ブラームスの子守歌
「奥さんの容態が急変しました。いますぐクリニックへ来てください! 今日中に赤ちゃんを取り出します」
天地を揺るがすような雷鳴と地鳴りのような雨の怒号が部屋の中まで響き渡る。
外は壊れてしまった哀れな高射機関砲が暴発したかのような豪雨で、数メートル先が見えないほどだ。冗談のような真っ黒な朝の空を、逆上した青白い稲妻たちが次々と切り裂いていく。
「この電話にこのシチュエーションはでき過ぎだな」と、まるで他人事のように考えている自分がいる。現実感がまるでない。
僕は日曜日に開催されたイベントの代休で家にいた。
妊娠8か月の妻が切迫早産の恐れで入院していたため、頼まれていた日用品を持って会いに行くことにしていたのだ。
「雨脚が弱まってからぼちぼち行こう」と、ぼんやり考えていたとき、突然鳴り響いたのが家の固定電話だった。
無機質で甲高い電子音の向こうには、妻が入院している産婦人科クリニックの看護師がいた。
「良かったあ。ずっとスマホにかけてたんですが繋がらなくて」と話す口調から、心底ほっとしたという様子が伝わってくる。
バッグの底に放っていたスマホを確認すると、そこには十数件に及ぶクリニックからの着信履歴があった。ただ妻からの着信は1件もない。
「電話1本かける余裕すらなかったのか」と、ますます不安が膨らんでくる。
看護師は「奥さんは突然の腹痛で急遽救急処置を受けたんです」と、自分自身を落ち着かせるようにゆっくりと言った。早朝、ベッドでのたうち悲鳴をあげる妻を見て、同部屋の女性が慌てて医師を呼んでくれたらしい。
僕は取る物も取り敢えず車へ走った。
滝のような雨に傘は何の役にも立たず、車に乗る頃には全身びしょ濡れだった。車を駐車場に突っ込みクリニックへ駆け込んだ。病室で妻は……。
同部屋の女性たちと談笑していた。
何だ、大丈夫じゃないか。大きな安堵と少しの憤りがないまぜになった感情が湧き上がり、一気に体中から力が抜け落ちた。
「本当にびっくりしましたよ。突然絶叫するから生まれちゃったかと思いました」
我々より少し年上の女性が大きなお腹を擦りながら微笑む。
「昨日、出産までまだ2か月もあるって話してたのに、今日から突然お母さんなんてドキドキですね」と若い女性が興奮気味に言う。
本当にそうだ。人生何が起こるか分かったもんじゃない。
その日の午後、帝王切開が行われた。
妻が手術室に入って1時間後、女医がタオルにくるんだ赤ちゃんを連れてきて「おめでとうございます。可愛い女の子ですよ」と笑った。
「ちょっと早く出てきちゃったので、しばらく保育器の中で大きくならないといけませんけど。大丈夫、心配ありません」
我が子を初めて見た僕は「生まれたばかりなのに、何てしっかりした顔なんだろう」と思った。
この世に生を受けて数分しか経っていないのに、その顔はすでに完璧だった。目鼻立ちがはっきりしていて、うぶ毛のような髪はふさふさだった。僕の掌より小さな顔には、筋の通った柔らかな鼻と潤んだ丸い大きな瞳があった。よく言われる「サル」や「恐竜」などではなく立派な人間で、しかも控えめに言って飛び切りの美少女だった。
女医が僕に娘を抱かせてくれた。
軽いはずの娘はずしりと重く、これが生命の重さなのだと知った。
気が付くと僕は泣いていた。心の一番奥底から湧き上がってくる歓喜に震えていた。人生でいまより幸せな瞬間などあるはずないと思った。この娘のためならどんなことでも犠牲にできると本気で思った。
あたしにはあたしを迎えに来る人が分かっている。顔も年齢も知らないけど、会ったらきっと分かるはずだ。
ある朝、ペットショップのお姉さんがあたしの口を覗き込み、深刻そうにオーナーさんと話し始めた。何だか心配……。突然、地面を殴りつけるような轟音があたりを満たす。
「すっごい雨!」お姉さんが外へ飛び出す。
喧騒の中ふと見上げると、そこにはびしょ濡れの服を着た男性が立っていた。
男性は自分の格好に照れながら「初めて犬を飼うんですがどの種類がいいですか?」とオーナーさんに尋ねた。小さな女の子がいいんですが。
「トイプードルが育てやすいですね。今いる女の子はこの子ともう1匹だけですが……」
オーナーさんはあたしを指差し、その後店の奥に視線を移した。すぐに分かった。目の前の男性は私がずっと待っていた人だった。
「たった今分かったんですが、実はこの子、アンダーショットっていって、いわゆる受け口なんです。奥の子の方がいいですよ」
あたしにとって絶望的な言葉が次々飛び出す。
「じゃあ、この子にします」と男性が言う。
終わった。あたしの人生はたった2か月で終わってしまった。……ん? この子?
