気持ちと五大湖と千本ノック
「スペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリー湖、オンタリオ湖、スペリオル湖、ミシガン湖、ヒューロン湖、エリオ湖……。あれ?」
いつの間にか五大湖が四つになっていて、もう一つが出てこない。薄目を開けて教科書を確認。エリー湖とオンタリオ湖……か。どうやら私は二つの湖を消し、新たに一つ創造していたらしい。
梅雨明けから間もない、初夏の日曜日の夜9時。私は明日の地理のテストに向けて、詰め込み作業に追われていた。教科書を読み、目を瞑って言えるようになるまで声に出す。永遠に続きそうな千本ノックで、期間限定で拡張した脳内スペースに地名をせっせと押し込める。どうせテストが終わった瞬間にスペースごと消えてなくなるのだが、あと12時間、知識には文字の形を保ってもらわねば。
眠気と知識で重くなった頭を抱えて唸っていると、ノックの音が聞こえた。振り返ると、母がトレイを持って立っている。
「勉強お疲れ様。お夜食よ」
「ありがとう。……なんで食パン?」
「暗記パンよ」
「噓でしょ⁉」
「嘘よ」
母はふふっと笑い、食パンを乗せた皿を学習机に置いてくれた。甘い匂いが鼻をくすぐる。
「何の勉強をしているの?」
「地理。あーあ、覚えること多すぎ。一生行くことない湖の名前とかなーんでこんな時間かけて覚えなきゃいけないんだろ……」
「だいぶ参っているわね」
母は目じりを下げ、おかしそうに私を見ていたが、ふっと遠い目になった。
「そうねえ。たしかに高校の勉強って実生活に結びつくもの少ないかもねえ。私、日本史選択だったけど墾田永年私財法と『いい国つくろう鎌倉幕府』しか覚えていないわ」
「今はいい国じゃないよ、いい箱なんだって」
「まっ、源頼朝に抗議しないと。1192年に鎌倉幕府開いてくれないと意味がないって」
母はにこにこと笑いながら、それはそれとして、と続けた。
「高校の勉強の意義はね、覚え方を覚えることにあると私は思うわ。今後生きていく上で覚えなければならないことはたくさんある。スムーズに覚えられるやり方を身につけておけば、良いことがきっとあるわ」
私よりも長い人生を生きてきた母の言葉には説得力がある。私は深く頷いた。
「ところで、この食パン、バターはついていないの?」
「あっ、ごめんね。買おうと思っていたのに忘れていたわ」
「…………」
無言で食パンを一口齧る。まずくはないが物足りない。覚え方を覚えるために、もう少し頑張ろうという気持ちになった。




