第七章 大地の癌、イゾルダ 1
インソムニアは、しばらく様子を見るといって、何処かへと雲隠れした。
ケルベロスは、彼女の奔放ぶりに呆れながらも、アイーシャ達の取った行動に関して、丸二日ばかり費やして考え込んでしまった。
自分が、誰よりも不甲斐無かった。
きっと、彼女達は、何かしらの覚悟の下で動いたのだろう。
それだけは信じたい。
自分は、あの二人の足元にも及ばないような気がした。
だから、もっと強い下において、戦わなければならない。
これから戦う相手は。
説得なんて、通じるものなのだろうか、分からない。
ケルベロスは、拳を握り締める。
自分は、きっと今、挑戦者だ。そういう存在なのだと思った。
イゾルダを倒す。
彼の能力を止める。
それが、自分が為すべき事なのだろうから。
†
『黒い森の魔女』。
ドーンの者達ならば、この店の存在を知っている。
“暗黒の地”から行ける場所だ。
そこは、人ならざる者達の生きる場所だった。
メビウスが、そこを訪れるのは余り行わなかった。
どうにも、この店の主人に対して、それ程、良い感情を持っていないからだ。
それは、デス・ウィングという女が出している店の名前だった。
メビウスは、店の中へと入る。
すると、ろくに客に興味を示さない、汚れた長い金髪をした、煤けたニットのセーターの女が、本に読み耽っていた。
そして、彼女はメビウスの姿を見つけると、恭しくお辞儀をする。
「おや、いらっしゃいませ。色々なものが揃っていますよ」
店の中には、不気味で奇怪なものが陳列されている。
奇形的な怪物の剥製、魔術儀式に使うオイル。邪悪なオーラを放つ短剣。
左回りに動き続けるアンティーク時計。銀色の拳銃と弾丸。人の形を模した毒草。
そういったものが、店の中には雑然と並んでいる。
「私の手足の代わりになるような部品は無いか?」
彼女は、淡々と、店の中にある品物を眺めながら訊ねた。
デス・ウィングは、それなりに高額な料金を述べる。
メビウスは、小切手を差し出す。
デス・ウィングは、店の奥から、二つの細長い箱を取ってくる。そして、箱を開けると、メビウスの肉体に接合出来そうな、球体関節人形の右腕と、右足が入っていた。
直ぐに、取り付けの作業は行われた。
†
この世界に産まれ落ちる事の悲しみを知る。
イゾルダは、自分が何の為に生まれたのか分からない。
様々な人体実験は、人々に何か多くの成果でも残せたのだろうか。
しかし、彼の友人達は、みな拷問され、処刑された。
いや、拷問……処刑、それは人間に使われる言葉だ。
実験、廃棄、それが彼らに使われる言葉だった。
人の形をしているが、人なんかではない。
それがイゾルダ達だった。
何故、こんなにも、自分達の命は使い捨てられていくのだろうか?
彼は、彼を生んだ、この世界に復讐しなければならない。
分かり合う事なんて、決して在り得ないのだから。
だから、自分の領土を広めていくしかない。そうする事によってしか解決法は見出せないのだから。
自分の力で、世界を蹂躙し、支配権を得るしか無かった。
それこそが、自分を証明する事が出来ないのだから。
彼は、全ての生命を憎悪した。そうする事でしか、自分の自我を保てないのだろう、とも思った。
†
幼少期の頃を思い出す。
ケルベロスもまた、孤独だった。それだけは確かな事だ。
彼は友達というものがいなかった。
ある時、彼は父親に、何故、自分は嫌われるのかと訊ねた。
すると、父親はとても笑った。
そして、彼の頭を優しく撫でた。
ケルベロスは、学校に行っても、除け者にされていた。
街の悪党が、彼の下にやってきて、彼を仲間に引き入れようとする。彼はそれを頑なに拒んだ。何もかもが、凄く下らない事のように思えた。
正しい事とは、何なのかと彼はいつも思っていた。
道徳だとか、正義だとか、そういうものを学んだのは、意外にも映画やコミックなどの影響が強かった。
彼の父親は、家系は、ドラッグや拳銃を売り捌き、金に困った女達に対して、売春の斡旋をしていた。そして稀に行われる抗争に巻き込まれて、彼の義兄などは死んだりしていった。
ケルベロスは、TVのニュースを見ながら、政治だとか他国の紛争だとかを見ながら、世の中は腐り切っているなあ、と思いながら、それ以上に、自分の家系はもっと腐っていて、自分自身も腐った人種なのだろうと思っていた。
正義、って何なのだろう?