「奥の子には会わなくていいんですか?」
「大丈夫、この子に決めましたから。さっきから目が合うし、雰囲気が何だか娘に似ているので」
「そうですか。じゃあ少し割引しますよ」
「いやそれも大丈夫です。安くしてもらったなんて知ったら、この娘が可哀相ですから」
その男性は男気を出してそう言った。
「ところで、クレジットカードは使えますか? ポイントが付くので……」
僕らの結婚は早かった。
ふたりとも大学を出て3年目、25歳になったばかりだった。学生時代から付き合っていた僕らは半ば当然のように結婚した。
家庭のイメージはふたりとも同じだった。
小さな家のリビングには春の陽光が射し込み、そこには僕と妻と2人の子どもがいる。床には一面におもちゃが散らかり、いくら叱っても片付けない。しかしそんな言葉とは裏腹に、僕らは賑やかな生活が楽しくて仕方がない。そんな未来だ。
ただ一方で、そんなに焦る必要はないとも思っていた。しばらくは子どもをつくらずに、ふたりの生活を楽しもう。海外旅行にも行きたいし、お金も自分たちのために使いたい。そんなことをよく話した。ふたりとも健康なんだから子どもが欲しくなればすぐに授かる。そう信じて疑わなかった。
それが大きな間違いだと気付いたのは結婚後2年が過ぎた頃だった。
「そろそろ子供が欲しいね」と話し始めた僕らは、ふたりで本を読み、妻は基礎体温を測り始めた。しかし何か月経っても妊娠の兆候すらない。僕らは焦り始めた。
こんなはずじゃなかった……。こんなことなら結婚してすぐに子づくりをすればよかったと後悔した。
結婚後3年目になる頃には、友人の勧めもあって不妊治療を始めた。
しかし排卵誘発剤を何度飲んでもうまくいかない。治療は人工授精、体外受精と進み、その度に妻は体力的にも、精神的にも明らかに疲弊していった。
何度目かの体外受精の際、主治医から「子宮に負担がかかり過ぎているので、今度駄目だったらしばらく休みましょう」と言われた。子どもは欲しかったが、妻の身体が壊れてしまったら元も子もない。僕らは了承した。
受精卵を子宮内に移植して約2週間後、いよいよ妊娠判定の日がやって来た。これが実質的に最後のチャンスだ。緊張して座る僕らに主治医は満面の笑みで言った。
「おめでとうございます。妊娠してますよ。頑張りましたね」
僕らは顔を見合わせ、まるで示し合わせたかのように妻のお腹に視線を移した。ここに僕らの子どもがいる。それは比喩でも例えでもなく、本当に夢にまで見た光景だった。
子どもができたと聞いた瞬間から、僕らの生活はすべて生まれてくる子どもが中心になった。
妊娠中に良いと言われる食事や、胎教に良いという音楽……。誰よりも僕が舞い上がっていることは自覚していた。
しかし、妻の状況は決して順風満帆とは言えなかった。もともと子宮の状態は良くないと分かっている。そんな中で妻の体調が優れなかったり、不正出血がわずかでもあったりすると僕はパニックになった。自分自身が情けなかったが、心配で心配でどうしようもない。
だから主治医から「切迫早産の恐れがあるので、念のため入院してはどうか」という提案があった時には、一も二もなく同意した。
結果的には、この提案が妻と子どもの命を救ったことになったわけだ。今回のような事態が家にいるときに起こっていたら。その時にもし妻が一人きりだったら。考えれば考えるほど、本当にゾッとする。
