Re:clear blueberry
最近気になる人物が居る。といっても、意中の人であるとか要注意人物とかではない。
思考が読めない謎バイト君のことである。
西藤明――履歴書を見た時、サイトウメイ、とフリガナが振られているのに気づいた。これはアキラではなくてメイと読むのか、女の子みたいな名前だな、との感想を持ったのが面接時だ。彼は名前と外見で著しいギャップがあった。額の出た短髪、眼鏡を掛けていてやや釣り眼、いかにも理系ですと言わんばかりの見た目。就活を終えたので週四日で入りたいという。広告会社の雑用より家庭教師などをしたほうが良いのではと思ったけれど、志望動機を聞いた私に、彼はこの業界への興味・業務内容への興味・交通の利便性を訥々(とつとつ)と語り、結果、上長のお眼鏡に適ってあっさり採用された。
見た目通りのキッチリさで、彼は淡々と業務をこなした。指示通り的確に仕事を片付けていくので、始終おおわらわな部署で重宝した。周囲の評判は上々、面接に立ち会ったこちらも一安心――であるはずが、私は手放しで喜べなかった。
――誰にも言えない。気になる要因は、彼がブルーベリーの匂いをまとわり付かせていたから、だとは。
事の発端は、廊下で彼とすれ違った時のことだ。ベリー系の中でも甘酸っぱく、渋みのある匂い……そんな匂いが彼からふわりと漂ってきたので、絶句した。甘ったるい香水をつけるイメージとはかけ離れている彼が、よもや私の、かつての『思い出』の匂いをまとわりつかせていたことが許せなかった。
決定打で彼は私の中で「気になる存在」となったというわけだ。ただし、やや否定的な意味合いで。
大体、彼の内心は読めなさすぎる。この間の飲み会でも、彼の緊張を解さなければと普段は人に聞かない恋話を思い切って聞いてみれば、オブラートに包んだ答え方をされた。普段の仕事ぶりだって同じことだ、仕事中雑談せずに黙々こなす、仕事を終えればさっさと帰る。そのくせ仕事外を聞けば「話す義務はない」と言わんばかりにそっけない。表情といい、態度といい、靄に隠しているというか、煙に巻くというか、本心が見えてこないというか、つまりは――
「不透明なのよね」
ついに本人を目の前にして本音が出ていた。
「何がですか」
「ひ、独り言よ。気にしないで」
はっと気が付き、慌てて手元の資料に目を落とした。場所はミーティングルーム、広げていたのはシフト表と自己申告のアンケートである。向かいの席には彼が居る。上長の気まぐれで、チームごとにメンバーと一対一で話す時間を設けようということになり、彼の番がやってきたのだ。とはいっても、今後の展望、職場の改善要望等々、実際聞くのはチームを束ねる私になる。
平静を取り戻すべく、私は面談の続きで彼に訊ねた。
「それで西藤くん、何か困ってることはない? 仕事がやりづらいとか、誰かに難癖つけられて困ってるだとか」
「…………特にありません」
返事の前のこの長い間は、何の意図があるのだろう。
相変わらず彼の表情は読めない。もしかして早く帰りたいがために会話を終わらせようとしているのだろうか。そうだとしても、彼の上がり時間に合わせて仕事を切り上げ面談を行っている私の立場はどうなる。即終了し、上長に面談の結果が報告できなくなるのは避けたい。
危ぶんで場を繋げようとしたところで、私は相手が文字通り口を開くのに気付いた。話は続きがあったらしい。
「…皆さん優しいし、それなりに楽しくやらせてもらってます。俺は3月までだけど、就職こっちにしてもいいって思ったくらいです」
「そ、そう」
相槌を打ちながら、じっと彼の顔を見る。無口そうな容貌と裏腹に、話すときは一通り話すのが彼だ。相変わらず何を考えているのか表情は読めないが、言い分をそのまま信じるのならば、現況に特別不満を抱えているわけではないようだった。
……そういえば、この子は理系男子の見た目の割りに、今時の砕けた敬語なのよね。
「今時の」とは自分が明らかに年を取ったような気分だが、実際彼と私では両手を使ってなおある年齢差なのだから、年長者の感想を洩らすのは当然だろう。理系男子でも砕けた敬語を使うのは、まだまだ年相応の青年というべきか。
……結構肌も綺麗だし、指も細いと思っていたけど間近で見ると骨太だし――眼鏡もお洒落系を掛けてきてるし、身だしなみに疎いってことでもないのよね。
