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一人の魔女の物語  作者: べるべる
一つ 閉塞の魔女
1/1

始まり


 瞬きをする。

 世界は酷く、濁って見えて。


「おぎゃあ、おぎゃあ!」

「大丈夫、大丈夫よ。大丈夫だから」


 外は真っ暗闇。

 強い風が窓をガタガタと揺らす音が狭い病室の中にこだましていた。

 桃色のワンピースを身に纏った女は一人の赤子を抱き上げると、頬を優しく撫でる。それが、赤子が感じた最後の温もりとなった。


「さようなら、可愛い我が子」


 女は赤子をベッドの上にそっと置き、代わりに精緻な装飾が施された分厚い書物を手に取った。

 窓も開いていないのに、どこからか吹き荒れた風が書物のページを捲り上げた。

 自然と開いた、いや、自然に開けられたページには、歪な魔法陣が刻まれている。


「神様、どうかお許しください。魔女を、どうか魔女をこの世から……」


 女の声に秘められた怨嗟はどこまでも深く、病室の中を満たしていった。


「魔女が東から昇りて西に沈み、北から這い出て南に眠ろうと、永遠の滅びを与えたまえ」


 それは紛うことなき詠唱であった。

 瞳には狂った光が差し込み、肌の下をムカデが這い回るかのような異質な痛みが女を蹂躙する。

 やがて女は痛みに耐えきれなくなったのか、膝をつき、肌から血が滲むほど全身を掻き削った。


「い、いぎゅ、ぎぃ……」


 女の口から漏れ出る苦痛の声は赤子の耳にも届く。

 赤子は幼いながらに異常を感じ取り、張り裂けんばかりの泣き声を上げた。

 それを意にも介さず、書物からは黒い帯のような影が幾筋も解ける様に女を包んでいった。

 女は最期を感じ取り、充足と共に眠る。そうなる筈であったのに。


 書物は女に微笑まなかった。


「ま、待ってそれは違う! その子だけはぁぁぁぁぁぁぁああああああ」


 代わりに書物が選んだのは、ベッドの上で泣き喚いていた赤子であった。

 黒い帯が赤子の肌から浸透し、全身を隠すように巻きついていく。

 やがて赤子は完全に黒い帯で包み込まれた。

 目の前で泣き叫ぶ女を嘲笑うかのように、ゴキリ、という音が響く。


 いとも容易く赤子の首を折った書物は、女の願いを聞き入れ、この世から魔女を消した。


 病室には『産声』が鳴り響いていた。

 それは皮肉にも、世界の終わりを告げる終焉の歌声であるようにも思われて。


 女は今まで悲しんでいたことも、苦しんでいたことも、まるっきり全て忘れてしまったかのように立ち上がり、首を傾げながらその場を後にした。


 残されたのは黒い繭と、謎の書物、響き続ける産声だけであった。







 シンシアは屋根を強く打つ雨の音で目を覚ました。

 時計の針は四時を指しており、静寂が満ち満ちる空間の中に、秒針の振動だけが耳障りだった。

 のそのそと布団を足で押し退け、くあぁと大きく欠伸をする。ベッドから足を下ろすと床はひんやりと冷たく、冬の訪れを感じさせた。

 ぶるりと一つ身震いした後、暗い部屋の中を壁伝いにしながら階段を降りていく。


 シンシアは朝が酷く嫌いであった。

 一度起きると、少なくとも十時間以上は周りと同じ様に息を吸い、食事を済ませ、ヒトらしく振る舞わなければならないからだ。

 どう見積もっても普通の枠組みには入らないシンシアにとって、この社会は非常に生き辛いと言わざるを得ない。