幼少期の彼は、そんな事をずっと思い描いていた。漠然と、スクリーンの中に登場するような、正義のヒーローになれたらいいなあ、とかも思っていた。
何か、強い正義のようなものを手に入れたい。
何処かで、彼はそれを強く望んでいた。
理想と現実の違い、メディアが作り出すアイドル的なヒーロー。
そんな者達が、果たして本当に現実に存在するのか、彼には分からない。けれども、きっと自分の考えなんて、もっと単純なものでしかないのだろうから。
子供時代の反動と、環境による反逆から、今の自分が在る。
自分は、正義だとか、善だとか、あるいは人の良い部分だとかいうものを信じている。
しかし、分かっている。
分かっている、こんな事は……。
誰か、悪の元凶を倒せば、この世界が平和になるわけなんかじゃない。
人という生命種それ自体が、他人という異物それ自体が、悪そのものなのだから。
だから、どうにもならないのだろうとも思うのだ。
イゾルダは、ケルベロスが見る限り、明らかに人工的に創られた生命体だ。
だから、きっとこの世界を憎悪しているのだろう。
人類の代表のつもりで、イゾルダと戦うつもりなんて無い。
勿論、アサイラムの所長として彼に挑むつもりも無い。
純粋な個と個の対話と、戦いによって行いたい。
自分の全てをぶつけてしまいたい。もしかすると、それによって相手の何かを分かち合えるような気がするからだ。
このままでは、駄目なのだ。
何とかしなければならない。
メビウスは、自身の肉体を治しにいくと、“暗黒の地”へと向かった。
グリーン・ドレスと、アイーシャは、ダートを裏切る、とアサイラムへ告げに来た。
そういった動きが、彼の心に揺さぶりをかけたのだろう。
自分は、覚悟が足りないんだ、と今更ながらに、気付かされたのだったから。
きっと、緑の悪魔とアイーシャは、何らかの覚悟のようなものがあって、ダートを離れたのだろう。
自分は、アサイラムにおいて、自分の命を何処かで優先させているような気がする。
もし、自分が命を落としたのならば、秘書であるリレイズ辺りに頑張って貰えばいい。元から、自分には素質のようなものが無かったのかもしれない。所長としての。
だから、自分は戦おうと思う。本気での戦いだ。
ケルベロスは、黒いコートを羽織る。
戦う事によって、何かしらの正義が得られるのならば、そうするべきなのだろうから。とにかく、イゾルダを止めなければ、この世界は食い潰されていくのだろうから。
†
侵略の為の版図は、既に出来上がっているかのようだった。
イゾルダの作り出す生体兵器は、各地を暴れ回っている。
やはり、イゾルダ本人を倒して、根元を断つしか無かった。
どうしようもない程に、ドーンは疲れ切っていた。
レウケーとマディスは意気消沈していた。
これ以上無いくらいに、打ちひしがれているのだろう。
ケルベロスは、自分が動くしかないと思った。
守りたいものがある。
守らなければならないものがある。
もし、仮に、子供の頃の自分に出会っていたのなら、自分は子供の頃の理想通りの人間になっているのだろうか? 正義のヒーローなんてものは、とてつもなく陳腐なものだ。人々の娯楽物でしかなくて、勝者に対して作り出された幻想でしかない。
正義なんてものは、幻想に過ぎない。
それだけは分かっている。
けれども、ケルベロスはこの不条理に満ちた世界と戦いたいと思っている。
彼は、ふと思う。
イゾルダ。
もし、彼と心が通じ合えたなら、どうしたのだろうか。
†