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 1943年8月31日。フランス大西洋岸、ブレスト港。


 巨大なコンクリートの塊――Uボート・ブンカーが、鉛色の空の下にそびえ立っていた。内部は暗く湿気を帯びた空気と、ディーゼル油の匂いが充満している。連合軍の執拗な空襲に耐えるこの要塞こそ、今や枢軸国に残された重要な戦略拠点の一つだった。


 明るい海の向こう側から、疲労困憊した2隻の潜水艦が滑り込んできた。伊号第七潜水艦と伊号第八潜水艦。5万4000キロメートルにも及ぶ、想像を絶する長旅の末の入港だった。日本から遠く離れたこの地まで、大西洋の荒波と連合軍の厳重な海上封鎖を突破してきたのだ。


 伊七と伊八が所定のバースに係留されると、ドイツ海軍の歓迎要員たちが慌ただしく動き出した。だが、この歓迎は通常の同盟国に対するそれとは一線を画していた。ドイツ通信社は既に、「今や日本のUボートでさえもが大西洋で作戦行動中である」と、この歴史的な到着を大々的に報じていた。


 報道の裏には、ドイツ側の切迫した事情があった。東部戦線は泥沼化し、イタリアは8月3日にシチリア島が占領され、12日にはパドリオ政権が連合国に条件付き降伏するという体たらく。枢軸国の結束は崩れつつあり、暗雲が立ち込めていた。そんな中、太平洋戦線で唯一、連合軍に対し優勢を保っている同盟国・日本からの支援は、ドイツ国民にとって希望の光に見えた。プロパガンダとしても、これほど効果的なニュースはなかった。


 しかし、ブンカー内の空気は報道の熱狂とは裏腹に、張り詰めていた。この作戦の真の目的は、単なる示威行動ではない。


「乗員に休息を与える前に、最優先事項を処理する」


 ドイツ海軍司令部からの指示は明確だった。最優先事項――それは、輸送されてきた「ヤマブシ」40名の引き渡しだ。


 二隻の潜水艦のハッチが開く。最初に姿を現したのは、日本の乗員たちだった。長旅で青白くなった顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。その後ろから、異様な風体の男たちが一人、また一人と姿を現した。

彼らは「ヤマブシ」と呼ばれていた。山伏装束を彷彿とさせるような、日本の伝統的な作業着とも軍服ともつかない特殊な装束を身につけている。腰には刀剣を帯びている者もいた。彼らの表情は一様に厳しく、この場に似つかわしくない静かな威圧感を放っていた。


 20名ずつに分乗していた彼らがブンカーの岸壁に降り立つと、ドイツ側の将校たちが訝しげな視線を向ける。60名のU1224回航要員と10名の通訳を含め、総勢110名もの人間がこの二隻に詰め込まれていたのだ。彼らの存在自体が極秘であり、ドイツ側でもその正体を知る者は限られていた。彼らは単なる義勇兵ではない。軍事技術にかかわる特殊物資と共に運ばれてきた、日本の「切り札」だった。


「長旅ご苦労様」


 ドイツ海軍の高官が、日本の潜水艦艦長にドイツ語で労いの言葉をかける。隣には、流暢なドイツ語を話す通訳が立っていた。


「ありはとうございます。ですが、我々の仕事はまだ終わっていません」


 艦長はそう答えながら、ヤマブシたちを一瞥した。彼らの任務は、ドイツが譲渡する最新鋭Uボート「U1224」を日本へ回航させること。そして、この謎めいたヤマブシたちと、極秘の技術物資を無事に日本へ送り届けることだ。


 湿ったブンカーの空気の中、枢軸国の命運をかけた新たな「超長距離輸送作戦」が、密やかに始まろうとしていた。ヤマブシたちの凍りついたような瞳は、故郷へと続く遠い海を見据えていた。



 ブレスト港への到着後、疲労困憊していた日本海軍の将兵たちは、すぐにドイツ側の手厚いもてなしを受けた。


 艦長や士官たちは、パリ、そしてベルリンへと招かれ、連日連夜の歓待に明け暮れた。彼らは英雄として扱われ、ドイツ国民の熱狂的な歓迎を受けた。凋落しつつある枢軸国の希望の象徴として、ドイツ通信社は彼らとドイツ海軍将官との交流の様子を、飽きることなく報じ続けた。国民の士気高揚に、これほど貢献するニュースはなかっただろう。


 一方、伊七と伊八の下士官や兵たちは、ブレスト近郊にあるドイツ海軍の潜水艦乗員保養所へと送られた。90日にも及ぶ長期航海の疲れを癒すため、彼らには十分すぎるほどの休息が与えられた。彼らが保養所でドイツ兵たちと交流する牧歌的なニュースもまた、新聞やラジオで繰り返し流された。


