第1話:会社の屋上で
屋上の涼しい夜風が髪を乱れながら、視界に広がっているキラキラな都会景色を眺めていた。何時間もコンピューターの画面に集中した所為か、激しい頭痛が頭をきつく絞っている。休憩を取ろうと思ったけど、脳の中は仕事の悩みで溢れている。
仕事に終わりはない。
上司に叱られる時も後を絶たない。
それにどうして何度も同僚の過ちを直さなければならないのかは分からない。
「はぁ…疲れるなぁ…」
冷たい手すりに身体を傾け、ちょっとだけ目を休もうと瞼を閉じる。このあとも働き続くかな…いや、もう遅いし僕くらいしか残っていないから明日続いても問題はないだろう。でも、締め切りが…
いつまで残業すべきかを悩んでいる中、カチャッという音が耳に入った。
屋上のドアへ怠く視線を向くと、長いめの黒髪ボブの女性が扉から出て来た。僕と目が合い、こちらへゆっくりとやってきた。
「あ、川崎さん。まだいらっしゃったんですか」
「はい」
無表情で返答する川崎。そっか、僕は最後じゃなかった。現れたのは、川崎夢子。去年入社した同僚で、あまり感情を示すタイプじゃない。ミーティング以外は接点はそんなに多くはないが、仕事が上手い。
同じ手すりに並び、夜の景色を鑑賞し始める彼女。
「何かの用ですか」
「いや、私もちょっと休憩しようと思っただけです。何時間もオフィスにいると、疲れてしまうので」
あまり会話に潜るほどエネルギーがないので、ピカッと煌めいている建物の海に視線を戻した。
…
暫くしてから、溜息を混ぜた欠伸を漏らす。
「はぁ…眠い。」
「隈は凄いですね。早く帰った方がいいと思います」
それに対して、早く寝るように促す川崎。まぁ、この隈は当然だろう?毎日こんな遅くまで残業しているし。平気そうな川崎の方が変だ。
「うん。このままだと、本当にここで寝てしまいますね」
「…ッ」
なぜか、目の前の女性がその言葉にビクッと反応した。ん?変なことを…言わなかったよね…?
「名案ですね。流石雲山君」
「え」
え?このままだと屋上で寝てしまうと言っただけなのに、賛成…された?それは賛成すべきことじゃないよ?社員は、ちゃんと家に帰って休んで然るべきだ。もしかしてそれは朝が来るまで会社で頑張ろうっていう意味なのか?どれだけ仕事に情熱を注いでも、会社で寝て働き続くのは…
冗談だよね…あるいは、川崎は仕事熱心すぎ。ただ、僕の方はそうしたくはない。
「いや、効率は別として、普通に家で寝たいんですが」
と反対の言葉を口にした。
「いいえ。効率は別として、会社の屋上で寝るのは面白いではないんですか」
「え」
え?何言っているの?…面白い?いや、面白いどころか、こんな高い建物の屋上で寝るのは危なくない?
「…面白いより危ないと思いますが」
と考えていたことを隣の彼女に述べる。
「しかし、準備すれば、危険性は低いでしょう?手すりもあるし、会社のビルなので怪しい人物は入れないから、比較的大丈夫そうだと思います」
「う、うん…」
不思議な興奮感が瞳から滲んでいる。こんな表情を見るのは初めてだ。もしかしたら、彼女はこのような仮設が好きかもしれない。
「実は次の場所を探していたんですけど、まさか会社の屋上…ありがとうございます、雲山君」
ふと思ったら、礼を言われた。
「次の場所?」
「なんでもありません。雲山君は疲れてるんでしょう?早く帰って寝ることですよ。それでは」
意味を問える前にいつもの落ち着いた雰囲気を取り戻した川崎は屋上から歩き去っていた。テクテクという音と共に周りがまた静かになってしまった。
さっきまでは結構眠かったけど、会話の異常な方向に目を覚め直した。
「ふう…」
川崎は意外と変だな…
せっかく目を覚め直したので、帰る前に携帯でメールをチェックすることにした。大量のメールに絶望を感じながら、少しの間時間を過ごした。
カチャ。
気づくと、ドアノブの音がまた耳に入った。
「あ。まだいたんですね」
ドアから現れたのは、同じ長いめのボブの女性。ただ、今回は鞄を肩にかけている。
「その鞄は?」
