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 1943年11月9日、ナチ党にとって重要な祝日である『ミュンヘン一揆』記念日に合わせ、バイエルン州の州都ミュンヘンでは、最新鋭のティーガーⅡ重戦車を運用する第510重戦車大隊の新規編成完結式が盛大に行われた。アドルフ・ヒトラー総統も参加した各種行事は、新兵器ティーガーⅡの大々的なお披露目の場となった。


 帝国啓発宣伝省は、この国家的行事をラジオ、新聞、そしてニュース映画で大々的に取り上げた。新型戦車の圧倒的な存在感は、国民の戦意高揚に繋がると期待された。


 しかし、この華々しい報道の裏では、より大規模な欺瞞工作が進行していた。


 宣伝中隊は、東部戦線における「パツィーフィク(太平洋)」部隊による目覚ましい戦果――ソ連の戦車生産量を上回る勢いで敵戦力を削り取るという超常的な戦果を、一度の実践経験もない部隊の成果として報道したのだ。具体的には、後方で温存されていた第656重戦車駆逐連隊の「フェルディナント」や、実在しない架空の第104SS義勇重戦車大隊(イギリスと自治領の捕虜で構成されるという触れ込み)のティーガーⅠの戦果であるとされた。


 この世界に「フェルディナント」を戦場で見たことのあるソ連兵は一人もいない。


 これは、ヤマブシの存在と、彼らがもたらす「神通力」という極秘技術を連合軍の目から隠蔽するための、大掛かりな情報操作だった。


 「パツィーフィク」部隊による相対的な戦力均衡の回復は、ドイツ軍に戦略的な柔軟性をもたらしていた。すでに、「ツィタデル(城塞)」作戦に投入予定だった「フェルディナント」以外の「パンター」、Ⅳ号突撃戦車、「ホルニッセ」、「フンメル」、「ヴェスペ」で編成された部隊は、それぞれが東部戦線での秩序だった戦略的撤退を支援するために注ぎ込まれていた。


 東部戦線は、目に見えない「魔法」の力と、隠蔽されたプロパガンダによって塗り固められつつあった。そして、この欺瞞のヴェールの下、ヒトラーはバクー油田を目指すという、新たな、そして無謀な攻勢への準備を進めていた。



 1943年11月9日、ナチ党にとって重要な祝日である『ミュンヘン一揆』記念日に合わせ、バイエルン州の州都ミュンヘンでは、最新鋭のティーガーⅡ重戦車を運用する第510重戦車大隊の新規編成完結式が盛大に行われた。アドルフ・ヒトラー総統も参加した各種行事は、新兵器ティーガーⅡの大々的なお披露目の場となった。


 帝国啓発宣伝省は、この国家的行事をラジオ、新聞、そしてニュース映画で大々的に取り上げた。新型戦車の圧倒的な存在感は、国民の戦意高揚に繋がると期待された。


 しかし、この華々しい報道の裏では、より大規模な欺瞞工作が進行していた。


 宣伝中隊は、東部戦線における「パツィーフィク(太平洋)」部隊による目覚ましい戦果――ソ連の戦車生産量を上回る勢いで敵戦力を削り取るという超常的な戦果を、一度の実践経験もない部隊の成果として報道したのだ。具体的には、後方で温存されていた第656重戦車駆逐連隊の「フェルディナント」や、実在しない架空の「第104SS義勇重戦車大隊(イギリスと自治領の捕虜で構成されるという触れ込み)」のティーガーⅠの戦果であるとした。


 「フェルディナント」という突撃砲を戦場で見たことがあるソ連兵は一人もいないし、「第104SS義勇重戦車大隊」という部隊を見たことがあるドイツ兵も一人もいない。


 これは、ヤマブシの存在と、彼らがもたらす「神通力」という極秘技術を連合軍の目から隠蔽するための、大掛かりな情報操作であった。


 「パツィーフィク」部隊による相対的な独ソ間の戦力均衡は、ドイツ軍に戦略的な柔軟性をもたらしていた。すでに、「ツィタデル(城塞)」作戦に投入予定だった「フェルディナント」以外の「パンター」、Ⅳ号突撃戦車、「ホルニッセ」、「フンメル」、「ヴェスペ」で編成された部隊は、それぞれが東部戦線での秩序だった戦略的撤退を支援するために注ぎ込まれていた。


