ぶつかる相手
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
「車とかに気を付けていきなさい」。
子供を送り出すとき、たいていの親が伝え、また自分が親になれば子供に伝える言葉になるのではなかろうか。
通い慣れして、耳にタコができるほど聞いている子供としては、「わかってる、わかってる」と聞き流したいワードでもあるだろう。
車はいわば、動く凶器だ。数十キロでぶつかってくれば、人の身体を壊すに十分な力が出る。それが行き来するような場所を、日々、俺たちは横断しているわけだ。いわば、死と隣り合わせの日常なのだ。
信号、交通ルールもろもろの優れた仕組みによる守りが、ときおりその実感を薄れさせてしまう。自分たちが本当は危ういほどもろく、影響を受けやすい存在なのか、という実感をな。
俺自身、軽んじていたがために、少しそれを考えさせられる機会に出くわしたことがあるんだ。そのときのこと、聞いてみないか?
そいつは、通い慣れた最寄り駅までの道だ。
自転車でおよそ15分程度。借りている駐輪場へ停め、そこから電車で十数分の高校へ向かうのが学生時代における、大半の一日のはじまり。
途中、何度か横断歩道を渡るところもある。そのうち、大きな交差点は二つ。いずれも自転車なら数秒も経たずに渡ってしまえそうな箇所だ。
そのひとつにあたる、信号の設置されていない、より短いほうの歩道で、先に話したような事態が起こった。
すでに俺は、歩道を渡り始めている。自転車に乗ってすいすいと。
その向かいの道から、白いセダンがずいっと頭を車道へ出してきて、しかもウインカーを出してくるときた。俺の渡っている方へと。
進行の意思表示にしては、がっつきすぎだろと思う。けれど、車のタイヤは止まるどころか、なお加速して横断途中の俺へ目がけ、曲がってきたんだ。まるでこちらが見えていないかのような動き。
とっさに加速するも、泥はねもろとも後輪へもろに車体をぶつけられた。
倒れるほどじゃなかったが、ハンドルを少しとられてふらついてしまう。車はというと、少し止まってからウインドウを開いた。
運転手はサングラスをかけた、中年くらいの男だったよ。おそらく謝っているのだろうけど、言葉の意味が俺には分からなかった。外国の人なのか?
俺はにわかに顔をしかめる。
これが日本人なら文句のひとつも言ってやるところだったが、言葉の通じない手合いとなれば話は別だ。一刻も早く、この場を離れたかった。
一方的に意味不明なことをまくしたてられるほど、先の予想がつきづらいことはない。長引けば長引くほど、知らないうちに余計なトラブルの種がまかれる。
ついと背を向けた俺は、まだ何か話す運転手を置いて、とっとと先を急いだ。
電車の時間も、まだ少し余裕があるとはいえ、限度がある。今のことを気にせずにいるためにも、道を飛ばしていった。
が、その駅近くで赤信号を食らったとき。
ふと振り返った俺は、視線を止める。先ほど、俺にぶつかってきた白いセダン。そいつがこのチャリのケツから数台後ろの車として、列の中にぴったり加わっていたんだ。
向かう方向がたまたま同じ、というのはこの通勤・通学時間中は、別におかしいことじゃないだろう。
だが、それでも俺についてきて、駐輪場の前までやってきて、そこを車でふさぐ……などということまでする他人が、いると思うか?
