3
ちらちらと瞼を照らす朝日に、イオンはか細い喉を鳴らして寝返りを打った。
ふわりとした柔らかい枕と布団は今まで体感したことがないほど、心地よいまどろみの時間を提供してくれる。
このまま一生、目を覚まさなくても後悔しない――。そんな風に寝ぼけて、すやすやと寝息をもう一度立てる。
とん、とん――。
「……んー」
とん、とん、とん。
ノックの音だ。
「イオン様、お目覚めでしょうか」
続いて響いた初老の声に、イオンは一瞬で飛び起きた。
「はっ!?」
がばりと布団を跳ねのけて、上体を起こすと、周囲をキョロキョロと見回す。
見た事もない豪華絢爛な寝室が瞳の中に入り込んでくる。天蓋付きのベッドで眠っていたらしく、その布団の肌触りは極上のものであることを容易くうかがえた。
そして、声がしてきたドアを確認して、イオンは現在の自分が置かれている状況をやっとのことで思い出していた。
先日、祖父の友人の邸宅を訪ねた後、地下室で謎の男性に襲われて――。
そこからの記憶がない。
イオンはすぐに自分の身体を確認した。
洋服は自分が着ていたものだ。乱されたような跡はない。あの後、淫らなことをされたのではないと一安心した。
だが、首筋に吸い付かれたあの感触が思い出されて、思わずイオンは首筋に手を当てる。
視線をそこへ向けようとしても自分の目では首の側面を確認できず、昨晩の出来事が何かの間違いだったのかもしれないとすら考えてしまう。
「イオン様、失礼します」
イオンが返事をしないので、ドアの向こうの声の主が断りを入れてから扉を開いた。
ゆっくりと開かれる扉の先に居たのは、初老の男性。使用人のセドリックだった。
「セ、セドリック……さん」
「お目覚めでしたか。……イオン様、昨夜は誠に、申し訳ないことを致しました。さぞ、驚かれたことと思います」
セドリックは扉を開いたものの、部屋までは入らずに、その場で深く頭を下げ、詫びた。
イオンは、確かに先日のことは説明をして貰わなくてはならないと考えていたものの、自分の祖父と同じような年齢の男性から深々と頭を下げられて、いたたまれない気持ちになり、セドリックに頭を上げるように述べた。
「セドリックさん……、一体どういうことなのですか?」
ベッドから這い出て、イオンは身支度を簡単に整える――。そして、自分の命の次に大事なものがないことに気が付いた。
祖父の形見でもある名刀『雷駆』だ。あれこそがコンチネンタル家の家宝であり、天涯孤独となったイオンの唯一の家族とのつながりなのだ。なんとしても失うわけにはいかない大事なものだ。
「わ、私の剣はっ!?」
「雷駆でしたら、そちらの台座に」
セドリックが腕を伸ばした先の壁に、台座が取り付けてあり、雷駆はそこに収まっていた。燦爛たる調度品の数々が並ぶ寝室にあっても、その姿を見劣りさせない雷駆は名剣と呼ばれただけの風格を持っていた。
「よかった……」
「色々なご質問もあることでしょう。食事を用意致しましたので、そちらでお話をさせていただけませんでしょうか」
「え、食事……ですか?」
「簡単な朝食を用意致しました。それに主人もお待ちしております」
「主人……?」
イオンは頭に渦巻く数々の疑問を抑え込み、セドリックが促す食卓へと案内されることになった。
ダイニングまでやってくると、円卓に並んだ朝食の香りが空きっ腹に堪えた。イオンは、緊張を解いてはならない、まだ油断ならない状況であるのに、美味しそうなその香りに思わずふらりと誘われてしまう。
と、円卓の正面に座る若い男が立ち上がった。
その姿を見て、イオンは顔を引き締めなおした。
石膏像のように白い肌、すらりと伸びた長身。
女性かと見まごう顔立ちで、すらりと鼻先を高く伸ばし、長いまつ毛を蓄えた瞼を細く開いていた。
何よりも特徴的なのは真紅の瞳と、淡い石竹色の髪……。
このような髪色をした人間をイオンはこれまで見たことがない。常人離れした外見をした男性は、昨晩、自分に襲い掛かって来た男性で間違いなかった。
「……あなたは……」
「イオン・コンチネンタルだね。私は、ユーノス。ユーノス・インシグニアだ」
「……え?」
何をふざけたことを言っているのだろうとイオンは眉をひそめた。
ユーノス・インシグニアと言えば、伝説の英雄の名である。かつて魔族の長を単身で討ち果たした勇者だ。
それも五十年の昔の話。
目の前にいる男性はどう見ても若い。高く見積もっても二十台半ば。ひょっとしたら十八か九くらいの可能性も有り得るような姿をしているのだ。
そんな人物が英雄ユーノスを騙るのは、無理がある。
「私を、バカにしていらっしゃるのですか」
