魔女国の魔女
――軍医でも王太子の近衛でもなく、聖女になったティムが魔女国に転移したあとに時を戻す。
「というわけで、俺は治癒の力に目覚めたんだ」
ティムはそう言って回想を締めくくった。
魔女国に着いてすぐ、ティムはシェリルの研究室に連れて行かれた。
部屋の壁の全てが本棚だ。天井のすぐ下まで本が詰まっているのは、一体どうやって取り出すのだろう。いちいち梯子でも使うのか。
部屋の真ん中に大きな机があり、書き付けの紙が乱雑に載っていた。植物や液体が入ったガラスの容器が鎖で吊るされ、天井から垂れ下がる様子はシャンデリアのようだ。しかし、実際の灯りは、空中に浮いたランプだった。
惚けた顔で見回していたティムは、シェリルに促されて座る。また子どもに戻ったシェリルと机を挟んで相対して、尋ねられるままに治癒力に目覚めたときのことを語った。
話を聞いたシェリルは、あごに指をあて考え込んでいる。
「俺は、この髪や目の色はシェリルの色だと思うんだけど」
魔女国に身分はない、と言われてティムは敬語をやめた。「自国の王太子とも普通に話すのになぜ?」と言われたら、仕方がない。
シェリルは軽くうなずくと、
「そうね。あのとき飲ませた魔力水のせいね」
「魔力水?」
ティムが聞くと、シェリルはすっと手を上げる。すると、本棚から小瓶が飛んできて彼女の手に収まった。
(魔法だ……)
魔道具なしの魔法を見たのは初めてだった。
(いや、二度目だ)
ティムは思い直す。
一度目はシェリルに乗せてもらった空飛ぶベッド。
魔法に驚くティムに構わず、シェリルは「これが魔力水よ」と、小瓶を振った。
「一晩月光に当てて精製した水に魔力を溶かして作るの」
飾り気のない瓶の中身は透明な液体だ。水と言われてもわからない。
「魔女の回復薬は、自分で作った魔力水か、『魔の泉』の水のどちらかなの。薬草から作った薬も効かないことはないけれど、効果は低いわね。だから、あのとき持っていなかったのよ」
「俺はシェリルの魔力水を飲んだのか?」
「そう」
そこでシェリルは一度言葉を切る。
「ごめんなさい。本当は、魔力水や『魔の泉』の水は人間には合わない場合があるの」
「合わなかったら、怪我が治らない……?」
「いいえ、合わなければ死んでしまう。あなたに魔力水を飲ませたのは一か八かの賭けだったの。ごめんなさい」
再度謝ったシェリルに、ティムは首を振った。
「どっちにしても、死にかけだったんだろ。そのまま死ぬより、賭けてもらえて良かったよ」
ティムは笑う。
飲まないで生きられる道はなかったのだから。
シェリルに感謝する気持ちは変わらない。
「あなたが笑って許せるのは、生きているからでしょ? 死んでたら、私を恨んでたはずよ」
「うーん? 死んだら笑えないけど、恨むこともできないんじゃねぇの?」
「え、まあ、そう、ね……?」
反論しながら何を言っているのかティムもよくわからなくなったが、シェリルも戸惑った様子で首を傾げた。
しかし、ティムは「そんなことより」と話題を戻す。
「魔力水のせいで俺の色が変わったってことは、治癒力も魔力水のせいってこと?」
「おそらく。……そのあたりは今後の研究で調べていくわ」
シェリルの手から小瓶が本棚に向かって飛んでいったとき、ドアが叩かれた。
返事を待たずに開いたドアから、老女が顔を出す。
灰色がかった黄緑のような鶯色の髪。瞳はやっぱり金だ。シェリルと同じようなローブを羽織っている。
「シェリル、お客さんを連れて来たんでしょう? 研究は明日にして、私たちにも紹介してちょうだいな」
「ヴェロニカ! 今日は起きていて大丈夫なの?」
シェリルは椅子から降りると、ヴェロニカと呼ばれた魔女に駆け寄った。
「今日は調子が良いのよ。だから、食堂で皆で食べましょう」
「ええ。もちろん」
シェリルはヴェロニカに寄り添って、ついでのようにティムを振り返った。
「ティムも一緒に来て」
「了解」
ティムは苦笑する。
なんとなくシェリルの優先順位がわかってくる。
(研究が大事。それよりもヴェロニカが大事)
ハーゲン王国から持って来た鞄を手にして、ティムは研究室を出た。
――ティムはまだどこに泊まるのか、何も聞いていなかった。
食堂まで歩きながら観察したところ、ここは貴族の屋敷のような建物だった。部屋数は多そうだ。
(魔女全員がここに住んでるのか?)