 東部戦線は、目に見えない「魔法」の力と、隠蔽されたプロパガンダによって塗り固められつつあった。そして、この欺瞞のヴェールの下、ヒトラーはバクー油田を目指すという、新たな、そして無謀な攻勢への準備を進めていた。





 年が明けた1944年1月1日、東部戦線に従軍するドイツ将兵と軍属には、新年を祝うための焼き菓子「グリュックシュヴァイン(幸運の豚)」の配給がなされた。しかし、その光景は、もはや戦時下のドイツの窮乏を象徴するものでしかなかった。


 本来ならば、拳ほどの大きさであるべき伝統的な焼き菓子は、実際にはわずか25mmほどの大きさしかなかったのだ。戦略物資の不足は、食料にまで及んでいた。


 その小さな焼き菓子を受け取った将兵たちの中には、自嘲気味に、あるいは開き直ったように、「公益は私益に優先する! フローレス(幸福な)・ノイエス(新しい)・ヤー!(年を!)」と大袈裟に叫びながら、一口でそれを食べる者もいた。


 この標語は、彼らにとっては聞き慣れたものだった。第二次世界大戦の勃発に伴い、戦略物資であるニッケルの回収が始まった際、ナチス政権下で発行が始まったニッケル貨の1ライヒスマルク硬貨には、確かに「公益は私益に優先する」という標語が刻印されていた。


 それは、国民に犠牲と奉仕を強いるためのスローガンだった。かつては誇らしげに響いたその言葉も、今や前線の兵士たちの間では、皮肉と苦笑いの対象となっていた。小さな「幸運の豚」は、彼らの士気と、ドイツの資源が共に底を突き始めている現実を物語っていた。


だが、この物資不足の中でも、ヒトラーは、ヤマブシの超常的な力と、温存された新型兵器によって、戦局を覆せると信じていた。この日配られたささやかな「幸運」は、崩れゆく帝国の、束の間の慰みにしかならなかった。



 新年を祝うささやかな「グリュックシュヴァイン」の配給の後、東部戦線には束の間の静寂が訪れた。しかし、その静寂は長くは続かなかった。ドイツ統帥部は、この窮乏の中でも、新たな大規模攻勢作戦の準備を着々と進めていた。


 1944年1月3日、ドイツ軍は「コーンブルーメ(矢車菊)」作戦を発動した。


 その作戦名の由来は、遠くフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが1806年にプロイセンに攻め込んだ時まで遡る。当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の妻であるプロイセン王妃ルイーゼ・アウグステ・ヴィルヘルミーネ・アマーリエ・メクレンブルク=シュトレーリッツが、ベルリンから逃げる際に、幼い子供たちと麦畑に隠れたことがあった。ルイーゼ王妃は、そこで咲いていたコーンブルーメで花冠を作って、子供たちへのお慰みにしたという故事に倣ったものだった。


 その時の次男こそが、後に初代ドイツ皇帝としてヴェルサイユ宮殿で戴冠式を執り行ったヴィルヘルム1世となる人物である。この故事により、麦畑に生える雑草だったコーンブルーメは、青い花を咲かせるドイツの国花となった。作戦名は、この縁起を祝うものであり、さらに縁起のいい数字である3の日での作戦実施は、ヒトラーの神秘主義的な側面を反映していた。


 「コーンブルーメ」作戦は、ウクライナ全域を確保し、カスピ海を目指すという壮大な野望の第一歩となるはずだった。ドイツ軍には、この作戦を成功させるための確かな手応えがあった。


