閑話:治癒の飴
(ああ……、今日は公爵令嬢様の日か……)
施療室に入ったバズは心の中でがっかりと肩を落とす。
顔に出てしまうと聖女たちの機嫌を損ねるので、バズは無表情を保った。
(肉屋のラーイがついうっかり『ティム様じゃないのか』って言っちまったら、追い出されそうになったらしいからなぁ)
いわく、『あの男の治癒で事足りるなら、大したことはないのでしょう? わたくしの力は本当に必要としている方のために使いたいですわ』だそうだ。追い出される前に、視察に来ていた王太子が『ティムとの違いを見せてあげたらどうだ?』ととりなして治癒をかけてもらえたらしい。――公爵令嬢のほうが治癒力が低かった、とラーイは言っていた。
(ティム様は治癒力は高いけれど気さくな方だったのに……)
今日はハズレの日だった。
(キャサリン様かアイリス様なら当たりなんだが……。昨日施療院に行ったやつが公爵令嬢様だったって言ってたから、今日は違うと賭けたのになぁ。二日連続とは読めなかった)
二人の令嬢は速さを競うように、ささっと治癒をかけるだけ。患者よりも後ろで見ている王太子に意識を向けているのがあからさまだ。
ハーゲン王国の王都に住むバズは、ティムが教会に来る前から施療院に通っていた。年をとってから膝の痛みがひどく、我慢できなくなるほど痛くなるたびに治癒してもらっていた。
「悪ぃな、じぃさん。加齢が原因だと、今の痛みを取ることはできても、完全には治せないんだわ」
初めて担当してもらったとき、ティムはバズにそう言って申し訳なさそうに眉を下げた。
男の聖女にも驚いたが、聖女に話しかけられたことにも驚いたし、謝られたのにはもっと驚いた。――彼の言葉遣いにも驚いたが。
聖女といえば貴族令嬢。高貴な雰囲気を纏っており、治癒のために近づくのも緊張する。さらに大聖女は威厳があり、もっと畏れ多い。そんな聖女たちが優雅な所作で伸ばした手から、はらはらと金の粉が降ってくる様子は、幻想的だった。
しかし、いつもの治癒と違って、ティムはバズの膝に触れるほどの近さで治癒をかけてくれた。金の粉は眩しく、膝がじんわり温かくなった。
「これは治らないとお医者様からも伺ってますんで。それに、聖女様の治癒は痛みもなくなってますが、なんだか軽くなったみたいで、治っちまったんじゃないかってくらいです」
「いや、俺のことはティムでいいから。男に聖女なんて、呼びにくいだろ」
「ティム様」
「様もいらねぇし。俺は平民なんだよ。こないだまで、兵士見習いやってたんだ」
ティムは、にかっと笑った。そう言われたものの、大聖女の治癒より楽にしてくれたティムを、そこらへんの青年と同じに扱うことはできず、バズは丁寧な言葉を使い続けた。
ティムが担当になってから、一度の治癒でかなり回復するおかげか、バズが施療院に行く頻度はだいぶ減った。
しかし、ティムは魔女国に派遣されてしまった。
(あの公爵令嬢様たちやその親たちの策略だって、噂で聞いたが)
ティムがいなくなってから施療院は毎日キャサリンとアイリスが担当していた。しかし、王太子が視察に訪れるようになってから、視察の日は必ず公爵令嬢の二人が担当だ。
(まだ若い聖女様たちに無理をさせるわけにもいかんから、当番を交代できるのはいいことだ。しかしなぁ……)
順番が回ってきたバズは、グラディスの前の椅子に座った。
助手の神官が「右の膝の痛みを訴えております」と説明する。グラディスはバズをろくに見もしないで、手を伸ばすと治癒をかけた。
ぱらぱらと金の粉が降る。
すると、バズの膝の痛みが少しだけ軽くなった。
我慢できない痛みから、我慢できる痛みになった程度の変化だ。
グラディスはさっと手を引き戻すと、ふいっと顔を背けた。もう帰れということだろう。
(ティム様のときと寄付金は変わんねぇのに! 全然治せてないくせに、偉そうに!)
不満はあるが、顔に出すとまた面倒なことになる。
やるせない思いで、バズは神官を見る。彼は無情にも、「聖女の治癒はこれで終わりです。後ろの扉からお帰りください」と、いつもとは違う出口を示した。
バズは、内心で聖女を罵っていたのがバレて引っ立てられるんじゃないか、とびくびくしながら、部屋を出た。心配した廊下には誰もいない。
さらに廊下の先は裏口になっているようで、開け放たれた扉の向こうが明るい。
(ん? ありゃ、キャサリン様とアイリス様か?)