 しかし、この華やかなプロパガンダの影で、作戦の真の核心部分が極秘裏に進行していた。


 ヤマブシ40名と彼らの通訳10名は、表舞台に出ることは一切なかった。彼らの歓待と身辺警護は、一般の親衛隊や国防軍ではなく、武装親衛隊(Waffen-SS)とドイツ陸軍の特殊部隊によって厳重に行われた。彼らがどこに滞在し、何をしているのかがニュースになることは決してなかった。





 9月7日、事態は急速に動き出した。


 ドイツ陸軍兵器局は、日本から持ち込まれた謎の物資――12cm迫撃砲弾の先端へ取りつける「ねじ込み式誘導部品」の評価試験を、ベルリン近郊の秘密試験場で実施した。


 四枚の羽を持つ矢尻のようなその部品は、驚くほど単純な構造をしていた。わずかな機械部品と、和紙に包まれた「アムレット(護符)」が組み込まれているだけだ。従来の信管と同様に砲弾の先端にねじ込むだけで、誘導兵器へと変貌するという触れ込みだった。


 立ち会ったドイツ軍関係者の誰もが、半信半疑だった。しかし、演習が始まると、その疑念は恐怖と驚嘆へと変わる。


 ヤマブシの一人が目標のトーチカを鋭い目で見つめ、秋田訛りで短く指示を出した。「あれに当でれ? ござんなれ(あれに当ててみろ、来い)」


 発射された迫撃砲弾は、まるで意思を持っているかのように軌道を変え、空中で奇妙な旋回を描きながら、全弾が目標に命中したのだ。それも、トーチカの分厚いコンクリート壁ではなく、突き出たわずかばかりの砲身部分に、次々と正確に吸い込まれていく。非現実的な光景だった。


 この「霊能力」あるいは「神通力」としか思えない技術に、ドイツ軍首脳部は戦局打開の可能性を見出した。「アムレット(護符)」の供給が前提ではあったが、「ねじ込み式誘導部品」を12cm以上の口径を持つ迫撃砲向けに量産することが即座に決定された。



 さらに空軍でも、日本の陸海軍で既に採用されているこの技術を転用するため、大型航空爆弾の改修が急ピッチで進められた。「ねじ込み式誘導部品」との接続部分が強化された特殊な爆弾が、新たな標準装備として採用されることになった。 


 報復兵器として期待されていたV-1飛行爆弾とV-2ロケットもまた、この「アムレット(護符)」を利用した誘導兵器としての活用が検討された。これらは全て、ヤマブシ専用の特殊兵器として開発が進められた。


 ドイツ軍部にとって、これは単なる新兵器の開発ではなかった。もはや科学の範疇を超えた、超常的な力による戦局の打開への、切実な期待の表れであった。日本の潜水艦がもたらした「神秘の力」は、崩れゆく枢軸国に新たな希望の光を灯しつつあった。


 「ねじ込み式誘導部品」の評価試験が成功裏に終わり、その超常的な性能が証明されると、ドイツ軍上層部、特に親衛隊(SS)は、ヤマブシたちの組織的な運用に乗り出した。彼らの存在は最高機密とされ、通常の軍隊とは異なる枠組みに組み込まれることになった。


 ブレスト到着からの数週間、ヤマブシたちは親衛隊の情報機関による秘密裏の調査を受けることになった。彼らの異文化的な背景や、従来の軍隊にはない能力について、親衛隊は理解を深めようとした。





 「ドイツまで来て、山伏問答するどは思わねがった(ドイツまで来て、山伏問答をさせられるとは思わなかった)」


 秋田訛りでそう恨み言を漏らしながら、ヤマブシたちは日本の伝統的な宗教的修行や作法について、延々と尋問された。彼らにとっては、自らの信仰と誇りを説明する複雑な時間だった。


 この過程で生じた文化的な摩擦や誤解は、ベルリンの日本大使館の耳にも入り、ドイツ外務省と親衛隊の間で調整が行われた。


 最終的に、政治的な妥協と、彼らの持つ「神通力」という軍事的価値の前に、親衛隊は折れた。彼らを正式な武装親衛隊の義勇部隊として受け入れることで合意が形成されたのだ。



 1943年9月21日、ベルリン近郊の親衛隊演習場にて、忠誠宣誓式が執り行われた。


 ヤマブシ40名は、武装親衛隊の日本人義勇部隊「パツィーフィク(太平洋)」として正式に編成された。彼らは親衛隊の制服こそ身につけていたが、その下に伝統的な装束の一部を着用することを許され、腰には日本から持ちこんだ刃物を帯びていた。鉈や小刀だ。


