第1話
夜の森を渡る風は闇を孕み、人の目に触れることなく何処かへと消えていく。空を覆う雲は厚く、夜故に望み見ることも難しい。やがて黒い空から真っ黒な雨が、闇に沈む緑の葉に落ちてきた。いや、ただの雨なのだろうが、今晩の空気と雰囲気がより一層不気味なものを感じさせる。そんな嵐の晩。
森の中を突き抜ける細い道を、馬車がゆっくりと走っていく。軋みをあげる車輪も幌のない上部も、馬車と言うよりは引き車に近い。そんな年代物の馬車を引くのは、これまた馬車に似合わぬ立派な体躯の黒鹿毛。この雨の中、大きな蹄で軽々と馬車引いていく様はどこか滑稽に見えた。
「何かしら?」
馬の前方を歩いていたランタンが止まった。否。ランタンを持ち目深にローブを羽織った小柄な人影が、何かに呼ばれるように落ち着きなく辺りを見回す。
だが見えるのは鬱蒼と茂った森の木々と、雨にぬかるみ始めた道。そして道を外れた腰ほどの高さもある茂った草。人の気配どころか動物の気配すらない嵐の夜に、小柄な影はそっと濡れぼそった黒鹿毛の首筋を撫でた。
「お前も何かを感じているわよね?悪い物でもなさそうだし・・・見に行ってみるわ」
周囲に人影はなく、今の言葉は馬に向けられたものらしい。首を振りながら前足の蹄で土を掻く黒鹿毛の仕草に、小柄な人物はまるで言葉が通じているかのように小さく笑った。
「判ってる。様子を見てくるだけよ。なるべく早く帰ってくるから」
返事を返すように体を振るわせる馬をなだめてから、ランタンを高く掲げ草むらに分け入る小柄な影。迷う様子も見せず歩みを進めたその先に草の開けた場所があった。
そっと覗き込むその場所には、ダラリと横たわる黒い獣の姿。体長は2メートル程で、形としては狼に似ている。鋭い牙の間から真っ赤な舌を出し、この雨の中、忙しなく繰り返される呼吸が獣の状態を表していた。
小柄な影が草むらから一歩踏み出すと、炎のような紅い目が威嚇するように開かれた。
「怖がらないで」
柔らかな声が雨の森に響き、全身を獣の前に現した小柄な影が頭を覆っていたフードを外す。こぼれ落ちるのは金糸の髪と闇夜に浮かぶ白磁の美貌。黒と見紛うほどの紫の目に恐怖はなく、女性は獣と視線を合わせるように跪く。
「私はこの森で治療師をしています。傷の手当てをしても構いませんか?」
獣へと問いかける言葉は、まるで人へのそれだ。しばらく交わっていた真紅と深紫の視線は、獣が目を閉じたことにより終わりを告げ、女性が慌てて傍へと駆け寄る。雨に濡れた毛をかき分け傷口を探し当てると、慣れたように手をかざした。
『生命の精霊よ、この者に癒しの力を与えて』
言葉は共通語ではない。音として、まるで歌うような呪文はすぐさま効力を発揮した。腹部にあった大きな傷がみるみる塞がっていくと同時に開かれた赤い目が、満足そうに微笑む女性の顔を映した。
「傷口は塞ぎましたが応急処置です。血液も大量に失っています。動けるようになるまで家に来ませんか?」
柔らかそうな金の髪は雨で濡れ、白い頬を雫が流れ落ちるのも気にしない女性を見上げていた獣が、ゆっくりと自力で立ち上がった。
「向こうに馬車があります。そこまで頑張って下さい。それと・・・」
獣の背後にあった大木の下に目をやり、微かに眉をひそめる。
「私を呼んでいたあの剣も一緒に持っていきますね」
恐らく獣の持ち物だろうと断ると、女性の身の丈ほどもある優美な剣を抱え上げた。
