第一章:2 正義100%悪行
早いことに、放課後まで過ぎました。いつも通り相変わらず例に漏れず平素通り、俺は文学同好会室で独りです。小説を読んでいたのに、いつの間にやらうたた寝をしていたようですが、ふと聞こえる声でゆっくり目覚めました。
「――『独り』は悪! 『弱き』は悪! 『怠惰』は悪! 『嫉妬』は悪! 『嫌悪』は悪! 『怒気』は悪! 『異端』は悪! 『言い訳』は悪! 『諦め』は悪! 『誤魔化し』は悪! 『欺瞞』は悪! 『逃避』は悪! 『欲望』は悪! 『傲慢』は悪! 『迷惑』は悪! 『利己』は悪! 『怨恨』は悪! 『妄執』は悪! 『偽善』は悪! 『無能』は悪! 『最低』は悪!」
押し開き木製扉の向こうの廊下から聞こえる妄言はだんだんと声量を増していました。俺は例の会室の中からその戯言を聞いていましたが、その一つ一つに一回一回、共感の笑みを、浮かべていました。
次の瞬間扉は大雑把に開かれ、その子は現れました。
「――『悪』は悪!!!!」
人の寄りつかない特別校舎の最奥、その一室。使われなくなった古い備品の倉庫代わりとなっている文学同好会室には、棚と古典的な書籍と俺の使う卓椅子以外は埃っぽい陰鬱とした部屋です、俺は通常通り、部屋の中央に置かれた長机で小説を読みながら(いつも大抵寝落ちしてしまいます)、お尻の痛くなる木の椅子に腰掛けていました。
そんな所へ来て早々そんな鬱然とした雰囲気を吹き飛ばすかの如く現れた、気炎万丈と自身の思想を連ねた少女。
黒髪ショートカットで吊り目で唇が薄くて丸っこくて二重で目元にほくろがあって歯が白くて肌が綺麗で、制服をちゃんと着用して背が低くて指が細くて声が通って力強くて、そこら辺によく居る人間に見えました。
なので俺は様子見ということでファーストコンタクトは朗らかにしました。とっつき易さを演じるため気さくに笑って、極めつけに手なんて掲げてみました。
「お疲れ! 初めまして、ようこそ文学同好会へ」
「初めまして先輩。さっそくあなたを『改造』させてもらいます」
するとその子は徐に金属バットを取り出しました。いえ、取り出したと言ってもこの部屋に入って来た時から彼女の左手に金属バットが握られていることには気づいていたのですが、あまりにも自然体過ぎて気に留めなかったのです、そこにあるのが、彼女が持っているのが当然に思えていたのです。ですので正しくは取り出したというより構えたが正確でしょうか。
甚だ女子高校生が当然のように金属バットを持っている事実に驚きを隠せませんが、こういうこともあるのだと思うことにしました。
俺は読みかけの小説を開いて持ったまま、その子に問いました。
「おいおい、俺は『教育』って聞いたんだよ。何を教育されるのか知らないけど、後輩から教わるってだけで笑い話にもならないのに、まさかこんなバーサーカーだなんて聞いてないよ」
その瞬間、その子は金属バットを振り上げました。まさかとは思いましたが予想通り、その子は俺の顔面向かって振り下ろして来ました。
「うわああああっ!!」
振り下ろされた金属バットは、目の鼻の先で停止しました。一つ間違えれば一つの顔面がおしゃかになっている狂気行動ですが、その子に迷いは無さそうでした。慣れて、いるのでしょうか。とても怖いです。
「……バットを寸止めされて椅子から転げ落ちるとは、威厳も貫禄も風格もへったくれもありませんね先輩。……脅しや恐喝は有効そうですね……さて、ではまず、その『人生』を、『世界』を舐め腐ったような目は『改修』した方が良さそうですね。それは世間が許さない目です」
「うーん、俺何か悪いことしたかな、俺的に普通な挨拶と普通な感想を述べただけなんだけどな……ま、目で目は見えないからね、俺が悪かったんだよね、ごめん」
謝りながら立ち上がりました。
自分の目に着目したことはあまりないですが、世間一般的に俺のルックスは『それなり』と考えています。もちろんこれは謙遜です、俺は表層(醸し出す陰気臭さを抜きにした)だけを見れば、そこらの人より整っていました。
そんな中で目を罵倒された訳です、論理的帰結を踏まえると、俺の目は比較的整っている筈ですのでやはり、俺の憂鬱のせいなのでしょう。それが眼力を無くさせているのです。
「本格的に『体罰』に入る前に自己紹介しておきますか。……私は江空中学校第九十九代生徒会長、長与 七命です。当時荒んでいた校内を一から叩き直し、ガムの吐き捨て一つない清純にして見せました。私に救われた人も数知れず、暴力事件のあった柔道部、窃盗騒動のあった野球部、放火容疑のあった科学部、盗撮事案のあった写真部、ヤンキー集団と化したサッカー部、カツアゲ常習犯のラグビー部、ヤリチンチームとなったバスケ部……その他諸々の校内の『害悪』を改善した功績があります。今では彼ら彼女らもすっかり改心し、善良な生徒となりました。ですので先輩、あなたにも『正常』になってもらいます」