 下賜された親衛隊全国指導者名誉長剣を帯びることはなかった。


 式典は厳粛に進められたが、直前まで続いた日本大使館との折衝により、宣誓の文言は通常の親衛隊隊員のものから一部変更されていた。総統アドルフ・ヒトラー個人への絶対的な忠誠を誓うという点では共通していたものの、彼らの宗教的背景に配慮した表現が盛り込まれていた。


 こうして、極東から来た神秘の戦士たちは、ナチス・ドイツの中枢へと組み込まれた。彼らのもたらした超常的な力は、崩壊寸前の枢軸国戦線を支える、最後の希望として運用されようとしていた。



 1943年9月21日、忠誠宣誓式を終えた日本人義勇部隊「パツィーフィク(太平洋)」は、正式に武装親衛隊の傘下に組み込まれた。


 部隊の編成は独特だった。2個分隊合計4名のヤマブシで構成される小隊が10個、合計40名。そして、1個小隊につき1名のドイツ語通訳が配属されていた。この通訳たちは日本陸軍の尉官(少尉または中尉)であり、当初はドイツ側の佐官や将官との折衝役として、部隊内でも一定の権威を持っていた。


 しかし、親衛隊の人事評価は急展開を迎える。彼らの尋常ならざる能力、そして何より、日本大使館からの政治的な圧力と、ドイツ軍上層部が彼らに託す戦局打開への期待の高さが、親衛隊本部を動かしたのだ。


 親衛隊に取調べられたヤマブシ全員の階級が、急遽「佐官」へと格上げされた。これは異例中の異例の措置だった。


 彼らをドイツまで運んできた潜水艦の乗員達が知れば、目を剥いて驚いたはずだ。


 この決定により、尉官である通訳たちと、彼らが補佐するはずのヤマブシたちの間で、奇妙な力関係の逆転現象が生じた。日本の軍隊組織の中では厳格な階級社会に生きる尉官たちが、つい先日まで「傭人」扱いであったはずのヤマブシに対し、図らずも敬語を使わざるを得ない状況となったのだ。通訳たちは困惑したが、親衛隊の正式な命令の前には従うしかなかった。



 日本国内におけるヤマブシの地位は、非常に低いものだった。


 明治5年に発せられた「修験禁止令」により、彼らは強制的に還俗げんぞくさせられ、公的には存在しない存在、あるいは日陰の者として扱われてきた歴史がある。彼らの中には元々戸籍を持たない者や、自ら戸籍を捨てた者も多かった。


 大日本帝国陸海軍は、正規の召集令状を送る手間を省き、彼らを低い身分の「軍属(軍隊に所属する文官や技術者)」、実質的には最低賃金で働く肉体労働の「傭人」として雇用していた。そして、彼らが持つ「神通力」を、大東亜共栄圏の最前線における危険な特殊任務に利用していたのだ。


ドイツのUボートで遥か欧州まで運ばれた彼らは、本国では特に煙たがられる存在だったからに他ならない。


 しかし、このドイツの地において、彼らは「パツィーフィク(太平洋)」という名の、高い階級を与えられた親衛隊義勇兵となった。彼らを軽んじていた通訳の尉官たちは、ドイツ側の将校たちが最敬礼するヤマブシたちの姿を見て、日本の国内法とは異なる、異国の論理を痛感するのだった。





 1943年9月下旬、日本人義勇部隊「パツィーフィク(太平洋)」の編成と並行して、ドイツ国防軍最高司令部と武装親衛隊作戦本部は、8月31日にUボートで日本から持ち込まれた膨大な資料の分析に追われていた。


 資料には、日本陸海軍におけるヤマブシの運用法、そして彼らが関わった様々な戦闘の戦訓が詳細に記されていた。その内容は、ドイツ軍関係者を驚愕させるものだった。


 特に目を引いたのは、ヤマブシの損耗率にあまりにも大きな差があるという点だ。日本の航空機から誘導される航空爆弾の運用では、ヤマブシが航空機に搭乗して誘導を行うため、撃墜されれば全員が戦死するか行方不明になっていた。しかし、地上の安全な場所から行う迫撃砲弾の誘導では、損耗率は格段に低かった。


 このデータから、ドイツ軍は日本軍が抱える兵站ロジスティクス上の大きな問題点を看破した。日本軍は、貴重な「神通力」を持つヤマブシという人的資源を、戦術的な効率を優先して無慈悲に使い潰していたのだ。


