旅する宮沢賢治の冒険譚
これは、旅をしながら絵を描いている、ある一人の賢治というペンネームを有する人物の、冒険の記録である。
賢治が画家を志したのは、彼が十代の後期にあたる、高校生の日の一瞬の閃きに依るものであった。それ以前に彼は、天才作家の宮沢賢治に、十代の前期にあたる小学生の時に出会い、小説家を志していた時期があった。賢治先生のようになりたいという初な気持ちがそうさせたのである。それはよくある思春期の麻疹のような症状で、少年の心を襲っていた。賢治先生のようになりたいという気持ちが膨らみ続ける反面で、少なからず適応障害を発症することとなっていた。
高校生時代には少々の適応障害を発症しながらも、賢治はすくすくと育ち、東京の美術大学に進学することになったのである。小説家を目指すのであれば、大学は文学部を志向すべきなのかは知らないが、賢治が選んだのは美術大学であった。美術を天職にしたいという思いとともに、文学部の大学生についての疑問もあったのだ。
高校の先輩で、大学は有名私立の文学部に進んだ某氏、仮称的に太郎さんとしておこうか、その太郎さんは、高校の新聞部の元部長だということもあり、卒業してから何度も部室に顔を出して先輩風を吹かせていた。まあ控えめに云って、鬱陶しいばかりの勘違い男であった。まあ一端の文芸評論家気取りで、有名小説家たちを引用し、そして自分の世界観を開陳するのだが、引用された文学者たちこそいい迷惑であって、太郎はそんなことはお構い無きようなのだった。人のふんどしで相撲を取っている、こんな奴らには反吐が出るぜっ、そう思って文学部への入学はパスしたのでした。
何よりも大切なのは、表現することではあるが、まるでいかさま表現者だと云って良い。その後に風の便りで聞いた話では、太郎は大学を中退してネット界の神だか、預言者だか、まれな人だか、そんなけったいな偽名を名乗り、何だかいかがわしい活動をしているようだ。くわばらくわばら。こんなやつらには関わらないのが一番だね。
そんなこんなは青春の一齣に過ぎないが、美術の活動をしながら旅をする。旅をしながら絵を描く、立体彫刻を作ったりする。そして、たまに備忘録帳の紐を解いて小説を書いている。そんな生活を続けているのです。