獣の流した血に魔物達の気配が強まる。この聖なる森も、新月の今宵は守りが薄くなり、闇の生き物の侵入を容易くしていた。行幸だったのはこの雨だろう。獣の血の匂いを消してくれるありがたいそれに濡れながら、1人と2匹は森の奥へと消えていった。
身に付けていたコートを荷台の獣に被せ、ブラウスからベスト、フレアスカートまで雨に濡らした女性がようやく見えてきた小屋にホッと息を吐く。不自然に花冠に囲まれた領域に黒鹿毛の馬は躊躇せずに足を踏み入れ、波紋が広がるように空気が震えた。
女性が粗末な扉を開けて暖炉の前に毛布を敷くと、まるで当たり前のように黒い獣が横たわる。
『炎の精霊、貴方の吐息を分けて』
炭に灯った小さな火に無造作に薪をくべ、女性はコートを羽織って再び外に出た。
「ありがとう。ご苦労様」
雨の中、じっと立って待っていた黒鹿毛に労いの言葉をかけて手早く馬装を外してやると、たてがみを振って森へと消えていく。姿が見えなくなるまで見送ってから女性は部屋に戻り、床に敷いた布で獣の身体を拭き始めた。
暖炉の火が弾け、暖かな空気が部屋を巡る頃、ようやく拭き終えたらしい女性の手が止まる。
「着替えてきたら、お水とお薬を持ってきますね」
そう言って立ち上がる彼女を目で追うように獣が頭を上げ、別の部屋に消えるのを確認してから赤い目を閉じた。しばらくして、ドアの開く音に大きな耳がピクリと反応するが、信用しているのか目を開けることなく眠り続ける獣。傷の具合を確認した女性は、言葉通り水と薬と新しい布を用意すると獣の隣へと座った。
「綺麗な黒・・・魔物とまったく違う色だわ」
うっとりと呟き、細い手がそっと獣の首を撫でる。嫌がる様子もなくくつろぐ獣を見て、女性は紫の目を部屋の隅へと向けた。
「あれは・・・貴方の剣?」
握る部分に革を巻き、優美な装飾の施されている柄は銀色に鈍く輝く。茨が巻く意匠の鞘の間から透き通った紅い刀身が微かに見え、それだけで一種の芸術品の様相を呈するが、手に取ろうと思う者は少ないだろう。
「聖なる気配に濃厚な呪いの影。もしかして伝承にある紅き聖剣『クラリア』かしら」
名を出した途端、獣がムクリと頭を上げた。剣に集中していた女性は気にも留めずに艶やかな黒を撫で続ける。
「古き神世の時代。紅き悪魔を封じた刀身は、封じた者の邪悪さと比例するように澄んだ輝きを宿した。そうして魔を封じたその剣は魔を食らうようになる。後に原初の聖剣と呼ばれるものの誕生である」
歌うように口ずさみ、紫の目を獣に向けた女性は小さく微笑む。
「冗談よ。そんな聖剣が本当に存在するなんて聞いたことがないわ。今のは森の知恵者と呼ばれたお義父様の受け売りよ」
水と薬を差し出すと、水だけを口にする獣をじっと見つめた。物言わぬ彼の身体は、彼が一番良く判るのだろう。無言の拒否に女性はそっと薬をしまうと立ち上がり、濡れていない新しい布を暖炉から離れた場所に広げる。
「ベッドが小さいので今日はここで休んで下さい」
獣が移動してから、女性はもう一枚の毛布にくるまって少し離れた床に横たわった。
「花冠の守りがありますから、貴方を害する者は近づけないでしょう。安心して休んで下さいね」
王都の腕のいい細工師が作ったような極上の金糸の髪を床に散らしながら、女性の深紫の目が長い金のまつげで縁取られた瞼の奥に消えていく。ゆっくりと大きな尻尾を揺らしながら見つめていた獣も、腕を組み、その綺麗な真紅の目を閉じた。