第二章 全ての希望を灰や塵へ 2
城の住民は、色々だ。
色々な者達が、この迷宮のような城の中に住んでいる。
未だ、この城の全貌は分からなかった。
メアリーから、合鍵を渡されて、セルジュは、その赤い部屋の中へと入った。
そこには、両手と両足の無い、赤黒い髪の女が、ソファーに横になっていた。
その女は、酷くどろりとした眼をしていた。
どうしようもないくらいに、虚無的な印象を与えてきた。
彼女は、時折、怒りに打ち震える。
ぼそぼそっ、と、生きている事が苦痛で、屈辱で仕方が無い、と、そんな事ばかりを述べる。
彼女の名前は、アイーシャと言うらしい。
何でも、セルジュがダートに入る前に、魔女を討伐する為の騎士団というものがあり、彼女は騎士団長の一人として、メアリーに挑んだのだが、返り討ちにされて、此処の城の住民にされてしまったらしい。
メアリーに四肢を切り落とされた後に、更に、処女だったアイーシャは、ルブルが死体から作った男性器をメアリーが下半身にはめて、彼女は酷く犯されたらしい。
異常なまでの性倒錯をメアリーは持っていた。
セルジュはそんな話を聞いて、自分の醜悪な感情なんて、とても可愛いもんじゃないのかと思い込んでしまった。
アイーシャは、屈辱と憎悪によって、彼女に屈服したのだ。
心の中まで、凌辱されているのだろう。
彼女は、ずっと悪夢の中から抜け出せずにいるみたいだった。
ずっと、ずっと、彼女は自分自身の自我の迷路を彷徨い続けていくのだろう。
切り落とされた手足は、ルブルのゾンビ兵に与えられたらしい。そのゾンビ兵は、武器を手にして、強力な力で、ルブルの城の周辺を守っているとの事だった。
アイーシャのような存在からしてみると、きっと、セルジュは何処までも、何処までも、汚らわしくて気持ちの悪い存在なのだろう。それだけはどうしようもないくらいに理解出来るし、認めるしかないのだ。
†
ダリアは、希望の象徴だった。
セルジュは、この城の中に来てから、ずっとダリアの事ばかりを考えていた。
彼女が、彼に話しかけたからいけなかった。
セルジュは、暗く自閉的だった。
どうしようもない程に、他者というものが恐ろしかった。
ダリアは、彼にとって、妬みの対象でしかなかった。あるいは、憎悪の対象でしかなかった。彼女を見る度に、自分の中の自尊心が傷付けられ、抉られていくような気分にされてしまっていた。
だから、ずっと屈辱的だった。
自分が陰ならば、彼女は陽だった。
どうしようもないくらいの劣等感ばかりが募っていた。
彼女は、色々な男達に優しかったし、同性の友達も多かった。眉目秀麗で、なおかつ、勉強も、セルジュよりも出来た。きっと、彼女は将来、幸せが約束されているのだろうと思った。どうしようもないばかりの絶望が、セルジュの心を蝕んでいった。
好意がある事を宣言してしまったのは何故なのだろう?
彼女を本気で、自分の所有物にしたいと強く願った。
そして、彼女に嫌われた後、彼女の何もかもを破壊してしまいたいと思った。
セルジュは、卑小なだけの自分に気が付いたのだった。
彼はエリートの道を歩いていた。
将来はそれなりの地位に付ける筈だった。
けれども、蓋を開けてしまえば、とてつもなく卑しく、弱い心の持ち主でしかなかった。下らない人間でしかなったのだ。
自分は、未だ夢の世界の中で生きているように思えてしまう。現実という実感を、いつまでもいつまでも獲得出来ずにいるのだろう。
だから、ダリアの事を永遠に理解する事なんて叶わないのだ。
もはや、彼女の精神というのは虚空の彼方へと消失してしまったのだ。
だから、決して自分は彼女にはなれない。
たとえ、彼女の肉体をこの手に入れたとしてもだ。
鏡の中には、ダリアが映っているのだが、結局の処は、自分自身が映っている。鏡という存在は不思議なもので、その向こう側に別の世界が開かれているようにも思えてきてしまう。そして、向こう側から語りかけてくるかのようだった。
お前は、何で、生きているのだ? と。
声が、何度も、残響しながら語り掛けてくるように思えてくる。
それは罪悪感なのか、何なのかまるで分からない。
ただ、とてつもない恐怖だとか、不安だとか、そういったものである事は確かだった。
自分という存在を、どうしても引き剥がせそうにない。
そうする事でしか、自己を保つ事は出来ないから。
四六時中、魘される悪夢の続きをまだ見ていたい。
スクリーンは、何処までも何処までも素晴らしくて、とてつもない程に楽な気分にさせてくれるのだから。
間違いなく言えるのは、この密室から出たくはない。
それだけは、強い望みだ。
ベルガモットのアロマを焚いて、気分を落ち着かせる。
そして、好きな菓子類などを皿の上に置いては、ずっと倦怠な時間を過ごしている。
鏡の中の自分は、いつだって好きだった女の顔だ。
独占出来なくて、精神を支配出来なかった女の顔だ。
まるで、呪いのように、鏡の向こう側から囁き掛けてくるみたいだった。
セルジュは、きっと呪われているのだろう。
