さらばわが春泥・下
目の前に猛烈な雷雨が通り過ぎてゆく。
視界が悪いのは分かってはいたが、これほどまでひどいとは。
「くっそ、こうも視界が悪くちゃなあ……」
「主、大丈夫ですか? たしかに雷雨がひどいですが」
「ああ、大丈夫大丈夫。視界が悪くてもなんとかなるよ」
清司郎が持つ円寿の軍刀の柄を、しっかりと握りしめる。
きしり、と音がしたけれど、雨音でその音を確認することはできなかった。
「……にしても、気味のわるーい声だったねえ」
──嗚呼、鵺の鳴く夜は恐ろしい。
と。
「主にも聞こえましたか」
「うん。頭に直接聞こえるみたいな、いやな声だったよ」
屋根のある建物のしたで雨宿りしているが、そろそろ鵺がいる場所に向かわなければならない。
足を踏み出すのにはすこし勇気がいるけれど。
鵺は遠目に見えている。
「円寿、行こうか」
「はい、何処までも御供します」
軍刀を抜き去り、鵺がいる場所へと駆け出す。
雷が鳴り、軍刀が輝いた。
まぶしくも見えるそれは、清司郎の背中を押すように感じる。
「円寿」
「はい」
「ありがとね」
にっと笑ってみせる。
靴に雨水がしみこむが、気にしてはいられない。
十メートルはあろう、鵺が眼前に立ちふさがる。
雷をまとうそれは、ひどく殺気だっているようにも見えた。
「……円寿、行ける?」
「いつでも」
左目が、鵺の尾をとらえる。
寸前に足を二歩下げたため、直撃することはなかった。
遠距離攻撃も近距離攻撃もできることを、確認できただけでも十分だ。
「ち……っ、面倒くせぇ相手だな」
「主、きます!」
雨音、落雷の音。
そして鵺の爪が空を切る音がバラバラに聞こえる。
「……っ」
その爪を軍刀で受け止めたからか、靴が地面にこすれ、うしろに押された。
足が雨ですべるが、なんとか踏みとどまる。
「主!」
「大丈夫。ったく、きっついなぁこいつ」
純粋な力では、鵺には敵わない。だとしたら清司郎ができることはひとつ。
――速さだ。
ぐっと一度、力をこめて鵺の腕から距離をとる。
「円寿、いい?」
「はい」
5秒。
5秒あれば、一閃、お見舞いできるはずだ。
鵺の視線が、ゆれる。直後、清司郎はすでにそこにはいなかった。
雨でぬかるんだ地面で悲鳴をあげる足を叱咤して体をひねり、軍刀を振り上げる。
これで一撃できれば儲けもの。
鵺の視線が合う。
5秒過ぎたのだ。
「……閑っ!」
短い呼吸を吐き出し鵺の腕に一閃、袈裟斬りをお見舞いするが倒れるまでにはいかない。
たった一撃で鵺が鎮まるなどと思ってはいない。
もう一撃。
そう思った、直後だった。
体に強い衝撃を感じたのは。
「……がっ……!」
腹を、蹴られた。
地面に叩きつけられ、呼吸を忘れる。
「主!」
「えん、じゅ……にげ……」
血を吐きながら、一番最初に思いついたのは円寿の無事だった。
円寿の声が聞こえて安堵するが体が思うように動かない。
「主……! 血が」
「鵺……は」
耳をすましても、鵺の気配はない。
どこかへ去ったのだろう。
清司郎はぐっしょりと濡れていくスーツの重たさに、眉をひそめる。
「鵺は去ったようです」
「そっかぁ……よか、った……」
口もとだけで笑うも、腹部の違和感がひどい。
――寒い。
手が凍えそうだ。
「ごめんね、円寿……。もっと俺、強くならなきゃなぁ……」
そこから、ぷつりと意識が途切れた。
目が覚めるまで、夢を見た。
鬼女のような顔をした、母を。
清司郎に馬乗りになり、フォークを振り上げている母の夢を。
繰り返し見る夢だ。
いまさら、と思う。
いまさらこんな夢をみて、心が揺らぐこともないというのに。
目が覚めると、円寿の軍帽と外套が見えた。
「円寿」
「主! よかった、目が覚めたんですね」
「ごめんね……年甲斐もなくはりきっちゃった」
「そんなことありません」
「ありがと、円寿」
にっと笑ってみせる。
円寿の表情は分からないけれど、きっと優しい表情をしているだろうと、勝手に想像した。
「ケガがなおったら、またよろしくね」
「はい。主」
「天丼食べに行こうね」
「はい」