「これほど貴重な人材を、使い捨てにするとは……」


 ドイツ軍の分析官たちは、日本の運用方針に眉をひそめた。ドイツにとって、この「ヤマブシの力」は崩壊しつつある戦線を支える最後の希望であり、彼らの損耗はいかなる理由があっても避けなければならない最優先事項だった。



 ドイツは日本とは違う試みをすることを決断した。ヤマブシの損耗をいかに抑え、彼らの能力を最大限に引き出すか。そのためのテストケースとして、実戦環境での新たな運用試験が計画された。


 10月上旬までに、日本人義勇部隊「パツィーフィク(太平洋)」から1個小隊(ヤマブシ4名と通訳1名)が選抜され、切迫した戦況にあるイタリア戦線へと派遣されることになった。


 イタリア半島南部では、連合軍の上陸が続き、激しい戦闘が繰り広げられていた。この地で、ドイツ軍は安全な後方陣地、あるいは強固に守られた最前線の掩蔽壕から、彼らが持ち込んだ12cm迫撃砲や、空軍から提供された誘導可能な航空爆弾を用いて、ヤマブシの「遠隔誘導能力」の有効性と、生存性を両立させた新しい戦術を検証するつもりだった。


 極東から来た異形の戦士たちは、地中海の戦場で、自らの存在意義を示す最初の実戦に臨もうとしていた。





 1943年10月1日。イタリア戦線へと派遣されることになった日本人義勇部隊「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊の面々は、ドイツ国営鉄道の客車に揺られていた。目的地はイタリア半島南部。アルプス山脈を横断する山岳鉄道、ブレンナー線の車窓風景は、彼らにとっては故郷の山々を思い出させるものだった。


「どごさ行っても、お山は良いものだ」


 窓の外に広がる雄大なアルプスの山並みを眺めながら、福島弁の訛りで感嘆の声を上げたのは、第3小隊長のヤマブシ少佐だった。


「そうだな。欧州には、ふんずさん(富士山)より高えお山があるどいっても、潜水艦がら降りでがらずっと平地だったもんな」


 山形訛りの別の少佐が同調する。ブレスト周辺の平坦な土地では、彼らにとって慣れ親しんだ「お山」の気配がなかったのだ。


「お山見えでぎだのぁ、オーストラリアだったっけ?」


 南部弁の少佐が、世界の地理に疎いながらも記憶を辿るように尋ねた。


 「バカ。それ言うんだら、オーストリアだ。オーストラリアは、ポートモスレビーの向ごう側だ」

盛岡訛りの少佐が即座に訂正を入れる。他の者たちも、それぞれの故郷の訛りで言葉を継ぐ。


「ポートモレスビーだべ」


「んだげんと、ドイツさ併合されだんだがら、オーストリアでいう国はなぐなったんだよな?」


「朝鮮併合みだいなもんだべが?」


地理や国際情勢に関する彼らの知識は、長らく俗世間から離れていたためか、どこか素朴で、時にちぐはぐだった。


「たしか、ヒトラー総統のお国はオーストリアだったはずだ」


「オーストリアのお人、ドイツのヒトラー総統になって、オーストリア併合したどいうごどが? 話がややごしくなってぎだ……」


 彼らがそんな世間話に花を咲かせている間にも、列車は着実に高度を上げていた。


 チロル=フォアールベルク帝国大管区の大管区都インスブルックの中央駅から出発した列車は、イタリア社会共和国との国境線である標高1,371mのブレンナー峠を目指して登り、やがてヴェネト州ヴェローナのポルタ・ヌオーヴァ駅へと降っていく。


 この国境を越えれば、そこは激戦地イタリア。彼らにとって、故郷の山とは似て非なる、血と硝煙の臭いが充満する戦場が待っている。のどかな方言での会話とは裏腹に、彼らの「神通力」が、この地の戦況を塗り替えることになるのだ。



 1943年10月4日。イタリアの激戦区を任されている南方総軍司令官、アルベルト・ケッセルリンク元帥は、ドイツ南部の司令部で、東洋から来た奇妙な一団の着任挨拶を受けていた。


 「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊。ヤマブシ4名と通訳1名。彼らの報告は、ケッセルリンクの耳には信じがたいものだった。しかし、ベルリンの親衛隊から届いた機密書類には、彼らの能力を証明する驚くべき評価試験の報告が記されている。


「期待しているぞ、諸君。諸君の力があれば、このイタリアの戦局も好転するであろう」


 形式的な挨拶を終えようとしたその時、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。入ってきたのは、北イタリアを担当するB軍集団司令官エルヴィン・ロンメル元帥だった。本来、この場にいるべきではないロンメルは、ケッセルリンクをにらみつけると、まっすぐヤマブシたちに近づいた。