「へー、それは凄いね。……どうしてそこまで『正常』に拘るの?」
「独りよがりは罪だからです、人が生きる理由は人と助け合うため、そうした先に多幸福があるんです、みんな『正常』であれば『不平等』も『不公平』も『不条理』も『不平不満』もない『正しい世界』であれます。……そりゃ、みんなが自己中に生きればお先真っ暗です」
七命は誉れ多そうに得意になっていました、口ぶりを聞くに嘘や出まかせを宣っているわけでもなさそうで、俺は素直に天晴れという感想でした。
彼女の思想がよく透けたように思えます。
「さて、とりあえずその目の直し方ですが……まずは深呼吸なんてしてみますか、それから目をかっぴらいて叫んでみたり。案外そういうことであなたみたいな人は元気になったり陽気になったり立ち直ったり、調子づいたりしますから」
七命は俺に向けた金属バットの先端を、僅かに上下させながら提案しました。人差し指を顎に当てて考えている素振りを見せた彼女の目は愉悦そうに見えました。
「深呼吸ね、すー、はー」
その瞬間、七命が油断している隙に金属バットの先端を掴み上げると、彼女はビクッと肩を上げました。
「な、て、抵抗する気ですか……!」
「おいおいそんなことよりさ。俺たちは仮にも人と人との平等な立場の関係、さらには先輩後輩の上下関係なんだ、それもあろうことか後輩が先輩に、しかも初対面でいきなりバットで奇襲しようなんてあまりに非常識な行為だって、気づいてるのかな。俺の目が悪いとか色々差し置いて、それはもう『教育者』として失格なんじゃないかな。君はどういう分際で俺に『指図』できるのかな」
俺は金属バットを押し返しながら正論を捲し立てました。彼女は抵抗しようと踏ん張ってみましたが叶わず、壁際まで追いやられました。態度に似合わず非力でした。
「――ッ」
しかし押し合いで負けても、言い合いに負けた気には一切なっていないようでした。
「私は樋口教諭から直属に命を受けました!! 『文学同好会会長、大庭桜久先輩を真っ当にして欲しい』と! それに従い、かつ私の理念に従い、先輩を『調教』させてもらいます!!」
顔を真っ赤にして力を込め、負けじとバットを押し返してみようと試みる七命は確かな信念を持った瞳で宣いました。俺の算段は第二フェイズに移行されました。
次の瞬間俺はバットから手を離して横に避けました、あのまま押し合っていれば火事場の馬鹿力とやらに負けていました。七命はぐらりと前数歩進んでよろけて、ギュッとバットを握り直して振り返りました。また俺が妙な動きでもしたらぶっ叩かれそうな眼光です。
「――ッ……いいでしょう、これまでも確執は幾度もありました、抵抗するというのならこちらも相応な返り討ちに合わせてやります、さぁ蹂躙です」
七命はバットを何かを殴るためでしか使えない構え方で、つまりスポーツマンシップのかけらも無い無礼な構えで俺の前で臨戦体制に入りました。さしずめ女子高校生から連想される単語ではありませんでした。
さておき、相手に武器があるならこちらも対抗手段が欲しいところですが、めぼしいものは見当たりません。このままでは彼女の言いなりになってしまう、そんな面倒ごと、とても許容し難くありました。
「分かった、降参、負けたよ」
なので俺は手を挙げて無抵抗を示してやりました。
「……え?」
「文学同好会顧問の樋口先生からのご命令となれば無碍にできないよねそりゃ。分かった、従うよ、従うさ、先生の意向と君の理念に」
「妙に唐突ですね、先ほどまであんなに怒りをあらわにしていたというのに」
「怒り? なんで? 俺は怒ってないよ、まぁほらこんな俺でも先輩だからさ。不慣れながら先輩として、後輩の非礼を諫めてみたんだけど、やっぱ嫌だなこういうの……まぁほら俺のことだし、また俺の知らないところで迷惑かけちゃったんだろうしね、例えバットで殴られようと、何も言えないよ」
わざとらしく視線を伏して、ため息をついて、頭をくしゃっと握って、声を萎ませて、訳ありそうな雰囲気を漂わせて、悲痛の傷跡をこれでもかと見せつけて、呟きました。
「先輩……なにかあったんですか」
七命は俺の消沈ぶりに悲惨なバックストーリーを感じ取ったのかバットを下げ、先の鬼気迫る顔から豹変して、優しく慈愛の顔で寄り添ってきました。
「気遣ってくれるんだね、ありがとう七命ちゃん……けど聞いてもらう前に一つ質問に答えて欲しいんだ、とっても簡単な問いかけだからイエスかノーで答えて欲しい」
「……分かりました、なんでも聞いていいですから、あなたのことを聞かせて下さい」
――ほんと、バカみてーに思い遣ってきます。
「女子の靴下の臭さを知ってるかい?」
「あ?」
意味を汲み取ろうとする時間もなく、七命は威嚇と軽蔑を浮かべて、バットを構えました。