第六章 空よ、この鳥篭を壊しておくれ 2
ルブルとメアリーは勝利の美酒に酔い痴れていた。
もう、ドーンはまるで相手にならない。
目前には、勝利しか見えなかった。
「ふふふっ、あはははっ、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を流しましょう? みんな悲恋のうちに沈んでいくの。太陽は消えてなくなる。暗黒の星空だけが、この地上を覆い込む事になる。それはとっても素敵な日々の幕開け」
メアリーが歌うように、上機嫌に言葉を語っていく。
そして、おもむろに、レコードを引っ張り出してくる。
此処は、食堂だった。
色々な料理が用意されている。祝賀会の準備だ。
セルジュが、何だか、少しだけ申し訳なさそうな顔をしていた。
しかし、メビウスを撃退したのは事実だ。メアリーからは誇っていいと言われている。
「俺、此処にいてもいいんだな?」
彼は訊ねる。
「何言っているのよ、貴方は私達の仲間なんだから」
セルジュの顔は、はにかんでいた。
「さてと、ロースト・ビーフを用意してあるの。それから、ケーキも作っている。後は、他の人達の帰りを待たないと……」
こつり、こつり、と通路の辺りから音が聞こえてきた。
誰かが帰ってきたのだろう。
メアリーは、とても嬉しそうな顔をする。
「あら、グリーン・ドレス。それから、アイーシャもいるのね。みんなよくやってくれているわね。もうすぐ、ドーンは終わる。人の世界も終わっていく。私達は勝利する。ねえ、これからパーティーでも開こうと思っているんだけれども、どうかしら?」
緑の悪魔と、赤黒い髪の女は顔を伏せながら、何かを考えているみたいだった。
「その事なんだけれども」
アイーシャは、ぼそぼそっ、と呟くように言う。
グリーン・ドレスは前に出た。
そして、彼女はまるで有無を言わせなかった。
「私達は裏切ってやるよ、間抜けがっ! 『カラミティ・ボムッ』!」
グリーン・ドレスの右手から、ルブルとメアリーに向けて、炎の弾丸が発射されていく。
食堂はそれなりに広かった為に、
離れていたセルジュが吹き飛ばされて、壁に強く背中を打ち付けたみたいだった。
彼は蒼褪めながら、部屋を出ていく。
「アイーシャの方が面白そうだから、私はこうするわ。あなた達と争った方が、よっぽど、歯応えがありそうだからねえ?」
そう言って、緑の悪魔は、腹を押さえて笑っていた。
燃え盛る焔の中、ルブルを担いだメアリーが現れる。
「ねえ、緑の悪魔。アイーシャ、置いていかない? そうすれば、その事に免じて、今回の事は眼を瞑って上げる。ねえ、アイーシャ。たっぷりと、おしおきしてあげるわ」
グリーン・ドレスは、有無を言わさずに、彼女達を、焼き尽くしていく。
ルブルとメアリーは焼けながら、宙へと消えていく。
幻影なのだ。
「グリーン・ドレスッ!」
「ええっ! ふざけやがって、この便所の小便にも劣る。タンカス共が」
彼女は、炎の弾を撃ち込み続けていく。
別の場所から、メアリーが斧を持って姿を現した。
メアリーは、くすくすと笑いながら、斧を振り回してきた。
グリーン・ドレスは、更に、そのメアリーも炎で弾き飛ばしていく。
「城ごと、燃やしても意味無いかもしれないわねぇ」
そう言いながらも、彼女は一面に、炎のカーペットを撒いていった。
必ず、本物がいる筈なのだ。
考えるべきだ。
暴君が言っていた事。
それは、自分自身の能力を最大限に、使え、という事だった。
グリーン・ドレスの腹から、大きな眼のヴィジョンが現れる。
それは、温度を“サーチ”するものだった。
彼女の腹の眼は、腹から外れて、床へと張り付いていく。そして、二つに分かれて、勢いよく辺りを這い回っていく。
十数メートル先の壁の向こう側に、二つの走る体温がある。
グリーン・ドレスは、そこを目掛けて、全身に炎を纏いながら、自身を一個の弾丸へと変えて壁を刳り貫いていく。
ルブルとメアリーが、懸命に走っていた。
緑の悪魔は、そのまま、炎の翼で二人を焼いていく。
……こっちも、囮だ。
二人の姿が、ランタンを持った二体のゾンビへと変わっていく。
あちらも、かなり戦略を練り込んでいる。
グリーン・ドレスは、立ち止まって、周囲を見渡した。
メアリーは、天井に張り付いていた。
そして、両手に鉈を持って、彼女を狙っていた。
「あなた、本物だろう?」
緑の悪魔は笑顔を浮かべる。
メアリーは首を縦に振る。
「緑の悪魔、貴方は元々、とても扱い難そうだとは思っていた……」
「はっ、それで、私を騙せたと思っているのかしら? セクシーな真っ黒な骸骨にしてやるよ。この、女性器の分泌液臭い、ゲロのようなメス豚がっ!」
グリーン・ドレスは、人差し指と中指で、輪を作って、それに舌を入れる。
メアリーは、相変わらず、下品ね、と告げる。
メアリーは、透明で強固な盾を作り出していた。
グリーン・ドレスは、その盾を紙屑のように引き裂いて、メアリーの左腕を、右腕で掴んでいた。
メアリーは、右手で、大鉈を手にして、グリーン・ドレスの腹の辺りに深々と突き立てていた。
くるり、くるり、と、二つの斧が空中で旋回していく。
そして、それはそのまま、回転しながら、緑の悪魔の首を切断しようと迫っていた。
