第四章 鏡が映し出す空虚な世界 2
禍々しい、暗黒の波動によって、彼の感情は、覚醒する。
特別保護房。
そこは、アサイラムの奥底にある場所だ。
部屋は六畳はあり、バストイレが別々に付いている。
本来ならば、囚人には在り得ない待遇。しかし、アサイラムだから許されている。
しかし、この特別保護房というのは、アサイラムの幹部でさえ会議の結果、投げ出した囚人達ばかりなのだ。だから、どう取り扱っていいのか、みな分からずにいるのだろう。
真っ白な部屋で、何もかもが小奇麗だ。
本や雑誌、ゲーム機の類を入れる事も出来るのだが、彼はそういったものを部屋に持ち込まない。それよりも、果てしない空想をしている方が楽しいのだから。
「ふんふん、うふふふっ、ふふふっ、うふふふん、ふん」
ヴェルゼは、その中で、鼻歌を歌っていた。
彼は、とても清らかな気持ちになっていた。
それは、まるで虫や鳥の鳴き声のようにも聴こえる。人の声音とは、とても思えない。
看守達は、彼の存在をとても不気味がっていた。
彼は、一向にお構いなしだった。
彼は、出される食事の他に、スプーンやフォーク、食器なども口にしていた。
ぼりぼりっ、と、色々なものを口に入れては、また酷くお腹が空いていた。
あれは、いつの日だったのか。
××××年。××国。
暴君が滅ぼした国の光景の映像が、ヴェルゼの中で蘇ってくる。
それにしても、空を飛びたいなあ、と彼は思っていた。
天の向こう側には、一体、何があるのだろう。
そう考えると、とても不思議な気持ちになっていった。
とてつもなく、ふわふわした世界で生きていたい。そればかりが、彼の望みだった。
どうしようもないくらいに、此処は暗くて、自由が無い。
それだけは、実際の出来事なのだから。
†
森の城へと戻ってからだった。
ルブルは、早速、コンタクトを取ってきたものに対して、楽しげに笑う。
「あら、貴方はヴェルゼ。って言うのね? そこは、位置からして、私達が襲った、アサイラムの中かしら。どうなの? そこは、ねえ、とっても狭いのね」
ルブルは、自身の城の中へと戻っていた。
ルブルは漆黒の液体が入った大釜を、ひたすらに覗き見ていた。
「ふふふっ、お空を飛びたいのかしら? 分かったわ。もうすぐ、自由にしてあげる。とても楽しい事に参加させてあげる。何故なら、貴方には、その資格があるのでしょうから」
ルブルは笑う。邪な横顔で笑う。
どうしようもない程に、彼女にとって、この世界は遊技場のようなものでしかなかった。
他人の命を踏み躙る事のみが、彼女にとっての生き甲斐のようなものだった。
彼女は、生命という存在に対して、背徳していた。
そして、そここそが、彼女の存在の意味そのものだった。
ルブルは、生命というものが愚劣で不合理な存在としか思えない。だからこそ、ルブルはルブルの行うべき事を行おうと思っている。
そして、彼女は自分と類する者達にも、自由という解放を与えたいと願っている。
メアリーに、憎しみを撒きたいという、どうしようもない衝動があるように。
誰もが、どうしようもなく逸脱したい何かを持っているのではないのかと。
ルブルは、その後押しをしてあげたい。
それは、彼らに対する贈り物なのだろうと、彼女は考えているのだから。
†
アサイラムとの戦いが始まった後もなお、セルジュは、自分の世界へと閉じ篭っていた。考える事はと言えば、ダリアの事ばかりだ。彼女の顔がちらついて離れない。
同じ大学だったからいけなかった。
たまたま、席が近くて、話しかけてきたのが駄目だった。何故か、こんなにも眩しく映ってしまったのが良くなかったのだろう。最初、親しげに話しかけてきたのが、とても悪かったのだ。きっと、こういう観念は、未来永劫、一生、背負っていくんじゃないかと思ってしまう。いつまでも、いつまでも、殻が閉じた卵のように、セルジュは自らが作り出した観念の世界の中で生きる事になるのだろう。
きっと、それだけは不確実だけれども、確かである、という感覚は伴っている。つまる処、セルジュは、何よりも自閉的な自分が好きで、病的なまでに、他者に対する悪意的な感情を持つ自分が好きで仕方が無いのかもしれない。
何度でも、反復して考えてしまう。
