第三話
長町佐紀子は夜の街を歩いていた。
肩にサブバッグを提げ、きびきびとした足取りで闊歩する女子高生。学校帰りに塾に寄って、午後十時半にようやく帰宅の途についた。夕飯も食べていないので、もう腹が減って仕方がない。さきほどからぐうぐうとうなり声を上げるおなかを手で押さえつつ、ようやく彼女は自宅の玄関をくぐった。
「ただいま」
いつものように靴を脱いで家に上がろうとすると、ダイニングから出てきた母親がこちらを見ていた。その眼差しには、普段あまり目にすることのない色がある。
困惑と、悲しみと、それから気遣い。
「あの……サキちゃん。あのね」
「どうしたの?」
いつもとは明らかに違った様子の母に、佐紀子はわずかな戸惑いを見せる。しかし彼女はしっかりとした足取りで母に歩み寄ると、まっすぐにその伏し気味の目を覗き込んだ。
母は何度か言いよどみ、やがて何かを決意したかのように、佐紀子の目を見た。
「実は……隣の昌秀君が、事故で亡くなったんだって」
「え……」
一瞬、母の気遣うような視線が佐紀子の心をすっと刺したような気がした。
「仲……よかったからね、佐紀子。でも……昌秀君……」
それ以上は、母の声は言葉にならないようだった。そのまま目を潤ませると、こらえきれなくなったように手を目にやる。ダイニングから父が出てきて、そんな母をそっと抱き寄せた。
「……そっか」
佐紀子はそれ以上、隣人の死について何も言わなかった。
「……晩御飯、残ってるよね」
そのまま返事も聞かず、佐紀子はダイニングへ向かった。彼女の分の夕食が載ったテーブルについて、制服のまま食事を始める。一言も発さないまま食事を終えた彼女は、食器を流しに片すとすぐに二階の自室へと向かった。
部屋の電気をつけ、バッグを床に放り出して、佐紀子はベッドに倒れこんだ。
着替えもしないまま、十分ほどずっとそうしていた。
やがて彼女は片手をまっすぐ上に向け、つぶやく。
「だから、原付なんかやめとけって言ったんだ。馬鹿」
彼女の声を聞くものは、いない。
***
小田原さんに連れて行かれたのは、彼が暮らしていた町にある、駅近くのウィークリーマンションだった。何度か見かけたことがある、ついこないだできたばかりの新築のやつ。
二階に上がり、201と書かれた部屋の前で立ち止まって、彼女はバッグから鍵を取り出した。
どうやらここがその逗留先らしい。
「これからどうするの?」
彼が問いかけると、小田原さんは鍵をかちゃりと開けて答える。
「一週間、ここで暮らすんですよ。あなたも一緒に」
「えっ?」
「あなたの願い事が決まるまで、とりあえず私と離れないほうがいいでしょうから。不服ですか?」
「い、いえいえ」
彼はあわてて首を振る。猫のまま放り出されて、野良のまま生きていくなんてごめんだ。
「なら、それで結構ですね」
小田原さんはにこりともせず、部屋の中へ入っていく。
1LDKの、普通の部屋だった。まあ当然なのだが。家具家電つきで、新築なので中はぴかぴかだ。てくてくと中に入って行き、小田原さんはバッグをそのへんにぽいっと放り出すと、押入れの中にしまっておいたらしいタオルケットと枕を取り出した。
「では、おやすみなさい」
「え、えええ?」
着替えもしないし風呂にも入らないし、いきなり寝るってどういうこと?
「あの。あのさ」
「なんですか?」
自らの行動に一切の疑問も持たないような、きっぱりとした声。言いながら布団も敷いていないベッドにあがると、タオルケットをかぶって横になった。
マジでそのまま寝ようとしているらしい。
「なんですか。さっきからこっちをじろじろと」
「い、いやあの。でもさあ」
「早く寝ましょう。あなたも、気持ちの整理を早いところつけてくださいね」
言うが早いか、リモコンでピッと部屋の照明を落とす。即座に暗闇が落ちた。
「え、ええぇ……」
呆けた顔の猫が、暗闇の中にいた。
しばらくそうしていたが、もうどうでもいいやと彼も寝ることにする。
猫ってどうやって寝てたっけ?
