一族の秘密は私の秘密
秋分の日が近づく薄曇りの午後、私は父の遺品整理のため、久しぶりに実家へ戻っていた。
父が亡くなってから半年が経つが、古い書斎はまだ当時のまま、墨の匂いと微かな乾いた木の香りが残る。
畳敷きの部屋には、祖父の代から使われている桐箪笥、古い辞書、和紙に包まれた写真などが雑然と置かれている。
父は地方の史料館で学芸員をしていた。郷土史に精通し、
地元の歴史や民俗を地味だが熱心に研究していた人だった。
だが私には、父が何を想い、どんな悩みを抱えていたのか、よくわからなかった。
互いに不器用で、深い話をする機会がほとんどなかったからだ。
書斎の片隅、埃を被った桐箪笥の引き出しを開けると、小さな木彫りの花が出てきた。見覚えがある。
子供の頃、父が夜なべして彫ったもので、「昔の我が家の庭にはこんな花が咲いていた」と話していたっけ。
その裏側には小さな文字が彫り込まれている。
「言の葉を辿れ」とある。
言の葉――きっと書物を指すのだろう。部屋には父が大切にしていた年代物の国語辞典が置かれていた。
私はその辞典を手に取り、パラパラとページをめくる。
すると、巻末の見返し部分が微妙に浮いていることに気付く。
指でそっと剥がすと、中に薄手の和紙に書かれた短い手紙が挟まれていた。
「○○(私の名)へ
もしこの手紙を見つけたなら、君はもう少し先へ進んでくれるだろう。
蔵にしまった古い箏を見てほしい。
そこに、我が家の本当の歴史が隠れている。」
蔵には、かつて母が生きていた頃よく磨いていた箏が置いてあると聞いたことがある。
母は私が小学生の時に病で亡くなったが、あの箏の音色は幼い頃の私にはどこか寂しげで、
あまり近寄らなかった記憶がある。蔵の扉を開け、埃を払い箏を探し出す。
裏側に回り込むと、小さな布袋が紐で括りつけられていた。中から出てきたのは、古文書の断片と、
父の走り書きしたメモだった。
「この家系は、戦後の混乱で姓を変えた。かつての家名は山根ではない。
先祖は明治初期まで“鹿間”という苗字を名乗っていたが、ある時代を境に捨てざるを得なかった。
その理由が、古文書に記されている。」
古文書にはこうあった:
「我が祖先は村で起きた紛争の責任を負い、名を隠して他所へ移り住んだ。その際、旧姓を捨て、
新たな姓を名乗ることで子孫に穏やかな暮らしを与えようとした。けれど、その改姓は同時に、
我が家の誇りと記憶を曖昧にした。時が流れ、子々孫々、誰も元の名を思い出さなくなった。」
父は続けてメモを残していた。
「私が郷土史を研究したのは、単に学問的興味からではない。
我々の家系が、なぜ名を捨てたのかを知りたかった。
恥から逃げたのか、平和に生きる術だったのか。
そして君には、このことを隠したままにするべきか、ずっと悩んでいた。
だが、歴史とは消せないものだ。受け止め、越えていくしかない。
君がこの手紙を読み、この謎を解いたなら、私は君が我が家の過去を知ってもなお、
自分なりの人生を紡げると信じられる。
名を取り戻す必要はない。
だが、私たちがどこから来て、何を失い、何を得てきたかは知っておいてほしい。
それが、家族であり、血縁であり、この土地で生きてきた人々の証だから。
愛している。
――父」
最後の行を読んだとき、私は思わず目を閉じた。父は不器用だったが、こうして複数の手がかりをわざと残し、
私が自力で家のルーツに辿りつくことで、歴史の重さと同時に、
その中で積み重ねられてきた愛情を私自身に体感させたかったのだろう。
先祖は名前を捨てることで生き延びた。父はそれを恥ではなく、選択の一つとして受け止め、
その先に新たな人生を築いた。そして今、私はそれを知った上で、どんな道を選ぶかを問われている。
過去を知ったからといって、必ずしも元の名を名乗る必要はない。
それでも、「私」が今ここに生きていることの背後には、無数の選択と悔恨、赦しが折り重なっている。
書斎へ戻ると、木彫りの花を握った。かつて我が家の庭に咲いていたであろう花。
過去が途切れても、その記憶の一片はこうして刻まれ、今世紀まで伝えられてきた。
私は父が眠る仏壇に手を合わせ、静かに息をつく。
この瞬間、歴史の謎は解けた。私の血筋は消し去られた名を持ち、今の名に生きている。
それを知ったからこそ、私は初めて自分のルーツを愛おしく思える。外は秋の風が立ち、木立を揺らす。
その音は、父と私を隔てていた壁が消え、私たちの思いが響き合っているような、そんな優しい音色に聞こえた。