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不可視も積もれば

 あいまいな色の蝶が、庭さきを飛んでいる。

 あれは、なんという色だっただろう。

 ぼんやりとその蝶を見つめていると、ふわりとなにかが舞い降りた。

「清司郎! わしが来てやったぞ!」

 なめらかな髪をゆらし、ひいろが笑う。清司郎は驚いて、ひざを立てた。

「ひいろ。いつの間に来てたの」

「今じゃ!」

「そっかあ。上がんな。お茶とお菓子食べよ」

「なにっ!? お茶とお菓子があるのか!」

 紅玉(ルビー)の色をした瞳が、きらきらと輝いている。

 空はうつくしい湖のように澄んでいて、ヌーン・ムーンが浮かんでいた。

 ――蝶は、もうどこにもいなかった。


 古い台所で、白い電気ケトルで湯をわかす。

 ひいろには、客間で待ってもらっている。

 たしか棚に、どら焼きがあったはず。ひいろが喜んでくれたらいいが。

 皿にどら焼きをよっつ並べ、南部鉄器の急須に茶葉と湯をいれた。

 時計を見ると、午後三時を指している。

 ちょうど、おやつ時だ。間食をしても誰も怒りはしない。

 客間にお茶とどら焼きを持ってくると、ひいろは待ちかねたように笑っていた。

「お待たせ。どら焼きでいい?」

「うむ。もちろんじゃ。そうだ清司郎、食べ終わったら将棋しよう!」

「将棋? いいよ。けど俺弱いからね。そこんとこよろしく」

「わしが勝てばよいだけじゃ」

 どら焼きを差し出すと、彼女はいそいそと皿からてにとり、食べ始めた。

 客間から見える縁側に、先刻の蝶が舞っていた。

 ――なに色なのか、認識できない色。

 赤でも緑でも、黄色でも青でもない。

「清司郎、なにを見ておるのじゃ?」

「ほら、あそこに蝶、が――」

「蝶?」

「あ、いや、何でもない。見間違い」

「? そうか」

 蝶は、またたく間にいなくなっていた。さっきと、同じように。

 机に肘をついて、おいしそうにどら焼きをほおばるひいろを見つめる。

「気にしないでね」

「うむ」

 こくん、と咀嚼したどら焼きを飲み込んだひいろは、紅玉のような瞳を清司郎にむけた。


 清司郎には、アドレセンスの時期がなかった、ように思う。

 誰かを好きになったり、誰かが清司郎を好きになったりしたことはなかった。

 なにかで競ったり、負けたり勝ったりもしなかった。

 そういった欠落が、清司郎にはあった。

 だからだろうか。若い男女を見ると、胸が苦しくなる。

 そんなセンシティブなことを今感じるなどと、笑うしかない。

 

「清司郎? なんじゃぼうっとして。どら焼き、いらぬのか?」

「んあ? ああ、なにひいろ。どら焼き足りなかった?」

「おぬしの分も食べていいのか!?」

「いいよ。おじさんそんなにお腹すいてないし」

「ふふふ。ではわしが食べてやろう」

 ひいろはうれしそうに三個めのどら焼きを手に取った。

 腹が減っていないのは事実だから、ひいろがうれしそうに食べている姿をみるのは、嬉しい。

 そういえばこのどら焼きは誰かからもらったんだったっけな、と思う。

 たしか、隣に住む老夫婦からだ。

 建付けの悪い玄関の扉を、何とかして直した時にもらったものだ。

「ひいろ、おいしい?」

「うむ!」

「そりゃよかった」

 女の子が一生懸命食べている姿をみるのも嬉しいし、楽しい。

 ひいろに将棋の駒と将棋盤を持ってくるね、と言い、客間から出て、自室にむかう。

 あまり生活感のない自室には、将棋盤が異彩を放っているように見える。

「どっこいせ」

 将棋盤に乗っている駒ごと客間に運ぶ。きしむ廊下を抜けて、客間にもどるとひいろは縁側に出ていた。

「ひいろ? 縁側になにかある?」

「いや。この庭はいい庭じゃな」

「そう? この家、親戚から相続したんだけど、古いだけだって思ってたよ」

 ひいろは将棋盤を見つけると、さっと向かい側にすわった。

「さあ、将棋を始めようではないか!」

「はいよ。待ってね。駒並べるから」

 ほぼ機械的に駒を並べると、ひいろは待ちかねたように駒を動かし始めた。

 ――ぱちん。

 と、きれいな音が客間にひびく。

 ひいろは迷いなく駒を動かして、難なく清司郎の陣地を食らい始めた。

「駒が成ったぞ。ふふん、清司郎。まだまだじゃな!」

「言ったでしょお。俺、将棋へたなんだって」

「これで王手。わしの勝ちじゃ!」

 うれしそうに清司郎のひどい出来の盤上を見下ろしている。ひいろは定跡で迷いがない。比べて清司郎は迷って迷って、どうしてそんなところに差したんだ、という今思うとため息しかでない結果だ。

「ひいろ、将棋上手だねぇ」

 駒をひとつ、おもむろに指でつまんだ。軽い感触のそれは、手のひらから雪のように落ちてゆく。

 ひいろを見ると、どうだ、とでもいうかのように胸を張っていた。

「清司郎、蝶を見たか?」

「……そーね」

「やはりそうか。わしも見たぞ。縁側でな」

「そう」

「蝶の一匹や二匹、どうということはない」

 清司郎の指が、と金の駒をつまむ。そして、先刻とおなじように盤上に落とした。ぱちん、と音がして、駒と駒が崩れる。

「そーね……」

「それよりも、妖魔と戦う日々について考えることじゃな」

「……円寿とは、長いんだよね」

「そうか」

「二十年くらい、一緒にやってきた。これからも、一緒にやっていくつもり。バディだもんね」

 主、という声を、たくさん聴いた。そしてこれからも聴くだろう。

 それが日常であったし、妖魔と戦っているときでもあった。

 天丼を食べる時、円寿はとても嬉しそうにしている。そう、先刻清司郎がどら焼きをほおばるひいろを見ていた時のように。

「一緒に戦って、生き延びなきゃ」

 それが、清司郎の定めであるならば。

 ひいろは、かすかに笑って「そうするがいい」とつぶやいた。


 彼女が帰ったのは、将棋をもう一局さしてからだった。

 無論清司郎の負けだが、負けてすっきりした。

 ひいろに勝てる日がいつか来ることがあれば、彼女はもう一勝負、と言うのだろうか。


「主、お客様でしたか?」

「うん、将棋して帰ったよ」

「将棋。主、将棋は……」

「二局とも惨敗だったよ」

「そ、そうでしたか」

「そー。将棋の本買おうかな……」

 清司郎が笑う。

 円寿もかすかに笑ったように感じた。

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