19
その日の朝はどんよりとした曇天が世界に蓋をしたようにも思えた。
風がどこか冷たく、ごうごう、ひゅうひゅうと煩い。深緑の葉がざわざわと乱舞して、千切れては舞っていく。
そんな風を薙ぎ払うように、我武者羅に駆ける。
朝いちばんに、イオンがやってきたのは、海岸線だった。
ミラファルカ島の海岸には、一艘の船が繋がれている。その船を使って本土へと渡り、買い出しに出かけていた。言わば、ここがミラファルカの玄関のようなものだ。
イオンは、迷子になった幼子のように不安と焦燥に満ちた顔で、船を確認して、周囲を見回した。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
浜辺の先はすぐに雑木林が広がる。かつて、賊がこの島にやって来た時、この辺りに縛り付けたことを思い出していた。あの時も、ユーノスは、ここに居た。
木々の影をひとつひとつ確認していく。この島のどこかに隠れているのだと、信じていた。
愛する、ユーノスが、どこに居るはずなのだ――。
イオンは、また駆け出す。
林の奥。よく伸びた枝や、鋭い葉がイオンの肌を裂いたが、そんなものも気にせずに、イオンは瞳を走らせた。
どんな僅かな気配でも、見逃さないように、と。
「はぁ……はぁ……!」
この辺りの樹の影から、背後を突いてユーノスが驚かせようと迫って来た日のことを思い出す。
今にも、そこの木陰から、音もなく現れて、「見つかってしまったか」と苦笑しながら出てきそうだ。
だが、ユーノスの姿は、まるで見付けられなかった。
走った。ブーツに泥を跳ね返らせて、スカートのすそを汚しても、汗すら拭わず、イオンは走る――。
「ユーノスさまっ……」
やって来たのは植物園だ。よく手入れされた草花が、強い風に倒されそうになっていた。
その姿がとても弱々しく見えたイオンは、なぜか苛立ってしまった。花弁を風に散らされ、茎を折られていく姿が、今一番見たくない『昨夜見た夢』を思い出させたからだ。
あんなのは、夢だ。悪い夢だ。
ユーノスはこの島のどこかにいるはずなのだ。だから、捜して叱ってやるのだ。こんな悪戯は、やめて欲しいと。
植物園の中心に、小さなテーブルとイスを見付けた。そこに座って休息する、ユーノスが、一瞬瞼に浮かんだ。
だが、それは陽炎のように消えていく。
「どこにいるんですか、ユーノスさま……」
ミラファルカ島はそんなに大きな島ではない。隠れられそうな場所もそう多くない。例えば小さな洞穴がある。
イオンは向かう。幻影を追うように。
いないと分かると、また駆ける。
ユーノス様は死んでいない……!
イオンはこれまで親しい人の死を二度見た。キザシと、セドリックだ。どちらも、その死に顔は白く安らかに眠るようだった。それに花を添えるのが、死別だとしっている。
だが、ユーノスは違った。突然、目の前から光り輝き、散っていったのだ。
あんなのは、『死』ではない。あんな死別は、見たことがない。
だから、イオンはユーノスの死を受け入れることができなかった。質の悪い夢にしか思えなかったのだ。
(――お前が死ぬまで離すつもりは、ないよ――)
そう言った。ユーノスはそう言ってくれた。だから、消えてしまうはずがないのだ。
「嘘、吐かないでください……」
ミラファルカの西にぽつんとある、静かな湖までやってきた。
ここはいつも空気が美味しくて、涼しい。景色も良い事から、セドリックの墓をここに建てていた。
イオンはセドリックの墓石を見つめて、問うた。
「セドリックさん……。ユーノス様は、そちらにはいらっしゃいませんよね?」
返事はなかった。だが、イオンは頷いた。強い風が、ざざざ、と周囲の木々を揺らしたのが、セドリックの返事だと受け取った。
そして、もうじくじくと痺れて悲鳴を上げている脚を叩き、もう一度駆けていく。この島の隅々まで捜して回るつもりだった。
