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木曜、多目的ホールにて

作者: 姥妙 夏希

誰だっけ、これは...モーツァルトか?


美しい旋律が、空っぽのホールに響く。壁にぶつかって反響した音が、不規則にわああんん、とホールに飛び交わっていた。


一音一音、魂の篭もるような勢いで奏でられていたそれは、やがてある外れた一音から崩れ、絆されていった。子供が最初に楽器を触った時のような、あの曲にもならない只の弾き鳴らし。それを何秒か続けた後、曲は鍵盤を乱暴に叩いた音で終わった。


「...最後の方の、あの蛇足感はなんなの」

「え、来てたの?あちゃーっ、気付かれちゃった。聞かなかったことにして!」


ひょこっ、と黒い、巨大なグランドピアノから顔を出した少女は、バツの悪そうな、それでいてどこか面白そうな光を浮かべた瞳で笑った。


その元気そうな姿に、安堵感と多少の呆れを抱えながら、彼女のことを見る。


黒い髪に白い、陶器のような滑らかな肌。今の時代には少し古いであろう黒いセーラー服を着て、細長い指を鍵盤にそっと置いている彼女は、「私が良い淑女なのは知っているけど、そんなに見られるとお金を取りたくなるぐらいだな〜」とクスクス笑った。


ずっと見つめていたことに気付いて、顔を赤くしながらばっと視線を逸らす。「露骨ぅ〜」と、グランドピアノがあるステージから降りた彼女が、僕の腕や腹をツンツン突きながらそう言った。


「うん、10円くれたら許す」

「何を許すって?」

「乙女の柔肌を、長足を、桜唇を嫌というほど見て、舐め回した罪。10円で許そう」

「いや、言い方!!!舐め回してないし!それに10円って、何買うつもり?うまい棒?残念だけど、ここらへんのうまい棒は11円だから」

「えぇえ、10円もくれないなんて、ケチ〜!」

「節約家なんだよ」


ふぅん、と甘い息継ぎをしながら、彼女は僕の隣に座って、「で、今日はなんの教科してるの?」と聞いた。「理科」と手短に答えてノートを見せると、「男なのに綺麗なノート」だと褒めていたので、ステレオタイプだと取り敢えず返しておく。


「で、さっき弾いていたのはモーツァルト?」

「ううん、ショパン。惜しい、ニアピンっ」

「いや、ニアピンでもないよね...」

「それはしーっ!でも、だいぶ分かってきたんじゃない?前とか、まずモーツァルトって誰?って感じだったじゃん」


「...それもそうだね」


そう呟きながら、僕はふと、彼女と出会った日を思い浮かべた。


瞳の奥に、淡い光が灯る。


彼女と出会った日、それは雨の降る日だった。



***



「...くっそ、こんな時に雨かよ」


天気予報で雨だなんて、言っていなかった。

言っていたら、傘を携帯する、とかそれに準ずる対策を取るつもりだった。


なのに、突然の土砂降りとは...天気予報ももうちょっと頑張って欲しいものだ...。


そう考えながら、ぎゅっと鞄を抱えた。


すれ違う人達は、皆傘など勿論持ってはおらず、その代わりとばかりに、それぞれの通学鞄やら通勤鞄やらを頭の上で支えて雨を凌いでいた。


...そんなことしたら、中身が濡れちゃう...。


とは言えど、このままでは自分が濡れるばっかりだった。現に、今も鞄を守っているせいで、シャツはビショビショである。取り敢えず、雨宿りをしなければいけない...。


「...あ...」


ここ...市が建てた多目的ホールだっけ...。


中にはグランドピアノが一台置かれているだけの、だだっ広い粗野な空間だが、雨を凌ぐには丁度良い。しかも、扉に貼ってあるポスターには予定日が書かれており、『木曜日・自由』と書いてある。


今日が木曜日で良かった...なんて呑気なことを考えながら、僕は重い扉を開けて、ホールに入っていったのであった。



***



「...うわ、広い...」


本当に、何にも何にもない...。


ポロン。


一筋の音楽が流れた。

否、現れた...何もない所から、何かが突然出て来るような、そんな...。


「うわぁ...」


眼の前に、眼の奥に、脳裏に、様々な情景が映される。行ったこともない異国の雰囲気や、醸し出される空気、そして圧倒的な景色が次々と浮かび、僕はその美しい旋律に思いを馳せて、雫を床にぽたぽたと落としながら聞き入った。