「上陸作戦時の輸送船や上陸用舟艇を叩くのが効果的だというが、実際はどうやっていたんだ?上陸前の爆撃や艦砲射撃は生半可なものじゃなかっただろう?」


 ロンメルは、北アフリカ戦線で痛い目に遭わされた連合軍の上陸作戦の記憶がよみがえったのか、ヤマブシたちに質問攻めにした。具体的な誘導方法や、連合軍の猛攻をいかにかいくぐったのか、前のめりになって問い詰める。


 ケッセルリンクは「ロンメル元帥、控えていただきたい」と咎めたが、ロンメルの興奮は収まらない。彼はアフリカでの敗北が、このヤマブシたちの「神通力」があれば覆せたのではないかと考えずにはいられなかった。


「もし、彼らが北アフリカにいたなら、あそこで勝っていたのは私だ」


 ロンメルは、そうぼやきながら副官と共に部屋を後にした。彼の言葉には、勝利への渇望と、叶わなかったもしもの世界への深い後悔が滲み出ていた。



 ヤマブシの「神通力」を運用する誘導兵器「フリーデン(平和)」に対する期待は、軍首脳部の間で日増しに高まっていた。国防軍最高司令部(OKW)をはじめ、陸軍、海軍、空軍のそれぞれの間で、彼らの運用方法を巡る激しい綱引きが始まっていた。誰もが自らの部隊に「パツィーフィク」を欲し、戦局を有利に進めようと画策していた。


 その熱狂は、総統アドルフ・ヒトラーにも波及していた。


「“バルバロッサ”作戦の時に彼らがいれば、その年にモスクワは落ちていた!」

「彼らがいるのに、どうして日本は戦争に勝てないんだ!?」

「100人のヤマブシがいれば、我がドイツなら戦争に勝っている!!」


 ヒトラーは、東部戦線の泥沼化や連合軍の反攻で悪化する戦況を前に、ヤマブシの超常的な力に異常なまでの期待を寄せていた。もはや論理的な思考は後退し、一縷の望みにすがるかのように、ある種の熱狂がドイツの統帥部全体を覆いつつあった。彼らにとって、ヤマブシは現実を覆す「奇跡の力」の象徴だった。


 ドイツ統帥部を覆う熱狂は、具体的な戦果に裏打ちされた期待感でもあった。その象徴的な出来事が、イタリア降伏という衝撃的なニュースの直後に起こっていたからだ。



 1943年8月13日、イタリア王国が連合国に条件付き降伏した翌日のことである。連合軍に投降するためマルタ島へ向かっていたイタリアの最新鋭戦艦「ローマ」に対し、ドイツ空軍は新型の対艦滑空誘導爆弾「フリッツX」を発射した。当時としては画期的な無線誘導兵器である「フリッツX」は、「ローマ」を直撃し撃沈した。さらにその翌日14日には、同型艦「イタリア」(旧称「ヴィットリオ・ヴェネト」)もまた、連合軍の攻撃を恐れて乗員の手によって自沈に追い込まれた。


 この戦果は、誘導兵器がもたらす圧倒的な破壊力と、戦局を覆す可能性をドイツ軍全体に強く印象づけた。



 そして今、日本から持ち込まれた「ねじ込み式誘導部品」は、その「フリッツX」を遥かに凌駕する性能を持っていた。有線や無線での複雑な誘導装置を必要とせず、わずかな部品とアムレット護符だけで構成されるこの部品は、既存の航空爆弾に容易に取り付け可能だった。その生産効率は、通常の無誘導爆弾と変わらないという点も、逼迫するドイツの生産体制にとって魅力的だった。


 「フリーデン(平和)」の力は、「フリッツX」の上位互換であり、量産可能な「夢の兵器」だった。


 海軍総司令部からは、この技術を潜水艦Uボートでの運用に転用しようという声が上がっていた。


「固体燃料の対艦誘導ロケットを搭載した群狼戦術なら、輸送船団とその護衛艦隊も攻撃できる!」

「対空誘導ロケットなら、対潜哨戒機も撃墜できる!!」

「もう一度、イギリスを締め上げるべきだ!!!」


 大西洋の戦いが連合軍の護衛空母や哨戒機の前に劣勢に立たされていた状況下、海軍は「フリーデン(平和)」の力で戦局を逆転させ、かつての無制限潜水艦作戦の栄光を取り戻そうと熱望していた。陸海空軍それぞれの思惑が交錯する中、ドイツは超常的な力に自国の命運を賭けようとしていた。





