第一章:1 嵐の予感
死の延長を生きてきました。
とっくに死んだのです。死んでいるのに生きて、生きているのに死んでいるんです。もし、正義感溢れる者に死んでいないと諭されたとしても、確たる理由と証拠を用いて反論できるでしょう。誰に何を言われようと、俺は死んでいるのです。
俺が死んだのは中学一年生、若葉が芽吹き始める麗らかな春でした。初めて嘘を付きました、虚飾を飾りました、道化を演じおおせました。その瞬間愚鈍な魂は、自ら言霊で切り刻んで擦り潰してぐちゃぐちゃにして……無くなりました。
『自我の喪失』、それは死と同然なのです。
死んだ後はまるで生き地獄ならぬ死に地獄じゃないですが、生きていた頃、つまり耐え難い辛苦と悲痛に噛み締めて踏ん張って涙を流して嗚咽をあげて、それでも必死に生きようと頑張っていた頃に比べると、幾分かマシに思います。が、それでも劣等感、罪悪感、疎外感、渇感、飢餓感、危機感、緊張感、倦怠感、孤独感、耳閉感、脱力感、不快感、不信感、閉塞感、無力感……つまり絶望感、を享受して、その全ての負荷を背負ったまま、からっきし上昇しない、カラカラと音が鳴るくらい軽薄な時間を浪費することは、苦行以外の何物でもありません。
――そして、こうして自己嫌悪を格好つけて論ずる辺りに、俺は俺自身にいつものように吐き気を催し軽蔑するのです。
×××
「えぇ、新入生ですか? あの文学同好会に? 成程、わざわざ昼休みに呼び出した理由はそれですか」
しがない男子高校生と言ってしまえばそれだけの男……ですがもし、人間について審美眼があったり心理を見抜くことに長けた奴が居るとしたら、一目見てこう言うでしょう。
「分からない」と。そうしてこう続けるのです。
「彼は人間じゃないから」とね。
「んん、だからねロクくん、今日の放課後、同好会室でその子の相手、よろしく。無碍にしてあげないでね。私も時間があったら行くかもしれないから」
樋口先生のデスクには適当に重ねられた紙やノートに限らず、食べかけのお菓子やその梱包袋、ついには鼻をかんだであろう包められたティッシュが、雑然ととっ散らかっていました。これほど汚くしているのはここ職員室でもこの人だけです。
樋口二葉先生は俺の肋骨辺りまでしか身長がありません。声音も幼く童顔、その勤務態度を見ても幼稚、稚拙、未熟、子供らしいと言わざるを得ません。生徒と話す時ですらペロペロキャンディーを舐めている始末です。
「はぁ、えぇ、そんなことあります? まず知り得た方法は? 同好会だからこの前行われた部活動紹介には出られなかった、学校のパンフレットにもホームページにも載っていない、メンバーは学校に一人しかいないあの閉鎖空間をどうやって知り得たのか、疑問です」
俺が所属する『文学同好会』は、全校生徒六百三十五人のこの秋田県立夕涼高校に驚くべきことに、信じられないことに、たったの俺一人しか所属しない、角に追いやられてやられてやられ果てた組織です。会室だって特別校舎の最奥の極地にあります。普通に生きていて、文学同好会を知れる人はそうそうありません。
樋口先生は腕を組んで、秘密を話すように小声で答えました。
「実は私はその子が中学生の頃からその子のことを知っているの。まぁ私の友達で中学校の先生やってる人がいるんだけど、その人の生徒さんだった訳、それでその友達が、言っちゃ悪いけど『問題児』だからちゃんと見てて欲しいって相談してきて」
「へぇ、『問題児』ですか。成程分かりました」
なんともまぁ聞き馴染みがあるのか無いのか曖昧な言葉なんでしょう。創作物ではよく目や耳にしますが、実際聞くととびきり劣等感溢れる語感でした。
ともかく理解できました。今俺と話している樋口二葉先生は生徒指導部の一人です(その業務の一環として俺はあの極地に軟禁されている身なのです)。よってその友人の教え子である新入生とやらも、俺と同じように迫害され糾弾され差別され抑圧され、されにされ果てた成れの果てということだと、そういうことです。
先生は俺に同類を与えて更生を試みているのでしょう。まぁ俺をただの捻くれ者とかと勘違いしている時点でお察しします。
無論、俺は仲間意識を持つことはありません。ですがこちらから拒否するほど孤独に矜持がある訳じゃないので、ここは引き受けることにしました。
