第九章 赤い空と、果てしなく黒い色彩の中で 2
××国。××××年。
そこは、ヴェルゼの生まれ故郷の町だった。
街の名前は、どうしても思い出せない。しかし、此処はもう廃墟と化した場所になってしまっているのだ。だから、名前を覚えていたとしても、彼にとっては意味の無い記号のようなものだった。
そこは、余り外側の人間が訪れない場所だった。
砂丘によって覆われた街だった。
この国は、数百万名もの人間達が住んでいた。
ヴェルゼは、此処で、異端児として生まれた。
種族の名前は、確か、トゥラー族。この地にて、聖なる者達を、意味する名前だった気がする。そこは、外界から遮断されて独自の文明を築いている場所だった。
けれども、ヴェルゼは、そんな文明とは無縁の存在で、まともに言語さえも覚えられなかった。生きている事そのものが理不尽で、自分はきっと椅子だとか、食器だとか、そんな類の道具で、道具なのに意識がある、という意味の分からない存在なのだろう、と思っていた。
いつも、星々ばかりを見て過ごしていた。その時間だけが、彼にとっての幸福が許されている時間だった。いつか、自分の殻を壊してくれる存在が現れるんじゃないのかという夢想ばかりを続けていた。けれども、いつしか、そんな希望も打ち砕かれていった。
ある日、暴君はその街に訪れた。
彼にして見れば、気まぐれのようなものだったのだろう。確か、彼が捕らえられてハンターになる前の、ランキングに名前が載っていた頃の出来事だと思う。
ヴェルゼは、窓から、その光景を眺めていたような気がする。確か、針を握って、絨毯を織っていた時だったと思う。爪が割れて、指先が動かなくなっていて、今日のノルマをどう終わらせようかと、悩んでいた時の事だったような気がする。
暴君の前に、数名の街の兵隊達が現れた。
彼らは、動物や昆虫などと、人間の混血のような生き物だった。
俗に言う、ライカン・スローブという種族だったのだろう。
カマキリのような両腕をした男が、まず暴君に襲い掛かる。暴君は有無を言わさずに、そいつの腕を捥いでいた。続いて、甲殻に覆われた者が、彼に突撃していく。
虎の頭と爪を持った男が、彼の皮膚を引き裂こうとする。
蜘蛛の頭を持った男が、糸を吐き出していた。
みな、異常なまでの敏捷性と、硬化した肉体を持っていた。
ヴェルゼとは、まるで違っていた。
みな、強靭な力を手にしていた。ヴェルゼは、この民族の忌み子だった。そんな者達の中で、ヴェルゼはただ、家畜として生かされていた。ヴェルゼにまともに言葉を教える者はいなかった。
暴君はトゥラー族の者達を、次々と皆殺しにしていった。
初めて、あの強大な者達を屠り続ける者が現れたのだ。ヴェルゼの頭の中は、真っ白になっていた。
一方的な殺戮が終わった頃だ。
暴君は、途中、飽きた、とだけ告げた。
そして、布に覆われた腹を開いていった。
まるでさながらそれは、漆黒の風だった。暴風雨が神の裁きのように辺りを蹂躙しているかのようだった。この国の住民達、トゥラー族全員を撒き込んでいってしまった。
ヴェルゼは、その光景を、一つの神話のように思えた。神や悪魔が、人々を裁き続けている。暴君は、強大な天界や地獄の魔王そのものに見えた。
街の者達は、殆ど死に絶えてしまった。
暴君が、殺人ウイルスを、二日半に渡って散布し続けたみたいだった。
しかも、どうやら、遊びながら、多少の加減もしていたらしい。本当ならば、こんな場所、もっと早く滅ぼしてしまっていた事なのだろう。
ヴェルゼは、震えながら、自分を飼っている者達が次々と病に倒れて死んでいった時、いつしかやってきたならず者を心から敬っていた。
そして、気付けば、彼の下へと飛び出していた。
彼は、ヴェルゼを見て、いぶかしんだ顔をしていた。
