『魔の泉』と『聖なる泉』
ティムが魔女国に来て三日経った。
シェリルはティムから聞いた話を検証しているらしく、ときどき治癒の力を使ってほしいと言われる以外はティムに用はなさそうだった。
(暇だな……)
本をめくったり何か書いたりしているシェリルに一言断ってから、ティムは研究室を出た。
近距離通信の魔道具の腕輪を持たされたから、ティムの居場所はシェリルにわかるし、用事があれば通信が来る。
屋敷は三階建てだった。一階は食堂や居間、図書室など、共同で利用する部屋が集まっている。二階はシェリルとシンシアで半分ずつ、三階の半分がヴェロニカ、と魔女それぞれに研究室や寝室など複数の部屋がある。ティムは、空き部屋だった三階の半分――と言ってもティムは寝室だけで足りるが――を借りた。
「うぉっ!」
廊下を歩いていると顔面に毛玉が突っ込んできた。
一匹ではなく複数がティムに群がってくる。毛玉はたくさんいるらしい。
ベッドメイクや洗濯もこの毛玉が担当しており、二匹で宙を飛んでシーツを運んでいるのを見たときには悲鳴を上げそうになった。――空飛ぶシーツの怪談がモナオの孤児院にあったのだ。
どういうわけか、この毛玉はティムを見つけると集まってくる。しばらく待っていると離れていくし、その間動けなくなるだけで害はないから好きにさせることにした。
「お前ら、顔にくっつくのはやめろ! 前が見えん」
顔面の毛玉を掴んで取り、両手でわしわしと撫でる。長毛種の猫のようだ。ティムがそうすると毛玉も気持ちがいいのか、大人しくなる。
「なんなんだ、俺は掃除したくなる汚さってことか?」
くったりした毛玉にそう聞くと、返答は横から届いた。
「あなたの治癒力のせいじゃない?」
そちらを向くと、シンシアが階段を上ってきたところだった。
萌黄色の髪を結いあげて眼鏡をかけた姿は、城の女官のようにきっちりしている。
初日の夕食は皆で食堂に集まったけれど、基本的に食事はバラバラにとっているらしく、ティムはシンシアと顔を合わせるのはこれが二度目だ。
「治癒力のせい?」
首をかしげながら、手のひらに力を集めて金の粉を出すと、毛玉たちがわさっと飛びついてきた。
「うわっ!」
驚いたティムがばっと力をまき散らすと、毛玉たちはそれを浴びて、満足したように去っていく。
(あー、あれだ。広場で鳩にパンくずを撒いている人がいたけど、そんな感じだ)
「ん、そしたら、治癒力は餌ってことか?」
「使い魔と契約したのはアンジェリーナだからよ」
口調はつっけんどんだが、シンシアはティムの独り言のような疑問にも答えをくれる。
「アンジェリーナは聖女でもあったから、治癒力もあったのか?」
「その辺のことはシェリルに聞いて。彼女の研究分野だから」
シンシアは腕を組んで視線を逸らした。
「あんたは何を研究してんの?」
「は?」
尖った声で睨まれたから、ティムは丁寧に言い直した。貴族令嬢向けの言葉遣いだってできないことはない。
「あなたは何を研究されているのか、うかがってもよろしいでしょうか?」
「別に言い直さなくてもいいわよ」
「あ、そう? なら、何が気に障ったんだ?」
「別に。……私のことなんて聞いてどうするのかと思っただけよ」
「いや、単に興味があっただけだけど。……ああ、魔女国を探るつもりじゃないから」
ティムは先回りして間諜疑惑を否定した。
「そんなことは思っていないわ。私は」
シンシアが口を開きかけたとき、後ろからシェリルの声が届いた。
「ティム! ちょうど良かった! 今から『魔の泉』に行くから、一緒に来てちょうだい」
小さい歩幅の足音を鳴らして、シェリルが駆けてきた。
「あら、シンシア。何を話していたの?」
「大したことじゃないわ」
