表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

02

 1943年が明けて早々、ドイツ国民と軍上層部を激震させる報が東部戦線からもたらされた。ヴォルガ河畔の都市スターリングラード――かつては半年で終わるはずだった対ソ戦争の象徴となるはずの場所が、今や第三帝国の墓場と化していた。


 1943年1月、ソ連軍による天王星作戦と小天王星作戦によって完全に包囲されたドイツ第6軍は、ヒトラー総統の死守命令により、絶望的な抵抗を続けていた。補給は途絶え、凍てつく冬の寒さの中、兵士たちは飢えと寒さ、そしてソ連軍の猛攻に晒されていた。


 事態が動いたのは2月18日。包囲されたドイツ第6軍司令官フリードリヒ・パウルス元帥は、ソ連軍に降伏した。彼が元帥へと昇進したのは、降伏の前日、暗に自裁(自決)を求められた上でのことだったが、パウルスはそれを選ばなかった。彼の降伏は、ドイツ軍全体の士気に決定的な打撃を与えた。


 そして2月20日、スターリングラード市内で抵抗していた最後のドイツ軍部隊が武装解除し、降伏した。ドイツ軍の捕虜は最終的に10万人を超える規模となった。



 この壊滅的な敗北は、東部戦線の戦況が後退し始めていることを如実に示していた。開戦以来、無敵を誇ってきたドイツ陸軍の威信は地に落ちた。ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、フィンランドといった枢軸側の同盟国にも激しい動揺が走った。「半年で終わる」はずだった対ソ戦争が、早くも3年目に突入しただけでなく、勝利への展望が見えなくなりつつあったからだ。


 東部戦線という泥沼に足を取られ、西側では北アフリカの失陥、そしてイタリア戦線への連合軍の上陸という、複数の戦線で劣勢に立たされたドイツは、文字通り四面楚歌の状況に陥っていた。


 そんな暗雲立ち込める最中、遠い極東の同盟国・日本からの「援軍」が、遥々ドイツを目指して航海を続けていた。科学の範疇を超えた超常的な力を持つヤマブシと、軍事技術にかかわる特殊物資を積んだ日本海軍のUボート、伊七と伊八が、連合軍の厳重な海上封鎖を突破し、フランス大西洋岸のブレスト港へと向かっていたのである。彼らこそが、この絶望的な戦況を覆す、最後の切り札となる。



 スターリングラードの壊滅的な敗北がドイツ全土を覆い、枢軸国の動揺が広がる中、唯一の希望の光は極東の同盟国日本からもたらされていた。


 ドイツがヨーロッパで守勢に立たされる一方で、アジア・太平洋戦線では日本の攻勢が続いていた。1943年3月、日本陸軍はビルマからインドへの侵攻作戦である「ウ号」作戦を発動した。連合軍の予想を上回る迅速な進撃により、作戦は順調に推移していた。さらに4月には、中国華北からフランス領インドシナを突破する「一号」作戦が実施され、大陸における日本の支配地域は拡大を続けていた。


 しかし、ドイツを最も勇気づけたのは、日本海軍による目覚ましい戦果だった。


 1943年5月、日本海軍はインド洋において大規模な通商破壊作戦、「A(インド洋通商破壊)作戦」を展開した。この作戦により、イギリス東洋艦隊は壊滅的な打撃を受けた。インドミタブルとフォーミダブルの正規空母2隻、軽巡洋艦2隻が沈没、さらに軽巡洋艦2隻が大破、戦艦ウォースパイトも中破するという、目に見える圧倒的な戦果を上げていたのだ。


 これらのニュースは、ドイツのプロパガンダによって大々的に報じられた。ヨーロッパが厳しい冬と絶望に喘ぐ中、アジアの同盟国は未だ勝利を重ね、連合軍を圧倒しているという事実は、ドイツ国民にとって希望の光となった。


 東部戦線の後退とイタリアの動揺によって崩れかけた枢軸国の結束は、日本の戦果によってかろうじて保たれていた。そして、この日本の勢いこそが、ドイツ軍上層部に、彼らが持つ「特殊な力」への期待を抱かせる要因となった。日本が持つ「神通力」という超常的な技術があれば、ドイツもまた戦局を覆すことができるのではないか。


