第四話
「行ってきます」
いつも通りにそう言い残して、佐紀子は家を出た。朝の8時。少し冷たい風が佐紀子の髪を揺らす。犬の散歩をしているおばあさんとすれ違い、おはようございます、と挨拶を交わす。
なにも変わらない、いつも通りの朝。自転車に乗って十五分、学校に着いた。
教室のドアをくぐって友人におはよう、と声をかけると、彼女は一瞬驚いた表情を見せ、どこかぎこちない笑顔でうん、と答えた。
佐紀子は自分の机に向かう途中で、友人のその微妙な反応の原因を見つける。
教室の1番後ろの席にぽつんと置かれた一つの花瓶。
それをちらりと見遣って佐紀子はすぐに目を逸らし、自分の席に付いた。
誰も、佐紀子に話し掛けようとしなかった。ただ、ちらちらとこちらを見る視線と何かを囁き合う小さな声にはずっと気付いていた。
しばらくして、仲のいい友人の一人が意を決したようにこちらに近づいてきた。
「佐紀子、あのさ」
「何、有紀?」
彼女は佐紀子の目を見ることができないかのように目を伏せ、少し躊躇ってから口を開く。
「あのさ、その……荻原君のことなんだけど……」
「ああ、うん」
答える自分の声には、少しの感情も込められてはいないような気がした。
「事故だってさ、あいつ。馬鹿だよね、免許取りたてでさ。すぐにこんなことになって」
「佐紀子……」
有紀は心配げに佐紀子の顔を覗き込んでくる。佐紀子は笑った。
「ほんと、馬鹿だよね」
「……佐紀子、あんた−−」
「関係ないよ」
有紀が何かを言おうとしたのを遮って、佐紀子はきっぱりと告げた。
「なんかみんな、ずっと前から勘違いしてんだよね。あたしは別にあいつの彼女じゃないし、あいつはあいつで他に好きな人いたんだし。なんでそう、あたしのこと気にするかな? 心配してくれるのは嬉しいけど、関係ないんだよ。あいつは」
そう言って佐紀子は笑う。
「佐紀子」心配の色を強める有紀に、佐紀子はまた笑った。
「あ、それともあんた、ひょっとしてあたしのこと好きだったりするわけ? やめてよー、そういう趣味はないってば」
「でも……」
有紀がさらに何かを言おうとしたそのとき、予鈴が鳴り響いた。同時に担任の男性教諭が教室に入って来る。
ホームルームが始まって、有紀は心配そうな顔のまま席へ戻った。
担任の顔色に明るいものはなく、その理由にクラスのほぼ全員が見当がついていた。彼はそれでもしっかり顔を上げ、しっかりと通る声で話し始めた。
「もう聞いている人も多いと思う。……先日、荻原が事故で亡くなった」
その言葉に返事はない。
うす寒い沈黙だけが、一人欠けたクラスのなかに溜まり、淀み、流れる。
佐紀子は窓際の席でぼんやりと外を眺めていた。
消えてしまった日常の一部のことを、思い出していた。
荻原昌秀という少年のことを。
一言で言えば、単なる幼馴染。それ以上でも以下でもない。
ずっとそう思い続けてきた。それこそ幼稚園に通っている頃から、家が隣同士という理由だけで遊びに行ったり遊びに来たり、そんな関係を持ち続けてきた。それは小学校に上がっても同じだった。朝一緒に登校したり、一緒になって公園で遊んだりするのは当たり前だと思っていた。少なくとも、佐紀子にとってはそうだった。
それが少しずつ変わってきたのは、中学校で同じクラスになってからのことだったか。
仲のいい幼馴染。本当に仲が良かったのかどうかはともかくとして、それまで特に何も意識することのなかった二人の関係を、周囲の友人はこんな風に見ていたのだった。
すなわち、
「佐紀子と荻原君って、付き合ってるの?」
そう言われて、佐紀子はすぐにそれは違う、と否定を返した。
けれど、考えた。
私たちは、一体どういう関係なんだろう?
それからだった。少しずつ、本当に少しずつ、彼女がそんな状況について違和感を感じ始めたのは。私たちはずっとこのままではいられないのだろうか。いてはいけないのだろうか。
好きな人いるの? と聞かれたことがある。その度に彼女は、わからない、と答えてきた。仲のいい友達は荻原君なんじゃないの、と佐紀子に言った。
好きだとか、どうとか。よく、わからない。わからない。
私は、一体どうしたいんだろう?
