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「本日から、ここでお世話になります。イオン・コンチネンタルです。よろしくお願いいたします」


 書庫で本を読んでいたユーノスは、思わずその手を止めて、声の主を唖然と見ていた。

 姿勢の良いお辞儀をして、イオンは引き締まった顔を主であるユーノスへと向けた。

 そのユーノスの顔は逆に滑稽な程、驚きを浮かべ、瞳を丸くさせている。

 それもそうだろう。つい先ほど屋敷から見送ったはずの客人が、ものの数分で戻って来たかと思えば、使用人として働くと言うのだから。


「街で働くのではなかったかい?」

「私は、私にできることを成し遂げたいと願っていただけです。ユーノス様さえ宜しければ、どうかお傍に置いていただけませんか」

「……セドリック。一体彼女に何を吹き込んだのだ」

 紅い瞳をじろりと老紳士に向けて、ユーノスはセドリックに追及した。


「特に何も」

 そう言いながら、穏やかな笑顔を浮かべるセドリックはなんだか妙に嬉しそうだ。


「セドリック、少し席を外してくれ」

「畏まりました」


 かぶりを振り、溜息を吐きながら、ユーノスはセドリックを下げさせた。

 少し埃っぽい書庫の扉は閉じられ、中にはユーノスとイオンが残されることになった。ユーノスは本をしまうと、一息ついて軽く身なりを正した。

 そして改めてイオンの目の前まで歩み寄り、彼女を見下ろして来る。長く伸びた石竹色の髪が妖しく光を反射させて流れる姿は、どうしようもなく常人離れした美しさをまき散らす。


「イオン。……先ほどはここで暮らしてはどうだと問うたが……改めて聞くぞ。本当に良いのか。死人である私と過ごすというのは危険を伴うぞ」

 ユーノスは厳しい視線でイオンを見つめてきた。固く、揺るがぬ壁を築きあげたような、意思が宿っていた。


「……私はユーノス様の英雄譚を聞いて育ちました。今この世界があるのは、ユーノス様が邪神を打ち払ってくださったからです。私は、あなたにご奉仕をしたいのです。死人ではなく、英雄であるユーノス様に」

「……ならぬ。今の私は、もう英雄などとは呼べぬ飢えた死人。そういった化物と過ごすとはどういう事なのかをしっかりと分かっていてもらいたい」


 ユーノスはそう言うと、厳格な雰囲気を纏わせて、どこか威圧的にイオンに重い声をぶつけてくる。

 だが、イオンは自分を見下ろし女性よりも女性らしく見える英雄の顔に真っすぐに向き合い、強い意思を示して見せる。


「ご自身を卑下しないでください。私は、あなたへの感謝を忘れません。祖父のことも含め――」

「ならば、これでもか」

 陰を含んだユーノスの顔が、吐息が耳元に吹きかかるほど接近してきた。流石のイオンも引き締めていた表情を驚きに染め、間近に迫った妖しい魅惑を孕む男の声に、息を呑んだ。

 ユーノスがイオンの首筋にそっと唇を寄せていく。ユーノス特有の血の通わぬ冷たい肌の温度が感じられてしまうのがくすぐったい。

 その感覚にイオンは、あの地下室での事を思い出し、思わず一歩退いた。


「私がまた、いつ『飢え』に我を忘れ……お前を襲うのか――分からぬのだぞ」

 冷たいユーノスの肌が、イオンの肌と擦れあうかという距離で、震えあがらせようとでもいうのか、欲望に滲む言葉を紡いだ。

 イオンは一歩退いた状態で、身体と表情を硬直させていた。

 イオンはこれまでの田舎暮らしのなかで、若い男性とこんな風に接触する距離に身を置いたことがない。しかも相手は今世紀最大の美男子と言っても過言がない英雄であるユーノスなのだ。男性への耐性がないイオンはこの状況に困惑し、頬を赤らめる。


 ハァ――。と、冷たい吐息が首筋にかかる。ユーノスが大きく口を開き、イオンの細い首にかぶりつこうとしていた。


「そ、そんな風にはさせません!」


 それだけがイオンに言い返せる言葉だった。あまりに気張りすぎて、少しばかり声が大きく響いた。

 ユーノスは、イオンのその声に、ぴくりと反応し、吸い付こうとしていた首筋から顔を引く――。


「何……?」

「ユーノス様は、おっしゃいましたよね。人からの情が必要なのだと。それがあれば飢えないと。わ、私は、ユーノス様を慕っております。感謝しています。だから、ユーノス様を飢えさせるなんて、私がさせません!」


 イオンは赤くなりながら、必死にそれだけ宣言してみせた。

 嘘偽りない、ここでイオンが働きたいと思った理由がそれだからだ。

 世界を救った人物が呪いで苦しみ続けるなど、あまりにも可哀そうだと思ったのだ。もしユーノスが人からの情に飢えているのだとしたら、傍でユーノスへの感謝を捧げ続けることで彼が少しでも安らぎを手にできるのだったら、イオンはそれこそ、立派な役目ではないかと思うのだ。


