第九章 赤い空と、果てしなく黒い色彩の中で 3
アイーシャは、グリーン・ドレスの下へと向かっていた。
何度も、戦いの場所を変えているのか、とても追い付けずにいる。
此れ程までに、彼女の攻撃は早かったのか。
ただ、轟音と、破壊音ばかりはひたすらに聞こえてくる。
アイーシャは、両脚を変形させていく。
アイーシャの脚の裏側は、車輪が付いて、ローラー・ブレードのような形状へと変わっていく。彼女はアスファルトの地面を滑りながら進んでいた。次第に加速していく。
アイーシャは、グリーン・ドレスの下へと向かう途中、完全に頭の中が真っ白になりそうになっていた。二人の戦いが近付くに連れて、街が異界へと飲み込まれていく事が分かる。何故だか、全身が震えている。気温が下がっているのが分かる。
アイーシャは見る。
巨大な赤い竜が翼を広げていた。
凄まじいまでの、竜巻が一帯を飲み干そうとしていた。赤い色の竜巻だ。炎が空を、地上を焦がしている。何もかもを喰い尽くさんまでの烈風が激しく一面に踊っている。
そして、赤い竜巻が一瞬にして、収束していく。
まるでそれは、一つの星の終焉にさえ似ていた。
†
ヴェルゼは動物も人間も、大差無いと考えている。
知的生命体ばかりが驕り高ぶっているというのは、彼にとっては欺瞞だ。
動物の世界は過酷で劣悪だ。適者生存がつねに行われている。ある意味で言えば、それは人間の世界よりも、遥かに醜悪なものなのだ。
人間だけが、搾取者であり、驕り高ぶっていると考えている奴もいるのだが。動物の世界の酷さを、ヴェルゼは感じるのだ。それは、ヴェルゼの種族が、人と動物や昆虫の混血種のようなものだったからだろう。
つねに、生命というものは、他の生命と争い、貪り食らい、絶滅さえ望んでいるんじゃないかと考えてしまう。食物連鎖、弱肉強食という自然のルールは、極めて凄惨を極めるものだ。それは、きっと人間の世界にも当てはまるものなのだろう。
ヴェルゼは、種族間で被った虐待の怒りを忘れていない。
その憎悪こそが、彼の生きる根源となっている。
だから、彼は全ての生命が死に絶えた世界こそが美しいと考えているのだ。
人間というものは、ある種の正義感や、宗教観などで、動物に対する強い敬意を持っていたりする。たとえば、環境破壊の果てに動物や植物などが死に絶えてしまった世界を憎む者達も多いと聞いている。しかし、ヴェルゼからすると、そんなものは欺瞞以外の何物でも無かった。彼は動物の邪悪さを知っている。生命それ自体のグロテスクさを理解しているつもりだ。
人間の世界では、支配者がいて、被支配者が存在する。そして、支配者が統治して、悪政の国においては、酷い搾取が行われている。しかし、そんなものは、自然の世界では当たり前の事だ。
スズメバチが蜜蜂の巣に入り込んで、蜜蜂を虐殺するように。
肉食動物のボスが、支配権を巡って同属の雄と殺し合いをするように。
そういった、鏡写しのように、人間の世界というものは成り立っているのだろう。
彼は、所謂、自然は美しいだとか、生命は美しい、だとかいった考え方に対して、凄まじいばかりの嫌悪感を示していた。
いわく、鉱物こそが美しい。大気こそが美しい。何も無い廃墟こそが美しい。
この世界を消し炭にして、生命を根絶やしにする事こそが美しい。
ヴェルゼは、そう考えるのだった。
†
アイーシャは、ぺたり、と膝を付いていた。
何故、間に合わなかったのだろう?