やがて演奏が止まると、グランドピアノから一人の人影がゆらり、と影を揺らして立ち上がった。


軽く結わえた黒髪からゴムを外すと、「そこに誰か、いるでしょう?」と近づいてくる靴音と共にそう言った。何も悪いことはしていないはずなのに、覗き見したということに、酷く恥じらいを抱いて、顔が真っ赤になる。


「ふふふ、やっぱり正解だ。どうやら外は雨がすごいようで」


眼に映ったのは、綺麗な少女。


白い肌に黒い髪、型の古いセーラー服。


如何にも古風美人、と言ったような少女で、学校でずっと派手な女の子達を見ている僕は、眼の前に立っている見慣れぬ少女に釘付けになった。


「あっ...僕、雨宿りがしたくて...ごめん...」

「何に謝ってる?」


消え入りそうに呟いた僕の眼前に、ひらり、と翻されたスカートが映る。


...そう言えば、何で僕は謝ったんだろ。何も悪いことはしていないけど、やっぱりいつもの癖として染み付いているんだろうか。そう思ったら、ちょっと自分が嫌になった。


「...まあ、別に良いんだけど。責めるつもりないもん。その点で言えば、私は今まで貴方が会ったことがある女性とは違うらしい」

「...!?何で知って...」

「えっ、カンだったんだけど」


...。


カン?只の、カン?


な、なんだ...。ちょっとでも、すごい、これなら、って思った僕が馬鹿みたいじゃないか。


「あははっ、からかってごめんね。はい、これタオル。それから文旦飴あげる」

「あ、ありがと...」


よしよし、とタオルで髪の毛を拭かれながら、僕はどうしても耐えきれなくなって「ごめんなさい、帰ります」と静かに言った。少女はちょっと見上げると、「うん、早くお帰り。お母さんが心配するよ」と胸を反って笑った。


「...さよなら」


ぺこり、と腰を折って、扉を開いた。ここから、離れたい。


「じゃあね、私は木曜なら、ここにいるから」


微笑んだ彼女の顔が、閉めかけた扉の向こう側に見えた。



***



手、手、髪の毛を触る...感触...!!!


「うぇぇえ...」


吐きそうだった。



***



「ねえ、ちょっと聞いてる!?」

「ああ、ごめん、聞こえてなかった」


少女は一瞬押し黙った後、「まぁたそうやって!!!」と叫んだ。


指差しをびしっ、とキメて、「で、どうしたの?何か考え事?」と今度はちょっぴり心配そうに聞いた。手で傘をつくって、ちょこんと顎をのせている。可愛い仕草ではあった。


「...ううん、何でも」

「...そお?なら良いんだけど」


僕の横に座って、彼女は手を僕のおでこにつけた。それにビクリ、と肩を弱々しく震わせると、「あ...もしかして、不快だった?」と言って、ごめんね、と言われた。


ううん、本当はごめんと言わなければいけないのは、僕の方なのに。


「あ...僕、もう帰らなきゃ」


帰りたくない。

帰ったら、また寝て、新しい一日が始まって、それから、それから...。


「うん、また来週ッ!」


胸にいっぱい、充満していた苦しさや、痛み、辛さが、少しだけその笑顔で薄れた気がした。勿論、完全に無くなりはしないのだけど。


それでも...。


「...支えには、なってくれる」

「?何か言った?」

「ううん、何にも」

「...ほんっと、何考えてるか分かんない!」


頬を膨らませる彼女は、グランドピアノが置いてあるステージの壇上に登ると、上から「じゃあね」と声をかけた。それからは、ベルベットの椅子に座って、黒と白の混ざった楽譜を開いてピン、ピン、と一つ一つの音を調律するように、確かめるように鳴らしていた。


