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ミラファルカ島は寂しげな印象が漂う島だった。小さな島で中央に屋敷がある以外は特に目を引く物は何もない。
船着き場から伸びている道を真っすぐ進めば、そのまま屋敷に到着するようで、イオンはセドリックに導かれながら、徐々にその姿を見せてくる屋敷に目を奪われた。
その屋敷は、一般的な住居、邸宅、というよりは、神殿や教会と呼ぶほうが似合う作りをしていた。木造建築で、神聖な雰囲気を作り出し、静かで厳格な印象が纏わりついている。しかしながら、景色にとけこみ、存在感を不要に訴えない自然に馴染むその姿は、遺跡の様な風貌も魅せる。
黒い屋根にはモニュメントが飾られていて、それは『生命の樹』を象っていると分かる。
「生命の樹の、文様……」
「アウスラル王家より授かりました文様でございます」
「王家ですか? そんな貴い方が住まわれていらっしゃるのですか?」
セドリックの説明に、イオンはどきりと緊張した。まさか、そんな身分の高い方と、祖父が友人同士だとは考えていなかった。祖父は無口であり、厳しい人であったから、あまり多くを語っては暮れなかった。その日ごろの雰囲気からも高貴な位の人々と交流があるようには思えなかった。
「キザシ殿からは、何も伺っておりませんか?」
「は、はい……。祖父はあまり自分のことを話してくれませんでしたから」
「ふむ。……さようですか」
セドリックの声が少しばかり低くくぐもったように聞こえたので、イオンは首を傾げた。何かあるのだろうか?
本当に、この屋敷に住む人物が、祖父の友人で間違いないのだろうか……?
イオンは少しばかり不安が沸き起こって来た。
「さあ、到着いたしました。ここがブルックランズのお屋敷でございます」
目の前の大扉を開きながら、セドリックがイオンを招く。通された玄関は薄暗く、冷えていた。
人気がない、寂びた屋敷という印象がぬぐえず、イオンは戸惑いの表情を隠しきれずに、そっと足を踏み入れていく。
確かに、今はもう日も暮れてしまい夕闇に包み込まれ、空にはうっすらと月が上る時刻である。物悲しい雰囲気に包まれても不思議ではない時刻ではあるが、この広い屋敷にまったく人気がないのは、奇妙とも言えた。
セドリックは船から荷台を引いて来て、購入してきた物資を運び込む。
「温かい食事を用意致しますので、今夜はこちらでゆっくりと過ごしていかれると良いでしょう」
「えっ、しかし……ご迷惑では」
「いえいえ、キザシ殿のご令孫であれば、もてなすのが礼儀……。どうか、今宵はこちらでお泊りになっていかれると良い。それに、もう船を出すには遅い時刻ですしな」
セドリックは穏やかな声色でそう言ってくれたが、イオンは少しばかり悩んだ。
祖父の手紙には、この屋敷の友人に世話になるように、と言われているものの、イオンはそのつもりがなかった。しかし、確かにもう時刻は夜になり、船は明日の朝まで出せないだろう。この島には他になんの建物も無いようだし、ここに一泊するよりほかにない。
「で、では、ご主人様にご挨拶をさせていただけませんか?」
「ええ、そうですな。……ただ、今主人は体調が優れず、横になっておられる故、少々お待ちいただけますでしょうか」
「そ、そうでしたか。ご無理をさせてはいけませんね」
「先に、イオン様の部屋へとご案内いたしましょう」
セドリックがそう言うと、コツリ、コツリ、と足音を響かせて歩みだした。
セドリックの硬質な足音が反響し、まるでイオンを周囲から観察しているように包む。
自分が不気味な妄想に捕らわれてしまっていると思って、イオンは失礼な考えをしてはいけないと、首を振ってセドリックに続いた。しかし、腰の剣を握る手に汗をかいてしまっているのは、どうしようもなかった。
コツ、コツ。コツ、コツ。
足音が響く廊下を進み、やがてセドリックは地下階段を下っていく。
「し、下へ……下るんですか」
「ああ、はい。ここは風が強い島でして、上階は冷え込むので、寝室を地下に用意しております」
「そ、そうなんですか……」
冷えた空気がますます下がるような地下への階段は、ポツリと明かりが灯っているだけで足元もぼんやりとしている。
まるで幽霊屋敷のような雰囲気だと、背筋に冷たいものが走るイオンは、どうしようもなく自分が今怯えているのだと自覚してしまう。
他人様のお屋敷を幽霊屋敷のようだと考えてしまうとはなんと無礼なことだろう。ここは大好きな祖父の友人の邸宅だというのに。
震えあがる心を叩くように、自分に叱咤激励をして、イオンは歩を進めていった。
「こちらの扉の奥、通路の先がイオン様の寝室とさせていただきますので、ご自由にお使いください。夕食ができる頃には、主人も会食の席に足を運ぶこともできますでしょうから」
「あ、ありがとうございます」
階段を降り切ったところには、大きく重い扉が仰々しく構えられていた。
ガチャン、ギギギ。と重々しい音を立てて扉が開くと、その先にはまた薄暗い通路が伸び、奥には扉がいくつかある。あれが客のための寝室ということだろう。
セドリックは夕食の準備をするというので、イオンはお辞儀をして、扉の先に進んでいく。
通路をそのまま進んでいくと、扉が両サイドに並ぶ空間にたどり着いた。いくつか部屋があるようだが、どれを使ってもいいのだろうか。
イオンがどの部屋の扉を開けばいいのか悩んでいると――。
ギ、ギ、ギ、ガダン!