「あらぁ? どうしたの?」
グリーン・ドレスは、困ったような顔をしていつものように笑っていた。
「あれは、私が一人で倒すって言っているでしょう?」
いつものような表情の、驕りながら、他人を見下したような顔をしている。
グリーン・ドレスの腹は大きく抉れていた。そして彼女の右側の顔半分は無残な傷が広がっている。そして……、胸の辺りには、壊れた鉄骨が生えていた。
「あの…………」
「大丈夫」
緑の悪魔は唇を歪める。
「倒すつもりでいるから」
そんな不敵な顔をされる。
けれども、彼女はすぐに、自分の命の火は無いのだという事を理解したのか……。
ぼそぼそっ、と、アイーシャの耳元で、何事かを話し続ける。それは、どうやら、敵の行ってきた能力の概要みたいだった。
彼女は死に際に、アイーシャに託しているのだ。
アイーシャは、向こう側にいる敵の方を向く。
それは空気を侵食する壊疽のようなオーラを発していた。
そいつは、蝿のような翼を生やしていた。そして、焼け爛れた全身から煙を放ちながら、四肢を僅かに動かし、両眼が血走り、口からは涎を垂らし続けている。
その化け物は、ただただ笑っている。
まるで、呪いでも振り撒くかのような笑みだ。
グリーン・ドレスはふいに、まるで操り糸でも切れたように、地面に倒れる。
彼女の肉体が、さらさらっ、と、灰のように空気へと溶けていく。
それは、どうしようもない程に無情だった。
服だけが残り、彼女の肉体が空へと消えていく。
アイーシャは、彼女がいつも身に付けていた首飾りを握り締める。四つの赤い牙のようなものが付いたペンダントだ。
「ねえ、何で……?」
アイーシャは、ふいに、訊ねていた。
自分の両目から、止まる事無く涙が溢れてくる。
感傷に浸る時間など、無かった。
蝿男は翼を広げて笑っていた。
辺り一面の空間が避けていく。
隕石がアイーシャの下へと降り注ごうとしていた。
アイーシャは、帯刀していた剣を引き抜く。
自分が倒すしかなかった。
そもそも、こいつは自分達を始末しに来た刺客なのだ。
隕石が何も無い空間から飛来してくる。
アイーシャは、それらを剣で弾き飛ばしていく。……かなり重い攻撃だった。
まともに捌き切れない。全身が吹き飛ばされそうだった。
彼女は気付けば、逃げて走っていた。両足の裏側を変形させて、車輪を作り、ローラー・ブレードのようにアスファルトを滑走していく。
それを見て、とても楽しそうな顔で、蝿男は此方側へと飛んでくる。
敵は追ってくる。
アイーシャは無我夢中だった。
隠れていたアジトに辿り着く。
アイーシャは全身の、悪寒が止まらなかった。ひたすらに寒い。それは悲しみなのだろうか? あるいは、どうしようもない程の死の恐怖なのかもしれない。
……呼吸が出来ない?
辺りの空間が歪んでいる。
おそらくは、真空のようなフィールドを作られたのだろうか。
ぱきり、ぱきりと、卵の殻でも割れるようにヒビ割れている。
……化け物がっ! 何なの? こいつ?
屋敷全体が、巨大な重力の磁場の中へと放り込まれていっているのだろう。このままだと、自分の肉体も押し潰されてしまう。
ブラック・ホールを生成している。
このまま、屋敷ごと、辺り一帯を押し潰すつもりなのだ。
……グリーン・ドレス、仇は討つ。
彼女は首飾りを強く握り締める。多分、生き残れば、これが形見になるのだろうか……。
この敵は、宇宙空間を作成してくるらしい。それも、そいつの持っているイメージの宇宙空間だ。おそらくは、想像力を形にしたタイプの能力なのだろうが。
……真空で、人間が爆発したり、凍結したりするのかしら? 原理を解明しようとするだけ無意味かもしれないわね。
とにかく、相手の出方を伺うしかない。
……いや、そんなんでいいのか? 私。何が何でも、倒さないと。
アイーシャは、自分を必死で落ち着かせようとする。
今ある感情は何なのだろう?