釣りができる崖にも行った。海が良く見えるとユーノスはそこで、のんびりと釣りを楽しむこともあった。イオンはそんな彼の隣で、転寝をしてしまった日があったことを思い出した。
じん、と瞳の奥が熱くなっているのを感じた。
いつの間にか、頬に温かいものが流れ落ちていた。
ぽたり、ぽたっ――。
涙が溢れるのと同時に、重々しい空からも雨が零れ落ちてきた。
風はさらに強まっていく。遠くからは雷鳴すら響いている――。
雨脚が強くなっていく。
イオンは涙を洗い流す雨に打たれて、愛しい人をの面影を島の至る所に求めて彷徨った。
「…………」
もう、走るだけの体力がなかった。それでもイオンは、もしかしたらここかもしれないと、これまでユーノスと過ごした日々を想起しては、その思い出の場所に脚を向けた。
やがて、ミラファルカ島を全て見終わったとき、イオンはびしょ濡れで、泥だらけの服に、切り傷と擦り傷を負った身体で、屋敷に戻ってきていた。
扉を開き、中に入っても、つめたい空気が静まり返り、人気なんてまったくないのだと感じさせる。
まるで、初めてこの屋敷にやってきた初日のように、この家が不気味にも思えた。
イオンは、疲れ切った身体で、フラフラと地下室に下りていく。
そこで、彼と初めて出会ったのだ。野獣のように、腹を空かせた彼と――。
大きな扉を開き、奥の通路に進むと、もう今は使用していなかった、あの魔法陣の部屋へと向かった。
そこになら、彼が居るように思ったのだ。
イオンはまるで火に誘われる蝶のように、朧げな表情で部屋にたどり着いた。
だが、そこには誰もいるはずもなく、がらんどうの石部屋が、雨に濡れたイオンを更に冷たく凍えさせる。
イオンは、そこで、くなくなと頽れた。もう、どこへ行けばいいか分からなかった。
圧倒的な孤独を思い知らされた気分だ。この島には、もう自分以外に人がいない。それは、まるで最早この世界に自分独りしか存在していないようにも思えてしまう。
それほどまでに、イオンにとって、この島での暮らしは大きなものになっていた。
イオンはそのまま、固い石の床に沈みこんだまま、動かなかった。ザァザァと、波の音ではない環境音が耳に届いた。雨がどんどん酷くなっている様子だ。嵐が来ていたのだろう。
……植物園はもう手遅れだろうか。
イオンは、動けなかった。
もう、立ち上がるような力も、精神もなかった。
脳裏には、只管にユーノスとの思い出が蘇っては消えていく。
寄せては返す波のように、何度も彼の顔が、声が、香りが、あの恋しい冷たさが、身体の隅々まで沁み込んでいるようで、イオンは自分の身体を両腕で抱き締めて、震えた。
(――君は相手を『攻撃する』という覚悟が足りていないな)
ユーノスと手合わせをしてもらった時の言葉が脳裏に響く。
(私をいつか、斬ってくれ。イオン――)
ユーノスを斬っていたら、どうなったというのだろう。
斬るとはつまり、私のことなど早く忘れてくれという言葉にすら受け取れる。
だが、イオンはそれだけは絶対に、例えユーノスの願いだろうと断るつもりだった。彼との思い出を断ち切り、忘れて生きていくなんて、不可能だ。
どうせなら、彼との思い出に沈み、溺死したい――。
(――へっ。覚悟もないのに、大層な武器振り回すからだよ)
誰の言葉だっただろう。そんな声が不意に思い出せた。
覚悟――。武器――。
斬る――。
イオンは、ぼろぼろの身体で、脚を震わせながら立ち上がった。
そして、地下室を後にすると、二階まで上がり、自分の寝室にやってきた。そこには祖父の形見であり、家宝である雷駆が鎮座している。
イオンは雷駆を掴み、瞼を閉じた。
「覚悟……」
ぽつりと声が零れ出てしまった。その声は自分が出したものとは思えないもので、イオンはどこか他人事のようにぼんやりとしていた。
