第八章 映し鏡のセルジュ 3
セルジュは、通路を歩き続ける。
しばらく歩いた処だろうか。
右と左のT字路へと突き当たる。
確か、地図によれば、医務室は右の方だ。右に行けば、ケルベロスがいる筈だ。
いなければ、探して殺すまでだ。
彼は三名の部下を引き連れて、そのまま右の方へ向かおうとする。
しかし。
左の通路から、三名の男が現れた。
三名のうち、真ん中の男は知っている、確か、リレイズという男だ。
リレイズという男は、凛然とした顔で、セルジュ達を吟味していた。
彼は、確か、ケルベロスの、いや、歴代アサイラムの所長の秘書をやっている男だ。
リレイズは、無言で四名を見下げるような視線を送っていた。
「はっ、そこをどいて貰おうか」
セルジュから見て、リレイズの右側に立っている男は、巨大な槍を構えていた。
槍は、旋風のように振り回されていく。
左の方の男は、針が無数に生えた鉄球を手にしている。
処刑人、始末人、という言葉が、セルジュの頭の中で駆け巡るが。
彼は、一笑する。
「おい、てめぇら、此処はやって貰うぜ。俺は先に行く」
リレイズが、懐から、二挺の拳銃を取り出すのと、セルジュが持っていた真っ黒なバッグを開けるのは、同時だった。だが、やはり拳銃の攻撃の方が早かった。
拳銃の弾丸が、一人の男の頭蓋や首、胸元へと正確に撃ち込まれていく。
セルジュは咄嗟に、味方の一人である痩せこけた男を盾にしていた。
その男は、自身の能力を出すまでもなく、ただ単に、セルジュの使い捨ての道具となってリレイズに処刑されていく。
漆黒のバッグの中から、巨大な右腕が現れる。
それは、死人の皮膚をした右腕だった。
ルブルが、彼を気遣って、持たせてくれたものだった。
その腕が、リレイズの撃ち込んだ銃弾を防いでいく。
セルジュは、背後にいる男を見る。
小柄な男だ。彼は名前を訊ねた、フラッパーと言うらしい。どうやら、彼の能力で、この場を切り抜けてみる、との事だった。セルジュは人差し指を立てる。
すると、辺り一面に、セルジュと、フラッパー、カーカスの分身が現れる。
リレイズと、彼の側近は戸惑っているみたいだった。
セルジュは走り続ける。
こんな連中に、構っている暇など無かった。
相手にするだけ、無駄だと思った。
あっ、という間に、五名を通り抜けて、右の通路を走り抜けていく。
観葉植物に囲まれた、真っ白な扉があった。
扉を開くと、確かに、目当ての男がそこにはいた。
†
医務室で、ケルベロスは寝台の上に伏せっていた。
彼は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
イゾルダから受けた傷が治らないらしい。情報通りだ。
セルジュは、つかつかと彼の前に出て、せせら笑う。
「俺はセルジュ、って言う。てめぇを、殺しに来た者だ。よくもイゾルダをやってくれたよなあ? 俺は奴と親しかったんだ」
ケルベロスは無言だった。
右腕と胸元、それから両足首に包帯やギブスを付けている。
相当なダメージを受けたのだろう。
やはり、イゾルダとの戦いは、熾烈を極めたみたいだった。
彼は、何か物思いに耽っているみたいだった。
何を考えているのかは、彼にとっては、どうでも良い事だった。
「殺してやるよ、ケルベロス。イゾルダの仇だ。なあ、イゾルダは最期はどうだったんだ? てめぇを恨みながら死んでいったのか?」
ケルベロスは寝台の上でふうっ、と溜め息を吐く。
「奴ならば、安らかに死んでいったよ……」
その言葉を聞いて、セルジュは怒りで頭の皮膚が張り裂けそうな気分になる。
セルジュは、医務室の壁に掛けられている鏡を手にする。
そして、それをケルベロスの前に差し出す。
「てめぇは、俺によって殺されるんだよ。観念して、命乞いでもするんだな?」
そう言いながら、彼は勝ち誇ったような顔をしていた。
ケルベロスは自身の寝台の、パイプの部分に触れる。
すると、それは変形して、刃物のような形となって、セルジュの腹を抉っていた。
セルジュは思わず、鏡を取り落とす。
鏡は割れずに、綺麗に地面に転がっていった。
「ああ、畜生……」
セルジュは、再び、鏡に触れようとする。
これで、敵を映して割れば、映った鏡通りに、相手の身体をバラバラに、あるいは、粉々にする事が出来るのだ。
しかし…………。
ケルベロスが変形させたベッドの脚のパイプは、今度は、ぐるりっ、と回転して彼の喉元を切り裂いていく。
そして、更に、追撃のように、再び、彼の腹をパイプが引き裂いていく。
そして、点滴台が回転しながら、彼の頭に激突する。セルジュは今度こそ、昏倒寸前になる。
セルジュは口から、大量の血を流し続けていた。
何かを話したいが、言葉にならない。喉からも、血が溢れ続けている。
明らかに、致命傷だった。
セルジュの肉体は、人間女性大でしかない。
だからこのままだと、普通に助からない。いや、おそらくは、治療しても駄目だろう……。
「もう喋るな。……苦しみが長引くだけだ」
セルジュは、両膝を付いていた。
どうしようもない程の、死の悪寒が全身を駆け巡っていた。
†
……俺は本当は、ただの屑でしかないんじゃないのか?