「お前は、何で、生きているんだ?」
「ぼ、ぼ、僕は、混血種なんです。僕の母親は、父親に無理やり強姦されて、僕は生まれた。だから、僕は……」
「成る程、俺の『エリクサー』のウイルスは、此処の純血種のみに感染するように設定しておいたからな。お前は引っ掛からなかったのだろうな」
ヴェルゼにとって、自らの生は、理不尽なものでしかなかった。
何故、自分が生まれてきたのかの意味さえも分からなかった。
ヴェルゼの母親は、父親に犯されて、ヴェルゼを産んだのだった。
彼は異端児扱いをされていた、やっかい者だった。そして、この種族の奴隷として育てられた。まともな食事はずっと与えられなかった。残飯ばかりを与えられて育てられた。時には、生活害虫や雑草、錆びて使い物にならなくなった機械の部品、布の切れ端などを食事として出された。
街の者達からの、彼に対する虐めは酷いものだった。
ただひたすらに、ヴェルゼは、奴隷として、家畜として扱われ続けていた。ヴェルゼには言葉は与えられなかったが、感情はあった。ただ、その感情も、表に出してはいけないものだという事も嫌という程に知らされていた。
暴君は、彼にとっての救い主だった。
殺している姿は、神々しいまでに美しい。
そして、どうしようもないくらいに彼は強かった。
あれ程までに、外の者達から恐れられている戦闘民族であるトゥラー族を、ほぼ無傷で殺傷していく姿は、もはや天空から舞い降りてきた神話の神そのものに似ていた。
光が刺し込んできたのだ。
暴君は、彼にとっての救済だった。
ずっと、彼の下に付いていきたいと願った。
切実なまでに、彼に固執した。
ヴェルゼは、蝿人間だった。
大した力など有していないのだと、嘲られていた。
だから、彼はずっと自分は日陰の下で生きていくのだろうと思っていた。何一つとして、縋る希望なんて無かったのだから。
暴君だけが、彼を救ってくれた。
この閉ざされた箱庭から出してくれたのだった。
ヴェルゼは、暴君を崇拝する。この世界全ての生命に存在意義など無く、全てが土や好物だけになればいいと考えていた。
†
「正義のヒーローってあるだろ、なあ、お前、冒険活劇小説とか、アニメとか映画とかは見るか?」
そう言いながら、彼はごろりと、ソファーで寝転がりながら、テレビのリモコンを弄っていた。がちゃがちゃと、DVDを弄っている。
そして、テレビに飽きたのか、ぱらぱらとソファーの近くに積んであった本を手にして読んでいた。
グリーン・ドレスは、怪訝な顔をする。
「漠然とは分かるけれども、私には分からないね。何の為に奴らって戦うのかしら? 他人が大切だとか、仲間が大事だとか、そういう事を言っているんでしょう? 自分達の住んでいる場所を守りたいだとか」
「俺の友人に、そういったものに憧れている妄想家がいるんだが。彼は、本当にそういうものを目指しているらしい。なあ、ドレス。一歩、間違えたら、俺もそういう狂人になっていたかもしれんぞ? 正義の名を借りて、絶対なる悪と戦うんだ。そいつは、物凄く面白いんだろうなあ」
グリーン・ドレスは、げらげらと笑った。
自分達とは、何処までも程遠い。
他人の不幸に感情移入する事が出来ない。
他人の痛みに共感を覚える事なんて、出来やしない。
二人は、純然たる悪になろうと誓った。
純粋悪になろうと。
結局の処、二人共、ただの大量殺人犯でしかない。
けれども、何処かで幸せを求めているような気がする。
グリーン・ドレスは、自身の快楽や欲望に忠実なままに生きているのとは違って、ウォーター・ハウスは様々な哲学書や学術書などを読んで、自分自身が何かの“概念”のような存在に為りたがっているように思った。
俺は絶対悪になる、それが彼の口癖だった。純粋悪になるとも言っていた。