 1943年春、ドイツは東部戦線でのスターリングラードの壊滅的敗北に加え、北アフリカ戦線でも後退を余儀なくされていた。5月20日、チュニジアで抵抗を続けていた枢軸軍はついに降伏し、27万人もの将兵が連合軍の捕虜となった。北アフリカの失陥により、地中海は連合軍の支配下に置かれ、連合軍がチュニジアからシチリア島、そしてイタリア南部へと侵攻してくることは、もはや時間の問題だった。


 この絶望的な状況下、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、東部戦線での起死回生の一手として、ソ連軍の突出部であるクルスクへの大規模攻勢「ツィタデレ(城塞)」作戦の実施を強く望んでいた。しかし、ヒトラーが抱えていた懸念は、東部戦線だけではなかった。


 彼が恐れていたのは、枢軸側の同盟国の離反だけではない。日本の戦果によってかろうじて繋ぎ止められていたルーマニアやハンガリーなどの結束は依然として脆く、さらに中立国のトルコやスペインが、連合国の優勢を見て寝返り、枢軸側に宣戦布告することも現実的な脅威となっていた。


 もし、日本のビルマやインド洋での目覚ましい戦果がなければ、政治的な理由から、ヒトラー総統は、たとえ戦術的な準備が不十分であっても、ソ連軍の突出したクルスクを南北から攻撃する「ツィタデレ」作戦を強行していただろう。ドイツの新型戦車パンターやティーガーの配備は遅れていたが、政治的・士気的な理由が軍事的な判断を凌駕していたからだ。


 しかし、極東の同盟国がもたらす唯一の明るいニュースと、彼らが持つ超常的な「神通力」への期待が、ヒトラーに僅かながら冷静な判断をもたらした。「ツィタデレ」作戦は延期され、貴重な人的資源と新型兵器の投入は、東部戦線ではなく、この「奇跡の力」を運用する準備が整うまで待機することになった。


 ドイツの運命は、もはや科学の範疇を超えた力に委ねられつつあった。そして、その力を運ぶ二隻の日本のUボート、伊七と伊八が、5万4000kmもの長大な航海を経て、連合軍の厳重な海上封鎖を突破し、フランス大西洋岸のブレスト港へと向かっていた。1943年8月31日、彼らがヨーロッパの土を踏んだ時、ドイツの最後の希望が現実のものとなろうとしていた。





 1943年11月26日、東プロイセン州インスターブルクの飛行場は、張り詰めた空気に包まれていた。アドルフ・ヒトラー総統が、新たな希望の星である新兵器の視察に赴いたのだ。目的は、ドイツの技術の粋を集めたジェット戦闘機、メッサーシュミットMe262の地上展示だった。


 しかし、ヒトラーの反応は、空軍首脳陣の期待とは裏腹のものだった。ジェットエンジンがもたらす圧倒的な高速性能を目の当たりにした彼は、Me262を防空用の局地戦闘機としてではなく、攻撃機、すなわち「ブリッツボンバー(電撃爆撃機)」としての価値を見出したのだ。


「この速度があれば、いかなる連合軍戦闘機も追いつけまい!敵の防御陣を突破し、爆弾を投下できる!」


 ヒトラーのこの非現実的な要求に、その場に居合わせたエアハルト・アルフレート・リヒャルト・オスカー・ミルヒ空軍元帥は、思わず反論した。


「総統閣下。Me 262 が、爆撃機ではなく、戦闘機であることは、どんな子供でも分かります」


 ミルヒ元帥の言葉は、技術的な現実に基づいていたが、ヒトラーの逆鱗に触れかけた。総統の妄執は、科学的な事実を容易に捻じ曲げようとする。


 事態を収拾したのは、エースパイロットとして名高いアドルフ・ヨーゼフ・フェルディナント・ガーランド空軍少将だった。彼は、ヒトラーの攻撃機へのこだわりと、日本から持ち込まれた「フリーデン(平和)」誘導兵器を結びつける、巧妙な妥協案を提案した。


ガーランドは、Me262を攻撃機としてではなく、誘導兵器の「誘導標準機」として運用することを提案したのだ。


「総統閣下。ヤマブシを乗せた2人乗りのMe262を、対艦・対空・対地攻撃の誘導爆弾、誘導ロケットの誘導標準機として用いるのです。この高速機であれば、誘導に必要な時間、敵の脅威圏内に留まることが可能です」


 さらに、その誘導任務のための偵察機や、護衛の戦闘機もMe262で揃えるという構想を付け加えた。この提案は、ヒトラーが重視する「攻撃力」と「日本の神秘の力」を組み合わせたものであり、政治的な面目を保ちつつ、Me262の戦闘機としての生産ラインを確保するための苦肉の策だった。