魔女国は謎に包まれている。用があるときは各国の城にある通信魔道具で連絡して、場合によっては魔女に来てもらう。そのため、魔女国に人間が訪れた記録はほとんどなかった。
(俺はまた『魔女国に招かれた人間』っていう珍獣になるわけだな)
そんなことを考えながら廊下を歩いていくと、足元にふわふわした鞠のようなものが転がってきた。
「うぉっ! なんだこれ!?」
踏みそうになり声を上げると、シェリルが振り返った。
「ああ、それは掃除の使い魔よ」
「使い魔? 魔女の手下?」
「手下ではないわね」
シェリルのあとを受けてヴェロニカが続ける。
「きちんと雇用契約を結んだ使用人ですよ」
「使用人……」
ティムは転がって去って行くふわふわを見送る。毛皮の鞠と意思疎通ができるとは思えない。
「毛玉って呼んでるわ」
「毛玉……。見たままだな」
呆れたティムに、シェリルが頬を膨らませる。少女姿にはふさわしい表情だった。
「魔女の始祖アンジェリーナが名付けたんだから、仕方ないでしょ!」
「それって、女神アンジェリーナのことか?」
「魔女の始祖で、最初の聖女。その後女神に祀られたアンジェリーナ、よ?」
「人間の国では教わらないの?」
ヴェロニカにも聞かれて、ティムは首を捻る。
「最初の聖女だってことは習うけど、魔女の始祖だってことは習わないな」
「まあ!」
「人間は代替わりが早いから仕方ないのかしらねぇ」
魔女二人は顔を見合わせる。見た目の年齢差から、祖母と孫娘にしか見えない。
ティムはまだ二人の年齢を聞いていなかった。
「魔女国に関することは、俺が知っても問題ないのか?」
「ええ、構わないわよ。暇なときは図書室でも行ったらいいわ」
あっさり許可が出て、ティムは拍子抜けする。
「魔女国は人間を拒む神秘の国って言われてるんだけど……」
「辿り着けないだけでしょう?」
そんなことを話しながら、食堂に着いた。
料理専門の使い魔もいるそうで、食事は期待していいと言われた。食事は人間の国と変わらないらしい。
(話を聞く限りだと、その使い魔って蟹なんじゃないかなぁ。そのうち見学させてもらおう)
食堂にはもう一人魔女がいた。
二十歳くらいの見た目で、眼鏡をかけていた。魔道具だろうか。
青葡萄のような明るい萌葱色の髪に、金の瞳。
彼女は険しい顔でティムを睨みつけてきた。
「聖女って女じゃなかったの?」
(おお、この人は俺を歓迎していないのか)
シェリルはもちろんヴェロニカもティムを受け入れてくれていたから、妙に感動してしまう。聖女が集まる場に初めて足を踏み入れたときを思い出して懐かしい。
(当たり前だけど、魔女国も女だけなんだよな……)
ティムは騎士に習った礼をする。
「はじめまして。ハーゲン王国の聖女ティム・ガリガと申します。男ですが治癒力があり、教会から聖女と認められています。よろしくお願いいたします」
「改めて、ヴェロニカよ」
「私はシェリル。今さらね」
そして、シェリルとヴェロニカは眼鏡の魔女に目を向けた。ティムも待つ。
根負けしたようにため息をつくと、彼女は、
「シンシアよ」
そう言ってふいっと横を向いてしまった。
「まあ、シンシアは頻繁に顔を合わせるわけじゃないんだからいいじゃない」
シェリルがそう言って、ティムに向き直る。
「今はこの三人が魔女国の魔女よ」
「三人だけ? ええっ! 魔女ってそれだけなのか?」
驚くティムに、シェリルは笑う。
「これはあまり公にはしていないから、極秘事項よ」
ティムは何度もうなずいたのだった。