すぐ外に年若い聖女が二人いた。
施療院から出たバズは、二人に礼をする。
「お二人とも、どうして裏口なんかに?」
「聖女ティムから王太子殿下宛てに、特別な飴が届きましたの。今日はそれを皆様にお配りしておりますのよ」
「お一つ取って、今ここで食べてくださいね」
「はぁ、ティム様から……。魔女国に行かれても気を配ってくださるなんて、ありがたいことです」
特に甘いもの好きでもないバズは、飴など久方ぶりだ。
大きな杯に盛られた琥珀色の飴を一つ取り、言われた通りに口に入れる。
「んんっ? こ、これは?」
膝の痛みが、するすると消えていく。
「治癒の飴……?」
目を丸くするバズに、キャサリンたちは微笑んだ。
「他の聖女には内緒にしてくださいね」
「王太子殿下が、わたくしたちにここで配るよう指示されたのですよ」
「殿下の視察に緊張されたグラディス様やガートルード様が、治癒の力を発揮できないと困りますものね」
ものは言いようだ。あの二人の力は元々あんなものだろうに。
バズは黙ってうなずいた。
その間に飴は崩れるように溶けてしまった。膝痛もすっかり良くなっている。
「ありがとうございます。膝の痛みが治りました。ティム様にもお礼を申し上げたいのですが、魔女国からはもう戻られないのでしょうか?」
バズがそう聞くと、キャサリンたちは顔を曇らせた。そんな不安げな表情をすると、年相応の少女に見える。
バズは慌てて、
「きっと殿下がどうにかしてくださいますよ。こうやって飴を送ったりもできるのですから」
「ええ、そうですわね」
二人は微笑んでくれ、バズもほっとした。
魔女国に行ってしまったティムと王太子に繋がりがある。そう知れただけでもバズは気持ちが軽くなった。
いつかまたティムの笑顔を見ることができるかもしれない。
(それまで長生きしないとな!)
ティムの飴のおかげで足取りも軽かった。
::::::::::
飴で回復した患者を見送っていたキャサリンとアイリスに、ヴィンセントが声をかけてきた。近衛騎士を連れて裏口から出てくる。
「順調かな?」
「はい。もちろんでございます」
「皆、ティムと殿下に感謝しておりました」
二人の言葉にヴィンセントはうなずく。
キャサリンも、ティムとヴィンセントが親しいのは知っていたが、二人が一緒にいるところを見たことはなかった。ティムもどんな付き合いをしているかまで話さなかった。
ヴィンセントがティムを近衛騎士に勧誘していたと聞いたから、主従関係なのだと思っていたけれど、ヴィンセントの言葉のはしばしからは、もっと親しい関係が想像できる。
そうすると、どうして今までティムの境遇を放置してきたのか、と不満に思えてくる。
「殿下。ティムの力を知らしめるのが遅すぎたのではございませんか?」
キャサリンの咎める口調に、隣のアイリスは目を見開いたけれど、ヴィンセントは軽く笑った。
「教会にいたころのティムは、敵地に一人でいるようなものだったからな。情けないことに、私の目が届かない場所のほうが多い」
「その通りですわね。――一人というのには賛同できませんけれど、わたくしたちもずっとティムと一緒にいられたわけではありませんし」
「ええ。ティムが空き時間をどこで過ごしているのか、ずっと疑問だったのです。殿下と過ごされていたのですね」
アイリスも当てこする。
イチイの生垣の場所をキャサリンたちが知らされたのは、ティムが魔女国に行く直前だった。
ティムから連絡をもらったヴィンセントは、キャサリンとアイリスをそこに呼び出し、今回のことが計画された。
「ティムと殿下は社交界で噂されている以上に仲がよろしいのですね」
そう言うと、ヴィンセントはふっと笑って唇に人差し指を立てる。
「それはここだけの秘密だ」
絵になる仕草で、王太子妃に興味がないキャサリンでも、頬が染まってしまいそうになる。
それを知ってか知らずか、ヴィンセントは続ける。
「下手にティムの力を見せつけて、あれ以上の負荷をかけたくもなかった。今回、ティムの魔女国行きが簡単に決まったのは、彼が役立たずだと思われていたおかげでもある」
「はい。わかりますわ」
「ティムは働きすぎでしたもの」
二人が納得すると、ヴィンセントは難しい顔をした。
「前の大聖女ディアドラも業務過多だったとティムが話していた。だから、聖女や大聖女の在り方から変えないとならないだろう」
「それが、あの結界の魔道具ですのね?」
ティムが魔女国から送ってくれた最新式だ。
彼は魔道具や飴のほか、薬草も送ってくれた。
その薬効の高い薬草を使って、王立薬学研究所が治癒薬を作った。今まで誰も作れなかったレシピらしい。女神アンジェリーナの薬『女神の秘薬』と名付けられて、近日売り出される予定だ。
施療院に行く代わりにできるように、とティムが言っていたから、寄付と同じくらいの金額で買えるように、少量ずつ小分けするそうだ。
この治癒薬もヴィンセントが指揮をとって進めている。
(またきっと、材料の出所がティムだって噂になるのでしょうね)
当のヴィンセントは涼しい顔で、
「そろそろ『結界の補修』も視察しようと思っている」
キャサリンとアイリスは顔を見合わせてから、にこりと微笑んだ。
「かしこまりました」
「お待ちしております」
それを受けたヴィンセントも微笑んだのだった。