 ガーランド自身は、以前にMe262で飛行した経験から、その真価は速度を活かした一撃離脱の戦闘機にあると確信していた。彼は内心、「Me262が普通の爆弾をばら撒いたとしても、そんなものが当たるはずがない」と考えており、あくまで本土防空用の局地戦闘機としての運用を念頭に置いていた。


しかし、ヒトラーはこの提案に満足し、Me262は「フリーデン(平和)」誘導兵器を運用する特殊攻撃機として、生産が決定された。ドイツの最後の切り札は、空においても、科学と神秘が融合した異形の兵器体系へと組み込まれていった。


 インスターブルクでのMe262の視察中、ガーランド少将は内心の焦燥を隠しきれなかった。ジェットエンジンの高高度における高性能という最大の利点を捨てるような、ヒトラー総統の主張する地上攻撃、爆撃任務など、戦闘機隊総監として、また本土防空作戦の指揮官として、彼には到底容認できるものではなかったからだ。


 当時、ドイツ本土は連合国軍による昼夜を問わない無差別爆撃に晒されており、各地に甚大な損害を与えていた。この猛爆撃の嵐は、ドイツ国内だけでなく、枢軸側の同盟国であるルーマニアの油田地帯などにもその牙を剥いており、防空戦力の強化は喫緊の課題だった。


 ガーランドの脳裏には、1943年7月から8月にかけて行われたハンブルク空襲の惨状が焼き付いていた。あの時、ヒトラーはドイツ空軍に対し、都市の防空任務ではなく、英本土への報復爆撃を命じていた。無意味な報復に貴重な戦力を割く総統の非現実的な判断は、ガーランドにとって苦々しい記憶だった。


 しかし、このインスターブルクでの会談で、ガーランドは日本の「フリーデン(平和)」誘導兵器の力を持ち出すことで、ついにヒトラーを翻意させることに成功した。Me262を防空用戦闘機として運用する道筋をつけたのだ。ヒトラーもまた、日本の「神通力」という新たな希望の前では、旧来の報復爆撃という強硬な姿勢を撤回せざるを得なかった。


 このヒトラーの態度の変化には、極東からの朗報も影響していた。


 11月に入ると、日本陸軍から、作戦距離2400kmにも及ぶ中国華北からフランス領インドシナを突破する「一号」作戦。それと連動するイギリス領インド帝国インパールを確保する「ウ号」作戦が、共に成功裡に終わったことが伝えられていた。さらに、日本海軍による一連のインド洋通商破壊作戦は、ベンガル湾、アラビア海から、遠くアフリカ大陸南端のケープタウン港を空襲するまでに至っており、連合軍の補給線を完全に脅かしていた。


 これらの目覚ましい戦果は、日本の持つ「神通力」が実戦でいかに有効であるかを証明しており、8月31日のヤマブシ40名の到着は、ヒトラー総統の西部戦線の防衛戦略に劇的な変化をもたらしていた。もはやドイツは、従来の兵器体系に頼るのではなく、この超常的な力を最大限に活用することで、連合軍の侵攻を食い止めようとしていた。ガーランド少将の提案したMe262とヤマブシの連携運用もまた、その新たな戦略の一環として位置づけられたのである。


 そして、この場でMe262は戦闘機部隊としての実戦経験を積むことも認められた。





 1943年7月上旬、「ツィタデレ(城塞)」作戦の中止が決定されると、東部戦線の枢軸軍は、ゆっくりと秩序立った後退を開始した。


 戦線全体を崩壊させないよう、計画的に後退していく枢軸軍に対し、ソ連軍は警戒を強めながらも、撤退した地域の回復を進めていた。ソ連の軍需工場は月産1,500両近い戦車を生産しており、時間の経過は相対的にソ連軍を利するだけだ。枢軸軍がなぜ、このタイミングで攻勢に出なかったのか、ソ連軍上層部は訝しんでいた。


 しかし、11月になると、ソ連軍の困惑は恐怖へと変わっていった。


 少しずつ撤退を続けるドイツ軍の攻勢防御に、日本の「パツィーフィク(太平洋)」部隊が組み込まれていたのだ。彼らの「フリーデン」誘導による重迫撃砲弾は、ソ連軍に壊滅的な打撃を与え始めた。それは、ソ連の戦車の月間生産量を上回る勢いで、ソ連軍の装甲部隊を撃破していった。