 ドイツ統帥部が「フリーデン(平和)」の超常的な力に熱狂する裏側で、イタリア半島では絶望的な防衛戦が続いていた。


 8月7日にイタリア半島南部へ上陸した連合軍の勢いは止まらず、その北上を可能な限り押し留めて遅くすることが、北イタリアを担当するB軍集団司令官ロンメル元帥と、南イタリアの南方総軍司令官ケッセルリンク元帥に課せられた至上命題だった。本土上陸の脅威を遅延させるため、彼らはイタリア半島の西側にあるローマと南のナポリとの間にあるガエータ湾から、東のアドリア海まで、山や川といった地形を最大限に利用した四重の堅固な防衛線を築いて抵抗することを計画していた。


 まず、ヴォルトゥルノ川を利用したヴォルトゥルノ・ライン、次いでバーバラ・ラインと、ドイツ軍は次々と天然の要害に陣地を構築し、時間を稼いだ。しかし、圧倒的な物量と航空優勢を誇る連合軍の攻撃により、これらの防衛線は次々と突破された。


 ドイツ軍の将兵たちは、もはやこれまでかと覚悟したその時、不思議なことが起こった。ヴォルトゥルノ・ラインとバーバラ・ラインが突破された後、追撃の手を緩めるかのように、連合軍は突如として動きを止めたのだ。


 その間に、ドイツ軍は最後の、そして最も堅固な防衛線へと後退した。本命である「グスタフ・ライン」と、その防御線上にある要衝モンテ・カッシーノを守るように張り出した「ベルンハルト・ライン」だ。


この複雑に絡み合った防衛陣地群において、枢軸軍の兵士たちは息を潜めて、連合軍の次なる攻勢の瞬間を待っていた。彼らはまだ知る由もなかったが、この張り詰めた静寂の中、極東から運ばれてきた新たな「希望」――「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊が、彼らの運命を決める戦場へと到着しつつあった。彼らの「神通力」が、ドイツの最後の防衛線を死守するための切り札として、投入されようとしていたのだ。



 イタリア戦線へと到着した「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊は、南方総軍司令官ケッセルリンク元帥の指揮下に編入された。この移動に伴い、彼らの身辺警護体制は大きく変更された。


 ブレスト港に到着して以来、彼らの監視と警護を担当してきたのは、親衛隊の国家保安本部(RSHA)の各局――国内諜報のSD(第Ⅲ局)、悪名高き秘密警察ゲシュタポ(第Ⅳ局)、そして刑事警察クリポ(第Ⅴ局)といった面々だった。彼らは「パツィーフィク」の正体を探り、親衛隊の管理下に置こうと画策していた。


 しかし、イタリアという最前線においては、国家保安本部の手の及ぶ範囲は限られていた。南方総軍の指揮下に入ったことで、彼らはより実戦的な、国防軍直轄の警備体制へと移行することになった。


 新たな警護は、陸軍総司令部(OKH)直轄の野戦憲兵隊、ドイツ国防軍の秘密野戦警察(GFP)、そして空軍精鋭である降下猟兵部隊によって構成されていた。これは、親衛隊の政治的な干渉を嫌う国防軍上層部の意向と、最前線での実戦的な警護が必要であるというケッセルリンク元帥の判断によるものだった。


 「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊の面々は、この警備の変更にも、さして動じる様子はなかった。彼らはただ淡々と、与えられた任務に備えていた。



 それからというもの「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊は、イタリア半島の地形を活かした強固な防衛線、グスタフ・ラインと、その前方に突出したベルンハルト・ラインとの間を、秘密裏に転々としていた。予想される戦場の地形を把握する為だ。


 連合軍の航空偵察を避けるため、夜間に移動し、昼間は頑丈な掩蔽壕や廃墟に身を潜めた。彼らの任務は、まだ始まっていなかったが、いつでも迫撃砲弾や航空爆弾の誘導を行う準備は整えられていた。彼らヤマブシの存在は、崩れかけたイタリア戦線を支える、最後の「魔法」として、連合軍の目を欺きながら、静かにその時を待っていた。



 グスタフ・ラインとベルンハルト・ラインの間を転々とする日々は、第3小隊にとって、故郷の山々での厳しい修行を思い出させるものだった。警護は厳重だったが、最前線特有の張り詰めた空気は、彼らにとってむしろ心地よい緊張感をもたらしていた。


 10月に入り、イタリア南部の天気は崩れがちで、冷たい雨が大地を濡らしていた。連合軍は、前線を突破した後、補給線の延伸と、悪天候による航空支援の制限のため、攻勢を一時的に停止していた。この束の間の静寂が、ドイツ軍にとっては貴重な時間稼ぎとなっていた。