「覚悟は……できてる……」
雷駆を抜く。
美しい刀身はかつて多くの魔族を切り伏せた名刀である切れ味の鋭さを見せつけている。
刀身に移る自分の顔を見つめ、イオンは醜い女の子だなと笑った。
酷い顔をしている。真っ青で、雨に濡れた髪がべたりとへばりつき、傷が頬に一筋の腫れを作っている。
「ユーノス様は切れないけれど、自分なら、斬れる」
イオンは刃を己の首筋に寄せた。
ユーノスは、消えた。それを認めることは、すべての御終いだ。ユーノスがこの世を去ったのなら、自分も彼の後を追いたい。
自分の望みは彼の隣に居ることだから。
このまま生きていき、年を重ねて老いていく自分を想像する――。
いつか、このユーノスの思い出すら風化して忘れていくのかもしれない。彼の声を、今は思い出せる。彼の香りを、今は思い出せる。冷たい体温も、彼の舌遣いも、姿勢も、抱き寄せ方も、笑い方も、哀しみ方も全て――。
それらを失くしていくくらいなら、今、こうして全ての思い出が鮮明なうちに、彼の後を追いたい。そうしたら、彼の手がかりを沢山持って、天に行ける。
あちらには、キザシもセドリックだっている。こちらには、イオンしかいない。
独りぼっちの世界には、何の意味もない。
カチ、と雷駆が鳴った。刃の鈍い輝きが首元を照らす。
これで彼の元へと逝ける。
イオンは、雷駆を握る手に力を込めた。あとはこれを引き、喉を裂くだけ――。
それだけでいい。
「もう、独りはいやなんです……」
(『そんなことはありません』)
「――!」
優しい温かい声がした気がした。
祖父に似た、年老いた男の声は、キザシとはまた違う優しさを持つ、自分のもう一人の家族の声。
セドリックの声だと分かった。
(イオン様、あなたの輝きは衰えません)
そんなはずはない。だって、今この刀身に移りこむ自分の醜い顔と言ったらなかった。とても輝けるような女性の顔ではない。老いて、忘れ、独り死ぬ。そんな未来しか見えない。
(あなたは、独りになったと思い、社会に漕ぎ出そうすべく、戦おうとしていた。そんな時に出逢ったのが我々だったはずです)
――そうだ。キザシが亡くなって、イオンは独り、これから生きていかなくてはならないと、田舎からここまでやって来た。
自分に何かできる物があるだろうと、信じて。
「私……、何もできなかった――」
良かれと思って、ユーノスの神聖化なんて提案した。突拍子もない話だったが、それは思いのほか功を奏して、ユーノスの呪いを本当に打ち消したのだ。
だが、それはユーノスを喪うことに繋がる最低の手段になったのだ。なんという皮肉だろう。
自分がユーノスを殺したようなものだ。
(いいえ、あなたが健気にもユーノス様に仕えてくれたからこそ、彼は逝くことができた。永遠の牢獄から、救い出したのはあなたなのです)
「でも……もう、独りはいやなの……」
イオンは、握りしめていた手が、弱々しく震えだしていた。もう、雷駆を握っていられそうにない。
「私も、みんなと一緒にいたい……」
(イオン様、なりません。こちらへと来てもあなたが求める人はいない)
暖かい声は、静かに告げた。それでイオンは、いよいよ雷駆を取り落とし、両手で顔を覆ってむせび泣いた。
(ユーノス様は、こちらにはいない。その意味が分かりますか? イオン様)
「うぁぁ……あぁぁ……」
イオンは、泣き崩れる。あまりにも優しいその声は、慈愛に満ちて、イオンを抱くようだった。
後悔をするな、自分は死人英雄を救ったのだ。
その愛によって。
ユーノスも言っていた。
愛は、後悔をしないことだと。先に向かい続ける意思こそが、美しい愛を生むと教えてくれたのだから。
死人英雄への救済は、愛をもって成された。
――『こちらにはいない』。その言葉が、イオンをもう一度、孤独に立ち向かわせるたった一つの言葉になった。