「!?」
階段の手前の大扉が重い音と共に閉じていた。
セドリックが閉めたのだろうか? しかし、なぜ閉める必要があるのだろう。
イオンはぞっとした感覚に襲われて、思わず扉に駆け付けた。
「せ、セドリックさん? ……え……?」
がち、ガチガチ。
イオンが扉を開こうとノブを押したり引いたりするのだが、どういうことなのか、鍵がかかっていた。
外側からしか鍵を開けることができない造りのこの扉は、巨漢であろうと、力任せに押し破ろうとしても開かないだろう重厚さを見せつけて、ビクともしない。
「と、閉じ込め、られた……?」
ガタガタ、ガチガチ。
どれだけ押し引きしても扉は開くことがない。イオンは焦りを浮かべた表情で、懸命にノブに力を込めていた――その時だ――。
「セドリックか……?」
「!?」
声がした。
扉の外側ではなく、通路の奥からだった。それも男の声だ。セドリックのものではない、若い男の声だった。
しかし、その声は、どこか喘ぐような切羽詰まった呼吸の乱れを含んでいた。
(苦しげな声……。もしかして、このお屋敷のご主人……?)
セドリックが、主人は体調を崩し横になっていると話していたのを思い出したイオンは、苦しげな様子の男の声に、もしやと考えた。
「入るなと……、言ったはずだ……」
ぜえぜえ、と荒々しい息つぎから漏れる苦悶の声は、怒気がこもっていた。
その声色からかなり重体なのだとイオンは察して、声の主のもとへと駆け付けようと動いた。もし、主人の病状が悪化して発作でも起こしているのであれば、一刻も早く助けが必要になる。
「だいじょうぶですかっ!?」
声のするほうへ駆けつけ、扉を開くと、そこは奇怪な空間が広がっていた。
床には何やら見た事もない文字で描かれた魔法陣があり、淡く発光していた。周囲はその白光と同系色の石が鈍く輝きを放ち、幻想の空間といった有様であった。
そして、その魔法陣の中央に、一人の男性が横たわって苦しげに身体を震わせているではないか。
「!? な、何者だ……」
男は、部屋に飛び込んできたイオンに脂汗を浮かばせた驚きの表情で、苦しく声を上げる。本当に驚愕しているようで、その一瞬だけは苦しみすらも忘れたように、イオンを凝視して固まっていた。
「は、話はあとですっ。お薬はございますか!? お、お水を……」
イオンが苦しむ男性の身体を支えようとその上半身に腕を伸ばした。
「お、女……!? 女だと……、まさか、セドリック……!?」
「しゃべらないでください! 息を落ち着けて……」
「ち、近寄るな……!」
抱きかかえようとしたイオンを払いのけるように男が身をよじったとき、イオンはその男の顔を改めてみた。
その顔は苦悶に崩れてはいたが、それでも美麗なかんばせに、一瞬瞳を奪われかける程であった。切れ長の瞳は濡れていて、妖しい光を携えた紅。汗で肌に張り付いた髪は乱れているものの、それが返って蠱惑的にも見える。石竹色の髪は儚げながらも妙な艶を魅せ人間離れしている印象を与えるのだ。
細い鼻先と整った輪郭はまるで石膏像のように完成された美しさを保ち、その肌は陶器のように白かった。彼が苦悶の声を上げていなければ、女性だと錯覚していたことだろう。それほどまでに、眉目秀麗であった。
「に、逃げろ……」
「え……っ」
男は息も絶え絶えに、イオンに『逃げろ』と繰り返した。イオンは突然のことでどうしていいのか分からない。逃げろと言われても、一階へ上がる為の扉は開かないのだ。
「はぁっ、はぁっはぁっ……! はぁぁっ!」
飢えた野獣のような吐息を零し、男は紅き瞳を鈍く光らせるようだった。
それは、比喩ではなく、イオンは男の様子に感じ取った。この人はいま、『飢えているのだ』と。文字通り、飢えた野獣の様相で、丹精な顔立ちを歪め、その『飢え』を満たすモノをねめつけていた。
「お、おんな……。女の、匂い……」
ぐらりと、男の上体が動いた。汗にまみれた身体を起き上がらせ、上半身を折るようにして、屈む。
野獣が獲物を襲う直前の動きだと、イオンは直感した。その獲物が自分である、という事も含め――。
「ひっ」
イオンはすぐさま、魔法陣の部屋から逃げ出した。そして、入り口の重い扉に真っすぐ駆けていく。
