赤い本 ~読む人により内容が変わります~
有数の大都市・美鷹市に、瀬良江と呼ばれる海に面した旧市街地がある。
ここに古くから市民に愛されている、一軒の大きな図書館があった。
本来ならここには瀬良江図書館という名前が付くはずなのだが、何故かここは『瀬良江にある図書館』という意味合いから、市民には【瀬良江の図書館】と呼ばれている。
なぜ【の】の字が入っているのかは定かでは無いが、とにかくそのような愛称で美鷹市民から利用されていた。
とある日のこと。この旧い大きな図書館の一画に、一人の中学2年生の女生徒の姿があった。
この少女の名前は『シンディ香楽』。
これは特に芸名とかハンドルネームというわけでは無く、れっきとした彼女の本名である。
なぜ彼女にこのような名前が付いているのかというと、実は香楽の父親はイギリス系のアメリカ人で、日本人である彼女の母との婚姻の関係でこのような名前が付いていたのだった。
その日香楽は気が遠くなるほどに整然と大量に並んだ本棚の前で、沈んだ気持ちで本の群れを眺めていた。
彼女は元々勉強の類は不得意で、あまりじっくりと『本を読む』という行為に親しんだ経験が無い。
しかしそんな香楽が傷心の思いでここを訪れていたのには、ある訳があった。
彼女の友人である同級生の『吉崎子音』
香楽と子音は普段から何かと一緒にいる間柄なのだが、2人はどちらも若干気が強い性格で、割り合いケンカをすることも多い。
しかしたいがいはどちらからとも無く歩み寄り、いつの間にか仲直りが成立するような関係なのだが、先日にやってしまった部活動を原因とした大ゲンカが後を引いていて、ここ3日間、話どころか目も合わせていない状態だったのである。
いつもは学校帰りは子音を初めとする友人たちと行動を共にしているのだが、ここ数日はどうしてもそんな気にはなれない。
そこで彼女は気を紛らわすために、普段通い慣れてはいない瀬良江の図書館に足を運んでいたのである。
「あ〜・・・なんだかユウウツだな・・・・」
小さく独り言を呟きながら、特に目標物を設定しないままに本棚の前をウロウロしていた香楽だったが、彼女はそこで奇妙な一冊の本を見付けた。
本と言えばたいがい落ち着いた色彩の表紙の物が多いが、瀬良江の図書館の本の群れの中に、一冊だけ真っ赤に燃えるような赤い本が混じっていたのである。
表紙には表題は書かれておらず、表紙の隅に『読む人により内容が変わります。』とだけ手書きされている。
「読む人で内容が変わる?何が書いてあるのかな・・・?」
その奇妙な本に興味を持った香楽は、それを近くのテーブルまで運び椅子に腰を下ろすと、最初のページを開いてみた・・・。
本の最初のページに書かれていた文。それは「あなたが好きな星は?」という言葉だった。
次のページには天の川を中心に写真で表された天球が掲載されていて、幾つもの星や星座が煌びやかにページを彩っていた。
星々にはそれぞれ簡単な説明書きがあり、星座については有名なギリシャ神話の解説が詳しく載っている。
ギリシャの神々にまつわる物語は、年頃の少女にはどれもロマンに溢れる興味深い内容で、彼女はしばらくの間、その神秘的な内容に深く読み耽っていた。
「どれが好きって聞かれても・・・・迷うな・・・」
北の空を表す天球は明るく輝く星が多く、その星座も名を知られたものが多い。
香楽はその中からお気に入りの星を見付けようとしていたが、どうしても一つに絞ることができず、迷いながら紙上の星々を眺めていた。
そして、彼女がいくつかのページをペラペラとめくった時のことだった。
不意に彼女の目に、まるで黒で塗りつぶされたような夜空の写真が飛び込んできた。
ページには『秋の南の夜空』と書かれているが、そこには輝く星の姿が確認できない。
不思議に思った香楽がそのページの解説を読むと、そこには次のようなことが書かれていた。
『夏の名残りとして天の川が輝く北の空に比べ、南の空にはほとんど星の輝きは確認できません。
南の空にはたった一つだけ、【みなみのうお座の一つ星】と呼ばれる一等星が輝いているだけです』
見ると真っ黒なページの地平線近くに、一つだけポツンと輝いている星の姿が見える。
香楽はその星をまじまじと見つめた時、先程までページをめくっていた指先の動きが、なぜか止まっていた。
「・・・ひとりって、寂しいよね・・・」
不意に重なる、星の姿と自分の姿。
香楽は【みなみのうお座の一つ星】に、何故か友人とケンカをして離れ離れになっている自分の姿が重なって見えたのである。
思えば香楽が友人の子音とケンカをした原因は、部活での自分勝手なプレーにあった。
バスケで少しばかり他人より秀でた実力を持っている彼女は、いつも回りのチームメイトに勝手な理屈を押しつけ、勝敗の責任は自分以外にあると言い張っていた。
それに我慢ができなくなり怒りをぶつけてきた子音の行為は自然なこと。
一人浮いた存在になりながらもヘソを曲げて飛び出してきた自分の愚かさが、今は不思議なほどに自分の心に突き刺さっていた。
不意に本が話しかけてきた。
『どうやら【みなみのうお座の一つ星】が、一番のお気に入りになったようね・・・』
本が放った言葉は、香楽の心に直接に届いている。
しかし彼女はそれを奇妙とは思わず、自然に小さく言葉を返していた。
「・・・うん。そうみたいだね」
『仲直りできそう?』
「・・・・うん。やってみるよ」
香楽は小さくそうささやくと、本を棚に戻し、外に飛び出していった。
彼女が去った後には、いつの間にかあの赤い表紙の本は、どこへともなく姿を消していた・・・。
赤い表紙の『読む人により内容が変わります。』と書き添えられた不思議な不思議な一冊の本。
香楽の体験したこの小さな出来事は、やがて彼女を大きな【混沌】へと導いていく・・・。