「……セドリックとて、私に感謝を送ってくれている。私はあいつの命を救った事がある。そんな感謝があろうとも、私は飢えたのだ。そう容易いものではない」

「……そ、それは……」

 ユーノスはそれでも、イオンには諦めろと言うように厳しい言葉を向けた。――いや、おそらくユーノスはイオンを諦めさせようとしているのかもしれないと思えた。

 またあの日のように、イオンを襲う可能性があると考えてのことだろう。

 実際のところ、イオンの覚悟の問題ではなく、ユーノスの覚悟の問題だった。

 もし、もう一度イオンを襲うような事があれば、戦友でもあるキザシに申し訳が立たない。それに、イオンを、女性の愛を食料にするような自分にも嫌気がさす。それでは自分が打倒した邪神となんら変わりがないからだ。


「……イオン。正直に言おう。私は……自分自身を抑えられそうにないのだ」

「ユーノス様……」

「先日、お前から愛を啜り飲んだ時、堪らぬ味に酔いしれた。……この五十年の中で、最も至福の時だったと言って過言ではない。……お前の愛は、まろやかな蜜酒のようだった」

 ユーノスは唇を少し湿らせ、艶を浮かべた。甘い菓子の味を思い出す子供のような、それでいて、妖艶とも言える表情で、イオンの味を思い出す様にそっと指先で口元をなぞる。

 そして少し湿らせた指先がそのままイオンの首筋をそっと撫ぜた。


「私は……お前の味を、忘れられそうにないのだ」

 ぴくん、とイオンはキスの感覚を想起して、小さく肩を跳ね上げた。

「そ、そんな……」

「お前が傍に居れば、私はお前を啜りたくて仕方なくなる。これは、脅しでも何でもない。イオン、お前の愛情はそれほどに、美味であった」


 まるで、腹を空かせた状態で、目の前に極上の料理を並べられたままお預けを喰らうようなものだと言いたげに、ユーノスは瞼を伏せて、内側に膨れ上がる『欲』をイオンに正直に語った。


「イオン、ここで働くという事は――、毎夜私にその蜜を捧げるということになりかねんぞ」

「わ、私そんなつもりでは……」

「お前はそうだろうが、私が我慢ならない……。だから言っているのだ。もう英雄などこの世には居ない。居るのは貪欲な愛に飢えた動く屍だと」

 イオンは憂いと共に、蠱惑的な瞳を向けてくる死人英雄に、今度こそ、返す言葉を失ってしまう。

 あのキスされた瞬間の堪らぬ感覚は、今も思い出せる――。心地よい痺れが走り抜け、身体が勝手に跳ね上がってしまうような求愛ならぬ、吸愛。

 あれを毎夜、繰り返されるなんて、考えるだけでどうにかなりそうだ。初心なイオンは男性と抱き合っただけで気絶しかねない大それた行為だと言うのに――。冷たい唇は吸い付いて、舌先がつついてくるのだから。


「分かったら、ここで働くのは諦めて、街で自分のできる仕事を探すべきだ」


 そのユーノスの言葉は、決定的なものだった。

 しかし、気がかりな事は他にもある。セドリックの事だ。彼はもう老体で、ここで働く事も大変そうだ。いつまでもこの仕事をしているわけにはいかないだろう。


「しかし、ユーノス様……。このままではユーノス様も、セドリックさんもお体を壊してしまいます」

「……」

「セドリックさんは、船を漕ぐ事ももう随分と苦しそうにされています。私はセドリックさんのお力にもなりたいのです」

「……なぜそこまで我らを気にかけるのだ。キザシの孫とは言え、我らとの面識などつい昨日会ったばかりのものであろう」

「私は祖父から、困っている人がいたら、助けてあげるように教わりました。それは出会った日にちで換算するようなものではありません」


 凛とした態度で祖父の教えを説くイオンに、ユーノスは、どうしてイオンの愛があんなにも美味であったのかを分かった気がした。

 イオンは女性として、いや、人として純粋であり、また尊い思想と人生観を育んできたのだろう。

 それが生死を共にした友人の教えから来るものであるのは、ユーノスにとっても誇らしい事であった。自分が身を呈しても救った世界で、こんな少女が成長してくれたことが、そういう娘を育てた友が、本当に嬉しかった。


「……イオン。ならば……セドリックの為にも、暫く彼を助ける補佐として、この屋敷で働いてくれ」

「……! は、はい! この雷駆にかけて!」

「ふう、……まったく大した娘だ。キザシよりも質が悪い」

「私は、イオン・コンチネンタルですから」


 そう言って不敵な笑顔を浮かべたイオンに、ユーノスは苦笑を返した。

 自分が救った世界で、『初めて褒美を獲得したような気持ちになったのは、誰にも言わないでおこう』と口元に手をあげて、くっく、と喉を鳴らす――。


 イオンは英雄が困った様な顔をして笑っていたのを見て、少しだけほっとした。優しい英雄の顔でも飢えた死人の顔でもなく、その顔はユーノス・インシグニアという一人の男性のものだと感じ取れたからだ。

 自分がこれから仕える人は、英雄でもあり、死人でもある。しかし、何より先に、一人の人間なのだと実感できた。

 孤独なあなたの寂しげな瞳が、見ていられないから――。

 イオンはここで働きたいと思った最大の理由は、結局言わず仕舞いに終わった。天涯孤独の身となったイオンは、人の孤独に人一倍敏感だったから、ユーノスの内側にある想いをそっと掬い上げたくて仕方なかった。


 きっと、ユーノスがイオンを抱きしめ、愛を求めてくるのは、呪いのせいだけではない。

 寂しかったのだと、そう、思ったのだ――。


 こうして、イオンは、死人英雄との暮らしを始めることになるのであった――。

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