 これにより、ドイツ軍とソ連軍の間には、奇妙な「ランチェスターの法則」が影響し始めた。


 ランチェスターの法則では、兵力二乗の法則が適用される第二次世界大戦のような近代戦において、兵力差は戦闘力差に大きく影響する。しかし、「フリーデン」誘導兵器は、この法則の前提を根底から覆した。ソ連軍の圧倒的な物量と生産力は、正確無比な誘導兵器の前では意味をなさず、ドイツ軍は少数の兵力で圧倒的な損害をソ連軍に与え続けることが可能となったのだ。


 それなのに、相対的戦力差の縮小した独ソの通常戦力では、「ランチェスターの法則」が作用する。


 この状況は、日本の連合国側への攻勢と相まって、さらに深刻な事態を引き起こしていた。インド洋での通商破壊作戦により、アメリカ、イギリス、カナダからソ連への援助物資の輸送が滞り始めていた。困窮したソ連は、援助物資の再開を求めるどころか、公然と日本に対し参戦するよう求められるようになっていた。


 東部戦線での「パツィーフィク(太平洋)」部隊の運用は、主に攻勢防御という形で実施されていた。ティーガーI重戦車で構成される独立重戦車大隊を中核に、「パツィーフィク太平洋」のヤマブシ1個小隊から4個小隊が組み込まれ、ドイツ陸軍または軍団直轄の作戦として実行された。


 航空偵察写真の解析結果に基づき、ソ連軍の塹壕や対戦車砲陣地、そして隠蔽された司令部などが特定されると、ヤマブシが「神通力」を集中させる。発射された16cm誘導迫撃砲弾は、まるで意思を持つかのように目標へと飛んでいき、たちまちのうちにそれらを消滅させた。戦車や装甲車、トラック、ジープといった軍用車両も、例外ではなかった。


 ドイツ陸軍や武装親衛隊では、「パツィーフィク」の超常的な存在を隠蔽するため、重迫撃砲で破壊された車両には、後から偽装用の戦車砲やパンツァーファウストを撃ち込んでいた。


 東部戦線の戦況は、もはや従来の兵器体系では説明できない、不可解な現象に満ちていた。ソ連軍は、目に見えない敵の存在に怯え、前線は次第に膠着状態に陥りつつあった。日本の神秘的な力が、泥沼化した東部戦線を、ドイツに有利な状況へと変え始めていたのだ。



 東部戦線での「パツィーフィク(太平洋)」部隊参加の攻勢防御は、目覚ましい戦果を上げていたが、ドイツ陸軍は新たな課題に直面していた。主に使用していた16cm重迫撃砲の射程距離が短すぎるため、より遠方の目標を攻撃できず、戦術的な限界があったのだ。


 この射程不足を補うため、ドイツ軍は既存の多連装ロケットランチャーへの「フリーデン(平和)」誘導技術の応用を試みた。しかし、ここでも技術的な障壁が立ちはだかった。


 ドイツのロケット弾は、弾体を回転させること(スピン方式)で弾道を安定させていた。だが、「ねじ込み式誘導部品」を取り付けた場合、この高速回転が「フリーデン(平和)」誘導技術と干渉し、上手く機能しなかったのだ。


 解決策として、安定翼を持ち、回転せずに飛翔するロケット弾(ロシアが用いている)が必要となった。さらに、この新型ロケット弾を発射するためのレール式の新型発射機を開発すること自体は、ドイツの技術力をもってすれば容易だった。


 しかし、新たな問題が発生した。


 この新型多連装ロケットランチャーは、従来のドイツ軍の装備とはあまりにも形状が異なっていたのだ。もし実戦で大規模に使用すれば、戦場で悪目立ちする。「パツィーフィク」部隊の存在そのものを隠蔽したいドイツ軍上層部は、このリスクを恐れた。


 結果として、15cmと30cmの新型多連装ロケットランチャーは開発されたものの、その存在は秘匿され、後方の厳重に隠された陣地に留め置かれることになった。


 当面は、射程が短くとも、既存の迫撃砲陣地で運用可能な16cm重迫撃砲による「ヒット・アンド・アウェイ」戦術を継続せざるを得なかった。東部戦線では依然としてヤマブシたちの「神通力」がソ連軍の物量を凌駕していたが、ドイツ軍は「フリーデン(平和)」誘導兵器という圧倒的な力を手に入れながらも、その運用には極秘裏であるがゆえの様々な制約がつきまとっていた。