――やべえ奴に絡まれた。
幸い、この駐輪場は出入り口以外に、屋根付きと屋根なしを隔てるフェンスを乗り越えると、別方面から駅の改札へ直行することができる作りだ。
俺はそのルートを取った。意表をついたためか、車の男が降りてきたのはフェンスを乗り越えた直後あたり。十分に距離は離れている。
駆けながら取り出していた定期入れを、そのままノンストップで改札へ通した。それからほどなくやってくる電車へ乗り込んでしまう。
車両が通る間際、窓から改札近くに立ち尽くす例の男を見やって、俺はほっと溜息をついた。
ひとまず日中はどうにかなるだろう。けれど、帰り際に同じ場所で俺を待ち受けている可能性もなきにしもあらず。
最悪、自転車はあきらめて歩きで。それもひと駅ずらして、そこから帰るかなと、漠然と考えていたんだが。
まさか、あのセダンが学校まで追いかけてくるとは、思わなんだ。
学校の最寄り駅で降りたとき、やけに空気が湿っていて、足元に霧とも煙ともつかない白いもやが漂う、妙な天候だったんだ。
曇りの予報ではあったが、ここまで気温の下がることは想定外だ。
学校までは徒歩数分の道のり。それでも我慢できないほどじゃなかったが、駅を出てからしばらく人通りがないことを不審がっていたら、このお出迎えだ。
校門の入り口を遮るセダンを認めるや、俺は足を止めてしまう。学校を囲う塀や金網は、駐輪場のそれよりもっと高い。あのときのように、ひと息で乗り越えるのは無理だ。
折悪しく、セダンの戸が開き、あのサングラスの男が降りたつ。
――いよいよ、やべーんじゃないか。あの男……!
頭の中にはあいつをまくことしか、もはやない。
きびすを返して、俺は駅方面へ逃げ出そうとする。
その両膝が、不意にがくりと折れた。
走りかけのつんのめりそうな勢いで、真下のアスファルトに着地するや、思わず歯を食いしばってしまうほどの痛みが走った。ただ膝をついただけで、これほど痛むものか。
が、すぐに想像したものは違うというものが分かった。
学校の手前は坂になっている。駅方面にはここを下っていくんだが、その斜面をひざまずいた俺を追い越し、転がり下りていくものがある。
その長めの二本のバトンらしきものには、見覚えがあった。
先端に引っかけた革靴。そこにおさまりながら伸びるすねからひざ下、そして体毛……俺の二本の足だったのさ。だがその断面は映像で見るようなスプラッタなものじゃなく、どこかこの足元の霧をまぶしたように、うっすらと隠されている。
長ズボンを履いている俺は、その中身を十分に確かめられているわけじゃなかった。だがズボンが膝のあたりで折れ曲がり、本来は正座しながら尻に感じるべき圧力が、そこにないのは確かだったんだ。
その俺を追い抜いたのが、あのサングラスの男。
いまだ転がる俺の二本の足に追い付き、それをさっと拾ってわきに抱え込むと、戻り際に俺にも腕を伸ばして抱え込んでいく。
理解が追い付かず、ろくに抵抗できなかったとはいえ、仮にも高校生男児をこうも軽々と抱えられるものか……という間に、車の中へ俺は連れ込まれてしまう。
開けられた助手席の足元に、まず置かれたのが二本の足。そこへぴっちりと膝より上がくっつくように座らせられた俺は、両肩を掴まれてぐっとシートへ押し込まれながら、また何か言われた。
意味が分からなくとも、察することはできた。「動くな!」ということだろう。
俺が固まっていると、男は助手席側のドアを閉めるや運転席側に移動。そのままハンドルを握った。
鍵も差さず、サイドブレーキも下ろさず、車は勝手に発進した。そのまま駅方面へ坂を降り始めたんだ。
徒歩で数分の道を車で行くんだ。途中の信号のひとつをのぞけば、もう何秒で着くかも時間の問題。
赤信号で待たされた数秒で、運転席の男がしきりに話してきて、俺も今回は耳を傾けようとしたが、やはり理解はできない。
しかし彼は、自分の両足を何度も叩き、俺の足を指さしても来た。「くっつくから、待て」と言っているかのようだったよ。
青信号を受けて、車が発信するころにはあの足元の霧はすっかり晴れていた。
人通りも元に戻り、俺の通う学校の制服を着た生徒の姿もちらほらと混じっている。
ロータリーで降ろされたとき、もう俺の足は元通りになっていた。直後、あの男はすぐさま車を出してしまい、礼もまともに言えなかったよ。
あらためて学校への坂を上り始め、またいつも通りの一日が始まる。帰り際にも、あの男が駐輪場で待っていることはなかったんだ。
あの車に触れたとき、自転車を通じて俺の身体はどこかおかしくなっていたのだろう。あの男はそのしりぬぐいをするため、あそこに来てくれたのかもしれない。