 1943年12月に東部戦線全ての攻勢防御に参加した「パツィーフィク(太平洋)」7個小隊28名の戦果は、驚異的なものだった。彼らの「神通力」による誘導兵器は、戦車だけでも2,800両以上を撃破していたのだ。これはソ連の月間生産量をはるかに上回る数だった。


 その代償として、ヤマブシ3名の戦死者を出していた。「パツィーフィク」部隊は、新たな戦死者を出したことで、6個小隊24名に再編となっていた。貴重な人的損失ではあったが、ドイツ統帥部は、この犠牲に見合うだけの戦果があると判断していた。


 「コーンブルーメ」作戦の火蓋は切って落とされた。ドイツ軍は、日本の神秘の力を最大の切り札に、再び東の大地へと攻勢をかけ始めた。


 

 「コーンブルーメ(矢車菊)」作戦は、単なるウクライナの確保を目的としたものではなかった。アドルフ・ヒトラー総統にとって、この作戦は深い意味を持っていた。それは、1942年に失敗に終わった夏季攻勢「ブラウ(青)」作戦の雪辱を果たすことであり、ドイツの東方生存圏構想を実現するための決定的な一歩となるはずだ。


 その作戦の最終目標は、ソ連の継戦能力を完全に麻痺させることにある。


 「コーンブルーメ」作戦の段階的な目標は明確だ。まずは、エストニア、ラトビア、ベロルシア、ウクライナといった広大な占領地を確保したまま戦線を安定させる。その上で、主目標であるスターリングラードを再攻略し、包囲ないしは占領する。今年2月に壊滅した第6軍の雪辱を果たすことは、象徴的な意味でも重要だった。


 しかし、ヒトラーにとっての真の戦略的狙いは、その先、ソ連の資源供給ルートの遮断にあった。


 ヴォルガ川は、ソ連にとって生命線だった。ウリヤノフスクに根拠地のあるヴォルガ川小艦隊を封鎖し、バクー油田からのヴォルガ川経由のタンカー輸送を阻止する。さらに、アストラハンまで進出することで、バクー油田からの鉄道輸送も断つことも目的としていた。


 別の川を利用しての輸送など想像もしていなかった。


 最終的な目標は、バクー油田そのものの占領だ、ソ連の石油供給の7割を断ち切れば、赤軍の戦車も航空機も動かなくなり、ソ連は崩壊する。


 ヒトラーは、日本の「フリーデン」誘導兵器の力があれば、この壮大な作戦が不可能ではないと確信していた。前線の兵士たちの小さな「幸運の豚」とは裏腹に、総統の頭の中では、東部戦線全体を巻き込んだ巨大な戦略的勝利の青写真が描かれていた。



 ヒトラーが描く「コーンブルーメ」作戦の壮大な青写真において、カスピ海は重要な戦略的要衝だった。ヴォルガ川の輸送を遮断し、バクー油田を占領するためには、制海権ならぬ「制湖権」を握る必要があった。しかし、そこには厄介な障害が存在した。


 「ブラウ(青)」作戦当時と同様に、アストラハンの根拠地を回復したソ連のカスピ海小艦隊が、スターリングラードやカフカース(コーカサス)地方におけるドイツ軍の進撃の障害となることは明白だった。


 ソ連がカスピ海の支配権を維持できた背景には、1941年8月からの特殊な歴史的経緯があった。


 カフカースに隣接するパフラヴィー朝イランが枢軸側で参戦することを恐れたイギリスとソ連は、1941年8月にイラン占領作戦を強行したのだ。枢軸国寄りの中立の立場を取っていたレザー・シャー・パフラヴィー国王は、同月、イギリスとソ連による連合国側での協力要請を拒否したため、連合軍に占領され、退位させられた。


 同年9月、息子のモハンマド・レザー・パフラヴィーが亡命した父親に代わって帝位を継いだことで、イランは事実上、連合国の支配下に置かれ、ソ連への援助物資の重要な輸送ルート(ペルシャ回廊)となっていた。