少し考えて、彼は窓際に移動した。カーペットに座ると、ためしに体をくるりと丸めてみる。おおう、思いのほか心地よい体勢だ。
部屋の中に、しんと静寂が落ちる。耳を済ますと、あれから五分も経っていないのにベッドの上からすうすうと寝息が聞こえてきた。
なんなんだあの人。
そんなことを考えながら、目を閉じる。
ぼんやりと、考える。
自分が死んだということについて、正直なところ、それほど恐ろしいということはなかった。猫になってしまったとはいえ、自分の体も意識も、ここにあるのだから。
問題はこれからのことだ。
願い事をひとつだけかなえる。何を願う?
幼いころの御伽噺に何度か出てきたその問いかけに、どう答えるべきなのだろう。
小さなころの自分ならたくさんのお菓子とか、ゲームとか。少し大きくなった自分なら大金持ちになるとか。
今の自分はどうだろう。
考えているうちに、意識が薄れてきた。疲れていたのだろう。
眠りに落ちる直前に、なんとなく思う。
――佐紀子は、どうしてるかな。
***
光があふれるその部屋の中には、大量の書類とコンピュータ、それから大量の人間ひしめいていた。部屋の端が見えないほど広いその一角、一人の女性がひときわ大きな机に座ってコンピュータの画面とにらめっこしている。女性といっても、まだ十歳くらいの小さな女の子だ。活発そうな顔立ちのその少女は、しかしこれから人でも殺すのではないかというくらいすさんだ目をしている。
「課長、コーヒーお持ちしました」
彼女の母親くらい年上に見える女性が、そう言って机の上にカップを置く。少女はあー、とこれ以上ないくらい適当な返事を返す。
「やはり、難しいですか?」
「難しいなんてもんじゃないよ」
画面をにらみつけたまま、うんざりしたような声で少女は言う。
「一度覚醒した魂をフォーマットし直すなんて、何百年ぶりかってくらいの大失態アンド大事業だ。冗談じゃないよ。くそ」
「でも、早くしないと魂そのものが消えてしまうわけですし」
「だから焦ってる。運命局がヘマしなけりゃこんな制限なんてなしで済んだのに。前世の記憶持ったまま魂が拡散したりしたら、ほかの運命表にどんな影響がでるのかわかんないし」
がしがしと少女は頭をかいた。
「あーもー! めんどくさいめんどくさいめんどくさい! ……って言ってても仕方ない! 仕事すんぞコラァ!」
がーっと天井に向けて吼えると、淹れたてアツアツのコーヒーを一息で飲み干そうとして失敗した。がしゃんとカップを取り落とし、盛大にコーヒーが床にこぼれる。
「げほ、げほ。ああああ、もう……あ、ごめん、リリィ」
「構いませんよ」
割れたカップの破片を拾いながら、リリィと呼ばれた女性は微笑んだ。
「それで、被害者の方のところにはどなたが?」
「ああ。それなら由梨に任せたよ」
「由梨さんが……」
リリィは由梨の氷のように冷たい表情を思い出した。
「心配ない。あいつはああ見えて、この会社で一番人に対して優しいやつだから」
「それはわかってるんですが……」
課長と呼ばれた少女はふふん、と笑う。
「あいつはあいつなりに、人ってものを理解しようとしてるから。だからその気持ちは必ず通る。大丈夫」
今日はじめて見せる優しげな表情を見て、リリィはまた微笑んだ。
「それより今はこっちだ。こっちはこっちで、大変な作業しなきゃならんからな」
「はい」
課長はすっくと立ち上がり、部屋にひしめく大量の人間に向かって叫んだ。
「気合入れるぞぉぉぉーっ!」
おう! と威勢のいい声が返る。