BOSS
「五十幡くん。今日残業できる?」
それは終業時刻10分前。16時50分に言われた言葉だった。
もう既に業務終了モードであり、回覧の雑誌に目を通し、何も頭に入れることもないまま日付印を自分の押印欄に押そうとしたときのことである。
「はい、大丈夫です」
残業の指示なんてものはそこそこに珍しい話だった。
三六協定スレスレが基本のウチの開発において、香崎課長率いる我らが情報通信技術開発課はホワイトとして有名だったからだ。
新入社員として配属されてから三年目となる俺が、七時以降の残業は経験したことがないというホワイトっぷりである。
「SLC(信号強度制御装置)二次試作品のイミュニティ試験(外部電波耐力試験)で気になるところがあるので再試験してもらえる?」
「あ、はい。承知しました」
答えながらノートPCや筆記用具を用意する。俺が立ち上がるまで、香崎課長は横に突っ立ったままだった。
「じゃあ行きましょうか。最初だけ少し立ち会うから」
「……? はい、よろしくお願いします」
何度か一人でやっている試験なので今更立ち会いも何も必要ないが、拒否して波風を立てる意味もない。
作業着の襟口にややかかる後ろ髪。その後姿について行く。
終業時間を告げるチャイムの音が開発棟に鳴り響いていた。
-◇-
SLCの開発スケジュールはウチの部署にしては珍しく逼迫していた。
営業が『世話になっているお客様』の要望に押し切られ、仕様変更とえぐい納期を受け入れさせられたからである。
そのせいで、並行で開発していたプロジェクトは一部凍結。俺も何度か試験要員に駆り出されているという状態だった。
「試験前の動作は問題ないね」
「まあ流石に。ここで問題あったら来週の試作品会議がマズイですよね」
「そうね。だいぶ」
「それじゃあ、測定開始します」
言いながら、PCを操作する。シールドルーム(電波を外に出さないためのバカでかい箱)のノイズ発生装置に信号を入力する信号発生器の設定処理と、信号入力時にSLCから出力されるデータを測定するための測定器の設定処理と、そのときの測定値を保存する保存処理、という三つの処理を次々と行う測定用のマクロを実行するのだ。
「それじゃない」
それは測定開始ボタンを押す、その直前に響いた言葉だった。
「SLCは周りの電界強度が高いから、伊藤係長のメールにあった通り特種用の測定マクロを使って」
ヒュッ、と。血の気が引く実感があった。
メールは確かに見た記憶があり、そして先々週に実施した試験で何か変わったことをしたというような記憶は全くないからだ。
ワンチャン、そのときは正しいマクロを起動した可能性があるものの。
「あ……はい、ええと」
「デスクトップ右下。『ito0928』」
終わった。
ファイルの場所すら覚えていないのだから、普通の測定マクロを呼び出して結果を報告してしまっていたに違いない。
「は、はい。それでは試験します」
「うん。お願い」
かちり。
信号発生器が周波数を切り替える音がやけに大きく響く。
測定器の測定周波数が切り替わり、画面の左から右にむけてまったいらな白線が引かれていく。
かちり。 かちり。 かちり。
かちり。 かちり。 かちり。
このまま。
このまま。このまま。
このまま、全ての周波数でノイズによる影響が無いことを確認できれば。
「あっ」
白線が山を描く。
ノイズ発生装置から放たれた電波が金属製の筐体を突き抜け、基板に潜り込み、配置された電子部品により発振・増幅され、信号としてSLCから出力されたのである。
それはイミュニティ試験の結果がNGだということを明確に示していた。
-◇-
「五十幡くんは残りの面についても測定しておいて。私は一度机に戻るから、試験が終わるか何かあったら電話して」
そう言って、俺を責めたり叱責することもないまま香崎課長は足早に去っていった。
その態度がまさに、事態のヤバさを物語っているようだった。
だって試験結果は来週の会議のためにもう他部署に送付しているのである。
それが誤りとなればかなり詰められるに違いなかった。
俺のせいで、会議は大荒れ確定であり、そもそも試験NGなのだから会議の延期は十分にあり得るわけで、となれば開発行程が伸び、納期に間に合わなくなる。そんな大ごとすら現実的にあり得る状態だった。
かちり。かちり。かちり。
試験室で試験をしている人は他にもいるはずなのに、ずっと信号発生器の音しか聞こえない。
シールドルームのガラス窓に映った間抜け面は助けを求めるゾンビのようで、情けなくて涙が出そうだった。
それでも体はのそのそと動く。
やけに響く信号発生器の音が聞こえなくなれば、側面の測定が終わったということであり、シールドルームを開いてSLCを置きかえ、次々と面を変えて測定をしなければならなかった。
置きかえて、シールドルームを閉めて、マクロの開始ボタンを押す。
これを繰り返す。
小学生でも出来そうな作業。
試験が完了するまでガラス窓を眺め続けている今でも、残業代は発生し続けている。