イオンは敢えて強気の発言をした。相手は昨日自分を襲った犯人なのだ。素直に詫びを入れてくるならともかく、偽名を使って挨拶をしてくるなんて、こちらを舐めているとしか考えられない。
女だからと見下されては困ると、イオンは厳しい視線で向き合って見せた。
「英雄ユーノス様の名前を騙るなんて、いくらなんでも――」
「騙ってなどいない。ユーノスは、私だ。英雄と呼ばれた動く死体、それが私の正体だ」
「動く……死体……?」
ユーノスと名乗った男性は、イオンがまだ訝しんでいるのを理解してか、テーブルに備え付けてあるフォークを無造作につかんだ。
イオンが何をするつもりなのかと警戒をしたその瞬間だ。
ザクリッ――。
なんのためらいもなく、男性は右手でつかんでいたフォークを己の左手に突き刺して見せたのだ。
「なっ――」
思わず、イオンは目を背けそうになった。男の掌から鮮血が吹きこぼれ、テーブルに血だまりをつくると想像して青ざめたのだ。
だが――。
男の手を貫通したフォークには、血液が付着していない。まるでぬいぐるみを切り裂いた時のように手ごたえなく、皮と肉を貫いているのみである。
「見たまえ。私には、血液が流れていないのだ。私は……死人なのだよ」
「死人……」
くん、と力を軽く込めてフォークを引き抜くと、穴の開いた掌をイオンに向けてくるが、イオンはそれを凝視するような勇気は持っておらず、視線を下に落とした。
「まず、説明をさせてくれ。その後、昨晩のことを、改めて詫びさせてほしい。……よろしいか?」
「…………」
イオンは「はい」とも「いいえ」とも言えぬ表情で、ユーノスを見た。
そして、昨夜彼に押し倒された時に感じた、冷気に似た体温に、合点がいった。彼には血液が流れていない。温かい脈動が止まって、枯渇しているのだ。だから、彼はあんなにも白い肌で冷たいのだ、と。
「私は、五十年前の魔族との決戦にて、邪神を倒したまでは良かったが、奴はあろうことか、死ぬ間際に呪いを遺したのだ。この私の肉体にかけられた呪いは、不死の呪い。――いや、『不死』ではないか。『生きていない』身体になったのだ」
「生きていない、身体……」
「この奇妙な髪の色を見たまえ。まるで桜花のような色をしているだろう。これは好色な邪神の呪いを受けた名残なのさ」
自虐の笑みを浮かべたユーノスに代わって補足するように、背後のセドリックが続けた。
「邪神は、生娘を求める邪淫の化身でした。数多の娘が邪神の毒牙に晒されたか数え切れぬほどでした。かつてのユーノス様は豊かな漆黒の髪をしておられましたが、呪いをうけてから、あのような姿になってしまったのです」
ユーノスの髪の色は確かに異質な色彩でスミレのような桜花のような、そんな色合いを朝日に反射させていた。
「邪神は滅んだが、英雄が呪いを受けて凱旋をしたなどと公表できるはずもなく、英雄ユーノスは行方不明となったということで当時の国王と話しをつけたのだ。それ以来、私はこの孤島で暮らしている。セドリックは私が黒髪だったころからの親友だ」
「親友……まさか、私のおじいちゃんも?」
「キザシか。キザシとは親友というより、戦友だな。共に多くの戦場で背中を預けあった仲だ……」
「……そ、そんな……本当なのですか? あなたが、あの英雄……ユーノスで、私のおじいちゃんの……友人?」
「ああ。キザシは死んだそうだな……。また、置いて行かれたわけだ」
イオンを見つめながら、キザシとの思い出に耽ったのか、ユーノスは哀愁を帯びた瞳を向けてきた。
イオンはユーノスの紅の瞳がゆらりと寂しげに揺れたのを見つめ、信じがたい話ではあったものの、彼が今、本当に祖父のために悲しんでくれていることだけは明確に伝わった。
祖父は確かに生前に大きな戦で名を馳せた戦士であったことを伝えてくれたが、まさか英雄ユーノスと肩を並べて戦っていたとは一言も言わなかったので、イオンは内心、なんで言ってくれなかったのおじいちゃん! と天国の祖父に訴えたくて仕方なかった。
「……話しを呪いに戻すが、邪神は私に、『人からの愛情を受け続けなくては飢える』という呪いもかけたのだ。死なぬ身体に、飢えの苦しみを与えたというわけだ。ここまでは分かるか?」
「は、はい……」
すぐには呑み込めないが、話は理解していると、イオンは小さく頷いた。
「皮肉な話だが、英雄であれば人々からの賞賛を集め、愛情に飢えるということはないと思っていた。事実、終戦から数年間は、世界中から英雄ユーノスへの感謝の祈りが絶えず送られ、私は飢えなど実感しなかったのだ」
――しかし、今はそうではない。そういう目をしながら、ユーノスは語っていた。事実、昨夜見た野獣のような彼はまさに『飢え』ていた。