 洗面所に着き、鏡を見つめる。

 それなりに整ってはいるが、別段特徴的な部分も無く、平凡極まりない顔立ち。悪く言えば面白みが無いといえるだろう。

 強いていうなら綺麗な黒髪と、切れ長の目を好きになる人はいるかもしれない、という程度。

 シンシアは自分の顔ながらそう思った。

 ぐっと目を瞑り、何度か顔を冷水で洗い流し、リビングへと向かった。


 シンシアの朝ごはんにバリエーションは存在しない。

 炊飯器からしゃもじ二杯分掬った白米と、キャベツを煮ただけの味噌汁、そして丁寧に焼き上げた一尾の鮭。

 数年前から一品足りとも変わらない朝食は、今日もシンシアの腹を満たした。


 食事が終われば次は着替えである。

 クローゼットを開け、一番右に掛けてあるシャツを身につけ、赤いネクタイを締め、綺麗に誂えられたジャケットを羽織る。

 スパッツを履いてからスカートを身に纏った。

 学校指定の制服、これもシンシアの生活において無くてはならない必需品であった。

 これさえ着ていればファッションを踏み違えることは無いという、シンシアからしてみれば魔法の服である。


 実用性だけを重視した、可愛げの無い白色の腕時計を巻き付け、同じく可愛げの無い靴下を履く。

 最後に桃色の髪留めで前髪の左部分を掻き上げ、昨日の晩に用意しておいたカバンを手に持った。

 これで朝の用意は終わり。いつでも学校に行ける用意が整ったことになる。


 シンシアは玄関口で革靴を履き、その場で立ち上がった。

 腕時計を確認する。時計の針は未だ五時に届くか届かないかというところであり、今家を出たとしても朝礼の二時間半前には学校に着いてしまう計算になる。


「少し待つか」


 シンシアはその日初めて口を開き、たった六文字独りごちた後、また口を閉じた。

 そこから時計の針が七時を刺すまでの間、シンシアは一歩も扉の前から動かず、扉の前で立ち尽くしていた。


 シンシアが起きてから学校に行くまで、部屋は暗いままであった。

 





 これほど退屈なことがあるだろうか。

 シンシアは体の奥底から湧き出てくる欠伸を必死に噛み殺した。


 将来のために必要だとか、今しておかないと後悔するだとか、理屈では理解できる。

 だが、シンシアにとって大人しく椅子に座り、授業を清聴するというのは非常に耐え難い苦痛であった。

 全身をジリジリと強火で炙られているような錯覚すら覚えるほどで、今この場所に自分がいることは間違いだ、と本能がシンシアの体に訴えかけているようでもあった。


 また一つ、欠伸を噛み殺す。

 今目の前では数学の授業が繰り広げられているが、果たして一体彼らは何をもってして数学が将来の役に立つと考えているのだろうか。

 生徒一人一人の進路を正確に把握し、それを基にして話を進めているなら分かるが、少なくともシンシアはこの無駄極まりない時間が将来への布石になるとは考え難かった。


 教室の一番左後ろ端の窓際。

 誰もが羨む日当たりの心地よい席ではあるが、その暖かさが眠気となってシンシアに牙を剥く。


 別にシンシアは数学が出来ないわけではないし、授業に着いていけないから言い訳を繰り返している訳でも無い。

 四則演算は完璧だし、図形の理もある程度は理解している。だから別に、今行われている関数の話が分からないだとか、そんなことでは全然無いのだ。四則演算は数学では無く算数だ、という無粋なツッコミをする者はいないだろう。