今日はあの香水をつけているのだろうか。いくら真向かいでも、この距離では匂いが届かない。この際、思い切って訊いてみるのはどうだろうか。あなたには女性用のブルーベリー香水を付けるような趣味があるの? ……いくら何でもこの場で聞くには勇気の要る質問であるが。
けれどその匂いをまとわりつかせている事実は、私の心に漣を立てた。
「あのね、西藤くん。ずっと言おうと思っていたんだけれど」
声の調子を下げないよう気を使いつつ、私は切り出した。今はブルーベリーの件とは切り離すべきだと理解している。手元の資料に目線を落としたのは、真向かいに座る彼の顔を見ないようにするためだった。
「人に何か聞かれたら、うまく言葉にしなきゃ駄目よ。西藤くんも4月からは社会人でしょう? 今はバイトで許されるけれど――話さなきゃ誤解されたままになることだってあるんだから」
「………」
「ここでの経験を次に生かしてもらいたいの。ね」
「………それは、チーフとしての助言ですか。それとも大人の女の余裕ですか」
思い掛けない一言に、顔が引き上げられる。今、この場にそぐわない発言を聞いたような。
「何でもかんでも言葉にすればいいってわけじゃないですよ。そういう経験、ないんですか」
だが私と彼以外、このミーティングルームには居ない。目の前にいる彼は、いつもと変わらない喋り方だ。感情を表さずに、あっさりとした、抑揚の乏しい言い方。それなのに何故だろう、私は瞬きを忘れてしまうほど意表を突かれていた。大人の女の余裕――先ほどの彼の言葉が頭中を巡る。女性、とでも言いそうな人物の口から、女 とダイレクトに聞かされたせいで、動揺していた。
「俺はあります」
おもむろに彼が眼を向ける。視線を強制的に戻された後で、じっと見られるというのは、なんと居心地悪く、平静が装えなくなることなのだろう。うろたえるより先に、見据えるその真剣な瞳が私を引き込んでいた。
「言葉にすると崩れてしまうから、言えないんです」
言の葉を重ねるのならば、彼の眼差しは、新しく生まれ変わるのを待つ、東雲の光のようだった。朝まだきに差し込む光のようだった。無駄がなく、かつ透き通った光を放つ、瑞々しさあふれる青年の瞳だった。
その眼鏡越しの真摯な眼差しは――私の中のある記憶を呼び起こした。
朝の差し込む光で起きた私の隣で、その人はもうブルーベリーの香りを放っていた。すれ違ったとき、口付けた時、ふんわりブルーベリーの香が香ってきて安心できた。「噛んでると頭をリセットしてくれるから好きなんだよ」、ガムを噛む理由をそう話していた。ミント味は苦手らしく、ブルーベリー味のガムを好んで買っていた。「どうせなら辛いのより、甘いほうがいいだろ?」――物事においても、連れ添う人も、そんな基準で選ぶ人だった。
その人が他の誰かと歩いていても、私は問いただそうとしなかった。関係が崩れてしまう、言葉にしてしまったらきっと日常が瓦解してしまう、そう感じて、知らぬ振りをし続けた。「お前はおれを好きじゃなかったんだよな」、別れを切り出されたときも、真っ直ぐな瞳に何も言えず、望みに応えた。結局、辛いミントの私より、甘いブルーベリーの彼女を選ぶ人だったのだ。
確かに、ある。私にだってそういった経験が。云えずに終わらせて、思い出としていたことが。
「――あるわよ。あなたより何年も生きているんだから、私にだってそれくらい」
社会に出て、会社勤めをするようになって、私は顔に出さない術を身に付けた。考えとは裏腹の言葉を吐く行為にも慣れていった。大人になるとは嘘を積み重ねて平気な顔をしていくことだろうと悟った。
私は莫迦だろうか。今頃になって気が付いた。バイトの男の子に「うまく言葉にしないといけない」なんて言いながら、壊れることを恐れて云わないままにしていたことがあった。思い出のひとつとして善しとしていた。滑稽だった。指摘されるまで気づかなかった自分を恥じた。蓋をしていた過去が、濁流になって押し寄せる。いつまで経っても私は大人になりきれない。今であっても、昔を思い出して、柄にもなく泣きたい気持ちを堪えて話している。
「西藤くんがこんなに喋ってくれるなんて思わなかったわ。でも、何を考えているのか少し知りたかったから、いい機会だったかも」