生まれて初めて我が子を抱いてから数時間が経っていた。僕は腕の中に感じた柔らかな感触を思い出しながら、娘の名前を考えていた。
終わり良ければすべてよし。一度地獄に叩き落とされた分、何百倍も喜びが増した気がした。ついつい顔がニヤついてしまう。
妊娠中期には「たぶん女の子です」と言われていたので、妻とは最終候補の名前まで絞り込んでいた。最後の選択は僕の責任だ。
僕らが贈った名前を友人たちから呼ばれ、溌剌とした笑顔で振り向く少女を想像した。静謐な空気の中にしっとりと佇むその名前の女性を想像した。
考えに考え、そして……。
娘の名前は「柚衣」になった。
「ゆず」の「ころも」と書いて「ゆい」と読む。僕の頭には、真黄色な実をたわわに実らせた柚子の木の下で、甘酸っぱい香りをまといながら笑う娘の姿があった。
妻のつわりがひどかったとき、高知県から取寄せた「ゆずジュース」に助けられたこともこの名前に決めた理由の一つだった。妻は「これが無かったら、私もこの子も飢え死にしてたよ」とお腹を擦りながらよく笑った。その頃から僕らは「この子が生まれたら一緒にお礼に行かないとね」と、よく話していた。
高知県の柚子畑に柚子の名前を冠した娘と一緒に行く。それが僕ら家族の夢になった。
突然、スマホの着信音が静寂を破った。
電話は生まれたばかりの柚衣を僕に抱かせてくれた女医からだった。時計の針は午後9時を指している。何だか嫌な予感がした。
「申し訳ないのですが、今から大学病院に来れませんか。娘さんはこちらにいます」
そこは柚衣が生まれたクリニックと提携している大学病院だった。嫌な予感は最悪の予感に変わった。
びしょ濡れの服の男性はあたしのお父さんになった。家には線の細い優しそうな女性がいた。それがお母さんだった。
お父さんは快活でよく喋り、せっかちで我が強い。対照的に、お母さんは物静かで口数が少なく、たおやかで淡雪のように儚げだ。
お母さんは、あたしがこの家に来ること自体を知らなかった。何もかもお父さんが一人で勝手に決めたことだった。この家に来たとき、あたしは恐る恐るお母さんのところに挨拶に行った。お母さんはあたしを抱き上げ、ニコニコしながら頬ずりをしてくれた。そして、お父さんから渡された真鍮の名札をあたしの首輪に付けてくれた。
名札には「MIW—ミュウ—」という文字が刻まれていた。
大学病院で女医に会えたのは、午後11時を大きく過ぎた頃だった。
部屋のサインプレートには「NICU 新生児集中治療室」と書かれている。部屋へ入るときには白衣に着替え、マスク、ヘアキャップを装着し、全身に消毒液を吹き付けることを指示された。これは尋常じゃない。心臓が縮み上がり、吐き気がした。
僕が診察室に通されたとき、女医の横には、厳しい顔をした上司と思しき白髪の男性がいた。数秒の完全な沈黙の後、思い切ったように女医が話の口火を切った。
「先ほどは心配ないなんて軽々しく言ってしまい、すみませんでした。あれからちょっと気になることがありまして……」
「前置きはいいですから、娘に何があったか教えてください!」
僕は苛立ち、女医に噛み付いた。
女医は隣の上司と目をあわせ、少し逡巡した後、シャウカステンにレントゲンのフィルムを掛けた。
「娘さんは『先天性食道閉鎖症』です。生まれつき食道が胃に繋がっておらず、ミルクを飲むことができない状態です。放っておくと唾液なども気管に入ってしまい、誤嚥性肺炎を起こしてしまいます」
せんてんせいしょくどうへいさしょう?
何だそれは? 何語を喋ってる?