シンシアは踵を返す。
「シンシアも一緒に行かない?」
「行かないわ」
「あ、じゃ、また」
ティムがそう言うと、シンシアは少しだけ振り返った。しかし、そのまま自分の研究室に入ってしまった。
「何の話だったの?」
首をかしげてこちらを見上げるシェリルに、ティムは、
「シンシアが何を研究しているのかって聞いてたとこ」
「まあ、シンシアもあなたに協力してほしいのかしら。彼女、今は薬の研究しているのよ」
「人間も使えるやつ?」
「そう」
「研究に協力したら、成果を教えてもらえないかな?」
ティムはずうずうしく聞いてみた。探るつもりはないけれど、もらっていいならハーゲン王国に還元したい。
「いいんじゃない? 魔女は研究が生きがいだけど、成果を活かすことには興味がないから、たいてい図書室に収めて終わりよ」
「えー、もったいない!」
明日から暇な時間は図書室だな、とティムは決めた。
外に出て、シェリルの手を握ったら「何?」と驚かれて、ティムも驚いた。
「あー、悪い。小さい子と外に出たら手をつなぐ癖があってさ」
孤児院時代の名残だ。
教会には今のシェリルほど小さい子はいなかったから、久しぶりだ。それなのに無意識に手をつなごうとしてしまったことに、ティム自身も戸惑ってしまう。
「それなら手をつないで行きましょう。魔物も出るものね」
「いや、小さい子が危ないから手をつなぐんであってさ」
「あら、この森で危ないのはあなたの方よ」
「……まあ、そうだけど……」
ほら、と手を差し出されて、ティムは大人しくシェリルと手をつないで歩き出した。
屋敷の外は、庭ではなくて畑だった。
(薬草みたいだな……)
食材は、人間の国から定期的に魔道具で届くのだそうだ。
畑の向こうはもう森だ。
ハーゲン王国なら、結界の外。魔物が跋扈するはずの森。
しかし屋敷近くには魔物は一切いなかった。
「魔女の魔力のおかげで魔物が近寄らないんだっけ?」
「ええ、そうよ」
シェリルはうなずいてから、
「もしかしたら、あなただけでも魔物は避けるかもしれない」
「えっ? 魔力水を飲んだから?」
「そう、それが問題なのよ……。一般的な聖女もそうなのか、あなただけが特別なのか、判断できないのよね……」
「それは申し訳ない」
「謝らないで。あなたはあなたで貴重な研究対象なんだから」
喜んでいいのかよくわからない評価に、ティムは苦笑を浮かべた。
森を少し歩くと、木々が開けた場所があった。その真ん中に泉がある。周囲を歩いても五分もかからなそうな小さな泉だ。
「これが『魔の泉』か?」
「ええ」
禍々しさは全くなかった。
むしろ静謐な清らかなものに見える。
「『聖なる泉』に似てるな……」
ティムが近づこうとすると、シェリルが手を引いた。
「魔力水と同じで人間には合わない場合があるから、触ったらだめよ?」
「俺でも?」
「あのときが特別だっただけかもしれないでしょ? もう二度と、魔力水も飲まないように」
「わかった」
思いのほか厳しい顔で注意されて、ティムは素直に了承する。
シェリルはティムの手を放して、泉に近づき、小瓶に水を汲んだ。
彼女に頼まれて、ティムはその小瓶に治癒をかける。
金の粉は水に溶けるように消えた。
どういう意味があるのか、ティムには全くわからない。言われたことを言われたとおりにやるだけだ。
「ありがとう。あとで成分を比較してみるわ」
「どういたしまして」
小瓶をローブのポケットにしまいながら、シェリルが尋ねる。
「さっき『聖なる泉』って言っていたわね」
「あ? ああ」
「どうしたら聖女になれるのか、知っている?」
「いや? 生まれつきなんじゃねぇの?」
ティムが答えると、シェリルは泉に目を向けた。