「分かりました、と言っても碌な活動していませんけどね、はは。はぁ、まぁ、しっかり、歓迎してるフリを演じてきますよ、こと演じることに関しては慣れてるのでね。その子の『問題』だって、やれることはやりますよ」
「……うん、しっかり、教育されて来てね」
「……えぇ、なんて言いました今」
俺が突っかかることを予見していたのでしょう、樋口先生はさも当然と言わんばかりに椅子でふんぞり返りました。
「目には目を、歯には歯を……その子の『問題』は毒にも薬にもなるかも知れない。だからロクくんの特効薬になることを期待したの。だから、しっかり、あなたの『問題』を治して貰ってきてね」
「成程成程成程成程……つまり先生は俺を改心させる為にその子を差し向けた……いや俺を差し向ける訳ですか……俺は問題意識はありませんが、先生が言うのならその『治療』を受けてみようと思いますね」
俺は頭に手をやって愛想良く微笑みました。すると樋口先生は安心したように、肩の荷が降りたように、ため息をついて安らかな顔を見せました。
「じゃあ、異議はないね」
「ねー訳ねーだろクズ」
俺の唐突の暴言に、樋口先生は耳の痛そうに瞳を閉じて、体を十度くらい傾けました。しかしこの不適切発言を咎める文句は発せられませんでした(その理由はこの人には俺の過去を教えておいたからです)。
「俺に教育を施すつもりですか先生、この俺に? 俺は学び終えました、収め終えました、教わり終えました、こと『人間』に限れば誰にも引けを取らないです。先生はそんな俺をまだ救済するつもりなんですか、はぁ先生。先生。先生、死人に口なしと言いますが、死人は聞く耳もないんですよ」
誰が好き好んで年下から、他人から、教えを乞おうなんて思うんでしょうか。
「まぁまぁ、あなたの意見は解るけど……一旦聞いて? 確かにあなたは取り返しつかないほどに『堕ちてる』けど、その子は『ある思想』を抱いていて、それはあなたの自己嫌悪と良く噛み合うと考えての結論なの。だから、騙されたと思って一度話してみて」
捲し立てた俺に、舐めていたペロペロキャンディーを向けて制した樋口先生は、手を合わせてそんなお願いをしてきました。俺は「そんな訳ない」と肩を浮かせて鼻で笑って見せてやりました。あり得ないです、少し前まで中学生だった分際で俺の『低さ』まで到達するなぞ、片腹痛しというやつです。
「その子の思想は――――」
「――――そいつ、頭大丈夫ですか?」
だからこその『問題児』なのでしょうが、想定の斜め上をいく型破りっぷりに、俺は感嘆の意を込めてこのような言葉を漏らしました。
「どう? 相性いいと思うんだけど」
「……ま、俺と通ずる部分はありますね……うーん」
ともあれ、たとい俺と信条を等しくしていたとしてもそいつから『教育』を受けるなんてもっての外、関わり合いにだってなりたくありません。むしろ等しいからこそ、対面は億劫に思え、対応は憂鬱に思えます。
俺は決して、『俺』と友好になれる気がしません。
ふと、そういう点で言うなら、敵対して対立して不調和を演じ、向こう側から手を引いてもらうか先生が見兼ねて接近禁止令でも出してもらう方が手っ取り早いのでは、と思案しました。
正直この人相手に押し問答では勝ち目ありません、決まって、最後は俺が根負けして終わります(文学同好会に参加させられた時もそうでした)。この人の傍若無人さには当初、無駄に反骨して腹を立たせていましたが、今ではお手上げ状態です。
つまり、ここは一度承諾するフリをして、その友人の教え子の新入生とやらに嫌われればいいと言う話です。ああ、なんと明瞭かつ容易なのでしょうか。
「まぁ分かりましたよ、その子の相手はお任せください。責任を持って歓迎しますよ」
俺は胸を叩いていい顔をしました。こういう都合のいい顔を装うのは慣れていました。
「相手というかあなたが相手される立場なんだけどね。まぁ良かったよ、もう同好会に参加は決まってるから渋られたらどうしようと思ってたの。何はともあれ、仲良くね」
「はは、まぁ分かりませんが、出来る限りやりますよ」
俺が出来る限り、全力で、全身全霊で、逆立ちしたって、人と懇意になるなんてあり得ない話でした。