ようやく次の言葉を見つけたのは、僕の万年筆が床に落ち、派手な音をたてたときだった。
「手術すれば治るんですよね。今すぐ手術してください」と、僕は女医に詰め寄った。
「確かに娘さんには食道を胃に繋げる手術が必要です。ただ、今は体重が2キロしかなく、手術に耐えることができません。まずは手術に必要な体力をつけるため、胃に直接ミルクを入れて体重を増やさなければなりません」
「手術をして食道を胃に繋げれば、普通に生活できるんですね?」
「多くの人は後遺症もなく生活しています。ただ消化器系を中心に何らかの障害が残る人もいます。残念ながら娘さんはその可能性が高いと思います」
「……妻はこのことを知っていますか?」
「娘さんが大学病院に来ていることは伝えてありますが、詳しいことはまだです。こちらからお話しましょうか?」
「いえ……。僕が話します。自信はないですが、それはやはり父親の役目だと思うので」
女医にそう伝えた後、僕は娘がいる保育器へと向かい、小さな小さな体に語りかけた。
「柚衣。柚衣がお前の名前だよ。お父さんたちからの最初のプレゼントだよ」
娘の口にはカテーテルが付けられていた。唾液を吸い出しているのだろう。痛々しくて、申し訳なくて、涙が止まらなかった。
「ごめん、辛いよな。でも大丈夫だぞ、お父さんたちがお前を守るから。必ず守るから。手術して元気になって、早くお家に帰ろう」
翌朝の8時過ぎ、僕は「出産後の手続きがあるので休みたい」と会社に連絡した。
突然の出産になったことは既に報告していたので、上司や同僚から、祝福のコメントが相次いだ。何も知らないくせに……。善意の人たちの声が疎ましくて堪らなかった。
そろそろ妻に柚衣の状況を説明しなくてはならない時間だった。大学病院に連れていかれたことは知っているのだから、心配のあまりパニックになっているに違いない。何と言えばいいのかと、途方に暮れた。
「ここでしっかりしないでどうする!」と自分を叱咤しながら、出産後に移った個室のドアをそっと開く。意を決して部屋に入ると、妻は育児雑誌を読んでいた。本来赤ちゃんが寝ているはずのベビーベッドには当然だが誰もいない。
僕はベッドの横に座り、大学病院で女医から聞いた話を説明した。
病名、手術の必要性、将来の障害の可能性……。話は支離滅裂で無駄に回りくどくなる。妻は僕の拙い説明を聞いた後、たった一言こう言った。
「それで、生命は助かるんだよね」
それ以外は些末な問題だと言わんばかりの妻を見ながら、僕は「女性ってすごいな。男はダメだな。いやダメなのは僕か……」などと取り留めのないことをずっと考えていた。
大学病院での僕ら家族の戦いが始まった。
妻は産後の肥立ちが悪く、多くの時間、床に臥していた。しかし柚衣には母乳が必要だ。手術のためには一刻も早く体重を増やさなければならない。
妻が体に鞭打ち必死で搾乳した母乳を、僕は柚衣へ届け続けた。仕事の関係で時には深夜になることもあったが、病院へ向かう僕の心は充実感で満たされていた。
この毎日の大変さが柚衣の成長に直結していると思った。こんな苦労もすぐに笑い話になると思った。来月か再来月の今頃「あの時は大変だったんだぞ」と笑う家族団欒の風景が浮かんだ。
しかし、僕らのそんな思いを嘲笑うかのように、病院ではトラブルが続いた。
体重はなかなか増えず、湿疹で体中が真っ赤に腫れあがった。原因不明の高熱が続き、カテーテルは食道を傷つけ大出血を起こした。
「来月か再来月にはめでたく退院」などと夢見ていた自分の甘さに、怒りすら覚えた。
生後4か月目には一般病棟に移ることになった。
退院どころか手術もまだまだ先だ。とにかくここで体重を増やさなければならない。妻は部屋に簡易ベッドを持ち込み柚衣に24時間付き添うことになった。
この頃には柚衣の首もすわり、喃語を話し、好きなおもちゃを掴んで遊ぶようになっていた。世界のすべてがこの病院の中にしかないのに、柚衣は着実に成長していた。
枕元にはオルゴールを置いていた。
ゼンマイを巻くと美しいメロディが流れ出す。曲は「ブラームスの子守歌」だ。