そんな疑問に答えは出ないまま、二人は二年、三年と進級を迎える。
クラスは別々だった。それぞれ違う部活に入り、生活もそれぞれ違ったものになってくる。朝一緒に登校することはなくなったし、一緒に遊ぶこともなくなった。家の前で時折会話を交わすだけという程度に、二人の接点はなくなっていった。
その変化は、目に見えて急激だった。
佐紀子の世界から、昌秀の存在は消えつつあった。佐紀子の思いはそのままに。
わからない、という疑念はそのままに。
学力がトントンだった佐紀子と昌秀は同じ高校に入学し、そこでまた同じクラスになった。
接点は増えたが、関係は何一つ変わってはいなかった。佐紀子の思いは答えの出ないまま、それでも昌秀には以前と決定的に違うところがあった。
それは昌秀の口から、直接聞いた言葉だった。
『俺さ、好きな人できたんだ』
ぼんやりしていたら、いつの間にか教室は静まり返っていた。周囲を見渡すと、誰もが俯いて黙ったままじっとしている。教卓についた先生も、目を閉じて沈黙している。
黙祷。
佐紀子はちらりと、いなくなった主の代わりに花瓶がひとつだけ置かれた机を見やる。
そして、その事実を改めて知る。
昌秀は、いなくなってしまった。
***
猫になってしまった荻原昌秀は、見慣れた通りをぶらぶらと歩いていた。はたから見れば野良猫が一匹散歩しているだけの光景に見えるが、実のところそいつは超常現象の塊であり、でもそれを知っている人は天使だか死神だかよくわからないお姉さんを除いては一人もいない。
「変わってないなぁ……まあ、一晩しか経ってないからそりゃそうか」
小さな声で呟く。聞いているものは誰も居ない。
小田原さんは用事があるとか言って、朝起きてすぐにどこかへ行ってしまった。スーツ姿でそのまま眠っていたというのに、寝起きの服装にはしわ一つ無く、何一つ身支度もしていないのに見た目はばっちりだった。なんなんだろうあの人。ひょっとしたらロボットかなにかなのかも知れない。
とりあえず彼は、自分の家を目指していた。行くところにもあてが無いし、なにもすることがない。本来なら学校へ行っているところだが、もうそんなものは関係ないし、行ってみたところで動物が侵入してきたという扱いになる。当然だが。
ひょっとしたら幽霊というやつは、こんな風にやることがなにもないから生前かかわりのあった場所をふらふらしているのかもしれない。
そんなことを考えながら、彼は家の前にたどり着いた。
荻原家葬儀。
そんな内容の立て札が家の前に立てかけられ、そして家の中からはどこか重苦しい、けれど厳粛な空気が漂ってくる。窓越しに、一様に黒い服に身を包んだ人たちを見つけた。知り合いの姿もある。けれど外からでは、家の中の様子はよくはわからない。
母親や父親は、今頃泣いているのだろうか。悲しんでくれているのだろうか。
だとしたら、それはたぶん良いことなのだろう。
元来のんきな彼は、そんな風に考えていた。自分のために泣いてくれる人がいるのは、自分の人生にそれなりの意味があったということの証明になるから。
彼は既に、自分自身の死を受け入れていた。本当ならこの世から消え去ってしまいたくなどないし、自分が死ぬことでだれかを悲しませたりなどしたくはない。けれど、自分が自分だと認識している存在は確かにここにいて、そして生前の彼を思ってくれる人も確かにそこにいる。存在の証明は、十分に出来ている。彼が幽霊の類なのだとしたら、もう既に成仏して天に昇っていっているのだろう。
ぼんやりと自分自身の葬式の模様を眺めていると、玄関のドアががらりと開いた。
そこから出てきた少女の姿を認め、彼はふと、心に引っ掛かりを感じる。
葬式に参加していたらしい佐紀子は、そのまま昌秀の家を出て、真っ直ぐにこちらに向かって歩いてくる。その足取りには淀みがなく、そしてその瞳にはいつもと変わらない、どこか男勝りな雰囲気を漂わせている。
変わらない。
それがいいことなのかどうか、昌秀にはよくわからなかった。
佐紀子は家の前で自分を見つめる一匹の猫を見つけ、少しだけ頬を緩ませる。
「おいで」
声をかけられて、彼はどうしたらいいのか一瞬迷った。そして、思い出す。
バイクなんか乗らないほうがいい、と忠告してくれたのは、佐紀子だった。でもその言葉を蹴ってバイクを購入したあげく、この結果だ。いろんな人に迷惑をかけたが、佐紀子もその一人だった。
それを謝ろう、と昌秀は思った。しかし、
「おいで……あんた、昌秀の友達?」
「……」
言葉はなぜか、出なかった。
佐紀子の瞳が、わずかに揺らいだ気がした。
「んなわけ、ないか。けど……けどさ」
猫は、彼女の言葉を待っていた。そして、告げるべき言葉を見失っていた。
佐紀子は自分の死をどう思っているのか、知りたくなった。
「……」
「……」
沈黙。
この幼馴染のことを、ここ最近、どこか遠いもののように感じていた。それがいつからのことだったかはもう思い出せない。ただ、彼は自分自身が変わったとは思っていなかった。だからたぶん、離れていったのは彼女のほう。思えば短い人生の中で、最も付き合いの長かった一人なのだ。そんな彼女は、消えてしまった自分に対して何を思うのだろう。
そうしてしばらく見つめ合っていた。すると彼女は、ふいに身をかがませて彼を抱き上げる。そして――
「ねえ、あんたさ」
佐紀子は自分でもなにしてるんだか、と思いながら、その猫に話しかけていた。
猫には、霊が見えるのだという。
「もしどっかであいつ見かけたらさ。馬鹿、って言っといて欲しいな」
あのうすらぼんやりした馬鹿のことだ、まだ成仏しきれずにその辺りをうろついているのかもしれない。彼女はその猫を見つめたまま、視線は遠く一言だけ繰り返す。
「……馬鹿」