第一章:4 死人と墓荒らし
七命は突然振り返ると、引違い窓を開けました。ふぁと春風が部屋に吹き込んできて、薄いレースのカーテンを揺らしました。四時半を過ぎたあたりですが、まだ太陽が燦々としてるのを見ると、もうすっかり暖かくなったと感じます。
彼女は窓縁に添えるようにソッと手を置くと、一日が終わり始めた午後の街並みをジッと眺めていました。
「どうしたの?」
「こういう景色を見ると心が洗われるので浄化です。この部屋はあまりにも陰鬱としてたので、もはや毒素です」
振り向き答えた七命は先ほどまでの混乱や怯えはすっかり晴れたのか、澄み渡った目をしていました。顔も覚悟が決まった顔をしています。
「ごめんね、俺のせいで。辛いならこの部屋から出るといいよ、そうしてもう二度と俺を見ずに生きていけばいい。そうすれば楽だろう?」
「いいえ……たった今、決心がついたところですのでお構いなく」
七命はもう俺に取り合う気がないのか、取り合う気力を無くしたのか、つんけんとした態度でそっぽを向かれました。
「ああそう、なんの決心がついたのか知らないけど、それじゃあゆっくりすればいい。どうせ話はついただろうしね」
俺としても言い争いを心躍らせていたわけではありませんし、その苦しさを味わう自傷行為にも興味ありません。なので俺も無視することにして、随分前に落っことした小説を拾い上げて椅子に腰を下ろしました。
どこまで読んだのか分からないですが、元々読んでいて読んでなかったようなものなので、適当なページの適当な行から、中身も理解しないで活字を読み始めました。
暫く、七命はずっと、窓の外を眺めていました。
×××
コンコンとノックが鳴りました。小説を置いて扉を開けるとこの部屋の鍵を握っている樋口先生が立っていました。時間は午後五時前、あれから三十分弱経過していたようです。
「お疲れ様ロクくん、調子はどう?」
「さぁ、俺は出来る限りのことはやりました」
嫌われる方向で――とは言えません。
「あなたのことだから嫌われることに全力を注いだなんて思ってそうなんだけど、今は信用しておくね」
「…………」
見透かされているようです、伊達に入学当初から一緒にいるわけではないようでした、空恐ろしいです。俺が「はは」と苦笑している間に、七命が音もなく俺の後ろに立っていました。
「ナナちゃん、どう? ロクくんのこと任されてくれる?」
先生は開口一番に問いました。俯いたままの七命は一、二秒だけ沈黙を返しました、実際は『だけ』なんて思えないくらい長い、もう無視を決め込んでしまうんじゃないかと疑うくらい、永い沈黙に感じました。
その時、はっと、呼吸を忘れていた七命がようやく空気を吸い込んで、決然と言い放ちました。
「私の人生に汚点は残されない。この人は私が救ってみせます」
「…………」
救ってみせるなんて大言壮語は、一介の女子高生にはあまりに似合わない台詞ですが、七命にいたってはさして違和感や分不相応感を感じませんでした。
とはいえ、そんなの実際誰が言ってもそれほどおかしくないのかも知れませんが、分かりません。少なくとも同年代の口から実聞したのは聞いたのは初めてでした。
俺はううんと咳を払ってから一言申しました。
「俺に今、現在進行形で関わってること自体が人生の汚点で一生の恥で面汚しなんじゃないかい?」
「私は汚れることを汚点とは思いません、汚いものを汚いままにしておくことを汚点と思います。だから桜久先輩、あなたは私の名誉にかけて叩き直します」
「ああそう」
人のことを汚点呼ばわりしたことを咎めたつもりでしたが、彼女は全く意に介さず大層誉気高いことをほざきました。しかし、俺からすれば人なんてみんな汚れてるし、それを綺麗にしたって元が汚れていれば仕方がないと思うのです。
「なんだか随分バチバチみたいだけど……つまり、文学同好会に入会するってことでオーケー?」
先生が首を傾げて訊くと、七命は存外、何故か首を横に振りました。
「なんだ! 良かったよ、これから毎日ここに入り浸りでもされたら不登校にでもなるつもりだったからさ! そーそー、適切な距離ってのは恋人でも親友でも、誰にでもあるよね」
ほっと胸を撫で下ろしていると、七命は冷め切った視線を向けてきました。俺はなにか誤解が? と問うために首を傾げると、彼女は視線を先生にスライドして告げました。
「もともと生徒会に入ろうと思っていたんです、やはり最高権力を持たないと始まらないと考えていたので。ですから生徒会に入ります」
「え、それ――」
「ですが! 勿論この屑も無視できないです……」
先生が口を開いた瞬間、七命は被せて言葉を継ぎました。
「――桜久先輩にも生徒会に入ってもらいます、そうすれば一石二鳥です」
「は!?」
思わず驚嘆して声を溢してしまいました、こんな荒唐無稽な立案をするとは思いませんでした。彼女の中では案でもなく決定事項なのでしょうが。
「拒否権はありませんよ桜久先輩、あなたは私と一緒に生徒会に入って、学校諸共『正常』になるのです!」
七命はバットを天高く掲げ言い切りました、堂々たる宣言は空気が震えた気さえしました。絶対に嫌です、こんな俺が人の上に立つなんて世間が許しても自分自身が赦せません。
「い、いやいや、そんな勝手に決めないでよ」