その曲を聴くと、柚衣は少々機嫌が悪くてもぴたりと泣き止み、ニコッと笑った。陳腐な表現だが、まさに「天使の微笑み」だ。それ以外の適当な言葉をいくら探しても見つからない。
お母さんは仕事から帰るとすぐに、あたしの所に来てくれる。あたしは嬉しくて家中を駆け回る。そんなあたしを、お母さんはずっと膝の上に乗せ、頭やお腹を撫でてくれる。
でも時々、お母さんはあたしを残して別の部屋へ行ってしまう。あたしはその部屋の前に座ってじっと待っている。
部屋からは綺麗でちょっと切ないメロディが小さく漏れてくる。部屋から出てきたお母さんはあたしを見ると、いつもあたしをギュッと抱きしめてくれる。
柚衣が生まれてから既に9か月が経っている。
一般病棟に移ってからはトラブルも随分減り、体重も6キロを超えた。人見知りせずに誰彼構わず愛想を振りまく柚衣は、病棟内で人気者だった。妻は「八方美人のところが誰かに似てるね」と、僕を見て苦笑した。
病棟に猫型ロボットがやって来たことがある。
言わずと知れた国民的漫画のキャラクターだ。しかしその‘着ぐるみ’はとても大きく、周りの子供たちは怖がって誰も近寄ろうとしない。泣き出す子ども達まで現れた。一人ぼっちの哀れな猫型ロボットも身の置き場がない様子で、周りの大人達も苦笑しながら途方に暮れていた。
そんな空気の中、一人はしゃいでいたのが柚衣だった。妻に抱かれた柚衣はキャッキャと笑い、猫型ロボットへ必死に手を伸ばそうとした。
そんな様子を見て周りの子ども達も徐々に泣き止み、しばらくすると病棟内は歓喜の渦に包まれた。
待ちに待った手術の日がやって来た。
手術室に向かうベッドの上に柚衣の姿がある。
僕と妻は何度も、何度も声を掛ける。
「手術が終わったらおっぱいを好きなだけ飲もうな。大丈夫。もうちょっとだからな」
「柚衣ちゃん、大丈夫よ。眠ってたらすぐに終わるからね。すぐにお家に帰れるからね」
僕らが差し出した指を、柚衣が小さな手でギュッと握りしめる。その力強さが逆に僕らを励ましてくれる。
手術室に入る直前、「大丈夫だよ」と繰り返す僕らの顔を交互に見つめながら、柚衣は「ぱっぱぱ、んまんま」と言って微笑んだ。
「お父さんもお母さんも心配性だなぁ。すぐに戻って来るから楽しみに待っててね」
柚衣は間違いなくそう言った。
それが……。
柚衣の声を聞いた最後の瞬間だった。
手術は成功した。少なくとも手術終了後、執刀医はそう言った。しかし、翌日には帰って来るはずだった一般病棟に柚衣の姿は無かった。
執刀医は「手術が終わった後、娘さんの肺が突然機能しなくなりました。『急性呼吸窮迫症候群』です。原因は全く分かりません」と、淡々と言った。
きゅうせいこきゅうきゅうはくしょ……?
いい加減にしてほしい。もう病名なんかどうだっていい。柚衣の肺が悪いなんて一度も聞いたことがない。手術にそんなリスクがあるなんていう説明など受けていない。
何とかしてください。困るんです。早く一緒に帰らせください。お願いですから……。
それからの治療はずっと麻酔をかけた状態で行われた。「娘さんは重度の呼吸不全で意識があると苦しいんです」と医師は言った。口には常時、酸素マスクが付けられている。
僕らは柚衣の治療室に入ることさえ許されなかった。
当然声も掛けられないし、手も握れない。だから僕は柚衣のいる治療室に毎日、何度も、何度も電話をかけ続けた。
「柚衣の容態に変化はありませんか? 酸素飽和度はいまいくつでしょうか?」
「いまは少し調子が良くて82です。柚衣ちゃんは頑張っています。お父さんも柚衣ちゃんを信じて、応援してあげてください」
ほとんど神経症的に、何度も何度も電話をかけ続ける迷惑な父親への優しい言葉が心に染みた。
ある日、僕らは柚衣の治療室に呼ばれた。
僕と妻の両親も一緒に来てほしいと言われた。柚衣とは約1か月振りの対面だった。
ベッドの横のモニターでは、心電図や酸素飽和度の数値が秒単位で変化している。時間の経過とともに徐々に低下するその数値が、容赦なく僕らを絶望の淵に追いやる。
僕らは柚衣の身体を必死に擦りながら、名前を何度も、何度も叫び続ける。
電話で励まし続けてくれた看護師らの嗚咽が聞こえる。