 そして、時は流れ1943年8月15日。イタリアが連合国に降伏した翌日、ドイツ軍はイタリアとその占領地域への進駐を開始した(アハゼ作戦)。


 このドイツ軍の動きを知ったモハンマド皇帝は、イランの主権と中立を侵害する行為と見なし、その翌日である8月16日にドイツへの宣戦布告を行った。これにより、イランは公式に連合国側に加わることとなった。


ヒトラーにとって、このイランの参戦は、カスピ海方面での戦略をさらに複雑化させた。もはやカスピ海小艦隊は単なる河川部隊ではなく、イランという後背地を得たことで、バクー油田防衛の重要な役割を担うことになったのだ。


 ヒトラーの「コーンブルーメ」作戦は、単なる雪辱戦ではなく、外交的な駆け引きと、新たな敵国との戦いを内包する、複雑で危険な作戦となっていた。



 「コーンブルーメ(矢車菊)」作戦が発動され、ウクライナ方面への攻勢が始まったが、その先の戦略目標を巡って、総統大本営では依然として激論が交わされていた。


 ヒトラーは、バクー油田を直接占領しなければ、ソ連はウラル以東からの新たな石油輸送経路を開拓し、継戦能力を維持すると主張した。彼の目はカスピ海の向こう側に向けられていたが、陸軍総司令部(OKH)は猛反対した。スターリングラードの悪夢を再び繰り返すことを恐れたのだ。


 陸軍参謀総長クルト・ツァイツラー大将は、ヒトラーの非現実的な夢想に対し、象徴的な言葉で反論した。


「総統閣下。詩人のハインリヒ(ノヴァーリス著『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン(邦題:青い花)』)のように青い花を求めるのはおやめください。またスターリングラードでの敗北を繰り返すおつもりですか?」


 ツァイツラーは、作戦名である「コーンブルーメ」がドイツの国花であり、「青い花」がドイツロマン主義の象徴であることに触れ、ヒトラーの夢見がちな、現実離れした戦略を痛烈に批判したのだ。


 この激しい反対により、ヒトラーは一時的に譲歩せざるを得なかった。「コーンブルーメ」作戦の展開次第という制限をかけられることになったが、それでも、もう、ヒトラー総統のバクー油田占領の決意が揺らぐことはなかった。彼の頭の中では、ヤマブシの超常的な力を駆使すれば、いかなる地理的障害も、ソ連軍の抵抗も克服できるという考えが支配的になっていた。





 「コーンブルーメ(矢車菊)」作戦では、1942年春の前線よりも攻勢発起地点が後退していた。そして、1942年夏の「ブラウ(青)」作戦の反省から、若干の修正が加えられていたからだ。


 「コーンブルーメ」作戦で、アゾフ海沿岸を進む南方軍集団の右翼の攻勢軸が、ロストフを経由してドン川西岸を北上し、スターリングラードへと進撃するという点では、前回の「ブラウ」作戦と同じだった。


 だが、南方軍集団の左翼の攻勢軸では、前回とは異なっている。


 前回と異なり、左翼の攻勢軸ではヴォロネジを無視。そして、ハリコフとヴォロネジ間の敵の前線を突破。そこから、鉄道や道路による補給を勘案しながら、南東のスターリングラードを目指して侵攻する計画になっていた。



 ソ連軍はドイツ軍の先鋒集団の突破に対し、前線の間々にある予備の戦車師団や戦車集団を反転攻勢に投入せざるを得ない。そこを「パツィーフィク(太平洋)」が配属された精鋭中の精鋭である第1SS装甲師団「ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー(LSSAH)」が撃破殲滅していく。


 「フリーデン」誘導兵器は、野戦における機動中の敵部隊に対して、その威力を如何なく発揮するはずds。



 「ブラウ」作戦時のような都市での市街戦を可能な限り回避したい左翼の攻勢軸での真の目的は、そのハリコフ・ベルゴルド方面からスターリングラードまでの広大な大地で、反転攻勢してくるであろうソ連軍を野戦で撃滅することだった。