 チラリと時計を見る。

 授業は始まってから未だに十分しか経っていなかった。

 シンシアはこれ以上無い程の絶望を噛み締め、横の黒板に記された時間割を確認する。

 数学、現代文、化学に世界史。この世の地獄がそこにはあった。


 あまりの衝撃にシンシアの意識は遠のき、机の上に倒れ伏した。

 ただ寝ただけじゃないか、などと無粋なツッコミをする者は、まさかいないだろう。




 気づけばシンシアは、真っ白な部屋の中にいた。

 目を擦りながらも立ち上がり、辺りを歩いて確認する。

 上下左右とも全く同じ真っ白な光景で、方角すら分からない。


 シンシアは自分が今閉じ込められている空間が純白の六面体であることを確信した。

 しかも最悪な事に、上下左右の壁は時間経過と共にその距離を縮めているらしい。

 あと数分もすればシンシアがいるこの空間は白い壁に押しつぶされて無くなり、彼女は店置きのイチゴスムージーに似た赤い液体に変貌することになる。


 誰がどう考えても夢だ。

 それも、自分が夢を見ていると分かる稀有な夢、明晰夢というやつだろう。


 常人なら、そう考える。

 だがシンシアはそう考えなかった。

 この状況は目を逸らしてはならない現実である、その確信がシンシアの全身に充満していたのだ。


 シンシアは右腕を引き絞り、迫ってくる白い壁に向けて打ちつけた。

 ドンッ、と大きな音が鳴り、水面を波打つ波紋のような模様が現れたが、それだけだった。壁には傷ひとつ無く、逆にシンシアの拳が赤く滲んだ。

 それでもシンシアは、同じ様に何度も拳を壁に打ちつけた。


 ドンッ、ドンッ、と音は響き続けたが、状況に変わりは無い。

 シンシアの拳からは夥しい量の血が流れ、彼女の脳では痛みを知らせる信号がけたたましく鳴り響いていたが、シンシアは拳を止めなかった。


 部屋は遂にシンシアの身長と同じ高さにまで狭まり、あと幾分の猶予も無いことを実感させる。

 白い部屋がシンシアの拳から滴る血で彩られた以外には、憎らしいほど変化が無い。

 だが、シンシアはどこまでも愚直であった。

 常人であれば意識が飛んでいてもおかしくない程の痛みの最中で、表情ひとつ変えずに拳を震い続けていた。


 シンシアの拳が壁とぶつかる音は次第に粘着質なものへと変化していき、壁と骨に挟まれた肉は限界を伝えてくる。

 既にシンシアの意識は痛みで薄れ始め、部屋の中の酸素が無くなりつつあるのか、息さえままならなかった。

 遂に白い壁はシンシアがそこに存在していられるだけの空間をギリギリ残し、巨大な圧搾機となってシンシアに牙を向く、かに思われた。


「見つけたぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」


 その間際、シンシアの意識を取り留めたのは一つの叫び声であった。

 固かった筈の壁がまるで半紙であったかのように容易く破れ、そこから一本の手が飛び出してくる。


「掴まって!」


 シンシアは己の体に残された力を振り絞り、なんとか声の主の手を掴む。

 薄い膜を破るかのように、自分の体が白い壁を引き裂きながら引っ張られる感覚と共に、シンシアは外の世界へと飛び出した。


 白い部屋の外は、まさしく地獄だった。

 教師も、生徒も、みな原型が分からないほど圧搾された肉片へと化している。

 今この場にいる人間で無事なのはシンシアと、目の前で荒く息をする一人の少女だけで、恐らく他の生存者はいないように思われた。


「どうなっている」

「そんな話は後よ、早く逃げないと奴がくる!」


 少女は酷く慌てた様子でシンシアの腕を引っ張り、立ち上がらせた。


「奴? 奴とは誰だ」

「魔女よ、魔女! 分かるでしょ!?」


 どうやら、魔女というのがこの事態を引き起こした張本人らしい。

 信じられないが、信じる以外に無いのが現状である。

 シンシアは、名も知らぬ命の恩人の言うことを素直に信じることにした。


「どうすればいい?」

「逃げるのよ。魔女は不思議な力を持っているの。あなたを閉じ込めていたのもその不思議な力。多分今頃上の階に……」


 少女の声は次第に尻すぼみになっていき、最後には消えてしまった。

 その代わり差し出された人差し指は真っ直ぐ、教室の後ろ扉の位置を指している。


「掴めばいいのか?」

「アホかぁ!! 魔女よ!」


 シンシアが少女の指さす方向へ振り向くと、身長130センチにも満たない程小さな女の子がいた。