帰る前、重い扉を開けた音とともに、ひとりぼっちのピン、という儚い音が、ピアノのステージから聞こえた。



***



「...嫌だ...」


嫌だ、嫌だ。


あの子には、バレたくない。

あの子には、言いたくない。


行きたく、ない...。

生きたく、ない...。



***



「あっ、こんにちは」

「...こんにちは」


木曜の、多目的ホール。


いつも、僕より先にここに来て、そして僕より後に去って行く彼女。


彼女は、何も知らない。

いや、別に知らなくていい。


そんなの、ただの汚点だよ...。



***



「お前、最近多目的ホールに放課後行ってんだって?」

「...関係ない、だろ...」

「関係ィ?そんなもんじゃねぇぞ、お前にあるのは権利ではなく義務だ。何やってんだよ、そこで」

「...何もやってない...」


「嘘つけ!!」


放課後、無理矢理押し付けられた掃除時間中、箒の柄で頭を殴られる。思わず、「うぁっ」と弱々しい声を漏らしてしまった。その声に反応したのか、ニヤニヤ笑いながら、彼等はもっと殴ってきた。今日も、後頭部に強い殴打の痕が、鮮やかな紫色に残るであろう。


理不尽な怒り、行き場のない鬱憤が、全てそこに『傷』という形で体現されているようだった。


「おい、お前多目的ホールに行ってみろよ。誰か待ってんのか、あ?」

「...待ってない、から...」

「じゃあ行けるよなぁ!?」


髪をガッ、と掴まれると、「今日木曜だよな?何してんのか知らないけど、腐った性根叩き壊してやるよ」と低い声で脅された。女子達も、「やっだぁ」とか「草柳君ってば、さいてーッ」とか嬉しそうに喚いているだけで、此方には軽蔑的な眼差しを向けているのみ、だった。


...彼女、のこと、を、巻き込みたく、ない...のに。

彼女に、僕のこと...本当のこと、伝えたく、ない、のに...。



***



彼女は、いつも通り白く、透き通った顔に細い指を嫋やかに動かして、鍵盤を叩いていた。ポン、と音が響く度に、黒い長髪が揺れる。眼は、どこか遠くを見つめているようで、あまつさえ微かに笑みを浮かべているようにも見えた。


後ろからは、皆が多目的ホールの中を扉から覗いて、「おい...」とか、「何だよ...」とか呟いている。


やはり、僕のような人に彼女のような人が、毎週木曜日に会っていたなど、信じられないのだろうか。それとも、悔しいのだろうか。


僕がいじめられる分には良いけど、どうか彼女には...。


「何にも...ねぇじゃん」


...え?

何にも...ない?


おいおい、ちゃんと見てくれよ。


ステージに、長髪の少女がピアノを弾いているじゃないか。大きいグランドピアノから、ちょっと顔を覗かせて、指をしきりに動かして...。


「置いてあるのはグランドピアノぐらいか...。なんだ、期待して損したな、行くぞ」


...見て、る?


グランドピアノの方、ちゃんと見てる...?それで、その上でそれを言っている?


「草柳君、なんか此処めっちゃ寒くない?」


女生徒のキンキン声が、やけに心に残った。



***



「...あの」

「ん、ああ、いたの?うん、どした?」


ステージから降りた彼女は、にっこりといつも通り、柔らかく笑った。古い型のセーラー服が視界に映る。スカートが、甘い呼吸をホールに響かせるとともに揺れていた。


「...君は、何なの?」

「...ああ、知っちゃったか」


その返し方が、全てを物語っていた。


彼女は妖しい笑みをつくると、「君の思っている通り」と手をかざした。ホールの上から注いでくる光の元で、腕が透けかけているのが見える。


...彼女が、透き通った白い肌の持主と思っていたのは...。


実際に、彼女が透き通っていて、それが暗いステージで見えなかった、ということか...。


「幽霊、だったんだね」

「...うん、自殺しちゃった」


笑顔で話し始める彼女は、元気そうに、気丈に振る舞ってはいたけれど、哀しそうな面影を纏っていた。


「...私が君ぐらいの時は、もう戦後でね。新しい海外の文化とかも取り入れられていて、かなり良い時代になったようには思えたよ。友達も沢山できたし、楽しかった」


戦後、第二次世界大戦後、彼女は高校生だった。


今は古い型のセーラー服だって、昔は最新式だったらしい。僕と同じぐらいの年の少女が、昔、などと言うので、彼女はもうとっくにいなくなるはずの人だった、ということを嫌でも思い知った。