1943年11月下旬、もはや日常となりつつある攻勢防御作戦に参加中のパツィーフィク」小隊警護の将校たちが、現状について話し合っていた。彼らの目の前には、独立重戦車大隊のティーガーI重戦車の姿があった。そして、まだ炎上しているソビエト軍の軽戦車三両も見える。


「KVやT-34を撃破しすぎたのか、T-60や軽装甲車が出てくるようになったな」


一人のドイツ軍少佐が、戦果を分析するように言った。ソ連軍は主力戦車の損害の多さに、旧式や軽装甲車両を前線に投入せざるを得なくなっているようだった。


「どうでしょう? KVやT-34は、後方で数を揃えているのかもしれません」


 冷静な中尉が反論する。ソ連の恐るべき生産力と戦略的な深さを知る者にとっては、現状は一時的なものに過ぎないと思われた。


「それじゃあ、前線に出てきているのは、連中が言うところの”2人乗り棺桶”というわけか。あんなものに乗せられるヤツはたまらんな」


 ソ連兵がT-60軽戦車を揶揄して呼ぶその俗称を口にし、少佐はため息をついた。


「こっちのパンターも、故障ばっかりですからね。まだ使えるようになるには、時間がかかりそうです。それにしても、あの陸軍総司令部(OKH)直轄とやらのフェルディナント部隊ですが、いつになったらご自慢の71口径を撃ってくれるんですかね?」


 中尉は、後方に控えている重駆逐戦車「フェルディナント」部隊に思いを馳せた。ティーガーⅠよりも長砲身の88mm砲を搭載しているにもかかわらず、彼らは積極的に戦闘に参加しようとはしなかった。


「知らん。大規模な反抗作戦とやらまではお預けらしいが、それもいつのことやら……」


 少佐は肩をすくめた。東部戦線全体での「秩序だった後退」という戦略目標の中では、個々の部隊の主戦論は退けられていた。


「見た目も、あのティーガーよりも厳いかついんですよ? それなのに、何もしないで撤退だけするなんて、燃料が勿体無いだけじゃないですか?」


 少し先にあるティーガーⅠ戦車の巨大な車体を見ながら、中尉は不満を募らせた。


「そう言うな。ティーガーも、フェルディナントも、右から左へと簡単に動かせるような重さじゃない。いざという時の備えと思っておけばいいさ」


「まだ生まれていない卵を気にかけるなと言いますよ? 少佐」


「何もないよりは遅れてくるほうがましとも言うだろう? 中尉」


 彼らの間で交わされる皮肉めいた会話は、最前線のドイツ軍将校たちの偽らざる心境を表していた。強力な新型兵器を手にしながらも、戦略的な理由でそれを温存せざるを得ないジレンマ。それでも、ヤマブシたちによる精密な誘導攻撃だけは、この膠着した戦況下で着実にソ連軍の戦力を削り続けており、それがドイツ軍の秩序だった後退を可能にしていたのだった。




 1943年11月、東部戦線の現状認識について、総統アドルフ・ヒトラーと陸軍総司令部(OKH)との間に、そう大きな差があったわけではない。


 5月から緩やかな撤退を続けてはいるが、まだ北はレニングラードから南はカフカースに至る全戦線はソ連領内にあり、広大な占領地を保持していた。両者は、ソ連軍の前線に配置されている戦闘車両のうち、KVやT-34といった主力戦車が減少し、T-60や軽装甲車の比率が高くなっていること、そして軍用車両全体の量的減少が見られることを認識していた。これは、日本のインド洋通商破壊作戦による連合国からの援助物資の滞りが影響している可能性が高かった。


 一方で、ソ連空軍が新型機への切り替えを急速に進め、その数的優勢が著しくなっていることも懸念材料だった。ソ連の航空産業は、ウラル山脈の東側で守られながら、IL-2シュトゥルモヴィクやLa-5戦闘機といった新型機を大量生産していた。これらの新型機は、ドイツ空軍のベテランパイロットたちを苦しめていた。