「いーや聞き入れません、あなたの運命は私の一存に掛かっているのです!」
「……勘弁してよ本当、てっきり文学同好会に入るもんだとばかり思ってたけど、まさかこんな……」
俺は首に手を当てて顔を顰めました、なんと身勝手なのでしょうか。
「いや普通にダメだからね」
その時、ずっと黙っていた先生が喧騒を破りました。
「まず生徒会には選挙でなきゃ加入できないし、生徒会任命式は七月だからどうせまだできないよ」
「……………………」
今度はしっかり永い沈黙でした。七命は押し黙って硬直していました、屁理屈や言い訳でなく、理屈の通った正当な理由なら彼女を黙らせることができるのを見ました。
「というか生徒会に入るなんて私が容認しないよ、確かにナナちゃんにはロクくんの更生をお願いしたけどね? ナナちゃん……ナナちゃんも『問題児』だから文学同好会に入ってもらうよ」
「はぁ!?」
七命は目を見開いて先生に向かって振り返りました。俺は額の汗を拭って肩を窄めました。
「そ、それなら仕方ないね! 七命後輩、まさか子供みたいにワーワー喚いたりしないよね」
「……ッ。まぁそういうことなら仕方ないと言う他ありませんが……なんでしょう、このしてやられた感は。私は桜久先輩の『矯正』を頼まれていたはずなのにいつの間にか袋小路に誘い込まれたような」
七命は不満げに唇を尖らせ、バットで肩を叩きながら先生を軽く睨みました。先生はそんな視線に臆することはせず、ただ「あはは」と愛想笑い一つで一蹴してみせました。
俺は手を挙げました。
「先生、七命後輩が加入するのはいいんですが、それでつまり何をすればいいんですか。俺は七命後輩の『教育』をしなくちゃいけないんですか?」
「はー、この人に『教育』されることなんて万にひとつもないし、仮にあったとしてもこの人から何も教わりたくありません。私は絶対的に指導者で改修者なのですから」
「いや俺だって教わる気なんてないですし、というか教える気もないんですよ」
先生はポケットからキャンディを取り出して、一つ口に含みました。それからその梱包袋を部屋のゴミ箱に捨ててから答えました。
「それはあなたたちで考えて」
「投げやり」
俺が呟くと、先生は腰に手を当てて威圧的に解説し始めました。
「お互いの好きなようにすればいい、あなたたちの相性は精巧な腕時計みたいにうまく噛み合ってるから大丈夫、大人を信じて。一緒に居るだけで苛立って嘆いて悲しんで――――きっと最期は『良かった』って思ってるはずだから」
「…………」
七命は甚だ信じ難いように顰めっ面を浮かべました、それは単に先生を疑っているだけでなく、俺と一緒に居るという前提を嫌っているようでした。
「……分かりました」
「……!?」
面倒くさくなり渋々承諾すると、七命がものすごい勢いで振り向いてきました。
「はは、七命後輩、先輩として最初に教えてあげるよ。『樋口先生には逆らえない』、よーく覚えて帰ってね」
「そうですか……なんとなく察せれましたよ。いいでしょう、生徒会は諦めます。肩書きに拘泥するのもなかなか悪手と、納得しておきます」
七命は首を振って心外そうな不機嫌の顔を見せました。やはり人間からしてもこの先生は受け入れ難く、生物的反発心が発生するらしいです、まるで幼さの外郭の内側にナイフを隠し持っていて、いつでも刃を突き立ててきそうな、そんな危うさを感じられるのです。
俺は特段ほとんど全ての人間にそれを感じますが、この人に関しては一際激しく、痛いほど感じられます。
「それじゃあ、これから二人で社会に出てもまともに生きていけるくらいに『正常』になれるよう、頑張ってね」
先生は七命に同好会参加用紙を手渡しました、七命は両手で受け取るとその内容を一瞥してから、綺麗に四つ折りにして制服の内ポケットにしまいました。それを見て、不意に冷めました。
この俺の精神の解放スペースだった居場所も公的な承認が無ければいけない、結局は学校の用意した監獄だったと思ったからです。のびのび出来ていたのは先生が囲ってくれていたからで、それは俺を縛り付けている訳でもあり、自分の愚かさに辟易しました。それと同時にごくごく一般的な、知らないうちに支配も自由も与えられる一介の生徒であると思い知らされ、というか勝手に思い知って、悲しくなりました。
「先輩、これからのご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
「そんな気、ないくせに」
悪態を吐くと、その瞬間、初めて七命が笑みを浮かべました。ギャップなのは分かりますが何故でしょう、彼女の笑顔はとても可愛らしかったです。
「先輩が指導も鞭撻も受けるんですよ」
「おいおい、話忘れないでよ。……こんな可哀想な俺にそんなこと強制するのかよ、最低か君は」
「最低にならなくちゃ最低は変えられない」
西陽が部屋を染める時間、いつもはもう帰路についている時間です。それなのに俺は女子と醜いことを言い争っています、こんなこと想像もしませんでした。
かくして、俺の墓場に嵐のように、不謹慎な墓荒らしがやってきました。
後で家に帰って晩御飯を摘んで床に就いてから気づくのですが、この時この日から、俺の救済か神罰かが始まったのです。