第七章 大地の癌、イゾルダ 2
そこは、『ディダーラ』と呼ばれている街だった。
もはや、街の原型など留めていなかった。
植物や海洋生物の細胞が、一面を覆っている。
もはや、人が住んでいた場所というイメージからはかけ離れてしまっていた。
全ては、イゾルダの生体兵器の苗床へと変えられてしまった場所だった。
此処が戦いの場だ。
そして、イゾルダにとっては、このような場所こそが、もっとも居心地の良い場所なのだ。
ケルベロスは、殺さなければならない、という理念と共に戦わなければならないと思っている。既に、イゾルダがばら撒いた生体兵器が根付く場所は、三十国以上を超えている。
レウケーとマディスも、彼を止める事が出来なかった。
ならば、自分が戦うしかないのだ。
そこは繁殖池にも見え、畑にも見え、あるいは虫の巣にも見えて、あるいはDNAの螺旋図のようにも見えた。
肉食動物、草食動物、爬虫類、両生類、鳥類、昆虫、魚類、軟体動物、それらの様々な生き物達が部分部分で融合して、大地や森、小さな山脈などを築き上げている。
イゾルダは、版図を作っていったのだろう。
この世界を支配する為の地図をだ。
一つのコロニーを形成している。
まるで、異星人とでも遭遇するような気持ちだ。
けれども、言葉は通じる筈だ、という確信はあった。
紫煙が、宙に浮かんでいく。
ケルベロスは、マルボロに火を点ける。
そして一通り、吸い終えると、吸殻はポケットに仕舞う。
これから、戦いが始まる。
ケルベロスは、マフィアの子供として過ごしてきた。父親はドラッグを子供に売り付けるような奴で、叔父は暗殺者とは名ばかりの殺人狂だった。
ケルベロスは、正しさの中をずっと生きられなかった、だから、ずっと生きたかった。
亡き、ハーデスが、もし彼の前に現れなかったならば、彼は一体、どんな人生を歩んでいったのだろうか。考えるだけでも、恐ろしい。
何処かから、声が聞こえてくる。
「ふふっ、ケルベロス。人間ってのは、何なのだろうな?」
そこには、ケルベロスと同じように、漆黒のコートを纏った精悍な顔の男が立っていた。
イゾルダだ。
イゾルダは、筋骨逞しい男の姿をしていた。
彼は拳を振り上げて、ケルベロスの頬を掠める。ケルベロスはにやつきながら、イゾルダの頬にアッパー・カットを返す。その後、イゾルダは廻し蹴りを行う。
ケルベロスは彼の足首を掴むと、そのまま彼を投げ飛ばした。
そして、イゾルダは体勢を立て直すと。
イゾルダの蹴りが、ケルベロスの顔面を穿つ。そして、ケルベロスは返しざま、相手の鳩尾に、深く拳をめり込ませる。
ケルベロスは、血泡を垂らしながら、楽しげに笑う。
「どうだ。人の身体ってのは、面白いもんだろう?」
「そうだな」
右目を隠した男は、静かに顔を上に上げる。
「そろそろだ」
彼の右腕は、大きな食虫植物や軟体動物の吸盤へと変わっていく。
そして、それを刃物のように、目の前の男に向けて振り翳していく。
ケルベロスは、肘から剣を出して、彼の腕を切り落とした。
「拳で来い。あるいは、全力で来い。それが俺の要望だ」
イゾルダは、それを聞いて哄笑していた。
イゾルダの肉体が、崩れていった。
ぼろぼろ、と。
音を立てながら。
カエルや蛇や、イソギンチャクとなって、彼は飛び散っていく。
しばらくすると。
大地が揺れ動いて。
菱形の建造物のようなものが現れる。
その中央は、イゾルダの顔が浮かび上がっていた。
彼は口を広げて、次々と、毒針を持つ羽虫を放っていく。
ケルベロスは、それらを片っ端から、叩き落していく。
ありとあらゆる生物が、彼に問うているかのようだった。人間は、それ程までに存続価値のある生命体なのか? と。ケルベロスは拳で答えるしか無かった。彼にはそれだけしか、答えられるだけの回答が無かったからだ。
戦いによって、得られるものは何なのだろうか。
彼は今もなお、それを知らずにいる。
力を手にするという事は、他の力を踏み躙っていく事なんじゃないのだろうか。そういった疑念を拭い去る事が出来そうにない。
闘争はきっと、生物が進化の過程において、培われていったものなのだろう。生命という坩堝の中で、大地や海原という混沌の中で、新たに進化と淘汰が行われ続けていく。
きっと、イゾルダは自分自身が何かになりたいのかもしれない。
人ではない何かに、人に焦がれるが、それでも人を嫌悪せざるを得ないのが、彼なのだろう。
まるで、人という生物種以外の生命が、ケルベロスを人の代表として、糾弾しているかのようだった。
蜂やヒルが彼を襲っていく。
ケルベロスは、それらを薙ぎ払う。
彼には、責任があると思った。
人間という種として、生まれた責任がだ。
環境破壊によって駆逐されていく生き物達。
人体実験によって弄ばれ、家畜としてコントロールされる生物達。
人は、生命の頂点なんかでは決してない。
イゾルダには、純然たる怒りばかりが感じられた。
しかし、彼の口調は、あくまで穏やかでもあった。
何処かから、声が響き渡るように聞こえてくる。