「私は呪いを甘く見ていた。そして、人々の感謝の念というものが想像以上に薄く浅くなっていく速さも予想外だったのだ」
ユーノスは先ほど穴を開けた掌をもう一度見せた。すると、もう先ほどの痛々しい肉の裂け目はなくなっており、綺麗な白い掌を形作っている。自然に治癒したのだろうか。不死の肉体がなせる異常とも言える蘇生能力だ。
「人々からの感謝の念は、時が経つほどに薄らいでいった。すると、私は凄まじい『飢え』の苦しみを味わうことになったのだ。いくら物を喰っても、酒を飲んでも満たされなかった。理性が徐々に犯されて、冷静さを失っていくと私は野獣のように暴れ回った。それをセドリックがいつも抑えつけてくれていたのだ。あの魔法陣を君も見ただろう」
イオンは昨日見た、幻想的な部屋の光景を思い出していた。
床に魔法陣を描き、ユーノスはそこで苦しんでいたように見えたが、どうやらあの魔法陣は『飢え』を誤魔化すための機能を持っている様子だった。
「私は『飢え』を満たすため、『人からの愛情』を欲するようになった。普段はあの魔法陣で人々からの幽かな祈りをかき集め、糧にしている」
「人々の祈りを、あの場で食事に変えているというのですか?」
「そうだ。だがそれも時間稼ぎにしかならぬ。人々はいずれ私への感謝などは忘れ去り、祈りを送ることなどなくなるだろう。そうなれば私は理性を亡くし、ケダモノとなるだろう。昨夜のようにな」
「……」
「邪神は女好きでな。その影響か、若い生娘からの愛情が格別に『飢え』と『渇き』を癒せるのだ。だから――昨夜は君を襲い、啜ったのだ。『愛情』を」
「あい、じょう……?」
「吸血鬼のようなものだ。無理やり、人の中に流れる『愛』を貪ってしまうのだ。首元に吸い付かれた時、君は感じたのだろう?」
イオンは思わず顔を朱に染めた。
あの時、確かに彼に強く吸い付かれ、自分の内側にある温もりのようなものを吸い取られているように感じていた。
そして、どうしようもないゾクゾクとした痺れも、無理やりに感じさせられていたのを思い出した。
イオンが俯き、何も言えないままでいると、ユーノスはゆっくりと前に歩み出てきた。
そして、イオンの目の前で跪き、頭を垂れた。
「すまなかった」
イオンは目の前の石竹色の髪の毛を深く落とし、謝罪する男性に、どう言葉をかければいいのか分からず、狼狽えてしまう。
「恐ろしかっただろう。痛かっただろう。悍ましかっただろう……」
重々しい声で懺悔するユーノスに対し、イオンがどうしていいのか分からないでいると、背後のセドリックも跪いて詫びを述べ始めた。
「ユーノス様の責任ではありませぬ。私がイオン様を閉じ込めたのです。苦しむユーノス様をこれ以上見ていられず、あなた様を生贄にするように、地下室に閉じ込めました。全て、私が――」
「わ、分かりましたっ! 分かりましたから、もう御手を上げてください!」
大の男二人に挟み撃ちで謝罪されるイオンは慣れない状況に汗を噴き出し、居ても立ってもいられぬ様子で二人を立ち上がらせた。
確かに昨夜のことは恐ろしい体験ではあったが、こうして事情を聞いた今は、二人の言い分も良く分かる。別に傷をつけられたわけではないし、『愛』を啜られたと言われても、イオンは別に普段通りに異常はない。
だから、もうこの死人英雄に関しては容赦するべきだろうと割り切ったのである。
それにこの話が真であるなら、憧れた英雄のユーノスが目の前にいるのだ。
イオンとて、ユーノスの英雄譚は昔から憧れていたし、英雄に感謝の念だってもっている。その英雄が呪いで苦しんでいるというのだ。多少は力になれるのならば自分の『愛』を捧げるくらいはなんてことはないと考えた。
「本当にすまなかった……。こんなに、赤くさせてしまって」
ユーノスがイオンの頬に顔をよせ、首筋をそっと指でなぞった。そこは昨日、ユーノスがきつく吸いたてたキスの証が残っていた。
「ひゃっ」
「……すまなかった。こんなことを言うのもどうかとは思うが、君から『愛情』を頂けたお陰で、暫くは飢えに苦しまずに済みそうなのだ。……謝罪と共に、感謝も送らせてほしい」
「そ、そんなの、私……」
「とりあえず、まずは朝食を頂かれましては?」
セドリックがにこりと笑む。テーブルの上の美味しそうな料理は早く食べてほしそうに香ばしい香りを運ぶ。
イオンは、赤い顔を誤魔化すために、その朝食に飛び掛かるつもりで席につくのであった。
六月四日に書籍発売されます『ガリベン魔女と高嶺の騎士』もよろしくお願いします。
詳しくは作者の近況報告をご確認ください。