞いたアリスは戸惑い、顔を上げる。
心理学の世界には「単純接触効果」という言葉がある。簡単に言うと、会う回数が増えれば相手を好きになるのである。初対面からいきなり自分を見下し、自分の宝物である指輪を奪い盗った上に窓から放り投げたカール。騎士であるとはいえ恭しく挨拶をし、一緒に指輪を探してくれたハンス。どちらがアリスにとって大切な存在であるかは明らかであった。
「けど……私は……」
仮にもカールの婚約者であるという立場。公爵令嬢としてのしがらみ。両親や国王夫妻の承諾。様々な背景を抱え、素直に頷けないアリスにそっとハンスは微笑みかける。
「アリス様の立場を考えれば、簡単にお返事できないのはわかっております。ですからどうか、頭の隅にでも留めておいてください。それに、まずはアリス様の大切な指輪を見つける方が先でしょうから」
どこまでもアリスの身を重んじるハンスの言葉に、アリスは先ほどとは違った涙が流れて止まらなくなる。
(あぁ。私、本当はこういう人の妻になりたいのに……)
そう思いながら、アリスが、背の高いハンスの顔を見上げると——
「あっ!」
思わず声を上げるアリスに、ハンスが「どうしましたか?」と尋ねる。
「あの木の、葉の合間を見てください! あそこに! あそこに私の指輪があります!」
アリスが指さす方向に、ハンスは目を向ける。
そこにあるのはこの国ではよく見られるありふれた針葉樹の一種だった。その木の葉は動物の毛皮のように細長いもので、その隙間を見るとなると困難なのだが——ハンスに、アリスの目を疑うという選択肢は存在しない。
「僕が木を登りますから、アリス様はそこで指示を出してください。僕がなんとか、その指輪を取ってみせます」
力強くそう告げたハンスはアリスが止める間もなく、木に登り始める。
騎士が王宮の庭に植えてある木に登るなど、本来なら許されないことだ。だがハンスは、アリスの意思を尊重する方を優先した。アリスもそんなハンスの意を汲んで、懸命に目を凝らす。
「ハンス様、どうかお気をつけください! もう少し右の……あぁ、今ハンス様の斜め上にある枝です! その枝に引っかかっておりますから、枝をほんの少し揺らしてください!」
アリスに言われるがままハンスは騎士として鍛えた腕を伸ばし、枝を小刻みに振る。すると、葉っぱとともに何か煌めくものが地面に落ちていくのが見えた。
「あった! ありましたハンス様!」
アリスが感動を顔いっぱいに表し、飛び上がるように喜びながらそう笑う。
涙で目が潤んだことによって指輪の輝きに気がついたか。あるいは、指輪がアリスを呼び寄せたのか。エリクソン公爵家の指輪は無事に、アリスの元へと戻ってきた。登ってきた木を降りたハンスもそれを喜び、アリスの手を握る。
「良かったですね、アリス様」
そうハンスが告げると、アリスの手の中にあった指輪が不自然に転げ落ち、ハンスが慌ててそれを拾おうとする。
アリスもせっかく見つけた指輪を失っては堪らない、と手を伸ばせば。
指輪はぴたり、とアリスの左手薬指にはまった。
「え……なんで……?」
偶然にしては出来すぎているその出来事に、アリスとハンスはお互い顔を見合わせ目を見開く。そのまま、どうしたらいいのかわからず固まっているとアリスを呼ぶ声が聞こえた。
聞き慣れた声だ、と思ったらそれはアリスの従者だった。
「国王夫妻と公爵夫妻がお待ちです。どうか、お急ぎください」
言うが早いか従者はアリスの手を、そして当然のようにハンスの手も引いて走っていく。
冷静に考えれば若い女性であるアリスが騎士とはいえ男性と二人でいたこと、その男性を今から向かう場所に一緒に連れて行く必要などないはずなのだが——なぜだか誰も、それをおかしいと思わなかった。
◇
「カール殿下の暴言及び暴行を理由にしてアリス・エリクソン公爵令嬢からの婚約破棄。並びに騎士であるハンス・ハルケットとの婚約許可をいただける、ということでよろしいでしょうか?」
エリクソン公爵は冷静に、一言一句全てを確認するようにはっきりとそう尋ねる。国王は苦虫を噛み潰したような表情で、王妃は真っ青な顔でそれを肯定した。エリクソン公爵夫人は無表情だがどこか満足げに、新たに婚約を結ぶことになった娘アリスとその婚約者・ハンスを見つめる。
「私のお祖母様がその昔、例の指輪をとある伯爵夫人に盗まれた際に同じようなことが起きたとお聞きしています」