 「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊は、ある時は廃墟となった農家、またある時は自然の洞窟を利用した掩蔽壕を拠点としていた。彼らは与えられた任務のために、黙々と準備を進めていた。通訳の日本陸軍尉官は、親衛隊佐官という「格上げ」されたヤマブシたちとの力関係にまだ慣れず、ぎこちない態度を崩せなかったが、彼らの持つ超常的な能力を間近で見ていくうちに、その存在意義を理解し始めていた。



「次の満月の天気予報はどうですか?」


ある夜、福島弁少佐が通訳に尋ねた。通訳は手帳を広げて答える。


「ええと、10月13日です。ですが、天気予報はあまり良くありません」


 「お山」での修行において、月齢は重要な意味を持っていた。彼らの「神通力」が、この異国の地でどのような影響を受けるのか、まだ未知数だった。


 ドイツ軍の将兵たちは、この東洋から来た神秘的な部隊に対し、畏敬と恐怖の入り混じった視線を向けていた。彼らが持つ「ねじ込み式誘導部品」用の12cm迫撃砲や、特殊な航空爆弾は、いつでも使用できるように準備万端だった。



 そして、長くは続かないであろう静寂の中、連合軍の動きが再び活発化し始めたとの報告が、前線司令部に届き始めた。モンテ・カッシーノの修道院を見下ろす丘陵地帯に、連合軍の偵察隊が姿を現し始めたのだ。


「いよいよ、お出ましのようだな」


 山形弁少佐が、窓の外の暗闇を見つめながら呟いた。


 「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊の最初の実戦投入の時が、刻一刻と近づいていた。彼らの「神通力」が、このアルプスの南、グスタフ・ラインという名の運命の分かれ目で、連合軍の進撃を食い止めるための血塗られた火蓋を切って落とそうとしていた。



 長引く悪天候がようやく落ち着き、大地が乾き始めた11月上旬、イタリア戦線のドイツ軍は再編成を行った。「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊は、新たに編成された第16機甲軍団に配備された。彼らの本来の任務は、ローマへと続く主要補給路ルート6を守るべく、カッシーノの南東から北西にかけて展開する第15機甲擲弾兵師団および精鋭の第一降下猟兵師団への、誘導兵器による火力支援であった。


 しかし、戦況の推移と、彼らが持つ「神通力」の分析結果は、当初の運用計画を大きく変更させた。ドイツ軍統帥部は、ヤマブシたちの能力を一点集中の攻撃支援ではなく、より広範な「傘」として利用する道を選んだのだ。


 11月中旬になると、第3小隊の任務は劇的に変化していた。彼らは第16機甲軍団への防空網の傘を提供していたのである。


 彼らが運用したのは、ブレストで海軍が熱望していた固体燃料ロケットの陸軍版、ラインメタル社の新型地対空誘導ロケットだった。このロケットは、「ねじ込み式誘導部品」によって誘導される。


 その効果は絶大だった。


 高度1万メートル以上を悠々と飛行し、ドイツ軍陣地を嘲笑うかのように偵察や爆撃を繰り返していた双発のモスキート偵察機や、堅牢な防御砲火を誇る空の要塞B-17の編隊が、次々と火を噴いて撃墜されていった。


 ヤマブシたちは、地上の安全な観測所から、飛来する敵機を見境なく「狙い」定めた。彼らの「神通力」によって誘導されたロケットは、回避行動をとる航空機を正確に追い詰め、空中分解させた。


 この圧倒的な対空戦闘能力により、ベルンハルト・ラインとグスタフ・ラインの間は、日中における連合軍の飛行禁止区域へと変貌していた。かつては連合軍の制空権下にあったこの地域は、今やドイツ軍の、いや、ヤマブシの聖域となっていた。ドイツ軍将兵は、頭上を脅かす敵機の影に怯えることなく、陣地構築や物資輸送を行うことができるようになった。


 この予期せぬ戦果は、ドイツ統帥部がヤマブシという「奇跡」に抱いた期待が、決して妄想ではなかったことを証明していた。そして、この成功は、「パツィーフィク(太平洋)」部隊全体の運用を巡る、さらなる綱引きを激化させることになるのだった。



 1943年11月中旬、イタリアの山岳地帯。ベルンハルト・ラインとグスタフ・ラインの間に位置する小さな掩蔽壕の中、「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊のヤマブシたちは、配備された防空任務の合間に、故郷の方言で他愛のない会話を交わしていた。