「あ、開けて! セドリックさん! 開けてくださいっ!!」
ダンダン、と激しくドアをノックしても、その音が反響するだけで、セドリックの声は返ってこない。
背後から、バタバタン、と激しい物音がして振り返ると、そこには白い肌をした美しき貴公子だったであろう者が、さながら食人鬼のように、赤い瞳を光らせ、ハァハァと荒い息を立てながら、ゆったりと迫り来ていた。
(お、おじいちゃんっ)
恐怖から、イオンは腰の剣を掴んでいた。その剣でこの悪鬼を撃退しようと思ったわけではない。ただ、お守りにすがるような気持ちで剣を握りしめた。
こんな訳も分からず襲われ、殺されたくはない。イオンは覚悟を決めて、その剣を鞘から抜こうとした――。
が――。相手が早かった。イオンが剣に手を置いたのを見て、男は先手を打とうと駆け出した。常人ならざるスピードで一気に間合いを詰められ、イオンは剣を抜くより早く、その両腕を男の手で抑え込まれ、重いドアに押し付けられた。まるで磔のように動きを封じられ、目前にある狂気じみた男の顔が今にも齧り付こうとしているような状況になった。
「い、いや……いたい……!」
抑え込まれた手首が痛く、イオンは苦悶の声を上げるが、男はその力を弱めることがない。
男の肉体がイオンの華奢な身体に覆いかぶさろうとして、押し倒していく。
イオンはそのまま大扉を背にくずおれ、尻もちをついてしまう状況になった。イオンに抵抗の意思がないことを感じ取ったのか、男はそのまま顔を寄せてきて、イオンの首筋に唇を押し付けてくる。
「んっ――」
ぞくりとした悪寒が走り抜けた。
直接肌に触れてきた男の唇の感触もそうだったが、その体温に驚き戸惑った。異様なほどに冷たいのだ。まるで悪魔に口づけをされたような異常な感覚がイオンを青ざめさせる。
身を小さくこわばらせたイオンに男は全身で覆いかぶさっていく。
「いただくぞ……」
扇情的とも言える声で男が囁いた。飢えに飢えた男の乱れた吐息は冷たくも、また別の温度を持つかのように熱かった。それは体温とは別の、『欲望』が孕む熱だ。
「あっ……」
びくん、とイオンがひとつ跳ねた。
先ほど、男がキスをした首筋に、もう一度その冷たい唇が重なっていった。
そして、ちゅうっ、ときつめに吸いたてられたのだ。接吻の跡が残るのではないだろうかという強い吸引は、少しばかりじぃんとした痛みを伴った。
だが、それと共に、奇妙な電流が己の芯を走り抜け、内側にある己の体温を啜られているような感覚にとらわれていた。
(なに、か……へんっ……)
じゅる、と啜る音が耳たぶをくすぐるようだった。イオンはその耳たぶを真っ赤にして、瞼をきつく閉じ、首筋に感じる未経験の痺れに熱のこもった吐息を吐き出してしまう。
男に吸いたてられていると、ぞくぞくと体が勝手に震えて、フワフワとした微睡に誘われていくようだった。そして、己の中に生まれる、じゅんと滲む熱を汲み上げられていくような感覚に、全てを委ねてしまいたくなる。
(吸われてる……)
ちゅる、ちゅうっ……――。
ひとしきり吸いたてると、男は狂気に染まっていた紅い瞳に理性の光を取り戻して、その長いまつ毛を跳ね上げた。
「はっ……」
はじけたようにイオンの首筋から唇をはがすと、少女の細い体を痛々しく拘束していた両腕から力を抜き、毛布のような優しい抱擁へと切り替えた。
イオンは首筋に遺る未体験の感覚に打ち負かされて、脱力していた。全身に力が入らず、うっすらと目を開くと、その身体を優しく抱き留める白い肌の男性の心配げな顔を確認することができた。
彼の表情は先ほどまでとは打って変わって、知的な表情で、哀しそうな瞳を向けている。
「すまない……」
優しい声だった。
罪悪感に満ちた、哀しい声であったが、彼の素直さが伝わるもので、イオンは霞んだ思考の中、力なく首を横に振ってあげた。その首筋には彼の遺した赤いマーキングがある。
急に襲われ、恐ろしかったのは確かだが、今こうして優しく自分を抱いてくれている男性の冷たい腕は、目一杯イオンを気遣う包容力を持っていたからだ。
そしてイオンはその抱擁に、いよいよ意識が沈み込んでいく。
一体、これはどういうことなのだろうと、考えることも、今のイオンにはできなかった――。