ダリアとは、一体、何だったのだろうかと。
そう。
彼女は、セルジュにとっての、希望の象徴のようなものだった。
だからこそ、妬みに、憎んだ。
そして、拒まれていった。
彼女をこの手に出来れば、全てが変わると思った。試験に受からない自分、他人と上手く会話が出来ない自分。そんな自分が消えて無くなってしまうんじゃないのかと思った。彼の人生は、ずっとずっと挫折の連続だった。だからこそ、それらのものを乗り越えられるんじゃないのかと妄執的に思い続けていた。
ダリアを自分の所有物にする事によって、ダリアとの恋が成就する事によって、これまでの自分を殺せるのだと思った。乗り越えられるのだと信じた。けれども、抱かれる嫌悪感こそが現実で、永遠にダリアは、自分には靡かないのだと思い知らされて、彼は、非現実や夢想の世界に逃げたいと思った。
夢や空想の世界では、ダリアは自分の物なのだ。
現実に生きる事は、彼にとっては、拷問であり、悪夢でしかなかった。
もし、メアリーが、この城へと導いてくれなかったら。メアリーが異常者で、ルブルの作り出した道具を使って、ダリアの肉体を乗っ取ろうなどという悪辣な提案をしなければ、きっと、自分は、このまま狂いながら、ダリアを刺し殺してしまうか、自ら命を絶つか。生涯、心を閉ざして、惨めにひっそりと、人々の片隅で生きていくだけの存在でしかなかったのだろうと思った。
けれども、今は、違う。
力がある。
認めてくれる、メアリーという存在もいる。
だからこそ、セルジュは彼女に尽くしたい。今度は、メアリーが彼にとっての、光そのものと化してしまっているのだから。…………。
気付けば、いつだって、ルブルの城を取り止めも無く、彷徨ってしまっている。
此処は、思索するには、とても良い場所だからだ。
そこは、大画廊の間だった。
写実画や、印象画、シュルレアリズム絵画や、キュービズム絵画など、節操なく、並べられている。しかし、どれも、これも死体をこねくり回して作り上げたものだ。
そこに、その女は立っていた。
「ねえ、セルジュ、お前はただのクズのゲスだ。それは自覚しておいた方がいいと思うのよね。女の立場から言わせて貰うのだけれども、やっぱりお前のやった事って赦される事なんかじゃあなくて。メアリーの甘言があったとはいえ、お前は願って、ダリアとかいう女の肉体を乗っ取った。そして、お前は望んで、こんな場所にいる。やはり、お前はどうしようもない程に性根の腐った存在以外の何者でもないのよねえ」
「るせぇなぁ、メアリーのモルモットの玩具の癖に」
アイーシャは、ぎちぎちっ、と、強く歯軋りをする。
しかし、彼女はどうやら、心を落ち着かせようと必死で深呼吸を始めていた。
かたかた、と、鎧が動き出す。
「私も、どうやら、力を身に付け始めたみたい。ルブルのものと、どうも近いらしいけれども、何なのかな? これっ」
鎧が動き出す。
鎧は剣を手にする。
そして、ざくり、ざくりと、壁を刻み始めた。
壁は死体で作られているので、必死で抵抗のようなものをするべく、盛り上がり、鎧に反撃しようとする。すると、鎧はぐにゃり、と変形したかと思うと。その死体に巻き付いて、死体と一体化していく。
「私も力に目覚めた。ははっ、あはははっ、さてと、ねえ、お前、セルジュ、って言ったかしら? お前も目覚めているんでしょう? とっておきに、凶悪なものに」
くっくっ、と、アイーシャは不気味に笑い続けるのだった。
彼女も狂気へと向かっていくのだろうか。
セルジュはそんな事を考える。
いや、みんな狂っている。それだけは間違いない。
あるいはきっと、ルブルとメアリーの目的は、そもそも正気や狂気というものを無くしてしまおうという考えなのかもしれない。
「じゃあね、セルジュ。私はこの城をしばらくの間、居留守にする。私は戦って、私を取り戻したいのだから。貴方はせいぜい、過去の女の妄想に耽って、一人で自己愛の沼にでも浸かっているといいわ」
そう言って、アイーシャは、ぶんぶん、と剣を振るっていた。
セルジュは、まだ、どうすればいいか分からずに思考の迷路を彷徨うばかりだった。
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