死ねばいいと思った。
シンプルに無能は死ねばいいと思った。
「わっかりやすく凹んでるねー」
「はい!?」
意識が引き戻される感覚とともに、その声の方向へと振り向く。
そこにはいつの間にか戻っていた香崎課長が立っていた。
「ほら、今はシャキッとする。どう、調子は? 今どんな感じ?」
「あ、と。最後の裏面をやってるところです。すいません。もう少しで終わるかと」
「了解。どの面もさっきの周波数あたりでNG出てた?」
「あ……と」
見てない。
測定器の画面などろくに。
こんな簡単なことすら。
「はい、凹まない!」
「は、はい!」
ギアが入れられる。
ニュートラルで空転していたギアをむりやりニ速に入れたときのような無茶なガタつきを伴いながら、それでも前に動くように。
「よし。じゃあ、保存したファイル見ようか。私のアドレスにメールで添付してくれる?」
「あ、このPC、共通PCなんでメアドふってないんです、すいません。共有フォルダにコピーを自動保存するようにしてるんでそちらを見てもらって良いですか」
「へえ。良いじゃん。五十幡くんがやったの?」
香崎課長が持ってきたPCを開く。
「は、はい。RPA(PCの自動操作)で何かやれって部長が言ってたんで」
「それ部長に言っときなー。……と、このファイルね」
エクセルファイルが次々に開かれる。
信号発生器の設定周波数ごとに得られた測定値がグラフ化され、先ほどNGだった周波数のあたりの値が増加しているもの。
それが3つ。
測定値の大小の差はあるものの、両側面と正面の試験結果においてノイズが出力に影響を与えていた。
「どう思う?」
「……マウス借りて良いですか?」
「いいよ。どうぞ」
マウスを受け取る。
NG帯の計測値をノートに書き写す。
裏面と背面にノイズは出ていない。
そして、ケーブルが伸びている両側面の値は同じくらいに中程度。
上下に開く口のある正面側の値が一番大きかった。しっかりと閉じられているように見えたが、隙間から電波が入ってしまったということだろうか。
ちらりと目をやれば、信号発生器の周波数変化は終了しており、もうシールドルームを開けても良さそうだった。
「すいません。ちょっと試して良いですか」
「ん。やってみな」
「ありがとうございます」
シールドルームを開き、SLCを確認する。
やはり隙間が空いているようには見えないけれど。
視線を後ろに戻す。
作業具棚の二段目右側のボックス。
そこには電波流入を防止するための銅テープが入っている。
ボックスからそれを引っ張り出し、SLCの口を塞ぐよう、蓋と本体の噛み合わせ部分にベタっと張り付けていく。
そのあとさらに指で押し付ける。ぴったりと、隙間がなくなるように。
シールドルームを閉める。
信号発生器と測定器を操作する。
そして。
白線はまっすぐを描いた。
だからなんだというわけでもないのだけれど。
やらかしたことが帳消しになるなんて思っているわけでもないのだけれど。
「いいね。ノイズ無くなった。原因は蓋との隙間で確定かな。やるじゃない」
その言葉に芽生えた満足感は確かにあって。
「よし! じゃあ次は一次試作品を確認しようか。前からのやらかしの可能性もあるし。やれるだけの確認はとっていこう」
「は、はい!」
俺は一も二もなく返事をしたのだった。
-◇-
そうして。
複数の測定を終え、試験報告書が完成したのは日付をちょうど跨いだあたりだった。
建物内には流石にもう誰も居らず、電灯を付けて消してしながら廊下を歩く。
出入口の脇には警備をセットする端末があり、「操作したことがない」と言うと香崎課長はやり方を教えてくれた。
カードキーをかざして暗証番号を操作するそれは、やってみればひどくあっさりとしたものだった。
「ああ、ちょっと待ってて」
お疲れ様です、そう言って別れようとしたところを呼び止められる。
香崎課長は小走りに走っていき、煌々と周囲を照らしている自販機まで行ったあと戻ってきた。
「はい、どうぞ」
手渡される。熱いコーヒー。
「今日はおつかれさま」
「お疲れ様です」
タブを開け、中身を喉に流し込む。
「にがっ」
ブラックだった。
「あはは、それがいいんじゃない」
笑ったあと、香崎課長は腰に手を当ててごくごくと飲み干していく。
その様は堂に入っていて、端的に言うとかっこよかった。
俺はといえばそんなことができるわけもなく、ちびちびと苦味を我慢しながら飲んでいく。
「五十幡くん。明日、ちゃんと会社きなよ。……その方が多分、楽だからさ」
不意にかけられた言葉はどこか柔らかで、すぅっと染み込むように胸の内に入ってきた。
「はいっす」
きっとこの人は、今日みたいなトラブルをいくつもこなしてきたのだろう。
そしてそのたびに、こうやって苦味を飲み干してきたに違いない。
最後の一口を飲み干すために顔を上げる。
空には三日月。
今は欠け、けれどいずれ満ちる輝きが、夜の暗闇のなか確かにそこにあった。