「そう言えば、セルジュと一緒に見た映画の中にはアクション物というものがあって、それには正義の味方なんて奴が出てきたな。街を壊す悪を倒していく主人公だ。お前は、きっと、そんな連中に憧れているのか? 善、正義、守るべきモノ、そういったものが沢山あるのだろう? 人類の希望を代表してお前は戦っているのか?」
「下らん挑発だな…………」
「純粋に興味があって、訊ねているだけだ。俺には人の思考というものが、本質的には、分からないのだからな」
紫色の酸性の雨が、ケルベロスの全身を焼いていた。
彼はそれらの攻撃もまた、受け止めるつもりでいた。
この雨は、何かしらの生き物の消化液からでも作られたものなのだろうか。
分からないが、尋常でない苦痛がケルベロスに襲い掛かる。
「俺は生々しいまでの偽善、あるいは偽愛かな? そういうものを受けて、育った。何日か前までに、俺を我が子のように接していた女医は。ある日、俺をただのモルモットとして、処分しようとしたんだ。なあ、ケルベロス、俺の人という種に対する呪詛を、お前は受け止められるのか?」
真摯で、真剣に、彼と対峙しなければならない。
彼を倒さなければならないのだ。
ケルベロスは、全身の『アケローン』を解放させようと思った。
彼の肘や膝から、鋭利なナイフが生えていく。
自我をほんの少しだけ、無くして、獣へと近付けていこう。
力の全てを解放してしまうのだ。
ふと、ケルベロスは、異様な万能感と、解放感に襲われたような気分になる。
全身全霊で、修羅になる。
それだけが、イゾルダに対する敬意だった。
もしかすると、ケルベロスは、彼に“愛”などというものを教えたかったのかもしれない。教えられないようなものなのだが、教えたかった。あるいは、情、というものを知って欲しかったのかもしれない。
全ては、何をどう、言葉にしてよいのか分からなかった。
イゾルダは、体内で、様々な毒素を精製しているみたいだった。
それらが、ケルベロスの全身に絡み付いていく。
様々な生き物の毒物から生成したものなのだろう。しかし、それは彼には効果が無かった。それに対しては、あらかじめ、アサイラムの防御専門の能力者によって、毒素が体内から、排出されるように封じられていた。
イゾルダは、必ず、毒を使ってくるだろう。それは致命的だったから。
だから、どうしても、その対策だけは行わなければならなかった。
けれども、ケルベロスはやはり、彼に対して、全力で挑もうと考えていた。
見ると。
いつの間にか。
霧と共に、新たな生物が現れる。
巨大な二足歩行する爬虫類が、大地を踏み締めていた。
まるで、そいつは、肉食獣型の恐竜のような姿をしていた。
その怪物の尾が、ケルベロスの肉体を薙ぎ払おうとしていた。
彼は、その爬虫類の攻撃を、避け続ける。
そして、おもむろに、全身から、刃を出して、その怪物の足首を切り刻んでいく。
怪物は倒れる。
そして、霧が晴れた先には。
イゾルダは、再び、人の形をしながら、ケルベロスの前へと立ちはだかっていた。
イゾルダの容姿が、痩せた体躯から、太った体躯、以前よりも、遥かに筋骨逞しい男へと変わり、黒人から、白人へ、そして黄色い肌の人種へと変わっていく。
ありとあらゆる生命の模範。
そう、人もまた、家畜であり、食物連鎖の一部でしかない。
あるいは人という種も、この世界の犠牲でしかないのだと。
イゾルダは、分かっていたのだ。
イゾルダは、拳を振るっていた。
それは、酷く重かった。
ケルベロスの右腕が砕け、肋骨がへし折れていく。
ケルベロスは、修羅のように、悪鬼のように。
いつしか、自らの自我を消し飛ばしていた。
彼の拳は、イゾルダの頭蓋に深々と突き刺さっていた。
「ケルベロス、お前は地獄の門番よりも。天の国で祈りを奉げている方が相応しい。俺はそう思う。ケルベロス…………ありがとう」
ケルベロスの振るった拳が、イゾルダの頭蓋を叩き壊していた。
イゾルダもまた、インソムニアと同じように、脳という器官が致命的な弱点みたいだった。彼の生命は終焉へと向かっていく。
最後の彷徨であるかのように、イゾルダは死に際に、三つの犬の頭部を作り出していた。まるで、それは神話の冥府の門を守る犬の怪物そのものだった。
それらは、次々と、ケルベロスの脇腹に、そして両脚へと喰らい付いていく。
ケルベロスは、脇腹の犬の怪物を何とか引っぺがすが。
残った二つの犬の頭が、彼の両脚の骨を、ぐちゃぐちゃにへし折って、靭帯を裂いていった。しかし、しばらくして、彼の両脚を噛み千切ろうとする頃には、どうやら、動きを止めてしまっていた。
イゾルダは大地に倒れて、沈黙していた。
それと同時に、ケルベロスの両脚を喰っていた犬も、顎を離して絶命する。
辺り一帯にある生体兵器達が、彼の死に呼応するかのように、静けさを帯びていく。
ディダーラ全体が、静謐へと包まれていく。
人工生命体である、イゾルダは命を終えた。
それは、まるで瞬く、花火のようだった。
命とは、そんなものでしかないのだろう。
いつの間にか。
ケルベロスは、一人、涙を流していた。
熱い温もりを欲した男は、こうして息絶えたのだった。
気付くと、天を見上げると、青空が広がっていた。