内心を悟らせないように、笑顔で取り繕う。無駄に資料を揃える仕草をして、場を保たせようとする。
「正直に言うとね、私、昔を思い出すから 西藤くんの付けてる香水が好きじゃなかったの。……でも『思い出』で誤魔化してただけなのよね。それがよく分かったわ」
私は、行動しなかった顛末を、思い出で片付けようとしていたのかも知れない。
「面談はこれで終わりにしましょう。時間を取らせてごめんなさい。気をつけて帰って…――」
言い終わらないうちにふわりと漂ってきたのは――大好きだったあの人と、同じ香りで。
思考が追いつかなかった。机ひとつ隔てる距離にあった彼の顔が、視点が定まらなくなるほど眼前に迫っていたからだ。
天板がぎしりと軋んだ。唇が触れるか触れないかの距離で止まる。彼の吐息を口の縁取りで感じた。
「なっ」
チーフにあるまじき驚いた声を出して、私はのけぞる。今、彼は私に何をしようとしたのか。
机に体重を掛けていた手が引き下がった。机に体重を掛け、上半身を押し上げて向かいの私に近づいていた彼は、体を元の場所に移した。
「香水って、きっと姉が買ってきたシャンプーのことですよね。ここ最近、それしかなくて家族で使う羽目になってたんです」
言動を詫びるよりも先に、彼はそんなことを口にした。
「……すみません。一瞬できるものかと思って、体が動きました」
二言目もまた、謝罪より迂遠な、平静極まりない言い方で。
「チーフが泣いてるように、見えたから」
……泣いているように見えた?
はっと手を顔に付けるが、涙など出てもいないし、泣き声だったわけでもない。
「明日から無視してくれていいです。言わないつもりだったのに、態度で示してしまったから。俺は――言葉にしなくていいこともあるって、貴方に知って欲しかっただけだから」
彼は隣の机に置いてある自分の鞄をひったくると、がたんと席を立った。風切る速さでミーティングルームのドアが開けられる。呆気ない幕切れに暫し私が動けない間に、彼はその場から去っていた。
「………」
次第に顔に熱が集まってくる。
明日から無視しろ、とは難儀なことを言ってのける青年だ。いくら私が年上の女でチーフだからとはいえ、こんなことに耐性はない。顔を合わせる職場で明日も同じように仕事をこなせるほど出来た人間ではない。大体、皆が皆、彼と同スペックのポーカーフェイスができると思ったら大間違いだ。
勝手に生意気なこと言って、勝手に口付けの寸止めまでして、あのような捨て台詞を吐いて出て行くとは、人の気持ちを掻き乱していくにも程がある。
「なんなのよ……もう」
未だ部屋に甘いブルーベリーの香が漂ってくるような気がする。
そういえば彼はその匂いをまとわりつかせている理由を言っていた。姉が買ってきたシャンプーを家族で使う羽目になったと。……つまり、ブルーベリーの香りのヘアコロンシャンプーを使っていて、彼は私の『思い出』の香をふわりと漂わせていたわけだ。
「……ふふっ…」
よりにもよって、あの理系男子がヘアコロンシャンプーを使って匂いを撒き散らしていたとは。ひとりで思い出し笑いをしてしまった。きっと彼の家では家族全員がブルーベリーの香に包まれているんだろう。
匂いが引き金となり、彼の顔を見ては複雑に思ったものだが――それは彼に苦々しい思い出を仮託してしまっていた所為だ。けれど今は、香りの出所が判明したからか、不可思議な痛みに変わっている。そう、例えるならば、渋みと甘酸っぱさが同居する、あの果実と同じもの。
深呼吸をして部屋全体を見回した私は、隣の机にちょこんと紺色のマフラーが置き去りになっているのに気が付いた。慌てて出て行ったことが窺える。ひょっとしたら、彼らしからぬ失敗と言えるのかも知れないが。
……こういうところも、まだ年相応なのかな。
瑞々しさがあふれ、透き通った光を放っていた彼の瞳を脳裏に映した。あれは思いを一心に向けた視線だ。私は、彼が晒け出した部分を垣間見てしまったことになるのだろうか。彼は告げた。言葉にしないでおいたほうが良いこともあると。私に言わないつもりだったのに、態度で示してしまったと。
きっとそれは、不透明でありながら、醜くも尊い、一途な感情だ。
頭がすうっと再透明になっていく。マフラーを手に取ると、私は廊下に向かって走り出した。この気持ちをどう言葉にすれば良いか、考えながら。
《リ:クリア・ブルーベリー》了