 可愛らしい制服を身に纏い、その手にはクマのぬいぐるみが握られている。

 大きな赤い布で目隠しされており、前が見えているとはとても思えない。


 街中で歩いているなら、変な子だな、大丈夫かな? で済む程度ではある。

 だが殊この空間において、その異質さは滲み出る様に空間を掌握した。

 魔女は縋る様にこちらに手を伸ばし……


「なんだ、可愛らしいじゃ」

「伏せて!!」


 ぼーっと魔女を観察していたシンシアを、横合いから少女が突き飛ばす様に覆い被さった。

 次の瞬間、彼女らが立っていた場所には白い箱のような物体が一瞬だけ現れ、急激に縮小化して消える。

 残されたのは圧縮された一片3センチほどのブロックであった。

 壁も、床も、まるごと圧縮されたのだ。 外からは冷たい風が入り込み、それが更に今の一撃が引き起こした結果を想起させた。


「魔女は人が相手にできる存在じゃない! 分かったら逃げよ逃げ!」

「……どうやらそのようだ」


 今になって、やっとシンシアも現状の危険性を理解した。

 魔女とは、常識では考えられないほど人間と隔絶した存在であるらしい。その事実を受け止めたなら、後は動くだけ。

 シンシアの頭の中には未来図が組み上がっていった。


「じゃあ、早く前の扉から出て……え?」


 シンシアは走り出そうとする少女を抱き上げ、後ろに丁度空いた穴から外に飛び出した。


「丁度風通しも良くなったことだ、ありがたく使わせてもらおう」

「ちょ、ちょっと待ってえええええええ!」


 二人は落下速度を上げ、そのまま地面と衝突するかと思われた。

 だがシンシアはその場で強く壁を蹴り、進路を変更する。

 まるでその為に用意されていたかのような位置に、幾重も敷かれていたマットレスの上に転がり込む様に着地し、その勢いを殺さず少女を背負って走り出した。


「え? え? 私生きてる? なんで?」

「当然だ。私が授業を抜け出す時のルートの一つだからな」


 驚くことに、マットレスはシンシアの手によって用意されたものであった。

 生粋のサボりたがりであるシンシアは、どうしても耐えられなくなった時、こっそり窓から抜け出して学校の外へ出ていたのだ。


 こっそりと言いつつ注意は何度も受けていたし、抜け出すたびにバレてはいたのだが、いかんせんマットレスを撤去して怪我をされても困るものだから、シンシア用マットとして学校では公認の名物であった。


「もしかしなくてもあなたバカ?」

「失礼な。用意周到と言ってもらおう」

「そんな用意するからバカなのよ……」


 シンシアは少女と会話を繰り広げつつも、走るのはやめなかった。

 理由は勿論、魔女である。


「やばい、やっぱりあいつ、追ってきてるわ!」

「なるほど飛べるのか、羨ましい限りだ」

「そんなこと言ってる場合!?」

 

 魔女はかなりの速度で飛翔し、シンシアに迫っていた。

 だがシンシアも慣れたもので、人一人を背負っているとは思えない速さで校庭を駆け抜ける。


「右! 次は左よ!」


 少女は後ろを向いて、魔女が手を伸ばす方向を逐一シンシアに伝える。

 そうすることで、シンシアは後ろを気にせず全力で回避行動を取ることが出来た。

 だが、このままでは状況は変わらない。

 やがてシンシアの体力が尽き、あの白い部屋の中で二人纏めてお陀仏だろう。

 少女は不安そうな表情を浮かべ、想像してしまった最悪の結末を振り払うようにシンシアの背中に強く頭を擦り付けた。


「そう不安がるな」

「で、でも……これからどうするつもりなの」

「簡単だ」


 シンシアは再び校舎に飛び込み、曲がり角を利用して簡単に魔女に追い付かせない。

時に壁を蹴ることで更に加速し、地形が全てシンシアの味方であるようだった。

 やがてシンシアが辿り着いたのは、家庭科準備室、と銘打たれた教室である。


 鍵の掛かった扉を無理やり蹴り開け、急いで中に入った。

 きちんと整頓された教室は今のシンシアにとって有り難く、探し物をすぐに見つけることが出来た。


「ちょ、あんたもしかしてそれって……」

「あぁ、ご明察の通り」


 シンシアはよく研がれた包丁を手に取り、立ち上がった。

 準備室の壁が吹き飛び、小さな魔女が姿を現す。


「終幕としよう」


 今ここに、二人は戦う意志を持って対面した。 

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