第八章 映し鏡のセルジュ 1
セルジュは自分の映し鏡の能力は、一体、何をしているのだろうかと思う。
他人の精神を映して、それを破壊しているのだろうか。しかし、セルジュの能力の場合は、映った相手が、割れた鏡通りに砕け散ってしまう。
もし、他人の魂というものを鏡の中に映し出すものだとするのならば……。
魂なんてものは、在るのだろうか?
では、ダリアの魂は、一体、何処へ行ってしまったのだろうか。
分からない、何もかもが、分からない。
いつまでも、いつまでも暗い密室の中へと埋没しているような気がする。
何処まで行っても、彼女を理解する事なんて叶わないのだろう。
そう思うと、どうしようもない程の倦怠が押し寄せてくる。
自分の全てが、無価値で、無為で、無力でしかないのではないのかと思えてしまう。
自分が見ている、鏡の奥には、誰がいるのだろう?
一体、何が自分を覗き見ているのだろう?
深淵を覗く者は、深淵にもまた、覗かれている。
そう、とてつもない程に、寒気ばかりが迸ってくる。
何もかもに、苛まれていきそうで、酷く怖い。どうしようもない程に怖い。
きっと、自分は、停滞しか望んでいなかった。ダートは自分の居場所なのだから。だから、物事が動いていく事なんて、まるで望んでいなかった。
メアリーの姿が、この両眼から消えていきそうだ。
どうしようもない程に、彼女が霧のようになって崩れ、消えていく。
それが、とてつもなく酷く怖い。
ダートは楽園だった。
いつまでも、いつまでも怠惰で停滞な空間の中にいたかった。
ドーンを襲撃するまでの、三ヶ月間、彼はきっと今までの人生の中で、一番、幸福だったのかもしれない。そして、その幸福をずっとずっと望んでいる。
停滞こそが、彼には意味があった。
塞がれた部屋の中こそが、至福の時間だった。
そうなのだ。
何よりも、怖いのは。幸福を壊される事なのだから。
未来こそが、一番、果てしなく怖いものなのだから。
そんなものは、まるで必要無かった。
永久に止まってしまった時間の中で、生きたかった。
きっと、それだけが幸福なのだろうから。
もう、起き上がりたくない。
未来なんて、腐っていくに決まっている。
†
セルジュは起き上がる。
自分はどのくらいの時間、寝ていたのだろうか。まるで分からない。
ただ、頭を強く打ったような気もする。
ぼんやりと、ルブルのカラプトが操る死体達によって、焼け爛れていく館から、逃れる事が出来たのだけは憶えている。
そうだ、…………グリーン・ドレスとアイーシャが裏切った。その事も思い出す。
どうやら、静かな森の中で眠っていたみたいだった。
地面は草地だ。岩一つ無い。
周りを見ると、ルブルが浮かない顔で座り込んでいた。
「おいっ、どうしたんだよ?」
「メアリーが中々、復活しない…………」
ルブルは、手に持っていたものを、セルジュに見せる。
それは、首だけのメアリーだった。
ぴくりとも動かない。
「おいっ、待てよ…………」
「慌てないで、既にメアリーには。私のゾンビ化の処置を施してある。けれども、彼女の精神は、暗く深い闇の中から、まだ帰ってこないみたい」
セルジュは、わなわなと震えていた。
彼女がいなければ、自分の心は崩壊してしまうのではないか?