こんな処で、死んでしまうのだろうか。
どろりとした情念が、何度も、何度も、心の中で反復していく。彼はケルベロスという存在が妬ましかった。強壮な肉体を有していて、いつも凛然と構えていた。彼はセルジュの持っていない、何もかもを持っていたような気がする。
どうしようもないくらいに、自分の醜さによって殺されそうだった。
妬む事でしか、自らを肯定出来そうにない。
しかし、妬みのエネルギーとは、果たしてそれ程、悪なるものなのだろうか。
ケルベロスが、憎たらしい。
そんな想いが、頭の中を過ぎ去っていく。
これまでの自分は死んでいたのだろうか。
惨めで矮小なままで、死んでいくのだろうか。
寒い。
とにかく、全身が寒かった。
死の暗闇の中へと落下していっているのだろう。
このまま、自分は惨めに死んでいくだけなのだろうか。
彼は、何も成し遂げていないような気がした。
自分は、何者でも無いのだと思った。
だから。
生きたい、という感情が切実なまでに込み上げてきた。
このまま、何故、自分が死んでいくのか、納得がいかなかった。
ケルベロスが、どうしようもない程に妬ましかった。
どうにもならないくらいに、憎らしかった。
ふと、自分の中の何かが解放されていくみたいだった。
地面を見る、すると、鏡が転がっている。鏡を持ち上げる力は無かった。
しかし……。
窓ガラスには、ケルベロスの姿が映っていた。
窓ガラスは、鏡だった。
彼は、口から血を吐き出しながら、何かに対して祈っていた。
妬ましい。
その感情ばかりが、込み上げてくる。力強いケルベロスが妬ましい、どうしようもないくらいに、妬ましい、憎らしい、何で、自分はこんなに卑小なのだ? 理不尽でしかないじゃないか? そう思うと、怒りと嫉妬が、どうしようもないくらいに渦を巻いて、胸を駆け巡ってくる。
何で、自分は脆いのか。
こんなにも、脆過ぎて仕方が無いのか?
ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがって…………。
最初に、ケルベロスを見た時から、いけ好かなかった。そして、きっとそれはもうどうしようもない程に、運命のようなものなのだろう。
もっと、力が欲しい。
メアリーの役に立てるだけの力がだ。
何かが、彼の奥底から這い上がってくるみたいだった。
きっと、それは彼を彼足らしめる何かなのだろう…………。
†
セルジュはおもむろに立ち上がる。
ケルベロスは、意外そうな顔をしていた。
「なあ、もう休め…………」
よろよろ、と彼は、敵の言葉を無視して立ち上がる。
血が一面に撒き散っていく。
セルジュの腕が、ケルベロスの負傷していない左腕に触れる。
すると、ケルベロスの左腕が、ぼきぼきに捻じ曲がり、へし折れていく。
ケルベロスは、激痛で絶句していた。
セルジュの両腕の肘から、刃が生え出していた。
「ケルベロス、てめぇの能力は何ていう名前だ?」
ケルベロスは、セルジュの状態を見て、驚愕していた。
「本当は、奪う力が良かったんだが。どうやら、複写する力みてぇだな。お前の姿は、窓に映っていた。俺も窓に映っていた。俺の力には、まだその力の先があったんだよ……」
ケルベロスは、まじまじと彼を眺めていた。
どうやら、腹と首の辺りの骨格を作り変えて、致命傷の孔を塞いでいるみたいだった。
ケルベロスも、そういう事は行う。つまり。
「お前の力の名前は何だよ?」
「『アケローン』だ」
ケルベロスは、痛みに堪えながら、言葉を発する。
「そうかよ、じゃあ、俺はてめぇの、アケローンを手に入れたってわけだ。俺も自分の力の名前を、アケローンって事にするぜ」
そう言いながら、セルジュは壁に持たれる。
これ以上は、踏み込めなかった。
眩暈と嘔吐感で、いっぱいだった。