 それでも、今後のドイツ軍の東部戦線での方針については、意見を異にしていた。東部戦線全域に展開する「パツィーフィク(太平洋)」の7個小隊28名のうち、すでに2名のヤマブシが戦死していた。これはソ連空軍のIl-2攻撃機による通り魔的な低空爆撃によるもので、彼らの「神通力」も万能ではないことを示していた。貴重なヤマブシの損耗を抑えつつ、戦略目標を達成する必要があった。


 ヒトラーは、日本の超常的な力が東部戦線の戦況を覆しつつあることを確信しており、この優位を維持したまま、さらなる攻勢を夢見ていた。しかし、陸軍総司令部は、日本の力が一時的な戦術的優位をもたらすものであっても、ソ連の無限とも思える人的・物的資源の前には、長期的な戦略的勝利は難しいと見ていた。彼らは、より現実的な防衛ラインへの後退と、西部戦線への戦力集中を主張していた。この認識の違いこそが、来るべきドイツの命運を分けることになろうとしていた。



 1943年11月の東部戦線の現状認識は共有されていたものの、今後の戦略については、アドルフ・ヒトラー総統と陸軍総司令部(OKH)との間で決定的な意見の相違があった。


 しかし、唯一、両者の間で一致している当面の目標があった。それは、1944年1月下旬までに、モスクワ街道以南の戦線、特にウクライナ方面で前線を押し上げていくことであった。目的は、貴重な農地と工業地帯であるウクライナ全域を確保し、ドイツの継戦能力を高めることにあった。



だが、その後の展望となると、ヒトラーの野心的な構想が顔を出す。陸軍総司令部は、ウクライナを確保した時点で防衛ラインを構築すべきだと考えていたが、ヒトラーは違った。彼はウクライナを超えて、再びカスピ海を目指すアストラハン再侵攻を主張していたのだ。


 これは、1942年4月に実施された「ブラウ(青)」作戦の焼き直しであり、スターリングラードでの悲劇的な敗北を完全に無視したかのような作戦であった。ヒトラーには、この作戦を成功させるための根拠があった。クリミア半島東部の対岸にあるノヴォローシスクの港は、いまだにドイツ軍の手の中にあり、そこを足がかりにカフカース地方の油田地帯を狙うという戦略的な魅力があったのだ。そして、その途上にあるスターリングラードの奪還は、今年2月に全滅した第6軍の雪辱戦にもなる。


 ヒトラーは、東部戦線での勝利が、最終的な戦争の帰趨を決めるわけではないと理解していた。彼にとって、日本の「フリーデン」誘導兵器こそが、最大の戦略的資産であった。彼は確信していた。この超常的な力は、東部戦線の泥沼に注ぎ込むべきではなく、いずれ西部戦線に上陸してくるであろう連合軍の膨大な輸送船団に向けられるべきだと。


 東部戦線での攻勢は、ソ連を追い詰め、西側への連合国の圧力を分散させると同時に、「パツィーフィク」の戦力を温存するための布石に過ぎなかった。ドイツの命運をかけた最終決戦は、ヨーロッパの西側で起こる、とヒトラーは確信していた。



 アドルフ・ヒトラー総統が再びカスピ海を目指すアストラハン再侵攻という「ブラウ」作戦の焼き直しを主張していたのには、明確な理由があった。


 彼は、たとえ独ソ戦の初期作戦目標線であった白海のアルハンゲリスクからカスピ海のアストラハンに至る「A-Aライン」に到達したとしても、ヨシフ・スターリンソ連共産党書記長が降伏することはないと理解していた。スターリンは、かつての中国の蒋介石と同じように、国土の深奥部へと退き、徹底抗戦を続けるだろう。蒋介石が南京から武漢、さらに重慶へと首都を移転しても降伏することなく日本軍に抵抗していたように、ソ連もまた、一部の工場をウラル山脈以東に移転し、操業を始めていた。


 ヒトラーの関心の目は、もはや都市の占領や象徴的な勝利ではなく、ソ連の継戦能力そのものに向けられていた。戦略的な要衝は、カスピ海南岸にあるバクー油田であった。


 ヴォルガ川西岸まで進出してバクー油田を占領し、ソ連の石油の最大供給ルートを絶たなければ、ソ連との戦争は終わることはない。ヒトラーは、これがソ連を屈服させる唯一の方法だと確信していた。


 しかし、陸軍総司令部(OKH)は、スターリングラードの悲劇的な記憶がまだ生々しく残る中、再びカスピ海を目指すという大規模な攻勢に難色を示していた。彼らは、「フリーデン」誘導兵器の戦術的な優位は認めていたものの、広大なソ連の大地での長期戦は避けたいと考えていた。