彼女は、ふと、彼は何処か繊細で何かに対して、怒っているんじゃないのかとも思った。それは、この世界そのものの欺瞞に対する怒りなんじゃないのかとも。
彼が、本質的には、何と戦っているのか分からない。
彼は、どうやら、彼がよく口にする正義や愛や希望という言葉が好きな友人は、とても好ましい相手だと思っているみたいだった。理解されないなりに、彼の言葉を聞いてくれる大切な相手のようにも思えた。
「あのさぁ、ウォーター・ハウス。何、読んでいるの?」
「ん、トルストイの全集」
グリーン・ドレスは、首を捻る。
何だか、頭が痛くなりそうな名前だ。
「何、それ。面白いの?」
「ああ、小説は面白い。非常に風景描写や文章技巧が精巧だ。色彩感覚も良いと思うな、映像が見えてくるみたいだ。しかし、この虚無主義者の小説家は、高齢になって、随筆だか、教養本だかの人生論を書くと、極めて下らない事ばかりを語り出した。お前が、ゲロとかおぞましいとか、薄気味悪いとか罵倒している観念とかだな。まあ、なんだ。人生の虚無感に堪えられなくなって、宗教を信じるようになったらしい」
「はあっ、何、言っているか分からない」
そう言いながら、彼女は彼に柔らかい羽毛の入った枕を投げ付けた。
彼は色々と毒を吐きながらも、熱心にその本を読んでいるみたいだった。
「俺はドストエフスキーの方が好きだ。『カラマーゾフの兄弟』はよく読んだ。話の構成はぐちゃぐちゃだが、登場人物の造詣が面白い。俺は、この小説が一般的に、言われているような、人間の英知だとか、愛や平和を願う心だとか。そういった風には読み取ってはいない。こいつは、哲学による狂気を描いてやがるんだ。小説の中のイワン・カラマーゾフには共感するな。もっとも、俺はこいつよりも、よりクレバーで、この地上の道徳だとか信仰だとかをまるで、信じちゃいないんだがな」
「だから、何言っているか、分からないのよっ」
彼女は、溜め息を吐いて、頭をぼりぼりと掻く。
そして、小型冷蔵庫を開いて、中にあるアルコールのカクテルを一気に口に入れていく。
ウォーター・ハウスは、冷蔵庫から、アイス・ケーキと紙パックの野菜ジュースを取るように言う。彼女は、言われたものを見つけると、彼に向かって放り投げる。彼はそれらを片手だけでキャッチすると、ジュースを飲み始めた。
「俺の友人は、『白痴』の主人公のような奴だ。あるいは、『罪と罰』の老婆を殺す若造が通っている大学の、性格の良い学友のような奴だ。つまり、性善説だとかを信じている、救い難い愚か者なんだ。しかし、どうやら、俺と奴は光と影なのかもしれん」
グリーン・ドレスは本当に呆れたような顔になる。
どうも、この男は、何処かで、自分の言っている言説と、矛盾している処が多々あるような気がしてならない。
グリーン・ドレスは、ふと、この男の為に、何かしてやれる事は無いかと思った。
何か、ちゃんとした料理でも覚えてみようか。
そう言えば、この男はグルメなのだ。世界各国の料理にも精通している。
美味しいと言わせてみたい。
そんな普通の事を、思ったりした。
「ああ、そうだ。腹が減っただろう。料理作ってやるよ」
そう言いながら、この男は台所へと向かっていった。
そして、パックの米をレンジで温めて、ニンニクや玉葱を刻み、オイスター・ソースで鶏肉を炒めていた。そして、トマトを潰しながら、塩を振っていく。
「何、作っているの?」
「ジャンバラヤ。上手く作れるといいがな」
グリーン・ドレスは、顔が真っ赤になる。
料理は彼の方が、明らかに上手いのだ。
†
……今だけでもいい、アイーシャを守る為に、正義のヒーローごっこをやってやる。こいつは悪だ。敵なのだ。だから、絶対に倒す。