深く真っ暗な闇の底に引き込まれそうになる意識を柚衣への想いがかろうじて繋ぎとめる。僕は生まれて初めて感じる本物の恐怖に怯えながら、信じてもいない神様に祈り続ける。
心電図を見ていた医師が「マスクを外してあげましょう」と、僕に声を掛けてきた。酸素マスクを外した柚衣に、僕は泣きながら語りかけた。
「柚衣、起きなさい。手術は終わったぞ」
柚衣の目がうっすらと開いた。
そして、僕らを見て確かに笑った。
いつもお母さんが一人で入るあの部屋に、お父さんと一緒に入った。
部屋には黒い箱が置いてあり、中には赤ちゃんの写真や絵本、おもちゃも飾ってある。お父さんがおもちゃを触ると物哀しいメロディが流れ始める。
「これは『ブラームスの子守歌』っていう曲なんだよ」と、お父さんが教えてくれた。
お父さんがあたしと写真の赤ちゃんについて話し始める。赤ちゃんの名前は柚衣。アルファベットだとYUIと書くらしい。
「お父さんは柚衣がいなくなったのが辛くて、悲しくて、それは1年経っても変わらなくて。それでお前に柚衣の代わりになってほしいと思ったんだ。YUIのYとUとIの12個前はMとIとWになる。ミュウ、お前の名前だよ」
切ない旋律に包まれながら話すお父さんは、いつもの明るいお父さんじゃなかった。お父さんは何だかすごく寂しそうに見えた。
子どもの件で話があると、妻から言われたのは、柚衣が逝って1年半が過ぎた頃だった。
この1年半、僕らは薄氷を丹念に探しながら進む南極越冬隊のように、注意深くこの話題を避けてきた。
「また子どもは欲しい?」と妻が僕に訊く。
「単刀直入だね」と僕は苦笑する。
柚衣の仏壇が目に入る。時折、そこに飾られているオルゴールを聴きながら、妻が柚衣と語り合っていることを僕は知っていた。
僕の中にも留まるその旋律が言葉を紡ぐ。
「僕はずっと子どもが欲しかったし、今でも欲しい。でももう柚衣のときのような辛い思いはしたくない。もう一度同じことがあったら僕は二度と立ち上がれない。逃げられるものなら逃げればいい。避けられるものなら避けたらいい。そう考えるのは悪いことかな? 子どものいない人生もいいじゃない。柚衣の代わりにミュウを可愛がってあげようよ」
妻はミュウの頭を撫でながら、僕に言う。
「ミュウは可愛いけど柚衣とは違う。もしまた子どもができたとしても、その子も柚衣とは関係ない。柚衣は柚衣で代わりなんてどこにもいない」
僕は、これまでほとんど見せたことがない妻の毅然とした態度に驚く。
「子どものいない人生が不幸だなんて思わない。柚衣のことを考えたら怖いという気持ちも分かる。逃げることは全然悪くないし、穏やかな生活を送るためなら、逃げられるものは逃げるべきだとさえ思う」
妻はそこまで言うと、一旦柚衣の写真に目をやり、再び僕の目を見て、そして続ける。
「でもね、この件に関してだけは逃げたくない。子どもが欲しいのに怖いから諦めるというのは、柚衣に対して失礼だと思う。私たちのこれからの人生の選択を柚衣のせいにしちゃいけない」
僕は妻の声を聞きながら、柚衣が手術室に向かったときの光景を、僕の指をしっかりと握った小さな手の感触を、僕らを見つめていた無垢な瞳を、ずっと思い出していた。
荒々しい波しぶきが飛び散る土佐湾を背に、車は山道を北へ北へと上る。
清流に沿って走る県道沿いには、石塀が残る古い街並みや日本の原風景とも呼べる田園風景、鬱蒼とした杉林などが次々と広がる。
高知市内でレンタカーを借りて約1時間半、心地よい秋の日差しの中をゆっくりと車は走っている。やがて山の斜面に広がる深く濃い緑色と、鮮やかな黄色の点々に彩られた柚子畑が見えてくる。
この地域には、明治末期から昭和30年代後半まで、西日本最大級の森林鉄道が駆け巡り、杉の木を運び出していたらしい。やがて天然杉は枯渇し、鉄道は廃止され、その跡地は一面に柚子畑が広がる「ゆずロード」に生まれ変わった。旅の目的地はこの「ゆずロード」の沿線にある小さな村だ。
牧歌的な雰囲気を味わいながら車を走らせていると、農協の横に柚子加工場を見つけた。柚子を使った加工品を販売しているらしい。
