狐の嫁入り.6
嫌な汗が背中を伝う。
本能、とも言うべきか。今、ここを動かなければ間違いなくあれに、梅たちは丸ごと呑み込まれてしまうだろう。現に、手首に絡みついた帯はじりじりと梅の身体を球体の方へ方へと引き寄せようとしていた。
(いーやー!たけ丸の馬鹿馬鹿ー!)
「ーー助けて欲しいか?」
ん?何だろう今の声は。あいにくと何処ぞから聞こえた正体不明の声なぞに構ってやれるほど、今の梅には余裕はかけらもなかった。
そんな梅に対して再度声は問いかけてきた。
「だから助けて欲しいか、と聞いている」
現在進行形で窮地に陥っている相手に対してそんなことを聞くか、普通?
そんなことを考えている間にも、蠢く不気味な帯の球体との距離は徐々に近付いていっている。ちく丸は泣きながら梅にしがみ付くばかりである。
思わず梅は苛々と声を張り上げた。
「あーもう!助けて欲しいに決まってるでしょーがー!」
「助けを乞うておきながら高慢な態度だな。いいだろう。その代わり、見返りは寄越せよ」
高慢な態度なのはどっちだ。と自分の事は差し置いて心の中で呟いた梅は、次の瞬間、全身の毛が粟立ったのを感じた。
「ーー祓い給え」
ひっ、とまずはちく丸が朗々と響いた声に肩を震わせ、益々強く梅にしがみ付いた。
「ーー清め給え」
次に帯の球体が、まるで心臓のように重い脈を打ち始める。
耳に響いてくる声は実に滑らかで聞き心地さえいいと感じさせる程であるのに、紡がれた単語が何であるか知った途端、梅の心臓も球体の鼓動に呼応するかのように大きな音を立て始めた。
「ーー急急……如律令!」
不意な叫び声と共に、帯の球体が膨らみ、そして弾けた。
「え?え?」
弾けた大量の帯は部屋の周囲に散乱し、側に立っていた梅もその恩恵を受けることとなった。帯塗れになった梅はぺたんとその場に座り込む。次いでぐったりともたれかかってきたちく丸の重みを感じ、はっとした。
「ちく丸!?どうしーー」
「場を清めたからな。気に当てられたんだろ」
「気……?」
近寄ってきた声の主人がそう言う。気、てなんのこと?と呆けた顔で問いかけようとその人物を見上げた梅は、悲鳴をあげた。
「ああああああんた!」
「ほう。さっきまで互いに甘い睦言を交わした間柄だったというのに、もう俺の名前を忘れたか?」
濡れ羽色の髪に、美しい顔立ち。注がれる眼差しは新妻に対する数刻前の柔らかなものとは打って変わり、鋭く冷徹な刃そのもの。その眼差しさえ除けば、この顔には見覚えがあるどころの話ではなかった。
(薬で一晩ぐっすりと眠ってたはずなのに、何で!?)
混乱する梅の心中を読んだのか、この屋敷の新たな主人である男ーー勘兵衛は面白そうに口角をあげた。
「あの酒に混じっていた薬のことか?そんなもん飲む振りをして後で吐き出したに決まってるだろ」
「……っ!でもさっきは!」
「眠った振りなんて幾らでも出来る。お前の陳腐な“演技”に比べれば、俺の“演技”は大したもんだっただろう?」
陳腐、という言葉にことさら強い語気が込められたような気がする。
何だとー!と言い返しそうになって梅ははっと口をつぐんだ。
演技、とこの男は言った。つまり、それは梅たちの目論見に最初から気付いていたということなのだ。
「お前、知っているか?近頃妙な噂があってな。何でも祝言を挙げたばかりの花嫁が、なぜか一晩の内に嫁入り道具や家にあった大量の食料と一緒に行方知れずになる。なんて話がよくあってなぁ」
へ、へえ、それは大変な話ね。と梅。男がしゃがみこみ、こちらと目線を合わせて来ようとしていたので、目線をそらしておくのを忘れない。
「それだけでも十分に妙なことだが、何より妙だったのはその消えた晩には必ず、遠く宵闇の向こうから、提灯を下げた人々の行列が点々と列を成しているのがみえるのだという」
「……」
「どうにも可笑しい、と。そこでこの“退治屋”の俺に、話が回ってきたという訳だが」
ひしひしと頭上から感じる威圧感が恐ろしく、顔を上げることができない。
「そ、それじゃああたしはこの辺で……」
意識のないちく丸を抱え上げ、梅はそそくさと踵を返そうとした。
待て、と言う声と、ひい、という梅の声が同時に響く。どうやら梅の後頭部を男は片手で鷲掴みにしたようだった。しかも物凄い力で。
「助けてやったというのに、礼もなしか?」
「いっただだだだ!?助けていただいてありがとうございますぅ!」
(割れる割れる!頭が!)
女に対する力の込め方ではない。しかも言われた通りに礼を述べたというのに、一向に手が離れる気配はない。
「そんな口先だけの礼が欲しいと誰が言った?俺は見返りを寄越せ、と言ったんだ」
「あたし何にもーーいだだっーー持ってないんだけど!」