ケルベロスを倒すだけの力が無いような気がする。
明らかに、ケルベロスは、寝台の辺りにトラップを張っている。
お互いに、満身創痍なのだが、セルジュの方がダメージが大きかった。何よりも、肉体的苦痛にそれ程、耐えられそうになかった。
彼は、一度、体勢を立て直す事に決める。
彼は扉を開けて、医務室を出て行く。ケルベロスは、彼を見逃してくれるみたいだった。
扉を開けると、カーカス達が、リレイズによって捕らえられていた。
セルジュは、呆けたような顔になる。
「お前ら、簡単に負けたのかよ」
フラッパーは、困ったような顔になる。
「今回は不問にするって……。出来心だろう、ってだから」
しどろもどろの言い訳だ。
血塗れで、今にも死相が出ているセルジュに対して、リレイズを含めて、向こうは、アサイラムの護衛が三名と、能力者が二人だ。
セルジュは怒り狂っていた。
ケルベロスのアケローンを今すぐにでも、使おうと思った。
リレイズは二挺拳銃を構える。
「じゃあな、私はお前を始末するよ。お前は矯正不可能だろうからな」
セルジュは飛んでいた。
リレイズの隣にいる、槍を持っている男の肩に跨る。男は、槍を振るおうとするが、セルジュを払い除けられなかった。セルジュは男の左側頭部に触れる。
すると、槍使いの男の頭部から、無数に刃物が生え出して、その男は絶命していた。
レード、と、その男の名前らしきものを叫ぶ、針の生えた鉄球を使う細身の男が、セルジュへ向かって突撃してくる。セルジュは、背中から、一回転すると、彼の鉄球に触れる。すると、鉄球が変形していき、その男へと針を飛ばし、男を串刺しにしていく。
カーカスと、フラッパー。そして、リレイズは戦慄していた。
セルジュは、カーカスの前に躍り出る。
「てめぇ、カーカス。てめぇは、良い人間の振りをしているんだよなあ、ふざけやがってなあ」
セルジュはふと、落ちていた黒い鞄を見つける。
その近くに、切り落とされた大きな右腕があった。
どうやら、リレイズ達は、この鞄がなおも、もそもそと動いている事を警戒して、触れずにいたみたいだった。
セルジュは、黒い鞄のジッパーを開いていく。
すると、中には、右腕の無い胎児のような生き物が詰まっていた。
セルジュは、再び、カーカスの方を向く。
「お前は、俺の眼に適うと思っていたが。このザマだよなぁ? つまり、お前は俺を裏切ったってわけだ、ふざけやがって、ふざけやがって」
セルジュの腹や喉から、血が滴り落ちていく。
リレイズは戦慄していた。銃を取り落としそうになっていた。
「てめぇも、アイーシャみたいにしてやるよ。俺がメアリーみたいな事をしてやるんだ」
ずしゃりっ、と。
カーカスの、右手の指が切り落とされていく。
ずじゅり、ごじゅりっ、と、カーカスの右腕が、少しずつ、輪切りにされていく。
そして仕舞いのように、セルジュは、一気に、彼の左腕と、両脚を切断する。
そして、転がっている奇形の赤子を、彼へと投げ付ける。
赤子は変形していき、カーカスの四肢の切断部分へと寄生する。
すると、寄生部分が、狼の頭のようになっていった。
それは、カーカスの意思とは、関係無しに暴れ狂っていく。
狼の頭は、怯えるフラッパーの頭部を食い千切っていた。どうやら、分身で逃れる間もなく、フラッパーは絶命してしまったみたいだった。
リレイズは、何度も、拳銃をリロードしながら、その怪物を撃ち殺そうとしていた。
セルジュは、人間離れした反射神経で、この場を離れていく。
そして、元に此処へと進入した場所へと戻る。
イゾルダのカメレオン型の生体兵器の中には、破壊された人体を治療する器具が揃っている筈だ。
何とか、治療を終えるまで生き延びよう。
セルジュは、そう決心したのだった。
†