 「ブラウ」作戦のように、当初の包囲殲滅を狙って敵の堅固な陣地に突撃しても、その間に市街戦で消耗すrと本末転倒だったからだ。ドイツ軍は、日本の「神通力」を「野戦」というキャンバスに描いて、ソ連の物量を効率的に削り取ることで、戦略目標達成がその狙いだった。


 懸念があるとすれば、「ブラウ」作戦時とは比較にならないほど強力になっているソ連空軍だけだった。





 1944年1月3日の夜明け前、ハリコフとベルゴルドの間、雪に覆われた東部戦線の前線は、張り詰めた静寂に包まれていた。午前6時、ドイツ軍の重砲とロケット砲が一斉に火を噴き、作戦名「コーンブルーメ(矢車菊)」が発動された。


 南方軍集団左翼の先鋒を担うのは、陸軍総司令部(OKH)直属の第656重戦車駆逐連隊。温存されていた怪物的な重駆逐戦車フェルディナントが、その巨大な車体を揺らしながら前進を開始した。彼らの背後には、この作戦の真の切り札である「パツィーフィク(太平洋)」2個小隊の姿があった。


 ヤマブシたちは、通常のドイツ兵とは異なる装束に身を包み、前線の安全な掩蔽壕から精神を集中させていた。彼らの「神通力」が、ドイツ軍の火力を超常的な精密誘導兵器へと変えるのだ。


 作戦開始直後、ソ連軍の堅固な防衛陣地がドイツ軍の砲撃で吹き飛んだ。それは通常の砲撃ではあり得ない精度だった。ソ連軍の対戦車砲陣地や塹壕は、まるで意志を持つかのように飛来する16cm誘導迫撃砲弾によって、次々と沈黙させられていく。


 フェルディナントは、その分厚い装甲を頼りに、ソ連軍の反撃をものともせずに前進した。ソ連軍のT-34戦車やKV戦車が姿を現すと、ヤマブシが「狙い」を定める。71口径の強力な主砲が火を噴くよりも早く、彼らの誘導迫撃砲弾や、密かに持ち込まれていた新型の誘導ロケットが炸裂し、ソ連戦車を無力化していった。


 ソ連軍は、予備の戦車集団を投入して反撃を試みたが、野戦での機動中の目標こそ、「フリーデン(平和)」誘導兵器の最も得意とする獲物だった。次々と撃破される戦車に、ソ連軍の戦意は砕かれ、組織的な抵抗は半日ほどで崩壊した。


 正午過ぎ、第656重戦車駆逐連隊は、それこそ雪崩れ込むようにベルゴルドの町を占領した。この圧倒的な速攻は、ヒトラーがヤマブシの力に託した希望が、決して妄想ではないことを証明していた。ソ連軍は、目に見えない「魔法」のような力の前になすすべもなく、広大な大地へと後退を余儀なくされたのだった。



 ベルゴルド占領後、ドイツ軍南方軍集団左翼は、ヒトラーの描いた「コーンブルーメ」作戦の次の段階へと移行した。目標は明確だった――ソ連の継戦能力を断つため、スターリングラード、そしてカスピ海を目指すことである。


 この重要な局面を担う主力部隊として、第656重戦車駆逐連隊に代わり、精鋭中の精鋭である第1SS装甲師団「ライプシュタンダーテ SS アドルフ・ヒトラー(LSSAH)」が投入されることになった。


 LSSAHは、「7.5 cm KwK 40 L/43」を搭載したⅣ号戦車を主力とし、それ以上の火力を誇る最新鋭の長砲身「7.5 cm KwK 42 L/70」を搭載した「パンター」戦車で構成されていた。この強力な機甲師団が、攻勢の矛先を担うことになったのだ。


 そして、このLSSAH師団の戦闘力に、決定的な力が加わる。第656重戦車駆逐連隊の「フェルディナント」による圧倒的な突破力を下支えした「パツィーフィク(太平洋)」の2個小隊が、そのまま予定通りLSSAHへと配属転換された。