僕は加工場で思い出の「ゆずジュース」を買い、車に向かっていた。地元のおばあさんと話をしていた妻が慌てて車の中に入るのが見える。僕が車に近づいていくと、おばあさんが「今日は観光なんじゃてね」と話しかけてきた。手には収穫したばかりの柚子がある。
「ここの柚子畑に来るのが、僕ら家族のずっと前からの夢だったんです」
おばあさんは僕の持っている「ゆずジュース」を見ると、「ここの柚子畑に来るのは、みんなの夢やきねえ」と笑った。
突然、赤ちゃんがぐずり始めた。
車の窓から、黄色い柚子を持ったおばあさんと話しているお母さんが見える。あたしは必死でお母さんに訴える。一生懸命吠える。
「お母さん、早く戻って来てよ!」
お母さんはすぐに気がついて車に入ってくる。甘酸っぱい香りがほのかに漂う。
「おっぱいは飲んだばかりだしね」
お母さんは笑いながら赤ちゃんをあやす。赤ちゃんは甘えるように、おでこをお母さんの胸にこすりつける。
「もう大丈夫だから安心して」
お母さんは赤ちゃんと、おそらくあたしにも聞こえるようにそう言った。
柚衣の弟が生まれて一年が経つ。
今回が僕ら家族の初めての旅行だ。ゆっくり流れる時間に、息子の無垢な笑顔に、心が癒される。
僕は「二人目の子どもを授かった」と、妻から聞かされたときのことを思い出す。よくある話のようだが、妻の体質は柚衣を産んだことで劇的に変わった。体調も良くなり、不妊治療など一切していないのにすぐに妊娠した。あれだけ苦労した不妊治療が嘘のようだった。
スピリチュアルが嫌いな僕は、占いも予言も幽霊も妖精も信じない。そんな僕でも柚衣の今際の際には必死で神様にすがった。しかし、神様は僕の生まれて初めての願いなど、歯牙にもかけなかった。僕は絶望し「もう二度と神頼みなどしない」と誓った。
しかし「子どもを授かった」と聞いた瞬間、僕はそんな「誓い」を簡単に反故にした。僕は毎日神社にお参りに行き、生まれてくる子どもが元気であることだけを祈り続けた。「信心も無いのに節操が無さすぎる」と神様は呆れただろう。本当にそうだ。それでも僕は僕にできることなら、どんなに恥ずかしいことでも、すべてやりたかった。
神社にお参りに行っていることは、妻には言わなかった。いつも馬鹿にしていた神頼みを必死にしていることが、気恥ずかしかったし、僕が不安に思っていると妻に悟られることは、胎教に悪いのでは、とも思った。
生まれてきた息子は元気で、その後も大きな病気もせずにすくすくと育っている。その顔を見ながら僕は、そろそろ妻にも当時の話をしてもいい頃かなと思った。
「実はこの子の妊娠中、僕はずっと神社にお参りに行ってたんだ。元気に生まれてきてくれますようにって、毎日祈ってた」
ちょっと感動するんじゃないか、などと思いながら、僕は妻の顔を覗き込む。
「そんなこと、はじめから知ってたよ」
妻はまるで「ペンギンは空を飛べないんだよ」と諭すように、それはあまりにも当たり前のことだと言わんばかりに淡々と言った。
少し車を走らせると、狭い農道の両側一面に柚子畑が広がっていた。柚子加工場の近くで話したおばあさんが教えてくれた場所だ。
鬱蒼とした柚子の木々は深く濃い暗緑色の壁をつくり、その壁には真黄色の満月が無数に咲き誇る。壁の上には成層圏まで突き抜けそうな天色の空が広がり、置いてけぼりにされた真っ白い雲がぽっかりと浮かんでいる。
僕は道路の端に車を停め、息子を抱き上げ、柚子畑を歩く。妻もミュウと一緒にやって来る。辺りには爽やかな香りが漂う。柑橘系の香りにほのかな甘さと渋さが加わった、どこか日本的で懐かしさを感じる独特の芳香だ。
柚衣のことを想う。「約束した場所だよ」と、心の中で伝える。
柚衣を失ってから4年以上経つ。時の流れは残酷だ。人々から柚衣の記憶を少しずつ奪っていく。でも僕ら家族は懸命に生きた柚衣の姿を、その笑顔を何があっても忘れない。絶対に。あまりにも当たり前のことだ。ペンギンは空を飛べないのだ。
わずか一年の命。それは不条理な世界にあってなお、理不尽としか思えない短すぎる時間だった。
好きなものを思う存分食べさせてあげたかった。
友達と一緒に思い切り走り回らせてあげたかった。
大好きな誰かのことを想って過ごす眠れない夜を経験させてあげたかった。
しかし、それができなかったら不幸なのか?