「でも、私の出生が一つの壁になった」


彼女の横顔からは、何を考えているか分からなかったけれど、寂しそうな、苦しそうな、絞り出す声で感情を察した。


「...私の父親は...アメリカ人だった...」


彼女の母親と、父親が会ったのは戦時中。


勿論、今なら国際結婚など平気でも、当時では敵だった人と結ばれるだなんて、不徳も甚だしかったのだろう。黒髪が、風になびくように揺れた。唇はわななき、それでもキュッと口を結んで震えないようにしている彼女を見ると、胸が痛くなる。


「戦後だった。だから、大丈夫だと思った。友達も、信頼出来るかと思っていった、から...」


彼女は、友達に自分の出生を明かした。

戦後である。いくら不徳と言えど、もう終わっている。きっと、大丈夫だ。


そう考えた彼女を待っていたのは、友人の裏切りだった。


友達は、それを洗い晒い他の人に伝えた。誇張した、女子高校生特有の言い方であらぬ噂まで撒き散らし、あいつらのせいで日本が負けたとまで言って、面白いこともなく退屈していた高校生達は簡単にそれを信じた。


「...ピアノ、私、生前は一回も弾いたことないんだよ」


父親が、ピアノを弾かせてあげると言ったまま、日本を去ったらしい。それから、雑誌などを見て手で練習を続け、そしてそのまま...。


「でも、一回どうしても弾きたかった。それで、多目的ホール...当時は、新しかったんだけれど、それにグランドピアノが置かれていることを知って、土曜日に行った。...昔は、土曜日が自由な日だった」