「あなたの場合は魔力水を飲んだから治癒力を得た。そう仮定すると、聖女にも何かきっかけがあるんじゃないかと思ったの」
「それが『聖なる泉』?」
ティムは思い出す。
『聖なる泉』は王都の教会の地下にある。天然の洞窟だ。
結界の魔道具は泉に設置されているから、先に泉があり、そこを拠点に結界を張って国にした、という流れだろう。教会は泉の上に建てられている。
結界の補修のために、ティムは毎日泉を訪れた。
しかし、通常、地下に入れるのは聖職者か聖女だ。聖女になる前の貴族令嬢は入ることがないが……。
「ああ! 洗礼式!」
大きな声を上げるティムに、シェリルが身を乗り出す。
「心当たりがあるのね!?」
「ある! 貴族は皆、王都の教会で洗礼を受けるんだけど、そのときに『聖なる泉』の水――聖水を飲むんだ」
洗礼式や地方配布用の聖水を汲むのはティムの仕事だった。でも貴族の洗礼式は参加したことがなかったから、すぐに思いつかなかった。
「あー、そっか。平民は聖水じゃなくて、準聖水を飲むんだ。だから貴族しか聖女にならないんだな。……女だけってのはわからないけど」
準聖水は『女神に捧げた水』とも呼ばれている。普通の飲料水を祭壇に供えて、儀式を行って女神の御力をいただくと準聖水になる。
平民も聖水を飲めば、もっとたくさんの聖女が誕生するかもしれない。
(ヴィーノに教えてやろうかな)
「聖水が欲しいわね……」
「俺に教会での発言権はないけど、ヴィーノに頼むことはできると思う」
「ありがとう。私から頼んで無理だったらお願いするわ」
笑顔を見せるシェリルに、ティムは聞く。
「そういえば、シェリルはなんで治癒の力を研究しようと思ったんだ?」
すると、シェリルは、ぽんっと何もないところから長椅子を出すと、そこに飛び乗るように座った。
「へ? 出てきた?」
「魔力で作るの」
空いている隣の座面をぽんぽんと叩くから、ティムはそこに座る。
「私はどうやら魔力が多いみたいなの。過去の魔女の中で魔力が多かった者を調べていって、最終的にアンジェリーナに行きついた。まあ、始祖なんだから魔力が多いのは当然よね。彼女は魔女でもあり聖女でもあった。それってどういうことかしら、って思ったのがきっかけね」
「魔力水が人間に合わない場合があるってことは、魔力と治癒力は相いれないものだってことか? ……あれ? 魔女を聖女が治癒することはできるんだっけ?」
「ええ、できるわ」
「魔力で治癒はできない?」
「ええ、そう思っていたんだけれど……」
まだわからないわね、とシェリルは続けた。
「私が子どもの姿をとっているのは、普段から魔力を消費するためなのよ」
「え、単なる趣味じゃなかったのか」
「どういう趣味よ」
笑ったシェリルの輪郭が揺らいで、大人の姿に変わる。斜めに向き合った二人の膝が先ほどより少しだけ近づいた。
「初めて会ったときはこの姿だったな」
「飛ぶのはそれなりに魔力を使うから、そういうときは逆に姿変えの魔法は解いておかないとならないの」
「なるほど」
風が吹き、シェリルの常盤色の髪が揺れる。
ゆらりと再び子どもの姿に戻ったシェリルは、
「私は生まれたばかりのころ何度か暴走して、ヴェロニカには迷惑をかけたわ。常時魔力を消費する魔道具を作ってもらってなんとか落ち着いたんだけど、ヴェロニカには感謝してる」
「ヴェロニカはシェリルとシンシアの親に当たるのか? 祖母?」
しんみりした様子のシェリルに、ティムはそう尋ねる。
彼女は風の行方を見届けるように泉に顔を向けた。
「魔女に親はいない。魔女は『魔の泉』から生まれる」
「泉から生まれる……?」
「ヴェロニカはもうすぐ寿命なの」
「え?」
重ねて与えられた情報に、ティムは目を瞬いた。