 両者の間で揺れ動く東部戦線の方針。だが、ヒトラーの中ではすでに決定が下されていた。ウクライナを確保し、ソ連の戦力を削りながら、最終的にはヤマブシの超常的な力を西部戦線の連合軍上陸作戦という決定的な瞬間のために温存する。そして、もし可能であれば、バクー油田を目指す。ドイツの最後の希望は、東部と西部の二つの戦線で、異なる未来を描き始めていた。




 1943年10月下旬から、ヒトラー総統と将官たちとの昼食会や夕食会は、東プロイセン州ゲルリッツ村近くのマズーランの森にある総統大本営、カジノIと呼ばれる防空壕再開されていた。午後2時から始まる昼食会で、中央軍集団の参謀の一人が、ヒトラーに「自転車の荷台」という隠語を聞いたことがあるかと問いかけた。ヒトラーが、聞いたことがないと答えると、その参謀は、自分の「自転車の荷台」の解釈がヒトラーと違うことに気づかないまま、話し始めた。


 彼が前線で肌身に感じていたのは、ソ連軍の恐るべき変化だった。


 「総統閣下。ソ連軍は弱体化したどころか、質も量も強化されています。たとえば、1941年当時と現在のソ連の小銃兵師団では、歩兵の数は14パーセント減少した9,300名になり、一見弱体化したように見えます。ですが、野砲の数は22パーセント増加した44門。迫撃砲は105パーセント増加した160門。対戦車砲に至っては167パーセント増加した48門と、『バルバロッサ』作戦時とはすでに別の国の軍隊になっています」


 そも参謀は続けた。ソ連の兵力は、開戦時の570万人から減少したのではなく、逆に増加していた。彼らは師団の定数を減らして師団数を増やし、戦線の密度を高めていたのだ。配備している兵器も新型へと更新され、KVやT-34といった強力な戦車や、Tu-2やIl-2といった新型航空機が前線に溢れていた。これが、参謀が肌身に感じているソ連軍の現実だった。


 「そして、『自転車の荷台』とは、このようなソ連軍が編み出した、信じがたい戦術のことです」


 参謀は、隠語の意味を説明し始めた。それは、ドイツ軍のティーガーやパンターといった重戦車への対抗策であり、同時に、損害を度外視したソ連軍のなりふり構わぬ戦い方を象徴するものだった。


「『自転車の荷台』とは、戦力外になりつつあるT-60などの軽戦車をタイヤに見立てて、そのエンジンルームの上を跨ぐように、水平になるよう取り付けられた荷台のことです。車体側面に、底を塞いだ鉄パイプを3つずつ溶接し、その鉄パイプに差し込んで車体から50cmほど横と後ろに張り出した荷台には、その長方形の頂点に手すり代わりの1.5mの垂直の棒が4本立っています」


 その奇妙な構造を聞き、ヒトラーは訝しんだ。


 「その荷台に、兵士が乗って肉薄攻撃を仕掛けるのです。時には、垂直の棒を機銃の銃座に取り替えたものでは、軽機関銃や重機関銃を4丁も取り付けたものもあるらしい。軽装甲車のあってないような後部にも、そのような『自転車の荷台』を無理矢理に取り付けたものまであると聞きました」


 ソ連軍が、歩兵を戦車に跨乗させて移動、戦闘に参加させていることを知っていたヒトラーも、これには驚嘆した。それは、彼が思い描いていた「自転車」とは全く異なる、血塗られた戦場の現実だ。


 ヒトラーはそれをソ連軍は戦力が枯渇しつつあると受け取った。



 1943年11月、東部戦線は奇妙な静けさと、新たな均衡の中にあった。


 現在の東部戦線は、ティーガーI重戦車からなる独立重戦車大隊を中核とし、「フリーデン」誘導兵器を用いた攻勢防御によって、相対的な戦力均衡を回復しつつあった。計画的な前線の後退は、ドイツ軍に補給路の再編成と再構成の時間を与え、兵站問題を一時的にだが解消させた。


 戦略的な温存も進んでいた。中止した「ツィタデル(城塞)」作戦での前線突破を目的として編成された、後方の陸軍総司令部(OKH)直属「フェルディナント」重戦車駆逐連隊がそれだ。