悲しみ? それとも、怒り? あるいは、喪失感? 分からない。多分、色々なものが混じっている。
あらゆるマイナスな感情を振り払って、戦っていこう。
そこにきっと、自分の成長と……自分の失った誇りを取り戻す術があるのだから。
†
戦って、自分自身を取り戻すしかない。
負ける事は許されない。
そいつは、窓を破って、中へと入ってきた。
彼の周辺は、光を吸い込み続けている。更に、重力によって壊れていく壁や床などが凍り続けていく。
ヴェルゼは辺りをきょろきょろと見回していた。
応接間だ。家具などが散らばっている。
どうやら、彼女を探しているみたいだった。
口を開き、吐息が漏れる。そのまま吐息が凍り付いていく。
部屋中に仕掛けられたトラップが発動していた。
零度の中を、熱を帯びた、光のようなものが線を引くかのようだった。
何か、細長い矢のようなものが、ヴェルゼの肩を貫通していた。
ヴェルゼは、それを即座に引き抜こうとする。
すると、肉が抉れていく。
「……銛?」
同じように、左の腿、そして背中の翅へと銛が突き刺してくる。
彼は、しばし、その場所へと固定されていた。
「引き千切らないと…………」
彼は肉が抉れる事も構わず、それらを引き抜こうとする。
「来たな、蝿野郎っ!」
部屋のクローゼットに、隠れていたアイーシャは飛び出す。
アイーシャは両腕を銃へと変形させていた。
弾丸はその辺りにある鉄屑を鉛玉へと変えていた。
「地獄へ行けよ、クソ野郎っ!」
バルカン砲だった。
鉛玉が、高速回転の砲身から飛び出していく。
重力の全てが、そのままヴェルゼへと向かっていく。
ヴェルゼの肉体がこのまま鉛玉の嵐によって、全身の血肉が吹き飛んでしまうのだろう。
当然のように、撃ち込まれる鉛玉の全てがヴェルゼを外したもの、彼を中心に向かっていく。凍結の能力によって、本来ならば、鉛玉は空中に静止している筈だった。彼のイメージによれば、絶対零度は全ての攻撃を、彼に辿り着かせる前に凍り付かせるからだ。
鉛玉は熱を帯びているのだ……。
「…………あれっ、か、解除しないと、…………」
彼にとっては、予想外の攻撃だったのだろう。
一閃だった。
全身から熱を発しながら、蒸気を上げ続ける剣を構えたアイーシャが。
そのままの勢いで、ヴェルゼの首を両断していた。
ごろりっ、と、蝿男の首は回りながら、地面へと落ちていく。
ヴェルゼの肉体が、自身が作り出したブラック・ホールの中へと吸い込まれ、押し潰されていく。そのまま、彼は無へと還っていく。
アイーシャは茫然自失のまま、重力や凍結によって破壊された周辺を見回していた。
どうやら、自分が勝利した事を確認する。
「あれ、私、勝った…………?」
震えが止まらなかった。
どうしようもない程に、涙も止まらなかった。
どうしようもない程に、嬉しいような、あるいは可笑しいような感情さえ込み上げてくる。ただとにかく、敵を迎撃出来たのだ、という事は分かった。
†
寝台の上で、アイーシャは一人、自分自身に手術を施していた。
機械兵を医療用に改造して、レントゲンで自分の体内を見る限り、下腹部の皮下脂肪の上ら辺に、メアリー辺りが埋め込んだであろう発信機が仕掛けられていた。
麻酔は無かったので、舌を噛まないように口の中にタオルを詰めて、アルコールで切開部を消毒して、機械兵に身体を切り開いて貰う。
しばらくすると、確かに、腸がある部分に、小型の機械が入り込んでいた。
アイーシャはそれを取り出すと、憎々しげに、その機械を踏み潰す。
そして、今度は針と糸を取り出して、自分で自分の切り裂いた腹を縫っていく。
「殺してやる、殺してやるぞ、メアリー。ルブル、あの人外の畜生のクソ共っ!」
震えがまるで止まらない。
失ってしまったもの、それは大き過ぎる何かだ。
もう、二度と失いたくない。
だから、戦わなければならないと思った。前に進まなければならないと思った。
彼女は自身の剣に額を当てる。冷たさが額を伝わっていく。
彼女は剣の柄を強く握り締める。
この剣で倒さなければならない相手がいる。
この剣で拭わなければならない涙があって、誓わなければならない祈りがある。
自分は戦い続けなければならないのだ、と思った。
そう。
過去に苦しむよりも、未来を築き上げたいから。自分自身の存在が呪われていたとしても、それでも立ち向かいたいものがあるのだから…………。