此れまで、何かしら持っていた罪悪感に押し潰されずにいたのは、メアリーの存在が強かったからだ。
「クルーエルが無事だったから、良かったけれども。緑の悪魔とアイーシャ、あの人達、本当によくもやってくれたわよねえ……」
そう言いながら、彼女は大切そうに男の子の人形を握り締めていた。
そう言えば、この人形は、彼の弟だ。
その正体が、一体、何なのかは分からないのだが……。
「それから、もう一つ…………」
ルブルは、浮かない顔をしていた。
「何だよ?」
「イゾルダが死んだみたい…………」
セルジュは両膝を付く。
そして、怒りなのか、悲しみなのか、あらゆるものがごちゃまぜになった感情が押し寄せてくる。
大切な友達だった。それは確かだ。
「生き返らせないのかよ?」
「死体があったとしても、それはもうイゾルダじゃない。私のゾンビ化処置は、死んでいった精神まで呼び戻すものじゃない。それに、予め、メアリーにはゾンビ化を進行させていたけれども。イゾルダは違う。セルジュ、死んだ人間は、本質的には生き返らない。私はあくまで、物質として、機械の部品のように、死体を道具や素材として扱っているだけ…………」
ルブルは、淡々と、自分の能力の限界を述べる。
「誰だよ、殺した奴は」
「……連絡用の端末から聞く限り、ケルベロスだって聞いている」
そう言って、彼女は、肩に乗っている鳥程の大きさのオウムのような喋り方をする人間の頭部に翼が生えた怪物を、撫でる。どうも、そのような怪物を、彼女はあちらこちらに放って、様子を伺っているみたいだった。
セルジュは、あの筋肉質の男の顔が、ちらついて離れない。
「今、私は残った死体を集めて、塹壕を掘って、一時的に小さな家を作ろうと思っている。大体は、緑の悪魔に壊されちゃったんだけれども。私達が入る家と、家具くらいの死体なら、残っている筈。取り合えず、しばらく体勢を整えましょう……」
セルジュは、怒りにわなわなと打ち震えているみたいだった。
「ケルベロス、殺しに行ってやるよ」
「ちょっと…………」
ルブルは慌てる。
セルジュの眼と声は本気だった。
彼を止める事は出来ないだろう。
ルブルは、すぐにそれが分かった。
セルジュは、夜の森を歩き出し、ルブル達の下を離れて行こうとする。
「何処に行くのよ? セルジュ」
「だから、ケルベロス殺しに行く。アサイラムだ。俺はイゾルダから、いつかの彼の作り出した生体兵器の場所を教えられているんだよ。あの野郎、ふざけやがって、やっぱり、俺はあいつは大嫌いだ。殺してやる、この俺が殺してやる……っ!」
本気の眼をしていた。
ルブルは、彼の力の強力さも知っているが、同時に、彼の肉体の脆さも知っていた。
普通の人間の女性と同じ程度の身体能力しか、無いのだ。
「分かったわよ。止めないから、私も戦力を貸してあげる。無理に倒そうとせず、そうね……アサイラムを混乱させるくらいに止めておいて。貴方じゃ勝てないでしょうから」
セルジュは地面に唾を吐いて悪態を付いた。
ルブルには、どうしても彼を止められそうに無かった。
セルジュは、イゾルダが生体兵器を隠している場所へと向かうと告げて、出て行った。無謀としか、彼女には思えなかった。
ルブルは、彼まで死なない事を祈るばかりだ。
それから。
それから、大体、四、五時間くらいが経過した頃だろうか。
遠くから、何かが飛んでくる音が聞こえてくる。
ルブルは身構える。
しかし、すぐに、その波長を思い出す。
邪悪な波長を持つ者だった。
ルブルは、彼に期待していた。
もう少し、早く来てくれればよかった、とも思った。
それは、彼女が大釜を通して、知り合った者の気配だ。
そいつは、二人の前に現れた。
背中に生えた翅を閉じる。
腐食したような緑の髪に、拘束衣のようなガーゼシャツを纏った男だった。
「貴方の名前はなあに?」
「僕? 僕はヴェルゼ。前に名前を告げたよね?」
「そう、ヴェルゼね。宜しく、私がルブル」
ヴェルゼが、ひゅひゅっ、と裏返ったような笑い方をする。
そして、こりこりっ、と、おそらくは森の辺りで取ってきたであろう、虫の幼虫のようなものを美味しそうに、口に入れて食べていた。
「裏切り者達の方は、僕が殺してあげるよ。とっても、楽しそうだし」
ルブルは彼の顔をまじまじと眺める。
「分かったわ、行ってらっしゃい。居場所なら、凡そ、検討が付いている。メアリーが、アイーシャの体内に残していったものもあるしね」
ルブルは、くっくっ、と笑う。
この男には、充分なまでの強さがある事を、ルブルは直観的に理解していた。
ヴェルゼは、うやうやしく頭を下げると、メアリーが残した通信機を、ルブルから受け取り、何処か遠くへと飛び去っていく。
もし、ヴェルゼが、裏切り者二人を倒せずとも、大打撃を与えられたのならば僥倖ものだった。
後は、ひたすらに、セルジュの無事を祈るばかりだった。
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