何が入っているか分からないが、なんか大きそう。
「その、仕事を…続こうかなっと…うん」
怪しげに答える川崎。少し信じがたいけど、表情から何も分からない。
「屋上で?」
「は、はい…ちょっと環境を変えたらまた集中できそうなので…」
「そうですか…流石川崎さん。一生懸命ですね…」
「…ありがとうございます」
…
…本当にここで?働く?川崎さんが?『次の場所』って、仕事できる場所?あそう…
その発言を疑っているうちに、川崎は鞄からラップトップを取り出し、本当に仕事をやり始めた。
…すごい。
僕は今まで中々頑張っているなっと思っていたけど、川崎の努力と比べたら足元にも及ばない。どうして屋上を選んだのかは分からないが、こう見たら、また頑張らなきゃいけない気分になった。
「なんかやる気が湧いてきました…僕もここで働きます!」
「えっ?」
さっきまでの眠さを振り払い、一旦オフィスに急ぎだしてラップトップを手元に置いて屋上に戻ってきた。
「戻りました」
「はい…」
そこで、ドアと同じ壁で腰を下ろし、ラップトップを開き、働き続いた。
カタカタ。
…カタカタ。
…カタ。
進んでるな。だが、やる気があるとは言え、やっぱりまだ疲れてる。川崎に一瞥してみたら彼女はまだ働いていそうなので、この眠さと戦いながらもうちょっと…頑張る…
…うん。次はこの方の依頼の…
…
「…んー」
ん?どこ?
瞼を開くと、薄明るい灰色っぽく青色の空をボーっと見ていた。そうだった。屋上で…あ、ラップトップは?
見回ったら、閉じられたコンピューターが傍に置いてある。しかしよく見ると、数メートルの右で、紺色い何かが立てられている。テント…じゃなさそうけど、形は似ている。特徴と言えば、あまり高くなく、素材も違う。
「もしかして…川崎さん?川崎さん?」
不思議な模擬テントの主を察して同僚の名前を呼び出してみた。
数十秒ぐらい待つと、川崎の頭がポンと模擬テントから飛び出した。
「あ、雲山君。おはようございます」
異常なことないような顔で川崎に朝の挨拶を言われた。彼女が模擬テントから出ると、昨夜と同じスーツを着ていることに気付く。まぁ、僕も昨日と同じスーツを着ているよね。ただ、あの子の方は靴とブレーザーはない。察すれば、模擬テントの中にあるだろう。Yシャツの上のボタンは外されており、寝癖は何本も付いている。いつものクールな雰囲気と組み合わせたら中々の対照が作られている。面白い。
「えっと、川崎さん。それは…?」
屋上の床に立てられている物に指さして訪ねてみる。
「DIYテントですよ。結構便利なので、雲山君も自分のを作ってみて下さいね」
「あそう…」
DIY?それより本当に屋上で寝てしまったよな…でも川崎と違って僕の方は普通に冷たい床で寝てしまったので、身体が痛い。テントとかはなかったので仕方はないが…
「もう朝なので、オフィスに帰りましょう」
と上のボタンをつけ直しながら言う川崎。
「あ、ああ…」
彼女が模擬テントを片付ける中、僕はコンピューターを拾って模擬テントをもっと近くに見に行った。
「フーン…この中に寝袋ですか…これは全部昨夜持って来たものですか?」
「はい」
当然のように模擬テントと寝袋を丁寧に畳んだり鞄に詰める。この光景を見ると、不思議に思う。
「もしかして、川崎さんはずっと前からこの予定でした?中々準備出来ていましたね」
「別に。会社で寝たのは昨日で初めてでした」
「え?マジですか?」
それなら、どうしてあの鞄持って来たのか?わけわからない。
「それより、雲山君はちゃんと打刻しましたか」
そう言われた途端、冷や汗が背中に流れ出した。そうだ。昨日は帰らなかったのですっかり忘れてしまった。
「あああ!忘れました!川崎さんは!?」
「はい、この鞄を取りに行った時やりました」
そ、そう…怠ったのは僕だけ…上司に叱られるよな…
「い、行きます!それでは!」
と、階段の下へ急ぎだした。
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