死ねば、地獄へと突き落とされていくのかもしれない。しかし、そんなもの、どうだっていい。ただ強く、この倦怠の中で生きていたい。
此処は、トーマス・マンの『魔の山』の世界みたいなものだ。
病人は外に出ずに、自我の密室の中に篭っていればいい。
それだけでいいのだと、彼は思うのだ。
†
アイーシャは、いつの間にか、金属の手足を身に付けていた。
失われた手足は、どうしたのだろう、とセルジュは思っていた。
彼女は空ろな眼で辺りを見回していた。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる…………」
部屋の隅には、メアリーのバラバラ死体が転がっていた。
セルジュは、頭がおかしくなりそうになる。
「何度、殺しても、この女は生き返る……」
ざしゅっ、ざしゅっ、と、彼女は、メアリーの死体を剣で切り続け、頭蓋を砕き、手足を事細かく切り刻んでいく。
「四日目だ。四日、殺しても、翌日には生き返る」
アイーシャは血走った眼で、メアリーを刃物で刻み続けていた。
もはや、彼女の眼は、狂気ばかりが灯っているかのように見えた。
「何故、死なないのかしら? ふざけやがって、ふざけやがって、…………」
何度も、何度も、刃物を突き立てる音が響いていく。
セルジュは、この部屋を出ようと思った。
何だか、酷く不気味で、やるせないような気分に陥ったからだった。
アイーシャの叫び声が聞こえてくる。
殺してやる、殺してやる、殺してやる、殺してやる。
そう彼女は呟き続ける。
そう、アイーシャの精神はメアリーによって、支配されているのだろう。
彼女は、もしかすると、何も見えていないのかもしれない。
ひたすらに、精神の幻影を追いかけ続けているのかもしれない。
メアリーは、どうしようもないくらいに、マゾヒストでサディストなのだと、本人から聞いた事がある。だから、メアリーにとっては、アイーシャはとてつもなく素敵で愛しい存在なのだろう。
セルジュは扉を出る。
すると、遠くから、メアリーの声が聞こえた。
どうやら、晩餐の時間らしかった。
†
イゾルダは中庭の畑にいた。
セルジュは、呆けた顔で、それを見ていた。
彼は、エイのような乗り物を作り上げていた。
よく見ると、ヒレは翼のようになっており、皮膚や筋肉にあたる部分は、植物の蔓で出来たエイだった。
「セルジュ、乗り物を作ったぞ。何度か失敗したが、そうだな。D-2026、とでも名付けている」
セルジュは、ははっ、と乾いた笑いを浮かべていた。
番号表記は、それだけ、彼が失敗作を重ねてきたからだろう。
セルジュは、何かちゃんとした名前を付けられないのかよ? と訊ねると、イゾルダは、頭を捻りながら、悩んでいた。どうも、ネーミングという概念を創作物に付けるという発想は余り無いらしい。
そう、もうじき、侵略が始まるのだ。
セルジュは、いつまでも、いつまでも自分の世界の中に閉じ篭っていたかった。
ダリアとずっと、対話していたかった。
けれども、もうじき、戦いが始まる。
セルジュは、自分が役に立つのだとは、とても思えない。
自分の存在価値など、メアリーが歪んだ思想で肯定しているだけに過ぎないのだ。
セルジュは、自分は矮小で卑小で、どうしようもない人間なのだと思っている。
しかし。
しかし、メアリーやイゾルダと一緒にいると、何故だか、自らも強くなれたような気になっている。
どうしようもない程に、彼らといると安心感と、小さな万能感が芽生えてくる。何故、こんなにも、仲間と呼べる者達に囲まれているような気分になるのだろう。
それはとても、不思議な感情だった。
どうしようもないくらいに、大切なものだった。
†
「グリーン・ドレス」
魔女の城のメイドは、その女の名前を呼ぶ。
そこは、森の中だった。
彼女は、川から流れ着いてきたのだった。
戦いの負傷なのだと言う。
随分、傷を負っていた。瀕死の状態であったと言ってもいい。
何があったのかは、深く聞かなかった。おそらくは、少し前に、大きな死闘を行ったのだろう。もっとも、彼女の好戦的な性格から考えて、いつもの事だったのかもしれない。
ダートを作る以前に、彼女とは会った。メアリーが、彼女の負傷を治療した。
彼女は、ドーンのランキングに入っている。高いランクの能力者だ。
だからこそ、色々あったのだろう。事情は聞かない事にした。
「ねぇえ、メアリー。私は楽しみたいだけなの。だから、私は私の好きなようにさせて貰うわよ? それでも一向に構わないのよね?」
「ええ、いいわ。緑の悪魔。存分に暴れて欲しい。それこそが、貴方がダートに席を置く意味になるのだから」
「指図も何もかも受け付けない、私は自由で。自由の赴くままに、破壊と殺戮と、欲望を楽しむだけなのだから」
くっくっ、と、グリーン・ドレスは笑い続ける。
彼女は、民族衣装めいた服装に、牙のようなものを幾つも通した首飾りを付けている。
周囲の温度が、徐々に上昇していく。
彼女は、炎を扱う能力者なのだ。
だから、彼女は炎を使う事によって自らの欲望を満たしたいと考えているのだろう。
†