アイーシャは、友人なのだろうか。彼女が死ねば、自分は悲しむのだろうか。
何処かで、自分は壊れてしまっている。
正しさ? 友愛? そんなものは、どうだって良かった。
難しい事はどうだっていい。
マグナカルタの“最終必殺技”とでも呼べる、ドラゴン・タイラントを発動させている。
この辺り一帯、全ての熱エネルギーを自分に集めている。
こいつは、全力で殺す。
「私は可能な限りの悪なる行為を行ってきたが、それが私の生きる目的だと思っていた。彼もまた、私にそうであるように言った。けれども、私は今、たった一つの、きっと人として、正しいんじゃないかって思う事をしたいと思っている」
数キロ先の熱まで、奪えるだろう。
現象として、彼女自身も、気温を膨大に奪う事によって周辺一帯を、極寒の世界へと変える事が可能なのだ。
「というわけで、死ねよ、悪の怪人っ! ハリウッド失敗作映画の三流モンスターがっ!」
緑の悪魔は、舌を出して、中指を立てていた。
熱気が上がっていく。
炎が彼女の周辺を、渦巻いていく。
彼女は点滅しながら、剥き出しの黒い骨格を露にしていく。
「私は殺人に対しても、他人の不幸に対しても、何の残悪感も無い。そう、私はこれで良かった」
ウォーター・ハウスに会えた。
そして、だからこそ、アイーシャを守れるのだから。
彼女は、敵の目の前から、一瞬、姿を消す。
次の瞬間。
緑の悪魔は、線路の辺りに置かれていた列車を、さながらヌンチャクのように振り回していた。
そして、それを全速度で、ヴェルゼへと向けて叩き付ける。
これだけの派手な攻撃を与えても、正直、牽制にしかなっていないのだろう。
とにかく、敵の肉体が強靭なのだ。
「きっちり完全にぶち殺してやるよ。頭蓋骨を溶かして、黒焦げの脳を引き摺り出してやるよ。その腐り切った脳髄を灰にしてやる。あなたの次はルブルとメアリーだっ!」
原初において、炎は創造と破壊の道標だった。
大地は炎によって包まれていたとされる。
街中が吹き飛ばされていく。
そして、炎の渦と共に、氷点下の世界が襲い掛かっていく。
アイーシャのいるアジトは、離れた場所にある。
彼女ならば、ドラゴン・タイラントの渦中にあっても生き残るだろうという機算はあった。
ヴェルゼは、口からネジやガラスの破片を吐き出していく。
「暴君はねぇ。みんなのものなんだよ? 君が独占していたっていうのが我慢ならない。僕のものでもあるんだよ? 彼は救世主だ。悪として生まれた者達のね? 僕は産まれた時から、悪だった。みんなそういう言うから、僕を虐め続けたんだよ。だからねえ、悪には悪の救世主が必要なんだ。彼はキリストなんだよ。全ての罪を赦す為のね?」
ヴェルゼは自分の爪を噛み始めた。
「マグダラのマリアはキリストとくっ付いたわけじゃあない。君はただの売女だった」
「ああ? きっちり殺してやる、ってんだから。地獄で喚いてろよ。パラノイア」
隕石が、何処かから雨霰と降り注いでくる。
グリーン・ドレスは、それら全てを拳だけで弾き飛ばしていく。
そして、降り注いできた隕石の一つを受け止めて、それを砕いて、焔の弾丸へと変え、ヴェルゼへと放り投げた。
二人は、同じような言葉を同時に言っていた。
「時間よ、もう終わりね」
「時間が来たよ。終いだね」
グリーン・ドレスのドラゴン・タイラントが、辺り一帯を焔の渦へと変えていく。そして、それと同時に、一面の温度が下がり続けていく。
グリーン・ドレスは、全身に焔を纏っていた。
真っ赤な竜のような姿へと変わっていた。
ヴェルゼもまた、形態変化を行っていた。
彼の下へ、電信柱が、車が、家々が飲み込まれていく。
彼は、ありとあらゆるものを飲み込み、喰らっていた。
彼自体が、一個のブラック・ホールへと変わっていた。
†