国王陛下に王宮内で発生している蕁麻疹と指輪の関係性について問われ、エリクソン公爵夫人はそう口を開いた。
彼女の語るところによると、それが起きたのは彼女の祖母がまだ幼い頃であったというからもう何十年も前のことになるらしい。
ある伯爵夫人が当時のエリクソン公爵夫妻の仲の良さを妬み、舞踏会の最中に躓いたふりをしてエリクソン公爵夫人から例の指輪を盗んだ。すると伯爵夫人の一家全員がなぜか咳をするようになり、しかもそれが止まらなくなった。
「当時の公爵夫人がすぐに、指輪が『自分を助けてくれ』と訴えていることに気がつき伯爵夫人を問い詰めたことで咳はぴたりと止みました。ですがそれまでは本当に命も危ないという状態で、まだ幼い伯爵家の末っ子は遅ければ死の危険すらあったと聞いております」
そう聞いた国王夫妻は真っ青になった。特に王妃は目眩を感じ、側にいる侍女に体を支えてもらわなければそのまま倒れてしまうところだった。
出来が悪くても、息子は息子。カールに王子の器に収まるほどの力が無いことはとっくにわかってはいたが、それでも王妃はカールを愛していた。しかし、見舞いに来てくれたアリスに花瓶を投げつけたという愚行を聞くとさしもの王妃も情けなくなり、言葉が出なくなった。
この子はもう、どこに出しても恥を晒すしかできない。
そう決めてカールを切り捨てる決意をしたものの、死ぬかもしれないとなれば母としての良心が痛む。その隣で国王はなんとか冷静さを取り戻し、すぐ騎士たちに「なんとか庭中を探してアリスの指輪を見つけ出せ」と命じた。
どうやらハンスが木を登っていたことや、アリスと一緒にいたのもその指示を受けてのことだと思ったらしく——国王陛下は頭を下げ、なんとかアリスとハンスに許しを請うた。
「私の可能な限りであれば、どのような願いも叶えて遣わす。だからどうか、指輪の怒りを鎮めてほしい。そうでなければ王家の血筋も途絶えてしまうし、国が乱れてしまう。頼む、この通りだ」
それは穿った見方をすれば、国を人質にとっての脅迫なのだがアリスもハンスもそれを許すことにしたらしい。その代わりに、二人が願ったことはそれぞれ一つずつ。
アリスの願いは、「カールとの婚約を王家有責で解消すること」。
ハンスの願いは、「アリスとの婚約を許可してほしい」だった。
王家有責での婚約破棄となれば公爵家には莫大な慰謝料を支払わなければならなくなる。それを言い逃れようものなら国王として、延いては貴族全体の信用問題に関わるだろう。王妃としてもカールには何か罰を与えなければ、と考えていたのでアリスの願いはその場であっさり承諾された。
意外にもハンスの願いの方が難航し——と言っても、伯爵家から公爵家に婿入りという快挙にハルケット伯爵夫妻が慌てふためき、許可の返事を出すのに時間がかかってしまっただけだが——アリスとハンスは王宮で蕁麻疹にかかっていた人々が全員、完治するまで待たされることとなった。
尚、一番症状がひどかったカールはその治りも遅く右腕に跡が残ったが、「反省の色が見られない」「そもそも全ての元凶である」という理由で隣国への強制留学が決定した。
結局、最後まで我が子への情を捨てきれなかった国王夫妻だがカールの兄たちは違う。自分たちの両親を反面教師にしようと誓った彼らは、良くも悪くも「王族」として自分たちがどう動くべきかを理解している。カールが慣れない土地で「不幸な事故」や「急病による隔離施設への収容」といった事態になっても、受け入れる覚悟はできているようだ。カールがこの国に帰ってこられるのはいつになるか、もしかしたらもう帰ってこれなくなるかもしれないが——少なくともアリス、並びにエリクソン公爵家に害をなすようなことをしなければ、指輪ももう怒りはしないだろう。
◇
そうして数年後。
ハンスはアリスの手を取り、その左手薬指に改めてあの指輪をはめる。
今日は二人の結婚式だ。微笑ましく二人を見守る公爵夫妻と、未だに緊張が解けないらしいハルケット伯爵夫妻。他にも大勢の参加者が集まり、愛し合う二人の門出を人々は心の底から祝福した。
「ハンス様。私、とっても幸せです」
ハンスに口づけられ、弾けるような笑顔を見せるアリス。その薬指で笑うように、指輪がキラリと輝きを放った。
1/3 日間異世界〔恋愛〕 BEST100 1位ありがとうございます。