 ヤマブシたちの超常的な誘導能力は、LSSAHの機甲部隊に、通常の兵器では考えられない精密射撃能力と生存性をもたらした。ここから、スターリングラードまでの南方集団右翼との競争が始まる。


 体制を整えたLSSAHは、占領したベルゴルドを後にして、侵攻方向を一転、南東のスターリングラードへと向けた。彼らの任務は、広大なソ連の大地で反転攻勢に出てくるであろうソ連軍を野戦で撃滅し、ヴォルガ河畔へと雪崩れ込むことにあった。ヒトラーの「青い花」作戦は、新たなる「神秘の力」を得て、1942年の雪辱戦へと突き進み始めた。



LSSAHは、「パツィーフィク」2個小隊という超常的な援護を得て、ベルゴルドから南東へと進路を取った。そこからは、1941年のソ連侵攻「バルバロッサ」作戦初期のドイツ軍捜索大隊を思わせる電撃的な攻勢作戦が始まった。LSSAHは、ソ連軍の前線を文字通り横薙ぎにするかのように、圧倒的な速度で侵攻した。


 長砲身のⅣ号戦車とパンターで構成されたLSSAHの快速部隊は、ヒトラーの目指すスターリングラードへ向けて、補給線を延伸しながら猛進した。彼らの前進速度は目覚ましく、後続のティーガーⅠを主力とした重戦車大隊が、彼らの前に出ることはなかった。


 「パツィーフィク」2個小隊の最大の価値は、猛進するLSSAHに対して、ソ連軍が対応する時間を与えないことにあった。彼らが「神通力」によって誘導する火力支援は、ソ連軍が防御陣地を固めたり、組織的な反撃の準備をしたりする隙を与えなかった。


 補給計画は、巧妙に練り上げられていた。右側にあるソ連軍の前線を突破すれば、すぐそこに友軍の前線(本来のドイツ軍戦線)があるという状況を利用し、事前に決められた通りの補給計画が実行された。この効率的な補給と、圧倒的な戦闘力により、LSSAHは1日の進出距離の記録を毎日更新する勢いだった。ソ連軍はドン川東岸に強固な前線を再構築するまで、ドイツ軍の電撃的な進撃の前に為す術もなく後退を余儀なくされた。



 ベルゴルドを雪崩れ込むように占領した第656重戦車駆逐連隊は、その後、ハリコフ・ベルゴルド方面の防衛任務へと配置転換された。LSSAHが南東へと向かう攻勢の矛先となった一方で、彼らはソ連軍の反撃に備えることになった。


 この「コーンブルーメ」作戦で、宣伝中隊によるニュース映画の主役は、依然として第656重戦車駆逐連隊のフェルディナントであった。ベルゴルド攻略時の圧倒的な突破力は、国民の戦意高揚には欠かせない映像素材となった。しかし、その映像は、本来フェルディナントが持つはずのない、正確無比な誘導砲撃の戦果で満たされており、「パツィーフィク(太平洋)」の超常的な力を隠蔽するための大掛かりな欺瞞工作の一環だった。


 また、ハリコフの南に配置されていた、最新鋭のティーガーⅡ重戦車で編成された第510重戦車大隊も、ニュース映画では盛んに取り上げられた。彼らはまだ実戦投入されていないにもかかわらず、その威容と存在感は、ドイツ軍の戦車部隊の健在ぶりをアピールするには十分だった。


 こうして、国民は、日本の「神通力」がもたらした奇跡的な戦果を、従来のドイツ軍の兵器によるものと信じ込まされていた。プロパガンダの力は、新たな希望を植え付け、敗北の記憶をかき消す役割を担っていた。東部戦線の戦いは、現実の戦闘と、巧妙な情報操作という二つの側面で進行していた。


 これで、「山伏戦記 (旧題『ヤマブシ戦記』)は、完結ということになります。


 未完の「ヤマブシ戦記」を成仏させたということになるのでしょうか。


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