「谷挟んでまなぐ(目)と鼻の先の尾根で、相手のまなぐが見えるどごろで撃ぢ合うなんて、ほんにどうがしてら(本当にどうかしている)」


 南部弁の少佐が、最前線の理不尽さを嘆くように呟く。山岳戦特有の、敵と間近で対峙する緊張感は、彼らにとって慣れ親しんだ修行の場とは異質のものだった。


「それでも、あだ斜面で、迫撃砲大隊砲みだいに直射するどは、大したもんだ。擲弾筒の水平射撃みだいだ」


 福島弁の少佐が、前線のドイツ兵の奮闘ぶりを称賛する。山岳地での迫撃砲の直射は、訓練された兵士でなければ不可能な芸当だった。


「あった石ごろだらげの山じゃ、蛸壺も掘れねすけな。後ろに下がって、敵機落どすだげでいいのぁ、正直助がる」


 南部弁の少佐は、対空任務という比較的安全な後方での待機を素直に喜んでいた。石だらけの堅い地面では、身を隠すための穴を掘ることすら困難だったからだ。


「そうは言っても、いづまでもこだ楽はでぎねぇべ。そろそろ、敵の船さロケット撃ぢ込む準備がでぎるごろだ」


 福島弁の少佐は、この楽な状況が長くは続かないことを予期していた。ドイツ海軍との連携が整えば、彼らの「神通力」は、再び敵の艦船へと向けられることになるだろう。


 その言葉に、南部弁の少佐は顔をしかめる。


「冗談でね。戦艦の主砲相手じゃ、死ににえぐ(死にに行く)ようなもんだ。海軍さ取られだ奴ぁ、皆んな死んだぞ」


「皆んな死んだは、言いすぎだべ」


「そうだべか?」


 日本で海軍に引き抜かれた同僚たちの消息について、彼らは不安を抱えていた。海の上での誘導任務は、地上の対空任務とは比較にならないほど危険なものだった。連合軍の戦艦の砲撃、護衛空母の艦載機、そして潜水艦の最大の敵である対潜哨戒機。海軍に転属したヤマブシたちが、無事に任務を遂行しているとは到底思えなかった。


 彼らの会話は、最前線の兵士たちの日常とはかけ離れていたが、故郷の方言に安らぎを見出しながらも、次の任務への漠然とした不安を滲ませていた。空から敵を落とす日々は、やがて終わりを告げ、彼らは再び、より危険な戦場へと送り込まれることになる。彼らの運命は、ドイツ軍統帥部の思惑と、激化する各軍種間の綱引きの中で、翻弄され続けていた。



 グスタフ・ラインにおける「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊による日中の制空権確保は、ドイツ軍にとって大きな戦術的優位をもたらしていたが、地上戦での緊張が解けることはなかった。特に、連合軍の砲兵部隊による対砲兵射撃は、ドイツ軍の防衛陣地にとって深刻な脅威となっていた。


 第16機甲軍団司令部は、この問題への対策として、新たな運用戦術と装備の導入を進めていた。それは、「フリーデン(平和)」の誘導技術を最大限に活かした、迅速な陣地転換を前提とした戦術だった。


 具体的には、12cm、20cm、30cmといった大口径の差込型迫撃砲が導入された。これらの迫撃砲は、通常の砲兵陣地のように強固に設置されるのではなく、牽引式で使い捨てな木製の台座に設置された。


 この簡素な台座から、「ねじ込み式誘導部品」を組み込んだ迫撃砲弾を発射し、ヤマブシの「神通力」によって目標へと誘導する。発射後、連合軍の対砲兵レーダーが飛翔音を捉えて反撃体勢に入る前に、即座に台座を放棄して次の陣地へと転換するという、ヒット・アンド・アウェイ戦術が有効だと判断されたのだ。


 グスタフ・ラインを中心とした主要な堡塁ようさいによる砲兵陣地を、可能な限り隠蔽したまま温存しておくことを優先する。そして、貴重な火砲本体を失うリスクを減らしつつ、精確な誘導射撃で連合軍に打撃を与えることが可能となった。


 この新たな戦術の導入準備が進む中、最前線の緊張は常に最高潮だった。ガエータ湾からアドリア海まで、広大な戦線に渡って展開する両軍のパトロール部隊同士による遭遇戦や小競り合いは、日夜を問わず頻繁に発生していた。


「パツィーフィク(太平洋)」第3小隊は、防空任務の合間を縫って、この新型迫撃砲の訓練を行っていた。彼らの故郷の山々での経験は、この山岳地帯での運用に適しており、新たな「お山」の戦い方に順応しつつあった。ドイツ軍は、目に見えない「神通力」という非科学的な力と、最新の軍事技術を組み合わせることで、絶望的な状況を打開しようと模索していた。



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