そこに行った彼女は、弾いている際に彼女の、前の友人...に、出会ったらしい。そこで、散々いじめられたと言う。


「鼻は折れ曲がり、唇は切れて血が出ていて、それを鍵盤ごしに見た私は...死にたい、と思った...」


そして、それを此処、多目的ホールで木曜日に実行したらしい。


「...此処、そんなことがあったんだ...」

「...皆、そんなこと知らないし、覚えてないだろうね。でも、私は何でか死にきれなかった。何か、きっと未練があったんだろうけど、もう忘れちゃった」


ほんっと、しょうがないよね、と笑った。


「結局、お母さんも悲しませて、誰も救うことさえもできなかったからさ」


一体、彼女はいくら悲しみを抱えてきて、罪悪感に悩まされたのだろう。

静かに零す涙は、透明で綺麗で、触れない涙だった。


彼女には、全てを伝えたい、と思えた。


「...僕、本当はいじめられてる。...毎日ノート持ってきて勉強してるけど、そんなに頭良く...ない」

「...知ってるよ、私、君がいじめられていることぐらい」


優しく言葉を紡ぐ。


「私のことが見えるのは、いつも心の底のどこかで、『死にたい』って思っている人だから。それに、匂いも腐った肉の匂いがする」


クスクス、と笑った音にかちんと来て、「うるさいぞ、誰がゾンビだ」と呟いた。


「私はねぇ、頭良くたって悪くたって、いつも偉そうにしている人は嫌い。でも、頑張っている人は好き」


指を指した先は...僕だ。 


「君は、いつも頑張っているし、好きだよ、そういうとこ」

「...ッ...。俺も、好きだよ...」


「そうやって、いつも優しく言葉をかけてくれる君に、僕はすごく...救われたから」


そう言った瞬間、彼女はキョトンとした、虚を突かれたような顔をした。

それから、微笑んだ。


その微笑んだ横顔は、誰よりも綺麗だった。


桜色の唇を、口角をあげて、後ろで手を組んでいる。滑り落ちる涙は、実態のないものだけれど、確かに心は篭っていて、はっきり頬に涙が濡らしたあとが見える。


「...私、自分の未練、思い出しちゃった」

「え?」


「...私、私さあ、誰かを救ってみたかったの。本当は、生きていたら看護婦さんになりたかった」

「...今は、看護師さん、って言うんだけど」

「あははっ、そっか...」


笑う彼女の腕が、次第に透けていった。


暗いところは透けているのさえ見えなかったのが、今は体の奥に、向こう側の黒い壁が見えるぐらいだった。


「何でそんなに、透けて...」

「未練、君のおかげで叶ったよ。もう、未練がないの。これで、お別れ」


白い腕が、壁の黒に混ざっていく。足はもう半分消えかけていて、消えかけている部分と、まだある部分の境界線が煌めいていた。


「何、で消えるの...?」

「未練が無くなったから。もうこれ以上、彷徨う必要がないから」

「でも、君がいなかったら、僕は...」

「えへへ、そう言ってくれるなんて嬉しいなぁ。でも、元々私達は会うことさえ出来なかったんだよ、本当なら」


「...嫌だ...僕も、連れてってよ...」


掴めない。

でも、消えかかっている腕の部分に向かって手を伸ばす。


僕は、もうこれ以上この世で生きていたくない。

生きていたって、良いことがない。


もう、これ以上何も、望めないのなら...。


「駄目だよ、それは」


諭すような口調にかちんと来て、「誰も悲しむ人なんていないんだぞ!」と自棄になって叫んだ。意地かもしれない。


「...違うよ、悲しむ人はちゃんといる。君のお母さんだって、私だって」


消えかかっている彼女はそう呟く。


「...でも、君はもう...いなくなるじゃないか」

「うん、知ってる。でも、私はいつも...君のこと、思っているから。雨が降る度に、君と会ったあの日を思い出すし、木曜日にはいつも笑って来てくれた君のことを思い出す。これぐらいは、意地でも覚えているよ」


「...そ、っか...」


僕だって。


雨が降る度に、君と会ったあの日を思い出す。

木曜日には、いつも笑って自分を迎えてくれたあの子のことを思い出す。


「頑張って、生きてみてね」


それを最後に、彼女は背景と完全に同化した。



***



彼女は、いなくなった。

完全に、いなくなった。


涙でぼやけた視界で、彼女がいた場所に向かう。先程まで、彼女はいたのだ。


今はもう、跡形も無いけれど、確かにいた。


いた...。


「あれ、何だ...」


彼女がいなくなった場所には、彼女の代わりに1冊のノートが置かれていた。確かにくたびれたノートだけれど、それには見覚えがあった。これ...僕のノートだろうか...。ずっと彼女が、持っていたのか?


ペラリ、とページを開くと。


『拝啓 君へ』


と不揃いの文字で書かれていた。一体、どうやって書いたのだろう、と思いながら、ページを更に開く。


『名前が分かんなかったから、君でね。そーだよ、そこの君。雨の日に来て、ずぶぬれなのに帰っていった君だよ。ほんと、失礼しちゃうよね。君は今日も、私の肌を嫌という程舐め回してきたわけですが』


...舐め回してはいないけど、そう言うってことは、あの後書いたものか。


『まぁ、それはいいとして。君に返したいものがあります。すっごい謝りたいし、先に謝っちゃうんだけど、この楽譜、君のでしょ?』


パラ、とノートに挟まれた紙が床に落ちる。挟まれた楽譜には『The Kreutzer Sonata』と横文字で書かれていた。クロイツェル・ソナタ、と正しくは読む。


『此処からは私の推測。だけど、君ってもしかして、ピアノがずっと弾きたかったんじゃない?これ、君が鞄を大事そうに抱えていたから、つい見ちゃったんだ。そしたら見つけちゃった』


ぺろり、と舌を出しているであろう彼女の顔が眼に浮かぶ。


『ピアノ、弾きたかったけど、私がピアノを占領してたから弾けなかった、とか。それだったら私のせいになるんだけどさ』


『その前に、一つ、お願い』


ノートに、『君にもピアノ、して欲しい』とか細く書いてあった。欲しい、の最後のい、が消えるような字で書かれている。そこで、文章は終わっていた。


「...そっか...」


まだ、彼女は消えていない。


きっと、まだ、彼女は、彼女の意志は...。



***



「...お前、ピアノ習ってんの?遅いんじゃね??」

「何事も、遅いとかない、からっ...」


心臓、バクバクいってる。声が震える。でも。


「だから、もう僕に関わらないでくれっ...!!」


僕だって、彼女が勇気をくれたから、変わりたいんだ。



***



「...そう言えばさ、どうして君はピアノ始めたの?」


陶器のような白い、滑らかな肌に、光沢のある黒い髪。黒い髪が揺れて、こちらを振り向く。


「...さぁ、何でだろうね」


僕は、一人の少女の面影を浮かべながら、そう言う。



最近忙しかったので、リハビリです...。



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