 さらに、ドイツの軍需産業は最後の力を振り絞り、新型兵器の生産を急いでいた。11月中旬に編成された新型のティーガーII重戦車からなる独立重戦車大隊も、来年1月には前線に投入できるだろうと、ヒトラー総統は考えていた。これらの新型戦車が、「パツィーフィク」部隊の支援と連携すれば、ソ連軍の物量に対しても決定的な打撃を与えられるはずだった。


 ヒトラーの頭の中では、東部戦線はもはや危機的な状況ではなく、制御可能な戦場へと変貌しつつあった。空軍総司令官ゲーリングの無能ぶりに辟易していたヒトラーは、ソ連空軍の戦力増加は気になるものの、日本のインド洋通商破壊作戦によって、さすがの連合軍の援助物資も底を突いたはずだと楽観視していた。


 この新たな戦力均衡こそ、ヒトラーが来年1月下旬に計画しているウクライナ全域確保のための攻勢、そしてその先のカスピ海を目指すという壮大な野望の根拠となっていた。ソ連軍が編み出した「自転車の荷台」というなりふり構わぬ戦術すら、彼の目には、ドイツ軍の攻勢の前に崩れ去る一時の抵抗にしか映っていなかった。ドイツの運命は、日本の神秘の力と、新たな鋼鉄の意志の怪物アドルフ・ヒトラー怪物に委ねられようとしていた。


 この状況こそが、戦争の帰趨を決める絶好の機会だとヒトラーは確信したのだ。



 戦略的な計算は明確だった。ヨーロッパの厳しい冬の間は、連合軍もフランスの太平洋岸での大規模な上陸作戦を実施することはできない。そのタイムリミットを利用して、東部戦線での決定的な勝利を収める必要があった。


 目標は、ソ連の継戦能力そのものを破壊することだ。


 ソ連の石油生産量の7割を供給するバクー油田を占領しなければならない。ヴォルガ川西岸まで進出し、この最大の供給ルートを絶つこと。それがソ連を屈服させる唯一の方法だった。


 ウクライナを占領している間は、開戦時のソ連の食糧生産の4割を奪い取ることができる。石炭といった鉱物資源も同様にドイツの手にある。これはドイツにとって重要な資源源だったが、それだけではソ連を止められない。


 ソ連への連合国からの援助物資は、武器弾薬や軍事車両、ガソリンだけではない。食料、鉱物資源、生産材や消費財など、多岐に渡っていた。日本のインド洋通商破壊作戦により、これらの援助物資が滞っている今こそ、ソ連に決定的な打撃を与えるべき時だった。


 ソ連への援助物資が滞っているこの絶好の機会を逃すべきではない。「パツィーフィク(太平洋)」部隊の超常的な力と、温存してきた新型兵器を投入し、まずはウクライナを完全に確保、その勢いのままカスピ海を目指す。この作戦は、もはや夢物語ではなく、勝利のための必須戦略として、ヒトラーの作戦目標となった。



 中央軍集団の参謀が「自転車の荷台」の意味を話し終えた時、食堂「カジノI」は静寂に包まれていた。誰もが、ソ連軍のなりふり構わぬ戦術の恐ろしさと、それを嘲笑うかのようなヒトラーの解釈に、言葉を失っていたのだ。


 その参謀は、やつれ、しなびていたヒトラーの両眼に、かつて戦勝を重ねていた頃にあった、あの妖しい輝きが戻ったことに驚いた。ヒトラーは、もはや現実の兵站や物理的な法則ではなく、自らの意志と、日本の「神通力」という超常的な力によって、すべてを支配できると信じ込んでいるかのようだった。


 「そんなことが前線では起きているのか。後方にいてはわからない話を聞かせてもらって、大変参考になった。感謝している」


 ヒトラーの声は、不気味なほど穏やかで、そのほがらかな調子に、参謀はとても恐ろしいものを感じていた。それは、単なる怒りや失望とは異なる、冷酷で非現実的な確信に満ちた響きだった。


 そして、それは、総統大本営の食堂で、その会話を聞いていた全ての人間が感じているものだった。将官たちは皆、この男が再び、無謀な作戦へと舵を切ろうとしていることを直感した。スターリングラードの悲劇が繰り返されようとしているのかもしれない。だが、今の彼には、日本の「パツィーフィク(太平洋)」部隊という、科学では説明できない「奇跡」という名の幻想があった。その幻想こそが、彼らをさらなる破滅へと導く原動力となることを、誰も止めることはできなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