緑の悪魔の全身が、明滅して、真っ黒な骨格が透けて見える。
おそらく、この状態の時、彼女は感情をより高ぶらせているのだろう。
装甲を破られた、メアリーの胸が、腹が、下半身が炎によって包まれていく。
大鉈を持っていた右腕も、いつの間にか、床に落ちてしまっていた。
メアリーは、両眼で、グリーン・ドレスを見据えていた。
そして、酷く苛立っているみたいだった。
「あら、貴方はアイーシャと違って、私の“切り札”が効かないのかしら?」
「何を言っているか、分からないわねぇ?」
緑の悪魔の両足に、無数の腕が伸びていく。
それは、床の辺りから生えていた。
メアリーは、緑の悪魔を倒すつもりでいるみたいだった。
たとえ、自分の半身が破壊されようとも、その覚悟は決まっているみたいだった。
「とっくに、肉体がゾンビになっているのね? ルブルの力だろ?」
メアリーは頷く。
新たな幻影の作成に、メアリーは取り掛かっていた。
緑の悪魔の背後で、弓矢の幻覚が生まれ、実体化していく。
そして、矢が次々に、緑の悪魔へと襲い掛かっていく。
彼女は、それらの矢を全て歯だけで受け止める。
「化け物はどちらよっ!」
メアリーは、思わず叫んでいた。
辺り一面から、無数の斧や槍、剣などが生まれてくる。
メアリーは、一斉に、それをグリーン・ドレスへと向けようとした。
それは、一瞬の出来事だった。
アイーシャが現れて、メアリーの首を大剣で、切り落としていた。
その瞬間、アイーシャは、確かに、メアリーが嘲っているのを見ていた。
「『マルトリート・クラウディ・ヘヴン』、アイーシャ。何で、私は死なないのかしら?」
それは、呪詛の言葉だった。
ごろん、と、メアリーの生首が床に転げ落ちる。
†
それは暗い、冷たい空間の中だった。
メアリーが目の前に立っている。
首を切り落としても、心臓を抉っても、内臓をぶち撒けても、縦に裂いても死なない。それ処が、徐々に、自分の心が、彼女によって蝕まれていく。心が隷属を求めているような気がする。このまま、彼女の言いなりになれば、どれ程に良い事なのだろうか。
途端、どうしようもない程の、憎しみが湧き上がってきていた。
全ての不条理に対する、憎しみ。
ありとあらゆる生命に対する怨嗟。
手足の無い自分、手足のある者達を激しく憎んでいる。
自分の境遇をいつの間にか、嘆いていた。何故、人を殺し続けなければいいのか分からなかった。自分自身に、憎しみの刃が向く。自分など、生きていていいのかと思わずにはいられなくなる。全身が、切り刻まれればいいんだ、という甘い魅力が迫ってくる。
もはや、自己というものを消滅させたくなってしまった。
自分自身が、消え去ってしまえばいいんじゃないのかと、底知れない暗黒の空間へと落下していくかのような気分に陥ってしまっていた。
†
「何しているの? アイーシャ」
グリーン・ドレスの声で、アイーシャは現実へと戻る。
全ては、幻覚だったのだ。
メアリーは、生首のまま、地面に転がっている。
「『クラウディ・ヘヴン』って言うのね? その力、“精神に幻影を見せる”のか。ふざけやがって……。だから、私が貴方を殺しても死ななかったのか。何度、殺しても死ななかったのか。ふざけやがって、ふざけやがってっ!」
アイーシャは、再び、メアリーに剣を突き立てようとする。
グリーン・ドレスが、彼女の手を掴む。
「罪悪感に反応するんじゃないのかしら? 私には、そんなものは無い。だから、彼女の小細工は効かない。だから、止めは私が刺す」
緑の悪魔は、炎の剣を生み出して、振り翳そうとする。
そして。
次の瞬間、自分達が負けてしまったんじゃないのかという事実を突き付けられる。
メアリーの生首は、床から這い上がってきた無数の腕によって、地面の奥底へと逃がされてしまった。
緑の悪魔は、地面を燃やし始めるが。既に、遠くへと逃れられた事を理解する。
緑の悪魔は、アイーシャを抱き抱える。
「一端、外へと逃れるわよ」
彼女は、炎の翼を噴出させていた。
「いや、私はやっぱり、此処でメアリーを倒したいっ!」
「そう、分かったわよ。じゃあ、やっぱり、城ごと燃やすわっ!」
そう言いながら、グリーン・ドレスは、城中に片っ端から炎を放っていた。
そして、城から逃れる中で、空へと続く場所を見つける。
塔か何かの中なのだろうか。
二人は、そこを飛んでいく。
空へと出る。
「やった、ようやく外に出れた」
「いや…………」
グリーン・ドレスは、炎を再び、周囲へと撒いていく。
空の何も無い空間から、無数の腕が伸びて二人を掴もうとしていた。
「空の幻影まで作っているのね。アイーシャ、まだ此処は城の中みたいよ」
緑の悪魔は、アイーシャを連れて、飛び続ける。
辺りに爆炎を撒きながら、飛び続けていた。
そして。
ようやく、日の光のようなものが差し込んでくる。
気付くと、二人は燃え盛るルブルの城を眺めていた。
空はとてつもない程に青空だった。これは間違いなく、幻影ではなくて、現実の一部分なのだろう。
「倒し損ねたわね…………」
グリーン・ドレスは、悔しそうに言う。
アイーシャは、首を横に振る。
アイーシャは、もうどうしようもないくらいに、自由な自分を見つけたような気がしていた。
†