支度は万全に
「ただいま戻りましたぁ…。」
そーっと扉を開けると、ちょうど長男が出かけるところだったらしい。家じゅうのメイドと執事達が見送りのために整列をしていた。ゆっくりと階段の上から長男が降りてくる。ぴしりと糊がかかったスーツにオールバックで整えられた赤茶の髪。それに整った顔立ちをしているのだから女性に人気があるのもうなずける。
病弱に見えるこの風貌はどうやら私を引き取った当主の肖像画にそっくりだった。ああでも、当主は最期には健康そのものだったと聞いたっけ?
「行ってらっしゃいませ、お兄様。」
町娘の恰好のままではあるけれどスカートの端をつまんでにっこり、挨拶をする。長男は「ああ。」とだけ言って私の横を通り抜けた。
町娘の恰好を指摘されないのも、挨拶を一言で片づけられることももう慣れっこね。もしかして世の中の兄弟ってこんな感じなのかしら。
兄様が家から出るのを見送って自分の部屋へ戻る。必要そうなものを引っ張り出していったら、頭の中はもう迷い森の事でいっぱいになっていた。私も一度迷い森に入ったことがある。まあ、どうせ迷わないでしょうと高を括っていたのだけれど普通に迷ったわ。途中で救援隊に助けられなかったら結構まずかったかも。
と、いうわけで今回は準備をきちんとしていきましょう。パンと干し肉の携帯食料、紐、小石とそれからナイフ。今回は猟銃を持っていくのはやめておく。重いし、走って逃げるには向いていないわ。
必要なものを全て袋に詰めて背負う。最後に手持ちのランプを持とうと机の上を見ると、そこには私への招待状やら手紙やらが散乱していた。
「あっちゃあ…そういえば帰ったら片付けようと思っていたんだったわ。」
ランバルト家は首都からは遠く離れている…まあ、言ってしまえば田舎にあるのだけれど、それでも領主は領主ということなのだろう。よくダンスパーティーや新事業の勧誘が良く来る。私の存在は対外的にはあまり公にはなっていない。きっとあの家には滅多に出てこない末の娘がいるらしい程度に捉えられているのだろう。けれど、それでも何らかの誘いの手紙は来るのである。でも、私はダンスとか新商品とかに興味はないからこうして机にだんだん溜まっていくのだ。
「ええーと、ダンスダンスダンスダンスお茶会ダンスにダンス…。」
すごい。びっくりするほどダンスばっかり。兄様たちのように家名を背負う方々には重要なものなのでしょうけど…。
「ん?」
ほとんどを捨てようとする中で私の目に留まったのは一通の招待状だった。
「セイレン号10周年記念航海の招待状…?」
セイレン号といえばこのクトール地方にあるクトール海から出ている客船だ。何年か前にひどい嵐に遭っても帰港した奇跡の船として話題になっていたっけ。
「“あなたに忘れられない航海を”、ねぇ。」
目に留まったキャッチフレーズを読み上げてみる。ダンス以外のお誘いが入っているなんて珍しい。こういった招待状はお兄様やお姉様に先に渡されるのだけど。大方、お兄様たちの目にかなう方は招待されていなかったのでしょうね。私に回ってくるのはだい~ぶ、ないことだもの。
「出港は…一週間後ね。船に乗るのなんて初めてだわ!でも一週間のクルーズなんて許可されるのかしら?」
きっと反対されることはないけれど了承を得ておく必要はある。招待状は一応保留ということで、机のわきによけておいた。
ランプを手に、最後にもう一度忘れ物が無いか部屋の中を見回して確認し、私は部屋を出た。