僕らは柚衣のことを、毎分毎秒すべての時間愛し続けた。柚衣もその愛情を全身で受け止めてくれた。
「だから幸せだった」などと言うつもりはない。少しでも長く生きられた方がいいに決まっている。だけどこうも思う。
人生の価値は長さだけでは測れない。
何百回も繰り返した言葉がまた溢れ出す。
生まれてきてくれただけで幸せだったよ。お前に会えただけで幸せだった。ありがとう。「どういたしまして」と柚衣が笑った気がした。
車は柚子畑を離れ、山道を南へ南へと下る。
このまま数十分走れば土佐湾が見えてくるはずだ。もうすぐ日も傾いてくる。息子がぐずり始めたのでオルゴールをかけてやる。柚衣が大好きだった「ブラームスの子守歌」だ。
優しいその旋律が、妻がかつて僕に言った言葉を一緒に連れてくる。
「柚衣の代わりなんていない。誰かの代わりには誰もなれないし、なる必要もない」
妻の言ったこの言葉の意味も、今なら分かる気がする。元気に笑う息子の姿は、僕の心を幸せで満たしてくれている。しかしその息子でさえも、柚衣があけた心の穴を埋めることはできない。穴はずっと変わらずにそこにある。それはきっとどんなに時間が経っても、何があっても決して埋まらない。
でも、それで良いと思う。その穴から溢れ出すのは何も悲しい思い出だけではないからだ。僕にはその穴からひょっこりと顔を出す柚衣が見える。生まれた瞬間、大人になった姿、どの顔も笑顔で溢れている。僕は柚衣が顔を出すその穴が愛おしくてたまらない。
柚衣を失って決定的に変わったことがある。
「死は誰にでも訪れる。そしてそれは日常の中にある」
僕はそのことを、理屈ではなく現実の痛みとして理解した。
祖母は90歳で死んだ。父や叔母も80歳を過ぎて死んだ。親しくはないが高校時代の後輩も病気で死んだらしい。ニュースでは痛ましい事件や事故で小さな子供達が毎日何十人も命を落としている。
世界には死が溢れている。そんなことは分かっている。僕よりも年上の人たち、祖母や父や叔母が死ぬのは良い。悲しくはあっても順番だから仕方ない。
しかし僕の周りで、僕よりも若い命が失われることは許せないことだった。それはニュースや噂話でしか起きてはいけないことだった。
意識はしていなかったが、僕は昔から自分を特別な存在だと思っていたのだと思う。世の中は僕を中心に回っている。
当たり前だが、僕もいままでさまざまな辛い目に会ってきた。でも本当に大切なことは、本当に譲れないことは、自分が頑張れば、自分にできることを精一杯やれば、最後の最後はうまくいく、と本気で思っていた。努力は人を裏切らないのだと。
僕の周りはいつも大団円で溢れ、逆縁などという悲しい出来事が起こるはずがなかった。
しかし柚衣の死をきっかけに、僕は自分が特別な存在でないことに気付いてしまった。死は日常の中にある。僕の周りにいる大切な人たちも例外ではない。
西日を浴びて黄金色に輝く土佐湾を左手に見ながら、車は海岸沿いを西へ西へと走る。
ブラームスの柔らかな調べが妻の隣に座る息子を穏やかな眠りに誘う。僕らの心は鏡のように凪いだ湖面のようだ。清閑で心地よい。
息子の未来に思いを馳せる。
「人生について考えるとき、いつも大昔のドラマを思い出すんだ」と僕は言う。
「人生を語るんだ。哲学者か」と妻が笑う。
僕は妻の軽口を受け流して続ける。
「そのドラマの中に『何をやってもうまくいかないときには、神様がくれた長いお休みだと思って、無理に走らない、焦らない、頑張らない、自然に身を委ねる』っていう台詞がある」
「人生に行き詰まってる主人公が、同じような悩みを抱えている彼女に言う台詞だったよね」
「そう。長い人生ゆっくりでいいんだよ、回り道しないと見えない景色だってあるんだよ、っていう意味だと僕は思うんだ」
「主人公は最後『長い休みは終わり』って言って、彼女のために外の世界に戻って行くんだったよね」
「現実の世界ではそううまくはいかないと思うけど、生きていくのはそれだけで大変だからね。壁にぶつかりそうな時にはこの言葉を伝えてあげたいんだ」
「大切なことだから、きちんと伝えてあげようね。でもそれが分かっているのにできないせっかちな人も多いけどね」
妻は僕を見て苦笑した。
車は高速道路に入った。
滑走路のようにどこまでも真っ直ぐに続く道路の遥か彼方に、山々の稜線を奇跡のように真っ赤に染め上げながら沈む夕日が見える。
妻は口にしないが、妻が息子へ本当に伝えたい言葉を僕は知っている。かつて同じ敵に立ち向かった僕らの共通の想いだ。
「逃げてもいいし、回り道してもいい。みっともなくても恥ずかしくても、生きていてくれさえすればそれでいい。ただ一つ、親より先に逝くことだけは許さない。忘れるな。お前の代わりはどこにもいない」
ブラームスの妙なる調べと、我が子の安らかな寝息を聴きながら、それだけを願った。